天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

紀尾井坂の変

2014-08-28 | Weblog
 前回、喰違の変で、岩倉具視の遭難を書きました。
 この喰違坂の近くに紀尾井坂があり、そこでも事件が起こっています。
 喰違の変の4年後、1878年(明治11年)5月14日の事でした。
 明治の元勲・大久保利通が士族6名によって暗殺された事件を言います。

 大久保は1878年(明治11年)5月14日午前8時ごろ、
 麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発します。
 明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かいます。
 午前8時30分頃、東京の紀尾井町清水坂(紀尾井坂)に差し掛かった時、
 石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一
 及び島根県士族の浅井寿篤の6名が大久保の乗る馬車を襲撃します。
 日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺し、
 次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろそうとします。
 大久保は島田らに「無礼者!」と一喝しますが、斬殺されてしまいます。
 享年47歳でした。

 島田らは刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、
 他の政府要人の罪を挙げた斬奸状を手に自首しました。
 そして、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると
 同日午前11時半に市ヶ谷監獄で、
 6人共、山田浅右衛門に斬首されています。

 しかし、1889年(明治22年)に大赦されています。
 この経過が分からないのですが、
 明治政府の中でも最高の権力者であった大久保利通の殺害犯が、
 処刑後とは言え、大赦されているのは何故なのでしょうか?
 死後の大赦ですから、ある意味名誉回復のようなものなのでしょうが。

 大赦後、これら殺害犯の6人の墓が、
 東京の谷中霊園に築かれ、現在も残されています。
 同園を訪れた際に、地元の方に教えられてこの墓を見て来ました。
 墓の脇に碑も立っていたのですが、その碑文は判読できませんでした。
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6 コメント

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Unknown (井頭山人)
2014-08-30 18:04:04
谷中の霊園には、それこそ多くの有名人また意外な人物が眠っているという事です。現世の恩讐をこえて、静かな境地に達しているという事だと思います。明治維新は日本史上最大の変革でした。その激動と余波は、暗殺という事態に発展して様々の事件を生みました。遠い目で見ると、つくづく日本という国と我々日本人の不思議さに気が付きますね。

江戸時代日本国は100近い藩に分かれて、国が治められて居たのに、19世紀の後半、日本人は初めて外国の勢力に国体が脅かされるに至り、急遽政治体制の変換が必要になりました。不思議な事に1600年に徳川の日本に於ける覇権が確立されその20数年後には鎖国体制に入ります。ところが、この日本が鎖国に入ったその時点で、西欧諸国の思想的技術的発展が始まるのです。西欧では17世紀は天才の世紀であって、イタリアルネッサンスの影響が段々と浸透し、この17世紀を演出する。デカルト・ホイヘンス・ガリレイ・ケプラー、そしてニュートンが出現する。

西欧では爆発的な技術革新が始まるその時点で、日本国が鎖国をしたのは、天の運命なのか、塞翁が馬なのか分からない。東インド会社を通じてオランダイギリスは、世界の植民地化に乗り出していました。その大波が日本を洗い始める時点で、日本国はハット!我に返ったのだと思います。このままでは清の二の舞になる。それからの十数年は激動に時代です。一つ運が好かったのは日本国は武士が政権を取っていたからでした。軍事的脅威に対して農民や商人よりも敏感で行動的であった。江戸時代は現代に通じる様々な文化が成長し日本人の独自の文明を築きましたが、幕末のタイミングが少しでもズレテいたら、英仏露米の植民地になっていたかも知れない。そして20世紀の前半は日本の時代でもあった。日本は大東亜戦争に負けましたが、今日の世界の価値観を創るのに最大の貢献をしたことは確かですね。大久保の罪五事とな何なのでしょうか?確かに島田一郎に取って、其れなりの理由はあるのでしょう。幕末の志士の中で、それは誰にもある、岩倉にしろ、板垣にしろ、伊藤にしろ、木戸にしろ、掘り出せば幾らでも出てくるものだと思われますね。
返信する
Unknown (井頭山人)
2014-08-30 18:04:22
谷中の霊園には、それこそ多くの有名人また意外な人物が眠っているという事です。現世の恩讐をこえて、静かな境地に達しているという事だと思います。明治維新は日本史上最大の変革でした。その激動と余波は、暗殺という事態に発展して様々の事件を生みました。遠い目で見ると、つくづく日本という国と我々日本人の不思議さに気が付きますね。

江戸時代日本国は100近い藩に分かれて、国が治められて居たのに、19世紀の後半、日本人は初めて外国の勢力に国体が脅かされるに至り、急遽政治体制の変換が必要になりました。不思議な事に1600年に徳川の日本に於ける覇権が確立されその20数年後には鎖国体制に入ります。ところが、この日本が鎖国に入ったその時点で、西欧諸国の思想的技術的発展が始まるのです。西欧では17世紀は天才の世紀であって、イタリアルネッサンスの影響が段々と浸透し、この17世紀を演出する。デカルト・ホイヘンス・ガリレイ・ケプラー、そしてニュートンが出現する。

西欧では爆発的な技術革新が始まるその時点で、日本国が鎖国をしたのは、天の運命なのか、塞翁が馬なのか分からない。東インド会社を通じてオランダイギリスは、世界の植民地化に乗り出していました。その大波が日本を洗い始める時点で、日本国はハット!我に返ったのだと思います。このままでは清の二の舞になる。それからの十数年は激動に時代です。一つ運が好かったのは日本国は武士が政権を取っていたからでした。軍事的脅威に対して農民や商人よりも敏感で行動的であった。江戸時代は現代に通じる様々な文化が成長し日本人の独自の文明を築きましたが、幕末のタイミングが少しでもズレテいたら、英仏露米の植民地になっていたかも知れない。そして20世紀の前半は日本の時代でもあった。日本は大東亜戦争に負けましたが、今日の世界の価値観を創るのに最大の貢献をしたことは確かですね。大久保の罪五事とな何なのでしょうか?確かに島田一郎に取って、其れなりの理由はあるのでしょう。幕末の志士の中で、それは誰にもある、岩倉にしろ、板垣にしろ、伊藤にしろ、木戸にしろ、掘り出せば幾らでも出てくるものだと思われますね。
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Unknown (井頭山人)
2014-08-30 18:05:52
同じものを二度送って仕舞いました。ごめんなさい!
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申し訳ありませんでした (天然居士)
2015-01-05 19:46:44
井頭山人さん コメント有難うございました。

しばらく、ここに来られず、コメントにお返事も出来ず、大変失礼しました。
実は、年末に妻を亡くしました。
9月以降、その看病などで忙しく、文章を書くゆとりがありませんでした。
ご容赦下さい。

日本の鎖国と、西欧の技術革新が同じ時期だったとのご指摘は、面白いと思いました。

今後とも宜しくお願いいたします。
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Unknown (井頭山人)
2015-01-10 08:28:27
新年に当たりご挨拶を申し上げます。

暫く、更新が無いために、お体の具合が悪いのかな?、と思って居りましたが、なんと申し上げてよいやら、慎んで御悔みを申し上げます。

思えば、天然居士さんのブログに辿り着いたのは、「人間は秋に生まれた」の杉山隆氏を検索していてでした。天然居士さんは、小生と同年代か、或いは少しお若いか、と思います。ご自愛ください、今後とも宜しくお願い申し上げます。
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有難うございます (天然居士)
2015-01-22 18:05:26
井頭山人さん ご丁寧有難うございました。

まだまだ哀しみから抜け出していませんし、
独居生活にも慣れずにおります。
しかし、少しずつ生活のリズムを整えたいと思っております。

今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。
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