マシュー・ペリー提督が率いる黒船が来航したのは、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)であった。黒船にあわてる江戸幕府の様子を風刺した狂歌「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」(茶の上喜撰と蒸気船をかけている)が、ペリーが浦賀沖(横須賀市)に来航した直後に詠まれていたことを示す書簡が東京・世田谷の静嘉堂文庫で見つかった。
この狂歌は、1878年(明治11年)の史料で確認されるのが最初で、後世の作との説も出ていた。新資料の発見で旧来の説が裏付けられた。
専修大学元講師の斎藤純さんが、常陸土浦(茨城県)の薬種商で国学者だった色川三中(みなか)(1801~55年)あての書簡を集めた「色川三中来翰集(らいかんしゅう)」のうち、江戸の書店主、山城屋左兵衛からの書簡にこの狂歌が記されているのを発見した。
書簡は1853年6月30日付(注1)で、異国船が来て騒動になり、狂歌や落首が色々作られたと説明した上で、「太平之ねむけをさます上喜撰(蒸気船と添え書き) たつた四はいて夜るもねられす」の狂歌も記している。
これまで「眠り」とされていた部分が、今回の狂歌では「ねむけ」となっている。
[参考:読売新聞]
(注1) 1853年6月30日付となっているが、浦賀の様子を表す狂歌であれば嘉永6年6月30日のことか。そうであれば、西暦1853年8月22日のこととなる。
備考:
静嘉堂文庫では今、国宝・曜変天目と付藻茄子―茶道具名品展―(2008年2月9日~3月23日)が開催されており、稲葉天目と呼ばれる国宝の曜変天目茶碗が展示されている。
もともとは徳川将軍家の柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)だったものが、三代将軍家光から乳母の春日局に下賜され、春日局の嫡孫だった小田原藩主・稲葉美濃守正則に、その後淀藩主稲葉家が受け継いだため稲葉天目と呼ばれた。
三菱商事株主通信平成18年度中間報告書の「三菱の文化のオアシス靜嘉堂文庫・美術館」を見ると、
伝えでは、徳川三代将軍家光が重病の際に乳母の春日局は、「生涯の薬絶」をもってその平癒を祈った。後年、局が病の折に家光はこの茶碗に薬を入れ届けたが、局が茶碗のみ拝受し、薬はそっと襟元に流したという。
と記されている。
2010-02-28 付の祖心尼と併せて興味深い。
たった四はいで夜も…黒船来航直後の作(読売新聞) - goo ニュース
この狂歌は、1878年(明治11年)の史料で確認されるのが最初で、後世の作との説も出ていた。新資料の発見で旧来の説が裏付けられた。
専修大学元講師の斎藤純さんが、常陸土浦(茨城県)の薬種商で国学者だった色川三中(みなか)(1801~55年)あての書簡を集めた「色川三中来翰集(らいかんしゅう)」のうち、江戸の書店主、山城屋左兵衛からの書簡にこの狂歌が記されているのを発見した。
書簡は1853年6月30日付(注1)で、異国船が来て騒動になり、狂歌や落首が色々作られたと説明した上で、「太平之ねむけをさます上喜撰(蒸気船と添え書き) たつた四はいて夜るもねられす」の狂歌も記している。
これまで「眠り」とされていた部分が、今回の狂歌では「ねむけ」となっている。
[参考:読売新聞]
(注1) 1853年6月30日付となっているが、浦賀の様子を表す狂歌であれば嘉永6年6月30日のことか。そうであれば、西暦1853年8月22日のこととなる。
備考:
静嘉堂文庫では今、国宝・曜変天目と付藻茄子―茶道具名品展―(2008年2月9日~3月23日)が開催されており、稲葉天目と呼ばれる国宝の曜変天目茶碗が展示されている。
もともとは徳川将軍家の柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)だったものが、三代将軍家光から乳母の春日局に下賜され、春日局の嫡孫だった小田原藩主・稲葉美濃守正則に、その後淀藩主稲葉家が受け継いだため稲葉天目と呼ばれた。
三菱商事株主通信平成18年度中間報告書の「三菱の文化のオアシス靜嘉堂文庫・美術館」を見ると、
伝えでは、徳川三代将軍家光が重病の際に乳母の春日局は、「生涯の薬絶」をもってその平癒を祈った。後年、局が病の折に家光はこの茶碗に薬を入れ届けたが、局が茶碗のみ拝受し、薬はそっと襟元に流したという。
と記されている。
2010-02-28 付の祖心尼と併せて興味深い。
たった四はいで夜も…黒船来航直後の作(読売新聞) - goo ニュース