先日、神奈川県藤沢市の遊行寺に行った時、
門を入ってすぐ左手の墓地に板割の浅太郎の墓がありました。
板割の浅太郎は、国定忠治の子分だった人です。
その横に、「板割浅太郎の墓の由来」との案内板がありました。
これには、
「1842年(天保13年)、赤城山で忠治と別れた後、
仏門に入り長野県佐久、時宗金台寺の列外和尚の弟子となった。
後に遊行寺の堂守となり、鐘つき、清掃をしながら念仏三昧、
自ら殺害した勘助親子の菩提を弔った。
その精進、改心が認められ、当時、この地にあった貞松院の住職となり、
1880年(明治13年)、遊行寺が火災に遭った際には、
勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くし、
1893年(明治26年)、74才でその生涯を閉じた。」とありました。
板割の浅太郎の本名は浅次郎です。
多分、新国劇の「国定忠治」で板割の浅太郎となったのだと思います。
国定忠治は、1842年賭博の最中に関東取締出役の急襲をうけ、
かろうじて脱出しましたが、子分浅次郎が密告したのではないかと疑い、
浅次郎に彼の伯父で出役の手先である道案内役の勘助と
その子太郎吉(あるいは太良吉)を殺させています。
子どもを殺害したとの陰惨な話は
「国定忠治」の作者の行友李風の好むところでなかったのでしょう、
劇中では、勘助は死の間際に、裏切りは忠治を救うためのものであったと釈明し、
遺児の勘太郎の面倒を託して果てます。
浅太郎は父の死を知らない勘太郎を抱いて勘助の首を抱えて忠治に事の仔細を告げ、
忠治も身の不明を恥じて勘太郎を連れて逃亡の旅に出ると描かれています。
この場面を歌謡曲にしたのが、「赤城の子守唄」です。
1934年(昭和9年)に発売され、作詞は佐藤惣之助、作曲は竹岡信幸で、
東海林太郎が歌って大流行しました。
この浅次郎については、獄中で病死したとの記録が残っています。
高橋敏さんの「国定忠治」によると、
浅次郎は日光の円蔵などとともに召し取られています。
天保14年(1843年)8月6日の判決書きが残されていて、
浅次郎は、不届きにつき、存命ならば死罪であるが、
入牢中病死したと書かれているとの事です。
この史料の通り、浅次郎が病死したとすると、
遊行寺に葬られたのは誰かとの問題になります。
板割の浅太郎は、忠治と違ってそれほど有名な人ではありませんでしたし、
江戸時代の事ですから、何の身分証明書もなかったでしょうから、
あくまでも自称だったと考えられます。
何らかの縁があった人物などが、
名を騙ったとしても不思議ではないような気もします。
あるいは、病死と書かれているのは、何かの事情で秘かに釈放された可能性もあります。
その後、佐久の金台寺にたどり着いたのでしょう。
貞松院の住職となった人物が、終生勘助親子の菩提を弔っていたのは、
単に名を騙った人物にできる事ではないようにも思います。
いずれにしても、今となっては、
新しい史料でも見付からない限り、分からないでしょうね。
門を入ってすぐ左手の墓地に板割の浅太郎の墓がありました。
板割の浅太郎は、国定忠治の子分だった人です。
その横に、「板割浅太郎の墓の由来」との案内板がありました。
これには、
「1842年(天保13年)、赤城山で忠治と別れた後、
仏門に入り長野県佐久、時宗金台寺の列外和尚の弟子となった。
後に遊行寺の堂守となり、鐘つき、清掃をしながら念仏三昧、
自ら殺害した勘助親子の菩提を弔った。
その精進、改心が認められ、当時、この地にあった貞松院の住職となり、
1880年(明治13年)、遊行寺が火災に遭った際には、
勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くし、
1893年(明治26年)、74才でその生涯を閉じた。」とありました。
板割の浅太郎の本名は浅次郎です。
多分、新国劇の「国定忠治」で板割の浅太郎となったのだと思います。
国定忠治は、1842年賭博の最中に関東取締出役の急襲をうけ、
かろうじて脱出しましたが、子分浅次郎が密告したのではないかと疑い、
浅次郎に彼の伯父で出役の手先である道案内役の勘助と
その子太郎吉(あるいは太良吉)を殺させています。
子どもを殺害したとの陰惨な話は
「国定忠治」の作者の行友李風の好むところでなかったのでしょう、
劇中では、勘助は死の間際に、裏切りは忠治を救うためのものであったと釈明し、
遺児の勘太郎の面倒を託して果てます。
浅太郎は父の死を知らない勘太郎を抱いて勘助の首を抱えて忠治に事の仔細を告げ、
忠治も身の不明を恥じて勘太郎を連れて逃亡の旅に出ると描かれています。
この場面を歌謡曲にしたのが、「赤城の子守唄」です。
1934年(昭和9年)に発売され、作詞は佐藤惣之助、作曲は竹岡信幸で、
東海林太郎が歌って大流行しました。
この浅次郎については、獄中で病死したとの記録が残っています。
高橋敏さんの「国定忠治」によると、
浅次郎は日光の円蔵などとともに召し取られています。
天保14年(1843年)8月6日の判決書きが残されていて、
浅次郎は、不届きにつき、存命ならば死罪であるが、
入牢中病死したと書かれているとの事です。
この史料の通り、浅次郎が病死したとすると、
遊行寺に葬られたのは誰かとの問題になります。
板割の浅太郎は、忠治と違ってそれほど有名な人ではありませんでしたし、
江戸時代の事ですから、何の身分証明書もなかったでしょうから、
あくまでも自称だったと考えられます。
何らかの縁があった人物などが、
名を騙ったとしても不思議ではないような気もします。
あるいは、病死と書かれているのは、何かの事情で秘かに釈放された可能性もあります。
その後、佐久の金台寺にたどり着いたのでしょう。
貞松院の住職となった人物が、終生勘助親子の菩提を弔っていたのは、
単に名を騙った人物にできる事ではないようにも思います。
いずれにしても、今となっては、
新しい史料でも見付からない限り、分からないでしょうね。
新国劇では、忠治の言いつけを守って、勘助を殺害するのが、正に義理と人情を秤に掛ければとの見せどころになっているのでしょう。
史料によれば、日光の円蔵は死罪になっていますし、板割の浅太郎は病死となっています。
この史料の信ぴょう性は高いようですが、病死とされた所に、何か想像を膨らませる点があるような感じです。