日影原農園では福寿草が満開です。ふきのとうも出始めました。
渡鹿野島について書いた本のなかで、ハシリカネということばが目をひいた。漢字では把針金と書く。むかし一夜の宿りを求めて入港してきた船の帆や船乗りの衣服を縫う仕事を求めて船に近づいた女性がいた。菜っぱや大根を売りにいく人たちもいたことから菜売りとも呼ばれた。四国や瀬戸内海の島に多くいた。豊島(てしま)がよく知られている。船乗りのほうでは、しばしの安息を求めてこの女性たちを受け入れた。
渡鹿野島は三重県志摩市の的矢湾に浮かぶ小さな島だ。江戸と大阪を行き来する帆船が、長い航路のちょうど中間にあるこの地へ風を待つのに寄港したので、風待ち港の異名がある。この島へ寄港した船人たちは島で薪や水を補給しながら風が出る日を待った。半農半漁の貧しい島の女たちは船の帆や船員の衣服を縫う仕事を求め、また野菜を売りに船乗りたちに近づいた。それらの女性は、厳しい船旅の途中でしばしの安息を求める船乗りたちの夜伽をも引き受けた。
このような下地があった渡鹿野島へ、太平洋戦争のさなかの1944年、日本陸軍は予科練生を駐屯させ、潜水艦などを隠す避難壕を掘らせた。当時、渡鹿野に500人ほどが宿泊していた。戦後、当時を懐かしんだ予科練あがりの人たちが友人をつれて渡鹿野に足を運んだ。
1957年に売春防止法が成立して以後も島のこの昔ながらの習慣が廃れなかったために、1960年代半ばからこの島の主たる産業はこれだけになり、1970年代から80年代が最盛期だった。いまはクリーンなイメージの観光産業に力を入れ始めている。(高木瑞穂「売春島」彩図社)
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