連盟、調査団派遣を決定

2015年08月10日 | 歴史を尋ねる
 日本政府の不拡大声明にも拘わらず強行された関東軍の事変拡大は、国際連盟で改めて取り上げられた。錦州爆撃のあった10月8日にはさっそく中国代表・施肇基は、すぐに理事会の再開を要求した。連盟の第二次理事会は急きょ繰り上げられ、事変の拡大を重視した英国外相レディングや仏国外相ブリアンは、自ら理事会に出席することになった。最初に立った施肇基は「中国はすでに問題を連盟の調停に委ね、極力自制、無抵抗を続けている。日本はどうして中国の領土を理由なく占領し、罪のない人民を傷つけるのか」と激しく非難した。15日、理事会議長ブリアンは、不戦条約の締結国であるが、連盟未加盟である米国を、オブザーバーとして連盟理事会に参加させるという提案を行った。採決の結果、十三対一の多数で、米国の理事会出席が決まった。議長のブリアンは日中両国代表と個別に折衝、解決策を見出そうとしたが、日本が侵略行為を拡大している以上、中国が譲歩する余地はなかった。蒋介石日記には「日寇はあますところなく軍事侵略を進展させている。私は国際連盟に緊急の制止措置を取るよう電報で要請した上で、対策を決めたい。もし、日本の侵略がさらに激しくなるならば、一戦を交えてでも、わが民族の正義を貫くつもりだ。この決心がついた以上、機を見て対処するのみである。成否や利害はもはや私の心中にはない」(10月17日記)

 ブリアンは渦中にある日中を除いた英、仏、独、伊、スペインの五か国代表による委員会で舞台裏の審議を進め、日本の期限付き撤兵案を骨子とする第二次決議案を理事会に提出した。この決議案は、日本の主張する直接交渉を、撤兵を条件に認めるものであったが、日本軍の撤退期限を三週間以内とする内容を含んでいた。24日、日本代表・芳沢謙吉は決議案に反対したが、再び十三対一で敗れた。しかし、日本側は連盟規約第五条の「理事会の決議事項は全会一致でないと法的拘束力を持たない」という原則をタテに取った。そして決議の無効を連盟に通告すると共に、31日、東三省の接収委員会をつくるという決議はなされていないと中国に回答、居直った。
 11月8日、日本軍は事変を天津に飛び火させた。旧軍閥派の不満分子が天津市の日本租界に潜伏、二千人の便衣隊を組織して騒乱を起こした。逮捕者から使われた武器は手当と共に、日本側から配布されたことが判明した。ゲリラ活動は連日続き、日本軍の装甲車、日本機も出動、城門が閉鎖された。平穏に戻ったのは六日後であったが、後に明らかになったのは、この騒ぎの夜、満州国皇帝となる清廷の廃帝・溥儀をひそかに連れ出していた。子の天津での騒動は、もっと大きな陰謀が隠されていた、と蒋介石秘録。土肥原の計画の最終目標は、天津の不安を口実に、関東軍を大挙南下させ、錦州に拠る張学良軍を徹底的に叩くと同時に、天津方面に日本軍を増派させることにあった。11月26日、土肥原は二度目の天津事変を起こした。関東軍のこのような軍事行動は、陸軍中央の指示なしに独断で行われた。27日、日本の参謀本部はこれを統制違反として、強い調子の作戦禁止命令を発し、関東軍の引き返しを命じ、錦州攻撃はいったん中止された。天津増派、錦州占領は一応回避された

 一方、国際連盟の第三次理事会は、11月16日から、舞台をジュネーブからパリに移して開会中であった。この直前に起きた馬占山軍攻撃、天津事変などの事変拡大は、国際的な危機感を高めていた。この理事会で活躍したのは、オブザーバーである米国代表・チャールズ・ドーズ(駐英大使)であった。パリ近郊のリッツ・ホテルに陣取ったドーズは、さっそく親交のある日本代表・松平恒雄(駐英大使)、英国外相サイモンらと会い、調停のための裏面工作を始めた。議長のブリアンも、過去二次にわたる理事会決議が事態を解決できなかったことから、秘密外交によって、調停の根回しを先行させようとした。ドーズの泊まったホテルはリッツ事務所と呼ばれ、25日間にわたり、公式理事会はわずか3回に過ぎず、すべて裏面工作に終始した。この間、施肇基は国連による日本制裁を主張したが、調停に持ち込もうとする各国に、これを握りつぶした。国際連盟第三次理事会をめぐる裏面工作で、日本が提案したのは、連盟調査団の現地派遣であった。但しこの提案は、停戦、撤兵問題は一時棚上げとし、軍事行動に対する調査団の不干渉を条件とした。日本はこれまで、調査団の受け入れに難色を示していたが、高まる一方の国際的非難をそらそうと条件付きで提案した。これに対し施肇基は、停戦と撤退を含まない如何なる提案も受け入れられない。調査員を派遣するなら、日本軍の撤兵の監視を任務とすべき、と強く主張した。この頃、日本軍のチチハル占領、天津事変、清廷の廃帝・溥儀の連れ出しなど、事変の拡大が伝えられていた。理事会各国は日本の提案を受け入れることが、日本の侵略行為を中止させる早道だと考え、日中両国の平和を攪乱するおそれがある一切の事情に関し、実地に調査をし、理事会に報告するため、五人で構成する委員会を任命、この委員会の審議は、日本政府が与えた約束(最短期間内の撤兵)に、影響を及ぼさないことで、理事会は決議を採択した。この決議の基づき、翌1932年リットン卿(英国)を委員長とする、リットン調査団を派遣することになった。

 ところが連盟で鉄議案を採択した翌日、12月11日、日本では若槻内閣が閣内不統一で、ついに総辞職に追い込まれた。曲がりなりにも対中国協調外交をとろうとした外相・幣原喜重郎も、事変の収拾を待つことなく外交の舞台から去った。総辞職の理由について、幣原は極東国際軍事裁判で証人として次のように証言した。「若槻内閣と外相である私は、満州事変後、軍を抑制し、これ以上の領土拡張をやらせないため、あらゆる努力をしたが、それは不可能であった。私は幣原軟弱外交といわれ、新聞紙上や極端な国家主義者、軍国主義者たちに激しく攻撃された。これらの人々は満州で積極政策を取ることを要求し、若槻内閣は非常に悩みを感じた。若槻内閣は軍の抑制が出来ず、彼らの拡張を抑制することができず、結果として内閣は総辞職をせざるを得なかった」 この後を引き継いだ犬養毅内閣(政友会)も、若槻内閣同様、軍部の力に抗することができず、わずか五カ月後には、五・一五事件によって、犬養は軍の過激分子に殺害され、日本の政治は軍の操縦下に置かれることとなった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。