日本独自モデル

2010年04月12日 | 歴史を尋ねる

 日本は古来より外国モデルを輸入するのが得意だったが、「江戸時代のかたち」が完成した最初の100年はまったく日本独自のもの、日本人の知恵と経験、感性で作り出したもので、結果として、声高な理念も主義もなく、平和な社会が維持された。奈良時代、中国の名前まで借りて出来た「大蔵省」という役所は明治以降また復活しているが、江戸時代は「勘定奉行所」と呼ばれたのは象徴的だと、徳川恒孝氏は語っている。

 明治初期日本に来たドイツ人治水技師が「日本には河がない、あるのは滝だ」と驚いたほど急流の河川が多く、いったん大雨が降れば水害を引き起こす沖積地では利用が困難だったが、幕府が始めた全国的な治水工事は、幕府直轄、大名に命じたもの、天下普請として各大名総出のものとあったが、結果的に米の生産量・人口を飛躍的に増やし、まさに列島大改造は日本を一転させた。徳川幕府による大名弱体化政策とも云えるが、半面軍事予備費を転用・活用したともいえよう。一方農家も秀吉による兵農分離策で専業農家となり、村は強い自治性を育て、田畑を少しでも広げて整備し、生産性はこれまた伸びることとなった。日本の米作りにかける情熱や勤勉性は昭和40年ごろのアジア諸国のものと比べても圧倒的な高さだったようだ。

 一方武士社会では、大名たちの大々的な配置転換で、全国に新しい領主が誕生し、新しい城が作られ、または改装され、新しい町作りが始まった。大名の居住地に大消費都市が出現して、地域経済発展の拠点が定まった。260余の大名が居たそうだから大変な数である。今日の地方都市はほとんどこの頃、城下町としての基礎が築かれた。ここ数年、各地で築城400年記念の催しが開かれているのが何よりの証拠だ。1700年ごろで日本の都市人口は10%ぐらい、これは世界でも断然早い記録だそうだ。都市は市場経済を発展させ、文化を育てる場であり、当時世界で最も充実した都市化文明を持っていたこととなり、逆に言えばその都市人口を養える豊かな農業と漁業があったこととなると、恒孝氏は云う。

 さらにこれらの都市を結ぶ街道も整備された。戦国時代の旅は何処で何が起こるかわからず、治安はまったく保障されなかったし、通行許可基準もバラバラ、余程のことがなければ、普通旅をしなかった。それが江戸時代になると一変した。街道整備、宿場に旅籠、馬や駕籠の提供、関所はすべて幕府直轄、通行税もなし。当時の異邦人ケンペルは「自国の首都の大通りのように人が沢山歩いている」と驚嘆している。江戸時代には4回にわたって爆発的な「お伊勢参り」があったそうだ。この途方もない旅行ブームはなぜ起こったか良く分かっていないが60年周期であったそうだ。さらに参勤交代制度、そして江戸屋敷の維持費も莫大であった。この経費は各大名家の台所を苦しめた。この参勤交代制度は各藩の財政を苦しめたが、他方北から南まで武士と若者たちを巻き込んだ官費による長い旅と江戸滞在は日本の文化のあり方を大きく変えた。若い武士は道場に通い、塾で勉強をした。延々と240年続いたこの制度、世間を知り見聞を広め視野を広くするその効果は計り知れないとさらに恒孝氏は考える。たしかにこんなことを行った国は世界中に日本しかないでしょう。