「八月の嵐」:日ソ戦争とアメリカ

2019年09月09日 | 歴史を尋ねる
 8月30日の午後二時、マッカーサーは日本へのドラマチックな上陸を果たした。9月2日の日曜日の朝、アメリカ軍の代表者は連合国の代表者と共に、東京湾に停泊したミズーリ号の艦上で日本国代表団の到着を待っていた。午前8時55分、鈴木内閣辞職後に成立した東久邇内閣の外務大臣、重光葵を団長として、軍の代表である梅津美治郎参謀総長を含む十一人の日本代表団が到着、指定された位置に立つと、太平洋艦隊司令官ニミッツ提督とアメリカ第三艦隊司令官ハルセイ提督を両脇に従えたマッカーサーが式場に入って日本代表団に向かって立ち、宣言した。「われわれ、主要な戦争当事国の代表者は、平和を回復させる厳粛な協定を結ぶためにここに集まった」 重光と梅津が三つの降伏文書に署名、続いてマッカーサーが連合国を代表し、アメリカ代表のニミッツ、ソ連代表デレヴィアンコ、中国、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表者が署名、降伏の署名式はたったの十八分で終え、三年八カ月続いた太平洋戦争が終結した。マッカーサーが勝者と敗者の宥和の必要を強調する感動的なスピーチを行った後に、アメリカの中継していた放送局は、マイクを東京からワシントンのホワイトハウスに移してトルーマンの戦勝演説を放送した。「アメリカ人に告ぐ。すべてのアメリカの、またすべての文明世界の思いと希望は今夜戦艦ミズーリ号に集中された。東京湾に投錨したこのアメリカの領土の小さな一角でたった今、日本人は公式に武器を置いた。彼らは無条件降伏の条項に署名した」「アメリカ合衆国の大統領として、私は、この日をⅤ-Jデーと宣言する。これはアメリカが、もう一つの日(真珠湾攻撃の日)を恥辱の日として覚えているように、この日を報復の日として思い出すであろう」

 この日スターリンも戦勝演説を行い、翌日の新聞に掲載された演説は、日本に対する戦争を正当化するために、ドイツと日本のファシズムを同一化した、と長谷川氏。「日本の侵略はわれわれの連合国である中国、アメリカ、イギリスに損害を与えたのみではない。われわれにも大きな被害をもたらした。したがってわれわれは日本に対してわれわれの恨みの代償を支払わせなければならない」「よく知られているように、1904年2月に、日本とロシアとが交渉している時に、日本はツァーリスト政府の弱みに付け込んで、突然に裏切って、宣戦布告なしにわが国を攻撃した」「日本はツァーリスト・ロシアの敗北に付け込んで南サハリンを奪い取り、クリーク諸島に堅固な橋頭堡を確保し、太平洋並びにカムチャトカとチューコトカの港への出口を塞ぐことによって、われわれを閉じ込めた」 長谷川毅氏はいう。スターリンは歴史事実を歪曲している、と。日本は日露戦争の結果クリール諸島を獲得したのではない。1855年にロシア政府と締結した下田条約は、現在日本が「北方領土」と呼んでいる南クリークを日本の領土に、北のクリーク諸島をロシアの領土に分割した。1875年の千島・樺太交換条約で、ロシアは南サハリンを自国の領土とするのを引き換えに北クリールを日本に引渡し、全クリールは日本の領土となった。日露戦争の結果、日本が獲得したのは南サハリンであって、日本のクリール諸島の領有は日露戦争とは無関係であり、カイロ宣言での「暴力と貪欲」によって獲得した領土には当てはまらない。
 続いてスターリンはシベリア出兵(1918年)、張鼓峰事件(1938年)、ノモンハン事件(1939年)など、ソ連に対して過去の日本が行ってきた侵略行為を並べたてた。「われわれ古い世代はこの汚点を四十年の間取り除こうと待っていた。この日がついにやって来た。今日、日本は敗北を認め、無条件降伏の文書に署名した」「これは南サハリンとクリール諸島がソ連に引き渡され、今後ソ連を太平洋から孤立させるのではなく、またわが極東への日本の攻撃の基地として利用されるのではなく、ソ連をこの大洋と結びつけ、わが国を日本の侵略から防衛する基地となることを意味する」 この演説の中に敷衍された考え方が、ソ連政府とソ連の歴史家が対日戦争を解釈する基礎となった、と。

 9月2日、日本が降伏文書に署名した後も、戦争はまだ終わっていなかった。ソ連軍は、日本が正式に降伏した後にも気づかれないようにクリール作戦を継続した。歯舞諸島での作戦は9月2日に太平洋艦隊司令部から直接チチェーリン海軍少佐に委任された。9月3日の午前11時に国後の古釜布湾から掃海艇と上陸用の船の2隻が出港、すべての島の偵察を完了した後、日本軍の抵抗がないことを確かめて、部隊はそれぞれの島に上陸、9月5日午後7時までに、すべての日本軍が降伏し、武装解除された。そして歯舞作戦が完了した。ソ連軍の極東での軍事行動は、アメリカとの軋轢をもたらした。しかし、アメリカもソ連も、全体的には、ヤルタ協定の条項が守られたことに満足した、長谷川毅氏はこう結論付けた。

 ふーむ、この時点に立つと、トルーマンやマッカーサーにとって、歯舞諸島の事は重要ではないし、日本の戦後処理を如何にするかが、最大に課題であった。長谷川氏の云う様に、米ソともに満足のいく終結だったのだろう。しかし、日本では今なお、ソビエト・ロシアに対して、課題が残された。それはロシア側が嫌がる北方領土問題である。この淵源は、この時点に遡らなくてはならない。そして、ロシア外相ラブロフは現在こう主張する。
 「本日私たちが確認したのは、1956年の宣言に基づいて作業を始める用意があるということでありますが、何よりもまず、日本側が南クリル(北方領土のロシア側の呼称)の島々はすべてロシアに主権があることも含めて、第2次世界大戦の結果をすべて認めることが第一歩です。それについては議論の余地はありません。そのことは、国連憲章や大戦終結に関する大量の文書、1945年9月2日の一部の文書で確定されています。それが私たちの基本的な立場であり、(日本側の)譲歩がない限り、次の問題を前に進めることはとてもむずかしい」と。ラブロフ外相は、第2次世界大戦の結果をすべて認めろと言っている。ここではその是非について論じる力はない。淡々と当時の歴史的事実を振り返っておきたい。

 日本のポツダム宣言受諾に対して、トルーマン大統領は前線司令官に日本軍に対する攻撃作戦停止を命じたが、ワシレフスキー元帥はソ連軍に、日本軍に対する攻撃作戦を継続することを命じた。天皇の声明は単に無条件降伏の一般的宣言で、日本軍が軍事行動を停止する命令ではなかった、と。天皇によって軍事行動を停止し、武器を置くことが命令され、この命令が実行されたときにのみ、日本軍は降伏したと認められる、と。日本側の事情を見ると、天皇が終戦の詔書をラジオ放送したと言え、日本軍が降伏するには大本営からの休戦命令が出されなければならなかった。理由が不明だが、休戦命令が出されたのは二日遅れの8月17日だった。その詔書は、さらなる命令があるまでは現在の任務を遂行するが、積極進攻作戦は中止するよう命じた。そして一切の武力行使を停止させる命令を大本営が発令したのは8月18日だった。
 関東軍総司令部は8月15日正午、終戦の詔勅を短波放送で聞いた後、大本営からの命令を待った。しかし大本営からの命令は曖昧だったので、16日総司令部は独自に命令を発し、全部隊が戦闘を停止し、武器をソ連部隊の司令官に引き渡すことを命令した。17日朝、山田乙三関東軍総司令官はソ連第一極東方面軍司令部に打電して停戦を提案した。ワシレフスキーはこの提案を日本軍の降伏について触れていないとして拒否、その代わり、ソ連軍に対するあらゆる軍事行動を8月20日午後12時までに停止すること、すべての武器が引渡せること、すべての兵士が捕虜としてとらえられることを要求した。この日の朝、秦彦三郎関東軍参謀総長はハルピンのソ連領事館を通じてソ連軍との停戦交渉に入ることを申入れ、秦はただちにワシレフスキーと会見し停戦の合意と武器引き渡しを行うことを提案、交渉は19日までに開始されると合意、これに対する回答をソ連側は二日遅らせ、19日休戦協定が成立した。一方でソ連軍司令部はソ連軍支配下の領土を拡大しようと全力を尽くした。20日までに長春、21日までに奉天とハルピン、遼東半島は28日までに占領することが命令された。スターリンはこんなスローペースには満足しなかった。ワシレフスキーを飛び越してマリノフスキーに大連と旅順を22日から23日までに占領せよと命令を出した。ソ連軍は関東軍に勝利した。しかしスターリンの最大の目的はヤルタ条約で約束された領土と、それ以上の獲得であった。

 日本領の南サハリン(樺太)は、日本の第八八師団によって防衛されていた。8月10日、満州での作戦が成功裏に遂行されていることに自信を得て、ワシレフスキーはブルカーエフに南サハリンに侵攻させ、その占領を22日までに完了させる命令を出した。南サハリンを占拠することは、北海道と南クリール作戦を遂行するためであった。15日日本軍は終戦の詔勅を聞いた。しかし樺太の日本軍を管轄する札幌の第五方面軍司令部は、ソ連軍が北海道侵攻の為に南サハリンに兵を終結させることを正確に予見し、第ハ八師団に最後まで樺太を防衛せよとの命令を出した。19日、大本営は第五方面軍にすべての軍事行動を提出してソ連軍司令官との休戦交渉を開始せよと命令、20日第五方面軍司令部は前の命令を覆して、すべての軍に休戦・武装解除の交渉を開始せよとの命令を発した。ソ連軍はこれにより三日遅れで南サハリンを占拠した。
 ヤルタ条約はソ連の参戦と引き換えにクリールがソ連に引き渡されると規定していたが、そのクリールについて厳密な定義はなかった。ポツダム会談での共同軍事会議でソ連参謀本部とアメリカ統合参謀本部は、クリール諸島が北端の四島を除いてアメリカの軍事行動の範囲であることで合意していた。しかし、ソ連はオホーツク海は共同軍事行動の範囲であることをアメリカに認めさせることによって、クリールへの足掛かりをつくることに成功していた。したがって、スターリンはアメリカがどう反応するかを見極めながら、クリールを出来るだけ速やかに占拠するというデリケートな課題に直面した。

 連合国最高司令官は唯一人であって、それはマッカーサーであることを不承不承に認めたスターリンであったが、ソ連が占拠した領土においてはマッカーサーの権威を認める意思は持ってなかった。「極東における日本軍に対するソ連軍の軍事行動を継続するか、停止するかの決定はソ連軍の総司令部のみが決定する事項である」と。しかしアメリカ指導部はソ連のクリール作戦展開を憂慮、ポツダムで合意された軍事行動の範囲の下で、8月14日、統合参謀本部はマッカーサーが発すべき「一般命令第一号」の草案を作成、トルーマンはハリマンを通じて一般命令第一号をスターリンに送った。スターリンはすぐに回答、二つの修正を提案した。①日本軍がソ連軍に降伏すべき地域に、ヤルタ協定に従ってすべてのクリール諸島を含むこと、②日本軍がソ連軍に降伏すべき地域に、釧路と留萌を結ぶ線を境界として北海道の北側を付け加えること。②の修正案提案理由は、日本が1919年から1922年に至るソ連の内戦期に、ソ連極東を自己の支配下におさめた。したがって、ソ連が日本本土の一部を占領しなければロシアの世論は大きな屈辱を感じるであろう、と。
 トルーマンは①案に同意した。一方でクリール諸島の一つの島でアメリカの飛行機が上陸できる基地の権利を要求した。さらに②はきっぱりと拒否した。8月22日、トルーマンの書簡の四日後にスターリンの第二の回答が到着した。スターリンの書簡では、①は怒りに満ちたトーンであった。②は北海道作戦後退の兆候が窺がえた。明らかにヤルタ協定に違反する北海道侵攻は、アメリカとの軍事衝突の危険性もあり、又この協定に基づくクリール占拠の法的根拠を弱めることを考慮したのかもしれない、と長谷川氏。このことは、将来の日ソ関係に大きな影響を与えた。第一はクリール占拠がソ連の重要な軍事目的となった。第二に、満州、朝鮮、サハリン、クリークで捕らえられた日本人捕虜の運命が決せられた。23日に国家防衛委員会は悪名高い命令「五十万の日本人捕虜の受け入れ、拘留、労働労役」を採択した。この命令で、ソ連極東とシベリアでの厳しい気候の中での強制労働に耐えうる体力を持った五十万の日本人捕虜を選び出す任務が極東のソ連軍事評議会に課せられた。長谷川氏はいう。この命令は、スターリンが北海道侵攻を諦めたことであり、北海道北部から動員しようと企てていた五十万の日本人労働者が不足してしまったからである、と。言うまでもなくこの命令は、兵士の本国帰還を規定したポツダム宣言に違反するものであった。

 トルーマンはスターリンの22日の書簡が気に入らなかった。こう反撃した。「貴下はこの要求が征服された国か、自分の領土を防衛することの出来ない同盟国に対する要求であると述べているが、貴下は明らかに私のメッセージを誤解している。私はソ連共和国の領土について言及したのではない。私は日本の領土であるクリール諸島について言及したのであり、その帰属は講和会議で決定されなければならない」 トルーマンはクリールが日本の領土であることを明確にした。トルーマンからの返答はスターリンに、アメリカはヤルタ協定の約束履行義務から後退するのではないかという疑惑を深めさせた。そしてスターリンに、日本の正式降伏までに何としてもクリール全島を占領する必要があると強く感じさせた。8月28日、太平洋艦隊軍事評議会は、南クリール作戦拡大を決定、択捉と国後に大量の援軍を増強、作戦を9月2日までに完了することにした。この命令の重要個所は9月2日で、この日は日本が降伏文書に署名して正式の降伏がなされた日であった。
 スターリンはトルーマンの返答を8月27日に受け取った。しかしスターリンは8月30日になるまで回答しなかった。この三日間は南クリール作戦にとってもっとも重要な時期であった。スターリンは南クリール諸島が間違いなく占領されていることを確信してから、トルーマンに返事を送った。これはトルーマンがクリークの帰属を講和会議によって決定されると主張したことに対するスターリンからの回答であった、と長谷川氏。その帰属は講和会議ではなく軍事行動によって決定される、書簡には書かれていないが。

 
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