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ローマの王政時代について

2020-08-26 05:48:42 | 世界史

 

ローマの王政時代、ローマ人は文字を知らず、この時代の歴史は口伝えに語り継がれた伝説しか存在しない。リヴィウスがそれらの伝説を集め、取捨選択して文書にしたのだが、ロムルスの時代から700年近く経過しており、最後の国王タルクィヌスの時代から500年近く経過している。

言い伝えには誤りや作り話が含まれることことが多く、どこまで事実かわからない、王政時代の歴史は客観的な裏付けがなく、歴史というより神話なのである。しかしながら、リヴィウスの記述を読むなら、作り話とは感じられず、実際にあったことが語られているいるという印象を受ける。

そして何より、最初期のローマとラテン人の歴史の輪郭を知ることができる。例えば、ラテン人のティレニア海沿岸の古い町ラヴィニウムはラウレントゥムによって建設されたこと、同じく古い町アルバロンガはラヴィニウムによって建設されたことがわかる。またアルバロンガが多くの村を建設しことがわかる。アルバが建設した町はアニオ川両岸に至る広い地域に点在した。ローマが誕生した時、これらの村の多くは町へと成長していた。ローマはこれら町のと戦争をし、勝利した。王政期末、ローマはラテン人地域で優越した町となった。

ラテン人の多くの町は母市の植民によって生まれたが、ローマは母市の援助がなかったために、村を建設するのは大変だった。そもそも人数が少なすぎた。これが原因で、有名な「サビーニ人女性の略奪」が起きた。少数の貧しい若者たちが村を建設しようとして、なりふり構わず人を集めた。怪しげな人物も集まって来て、新しい集落ローマの評判は悪かった。周辺の町はローマに嫁をやるのを断った。断る際、ローマを侮辱する言葉を言った。「男を集めたやり方で女を集めればよいではないか」。

こうして誕生したローマは王政末期には、ラテン人地域北部で最大の勢力となり、テベレ川対岸のエトルリア人の都市ウェイイに対抗できる都市になった。

ローマは広大な帝国となっただけでなく、その帝国は500年続いた。東ローマは西ローマ滅亡後1000年続いた。近代ヨーロッパの人々は自分たちの歴史がローマから始まっていること、先祖たちがラテン語を読み書きしていたことを知っていたので、ローマ帝国の成立過程に関心を持った。ローマの躍進の契機となったカルタゴとの戦争とローマ帝国の形成に貢献したカエサルの時代について特に関心が高い、しかしこれらの時期に劣らず、ローマが村から都市へと発展する244年間のローマの歴史は劇的で面白い。この時代のローマ人は荒々しく古風であり、一寸先は闇の世界を切り開いていった。周辺の町はローマを警戒し、敵意を抱いていたからである。近・現代の物語を読場合、話の展開がなんとなく予想できるが、王政時代のローマ史は次にどうなるのか、全く予想できない。

周辺の町がローマに対しもともと敵対的だったのに加え、ローマ自身が近隣の町の征服を繰り返したので、ローマに対する敵意を増幅した。ローマは自ら創出した危険な環境をなんとか生き抜くことにより、急成長した。ローマ危が危険を冒しながら成功した理由はなんといっても彼らのの闘争心にあったが、指導者が状況判断に優れ、機敏に対応したことである。

れき国王の中で、第2代国王ヌマは例外であり、彼の時代に戦争がなかった。ヌマの温厚な性格は周辺地域に知れ渡っており、他国は彼の平和主義に裏はない信じ、ローマを攻撃しなかった。戦争をしなかった王としてヌマは異色であるが、彼の時代についての記述の後半で、宗教儀式の話がかなり長く続く箇所は退屈である。私はこの部分を省略したかったが、リヴィウスの文章の大幅な省略を控えた。古代の宗教に関心のない読者は読み飛ばして、第3代国王アンクスの話に移ることをお勧めする。

 

 


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