歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

淡路市・袖ノ平遺跡、山ノ神遺跡 垣内遺跡と同時期・弥生後期の竪穴建物跡5基が出土

2010年03月12日 | Weblog
 淡路市教委は11日、淡路市黒谷の「柚ノ平遺跡(ゆのひらいせき)」と「山ノ神遺跡」で、ともに弥生後期(2世紀頃~3世紀初め)の竪穴建物跡5棟が見つかったと発表した。同時期で国内最大の鍛冶工房跡である垣内遺跡とは谷を一つ隔てた北350m、同じ標高約200mに位置し、関連性が注目されるが、現時点では分からないとしている。
 昨年5月から丘陵地約1900㎡(山ノ神約1200㎡、柚ノ平約700㎡)を調査してきた。両遺跡の間は約150m。
 柚ノ平からは建物跡4棟が見つかり、円形、方形、四隅が丸い「隅丸方形」(1辺6.2m)が各1棟、不明が1棟。
 このうち、隅丸方形の床面には焼土面が数か所確認され、鍛冶に使う台石と見られる石も出土したが鉄素材や製品は見つからなかった。また、四方の壁際に床面から20cm前後盛り上げた「ベッド状遺構」と呼ばれる高床がこしらえてあった。同遺構は、淡路島内では久野々遺跡(淡路市)、下内膳遺跡(洲本市)についで3例目。畿内周辺や瀬戸内沿岸でも同じ時期に見られるが、用途は不明という。
 一方、山ノ神からは竪穴建物跡1棟が出土。後世に削り取られたため、現在は半円形だが、円形だったとみられる。中央部に焼土面があったが、鍛冶作業で使う工具類は見つかっていない。
 現地説明会が13日午後1時半~3時半に開かれる。
[参考: 読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 淡路市・垣内遺跡


キーワード: 五斗長垣内遺跡
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奈良県大和郡山市・筒井城 破城令により堀の埋め戻し跡が出土

2010年03月12日 | Weblog
 郡山市教育委員会が11日、織田信長に仕えた戦国大名、筒井順慶(1549-1584)の居城だった筒井城跡(大和郡山市筒井町)で16世紀後半に埋め戻されたとみられる堀の遺構が見つかったと発表した。織田信長(1534-1582)の「破城令」により、大和地方の城をつぶすよう命じて埋められたとする文献の記述を裏付けるものとしている。
 筒井城は大和地方北部を治めていた戦国大名、筒井氏の居城で、これまでの調査で14世紀末~16世紀末ごろまで存続していたと考えられている。
 中心的な建物があったと推定される区画約200㎡を調べたところ、深さ約2・5m、幅約6m、東西約14mの堀跡を確認。断面がV字形の「薬研堀」で城中心部の主郭の南端を区画する内堀とみられる。人為的に一気に埋め戻されたとみられ、更地になっていた。
 当時の祭祀で用いられた素焼きの「かわらけ」など、100点以上の土器も一緒に出土した。筒井城を廃絶する際の祭祀で用いられ、堀とともに埋められた可能性が高いとみている。
 底に約20cm積もった土の上から土釜や中国製の茶碗が出土し、その年代から1575~1600年に埋められたと判明した。
 興福寺(奈良市)の僧侶・多聞院英俊による「多聞院日記」によると、信長は天正8年(1580)8月、郡山城以外の大和地方の城を廃絶するよう筒井順慶に命じ筒井城もこれに伴って廃絶された。同寺周辺の住民が動員されたとされる。
 現地説明会は14日午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.26 筒井城跡 14世紀末から15世紀前半頃の『畝堀』が出土
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京都市・法勝寺 八角九重塔の基礎部分について初めて規模を確認

2010年03月12日 | Weblog
 京都市は11日、平安時代後期に白河天皇(1053~1129)が建立した法勝寺(ほっしょうじ)があったとされる京都市動物園(同市左京区岡崎法勝寺町)の敷地に、建立当時、国内で最も高い木造建築だった八角九重塔の基礎部分について初めて規模を確認したと発表した。
 塔は戦前まで基壇が残っており、室町時代の文献『院家雑々跡文』(1340)に高さ約27丈(81m)との記録があり、存在が確認されていたが、実際に基礎部分が確認されたのは初めて。実態解明に向け、貴重な資料となりそうだ。
 現存する木塔として日本最大の京都・東寺(同市南区)の五重塔が高さ約55m、基壇面積324㎡と比べると、法勝寺は高さ81m、基礎全体の面積推定約750㎡となる。
 基礎部分は地表から深さ約2mまでに約40~70cm大の石を詰め、粘土で固めていた。見つかったのは一辺12・5mの八角形(約720㎡)のうち南側の一部で、基礎の上に礎石などを設置し、塔が建てられていたと考えられる。 
 試掘場所は塔の南辺で、塔の中心があったとみられる場所は、現在観覧車などがある。市埋蔵文化財研究所は11年度中に調査が可能な場所を特定し、4月以降に本格的な発掘調査を実施する。
 法勝寺は1077年に白河天皇が建立し、6年後に九重塔が完成した。その後落雷で焼失したが、1213年に臨済宗の開祖、栄西により再建された。1342年に再び焼失。寺は応仁の乱(1467~1477)後に廃絶した。以後も基壇部分だけが地上に残り、戦前は動物園の休憩所になっていた。戦後、進駐軍によって地表部が削られ、その後正確な位置が特定できていなかった。
[参考:共同通信、時事通信、京都新聞、産経新聞]
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足利市・樺崎寺跡 浄土庭園の池で新たな岬を確認、多宝塔を意識か

2010年03月12日 | Weblog
 市教委は11日、足利氏の氏寺である国史跡樺崎寺跡(法界寺跡)の発掘調査で、浄土庭園の池で新たな岬を確認したと発表した。岬は正面に多宝塔跡を臨む位置にあり、多宝塔を意識して造られたのだろうとみている。園池の発掘調査は9割ほど終了、岬2カ所、中島2カ所を配置した園地の全容が分かり、市教委は本格的な復元整備を進めていく。
 新たな岬は園池の北部東岸。西側の八幡山に向かい岬状に伸び、粘土に礫を張り付け州浜としていた。
 江戸期の池の土中から瓦や陶磁器、下駄など約100点が出土。2007年度の調査に続いて「巡礼札」も出土、「坂東三十三所」と書かれた墨書きが確認された。
 市教委は14日午前10時半から、現地で市民を対象にした発掘説明会を開く。
[参考:下野新聞、東京新聞]

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 樺崎寺
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