石原莞爾の計算と板垣征四郎の小細工

2015年09月30日 | 歴史を尋ねる
 石原莞爾が板垣征四郎と共に練りに練った奇襲作戦の下に、わずか一万余の関東軍はたちまちに満州の中心部を制圧してしまった。中国側はもともと無抵抗主義を命令されていたが、蒋介石はたった一晩で、事情もよくわからないまま満州の主要地が関東軍も武力支配するところとなったと回想している。その後も張学良は抵抗さえしなければ事態は拡大しないと考えて無抵抗主義を維持し、それが関東軍の迅速な行動を助けることとなった。不意打ちを受けた張学良政権の要人たちは万里の長城に近い錦州に逃れ、錦州を最後の足場にゲリラ戦で失地回復を策した。北部は地方軍の指導者たちが割拠していたが中でも馬占山の行動力が抜群であった。石原は「兵を小出しにして負けた負けたといえば、支那軍はいくらでも強気になるし、日本人は負ければ意地になる国民性がある」と喝破し、石原は小部隊を引き連れて出撃した。はたして日本軍は馬占山軍の重囲に陥り、敗退した。中国では馬占山の大勝利が報道され、救国の英雄、東洋のナポレオンと呼ばれ激励や見舞金が山のように集まった。日本側は朝日新聞満州支局長が先駆けて大々的に報道し、関東軍頑張れという慰問金、慰問袋が殺到した。こうなると石原の計算通り、馬占山軍も日本軍も引くに引けなくなる。参謀本部も馬占山に徹底的な打撃を与える命令を発し、馬占山軍を正面から撃破、チチハルに入城した。その後北満州は、各地方が次々中国本土からの分離独立を宣言し、満州国独立が満州人の意思であるという既成事実が作られていった。錦州は、天津に騒擾を起こして邦人保護を口実に途中錦州の張学良軍を撃破しつつ長城まで進出する計画であったが、作戦半ばで幣原外相に注意を喚起された参謀本部の中止命令により挫折した。12月11日若槻内閣総辞職で幣原も退陣したころには日本の国内の雰囲気も一変し、政府も軍ももはや関東軍を統制しようとはしなくなった。関東軍は日本が国際連盟理事会で匪賊討伐の権利を留保したのを受けて、錦州攻撃を発した。関東軍は1月3日錦州を攻略、その勢いを駆って長城線以北を制圧した。わずか四カ月で全満州を制圧した。東京では歓呼の声はあっても、もはやこれに反対する声はなかった。

 もう西園寺公望も止めようとしなかった、と岡崎久彦氏はその著書で述べている。11月1日に来訪した宇垣一成に対し西園寺は「幣原外交については、オーソドックスで間違いなきものとして今日まで支持してきたが、いかに正しいことでも国論が挙げて非なり悪なりとするに至っては、生きた外交をするうえでは考え直さねばならぬことである」と漏らしたという。当時のことを覚えている世代の記憶では「幣原」の下に常に「軟弱外交」という言葉がついていたという。西園寺としては、何よりも大事なのは皇室の安泰であり、世論がここまで決定的に動いているのに天皇の「あまり立ち入った御指図はよくない」と考えたようで、事態を流れに任せた感がある、と。
 昭和7年1月8日の勅語は、既成事実を追認した。「さきに満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍将兵は果断神速、寡よく衆を制し・・・朕深くその忠烈を嘉す。汝将兵ますます堅忍自重、以て東洋平和の基礎を確立し、朕が信倚(しんい)にこたえんことを期せよ」 おそらく参謀本部が起草したものか。もう政府がこれをとめようと思っても止められる状況ではなかった、と岡崎氏はいう。さきに在満に日本人が幣原外交恃むに足らずとして自立を宣言して以来、在満の軍と邦人は結束して、日本国籍を離脱して満州国建国を考えていた。こういう人たちが東京の命令を聞くはずもない。新満州国は、裏に関東軍がいることは明らかであるが、形式的には満州の各地指導者の意見による分離独立であり、東京が外からとやかく云えない性質の既成事実がつくられていた、という。

 満州事変以降、中国の外交戦略は一貫していた。二国間交渉で日本に力で抑え込まれないために、国際連盟に訴えて国際世論の力で日本に対抗しようとすることであった。アメリカは結局上院の反対で国際連盟に加入できなかったが、連盟はウイルソン大統領の主張でつくったものである。その過程で、世界の平和と安定を守る機構として機能しないのではないかという批判に対するウイルソンの唯一の反論は、国際世論の力に頼るということであった。第二次大戦後の国連は大国の拒否権、或は多数の独立国家の加盟で世論形成が難しくなったが、アメリカが考え出した国際世論による外交というものが実質的な効果を持った例があったとしたならば、それは満州事変の連盟決議がほとんど唯一といえるかもしれないと、岡崎氏。といって連盟の世論は初めから日本に不利だったわけではなかった。少なくともリットン調査団の派遣を決めた12月の連盟決議成立までは、会議の雰囲気は「多くの場合においてわが方の主張を容れ、支那側を抑えつける傾向であった」(当時の外務省調書)といえるぐらい日本に好意的だった。当時押しも押されもしない大国で、国際法に通暁した外交官を揃えている日本と、まだ国家の統一も出来ず、その国民の行動について責任も持てない中国とでは、自ずから国際社会の尊敬の度が違った。また不平等条約の撤廃を急ぐ中国の態度に対して、日本と英国などはこれに対抗するという共通利益をもっていた。
 世界の外交官が知恵を絞って出した種々の妥協案は、一言で言うと、少しでも早く停戦して、日本軍を満鉄付属地内に撤退させようということであった。しかし関東軍の行動は一歩一歩先回りするので、すべて無意味になっていった。その意味で、リットン調査団の設置決議の成立は、日本にとって「外交上の勝利」であった。停戦とか撤退とかは一応棚上げにしたまま、まず調査団を送ろうという話で、関東軍が既成事実をつくるには好都合の状況をつくった。調査団設置というのは、国際会議でニッチもさっちもいかなくなったときの常套的な知恵で、この時も各国代表団は、それでクリスマスの休暇にはいれるので歓迎した。フムフム、さすがに専門家の見る見方は違う。日本政府にも知恵の出し方があったということだろう。しかし理由はともあれ若槻内閣が12月11日総辞職した。世界も中国もびっくりしたことだろう。

 しかしその間、軍はひとつ余計なことをした。それが上海事変(1月18日)であった、と岡崎は嘆くし、先の重光葵の上海―東京間の奔走に繋がっていく。戦後の関係者の証言では、満州から列国の注意をそらすために上海で事を起こすという板垣の策謀によるものだったという。ところが連盟は演説会(事変に関する各国の)に疲れてしばらくの休暇に入っているのだから、まったく余計な事であった。連盟の雰囲気の微妙な変化など知る由もない現地の無用の小細工であった、と。
 上海事変は、中国軍の頑強な抵抗により、中国のナショナリズムは昂揚し、後年、日本軍に対抗する自信の源になった。また、列国の経済利益の集中する上海での軍事行動は列国の非難を浴び、国際連盟の雰囲気も一転し、2月19日、傍聴席には新聞記者で満席の理事会で日本は完全に世界世論の前に孤立無援となったと佐藤尚武代表が報告している。また外交技術的な問題ではあるがと岡崎氏は前置きし、リットン調査団が単なる調査ではなく、勧告をも行うこととなったのもこの時からであった、と。中国は上海事変を機に、中日紛争に規約第十五条(紛争解決方法の勧告も行い、その勧告が無視された場合第16条の経済制裁にもつながる条項)の適用を求め、連盟は承認した。結局リットン調査団は勧告を出す作業を行い、受諾できなかった日本は連盟を脱退した。

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