歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・甘樫丘東麓遺跡 城柵跡と見られる柱穴が出土 「上の宮門」があった証か

2010年03月18日 | Weblog
 奈良文化財研究所が18日、「乙巳(いつし)の変」(645年)で滅んだ蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘中腹で、7世紀の塀跡とみられる柱穴列が見つかったと発表した。塀跡は、日本書紀で記されている蘇我氏邸を囲った「城柵(きかき)」(注1)の可能性があり、丘陵上部にも何らかの施設があったことを示唆する重要な発見としている。
 前回の飛鳥藤原第157次調査地点の東側から東南側にかけて発掘調査を実施していた。甘樫丘東麓遺跡の背後の斜面で、丘陵の裾から約10m地点を平らにし、丘の上部を区画する柱穴列を発見した。
 柱穴列は約10mで、直径25~30cmと推測される大きな柱穴3基の間に細長い溝が掘られ、直径10~15cmの小さな柱穴が密に並ぶ。柱列を土やわらで固めて壁にする朝鮮半島がルーツの大壁建物とも似た珍しい構造の塀という。
 塀跡の内側には、飛鳥の宮殿跡が目の前に望める平らな尾根があり、「上の宮門」の立地にふさわしいロケーションという。
 現地見学会は、3月20日 午前11時~午後3時、説明は午後0時、午後2時の2回行われる。
[参考:産経新聞、見学会]
(注1) 皇極3年(644)冬11月に、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並んで建てた。大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と言った。(略) 家の外には城柵を造り、門の傍に兵庫を造り、門毎に用水桶一つと木鉤数十本とを置いて火災に備えた。

過去のニュース
 2009.6.17甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる  
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川崎市・野川神明社南遺跡 第2次調査現場見学会 H22.3.13開催

2010年03月18日 | Weblog
 川崎市宮前区野川の野川神明社の南側では、老人ホーム建設に伴い昨年末から「野川神明社南遺跡第2次調査」として発掘調査が行われている。これまでに、弥生時代後期(3世紀末)と奈良時代(8世紀頃)を中心に多くの建物跡が発見されている。特に、南北に軸を揃えた掘立建物跡は、調査地点の北側に位置する7世紀末創建の影向寺(注1)やその東側に位置する古代橘樹郡衛との関係が推測される。
 17日東京新聞による市教委への取材で、奈良時代ごろの掘立柱建物の跡とみられる遺構11棟が見つかったことがわかった。
 今回の調査は、橘樹郡衙推定地の南西約500mで、これまで畑だった土地。昨年12月から今月までの予定で行われている調査でも遺構のほか、平安時代の土師器などが出土し、土師器などは橘樹郡衙推定地で見つかったものとよく似ているという。
 現地見学会が3月13日(土)10時と11時の2回開かれる。(実施済み)
[参考:2010.3.10宮前区観光協会HP、川崎市HP、2010.3.18東京新聞]

(注1)影向寺
 天台宗威徳山月光院影向寺(ようごうじ)。縁起によると、天平12年(740)聖武天皇の勅願により、僧行基により開創した。「影向」とは神仏の憑りますところという。
[参考:影向寺境内説明板]
 たびたび行われた寺域の発掘調査等によって、創建は①では7世紀後半頃、②では7世紀末頃と推定している。
[参考:①「古刹影向寺」/三輪修三2006年、②古代川崎発見/川崎市教育委員会2006]



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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 大化改新ゆかりの「槻の木広場」か、石敷き跡が出土

2010年03月18日 | Weblog
 明日香村教委が17日、飛鳥寺西方遺跡で7世紀の石敷き跡が見つかったと発表した。大化改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる「槻(つき)の木広場」の一部だった可能性があるという。
 飛鳥寺の南西約120mの地点を調査。東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を丁寧に敷き詰めていた。周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
 今回の調査地の北側で奈良文化財研究所などが過去に実施した調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性があるという。
 他にも石組の溝が造られ、近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠(あんきょ)が埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。人工的な整備が、飛鳥寺西門付近から南側に広がっていたとしている。
 日本書紀によると、皇極3年(644)、中臣鎌子連(藤原鎌足)は法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で蹴鞠が行われた際、中大兄皇子と親しく話す機会を持ち、その後、大化改新の策を練ったとされる。そして、皇極6年(647)6月19日、孝謙天皇、中大兄皇子は、大槻の樹の下に群臣を召し集めて誓約をさせ、その年の年号を大化と改めた。さらに後、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)軍が陣を構えたり、外交使節をもてなす宴会が開かれたとされる。
 現地見学会が20日午前10時~午後3時に行われる。(明日香村HPでは、見学会だけで説明はないとしている。)
[参考:産経新聞、共同通信、MBS毎日放送、明日香村HP]


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