たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

6巻10ー12章

2024-05-31 12:30:27 | 世界史

【10章】
すでに占領された町を奪回するのは、困難に思われた。特にネペテは住民の裏切りによって降伏に至ったので、ネペテの住民はあてにならなかった。しかしカミルスはネペテの指導者に伝言を送り、戦闘を再開するよう、求めた。「あなた方はローマとの同盟を頼り、援軍を求めました。ローマは信頼に応えます。同盟に忠実である証拠を示してください」。
ネペテの指導者たちは次のように答えてきた。「私たちは無力です。何もできません。エトルリア兵が城壁と門を守備しています」。
ネペテは戦うつもりがなかったので、カミルスは郊外を略奪して、彼らを奮起させようとした。しかしネペテの人々は降伏の誓約に忠実で、ローマとの同盟を解消するつもりだった。そこでカミルスは周辺の土地のsげミから木の枝を集めさせ、城壁の下の溝を埋め、攻撃を開始した。壁にはしごをかけ、ローマ兵は城内に入りこみ、一回の攻撃で町を制圧した。カミルスは町民に布告した。「武器を捨てたネペテ人の安全を保障する」。約束は守られた。一方エトルリア兵は武器を捨てたばあいでも殺された。エトルリア兵がネペテを占領するのを助けたネペテ人は首を切られた。それ以外のネペテ人は財産を取り戻し、ローマの守備隊が町に残った。二つの同盟市を占領から解放すると、ローマ軍は執政副司令官に率いられローマに凱旋した。
同年ローマはラテン都市とヘルニキ族に説明を求めた。「この数年、同盟の約束を怠り、ローマに援軍を送らないのはなぜか」。
ラテン人とヘルニキ族は全国の代表者を集め、ローマへの返答を話し合い、次のように答えた。「我々の市民の一部がヴォルスキ側で参戦したのは、政府の決定によるものではありません。彼らはの過ちは処罰され、一人も祖国に帰っていません。援軍を送らなかったのは、ヴォルスキの攻撃に備えなければならず、余裕がなかったのです。連続した戦争の後も、ヴォルスキからの脅威は消えていません」。
これは巧妙な言い逃れであり、元老院は彼らに対し戦争の必要があると考えたが、今はその時期ではないと、思いとどまった。  
【11章】
次の 執政副司令官は A・マンリウス、P・コルネリウス、二人のクインクティウス・カピトリヌス(TとL)、L・パピリウス・クルソー(二回目の就任)、C・セルギウス(二回目の就任)だった。この年、困難な戦争が起こり、首都でさらに厄介な内紛が起きた。ヴォルスキが戦争を開始し、ラテン人とヘルニキ人がローマを裏切り、敵に回った。予想もしない人物が内乱を起こした。輝かしい名声を持つ貴族である M・マンリウス・カピトリヌスは自尊心が強く、自分を過大評価し、指導的な人々を見下していた。彼はある人物に対抗心を持った。ある人物とは、数々の実績を持ち、傑出した人間、ほかでもない M・フリウス・カミルスだった。カミルスが執政副司令官の中で特別な地位を占め、兵士たちから愛されていることに、マンリウスは不満であり、次のように述べた。「カミルスは破格な扱いを受け、自分と同じ地位にある人々に同僚として接しないで、彼らを召使いのように扱っている。物事を正しく評価する人間なら、カミルスは祖国の救済に失敗したことがわかるはずだ。ローマが蛮族に占領されていた時、カピトルの丘と砦を救ったのはカミルスではない、私だ。カミルスがガリア人を攻撃した時、ガリア人は油断していた。彼らは戦争は終わったと考え、黄金を探すのに夢中で、ていた。武装したカミルスの兵士たちは彼らを追い払い、砦を解放した。兵士たちはカミルスの栄光を独占し、それ以外の市民は栄光を共有できない」。
このような考えで頭がいっぱいになり、残念なことにマンリウスは直情的な性格だった。彼は、市民に対する影響力が自分にはないと気づき、平民に訴えることにした。彼は平民を味方にしようとした最初の貴族だった。マンリウスは護民官のやり方を真似し、元老院を批判し、平民に支持されそうなことを述べた。自分の信念や判断を後回しにして、平民の感情に訴える発言をした.つまり彼は尊敬される市民として行動するより、ならず者のようにふるまった。これまで護民官の扇動のテーマとなってきた土地分配の要求で満足せず、彼は借金の制度全体を破壊しようと試みた。借金の法律が最も人々を苦しめていたからである。借金により、貧困に陥り、名誉を失うだけなく、自由を失い、獄につながれることを多くの自由市民が恐れていた。蛮人によって焼かれた家の再建のため、人々は巨額の負債を抱えており、裕福な市民でさえ大きな負担だった。
ラテン人とヘルニキ族が同盟から離脱していている時に、ヴォルスキが戦争を始めたので、国家は軍事力の強化を必要としており、元老院は独裁官を任命した。確かにヴォルスキは脅威であったが、元老院がもっと恐れていたのはマンリウスの革命だった。コルネリウス・コッススが独裁官になり、T・クインクティウス・カミトリヌスが騎兵長官になった。
【12章】
独裁官は、外敵より国内の敵のほうが厄介だと知っていたが、徴兵を実施し、ポンプティン地方へ出発した。ヴォルスキがポンプティン地方に侵略したと報告があった。直ちにヴォルスキを排除すべきと独裁官が判断しのか、または勝利によって自分の威信を高めようとしたのかである。私の読者は何度も繰り返さるヴォルスキとの戦争に飽きていると思うが、この時代からあまり隔たっていない時に書かれた著作を調べた結果、私はヴォルスキ戦がいかに大変であったかを知ったのである。繰り返し敗北したヴォルスキがなぜ再び十分な数の兵士を集めることができたか、という大きな疑問があり、読者も不思議に思うだろう。この疑問はその後多くの歴史家が指摘しており、いくつかの説明がなされている。おそらくヴォルスキは戦争で多くの兵を失うと、次の戦争の戦争のために新しく兵士を集めたのだろう。このやり方はローマと同じであるが、ヴォルスキは広い地域から兵士を集めることができたので、毎回の戦争の兵士は異なる地域の出身者だった。ヴォルスキの広い領土に無数の自由民が住んでおり、彼らはローマを敵と考える点で一致していた。しかしヴォルスキの領土には小さな集落も多く、ローマ人奴隷を働かせて暮す小さな村からは少数の兵士しか集められなかった。ヴォルスキについて詳しいことはわかっていないが、カミルスのローマ軍に敗れ多くの兵士を失った後も、ヴォルスキは新たに大軍を編成できた、という点で著者たちの考えは一致している。そしてこの時、ヴォルスキ軍にラテン人とヘルニキ族、さらにはキルケイの市民とヴェリトラエの部隊が加わり、大きな軍勢となった。ヴェリトラエにはローマの植民地があった。
     ーーーー(日本訳注)ーーーーーー
 ⓵ ラテン地域の沿岸部とポンプティン地方の境界に港湾都市アンテイウムがあり、アンテイウムから海沿いに南東に下ると、キルケイがある。キルケイはポンプティン地方の南東端に位置している。キルケイの背後は山となっていて、山が隆起した時に対岸の小さな島が陸地とつながり、岬となった。ラテン地域のはずれにあるアンティウムも小さな岬の付け根にあるが、キルケイの岬はもっと大きい。キルケイに町を建設したのはギリシャ人であり、彼らは石を切り出し、組み合わせて市壁を作った。丘の上に市壁が残っており、アクロポリスの跡と考えられている。紀元前495年ローマの国王タルクイニウス・スペルブスがキルケイに植民地を建設した。共和制の時代、紀元前491年ヴォルスキ軍がローマの植民者を追い払った。前393年、ローマ軍がキルケイを奪回した。その後まもなくキルケイ市民がローマに反乱し、ヴォルスキと同盟した。本文で語られているのはこの時の反乱である。
 ②ヴェリトラエはローマの南東40kmにあるヴォルスキの都市。アルバ湖から南東に少し離れている。前494年ローマはヴォルスキに勝利し、ヴェリトラエに植民地を設定した。ーーーーーーーーーーーーーー(日本訳注終了)

ローマ軍はポンプティン地方に到着し、基地を築いた。翌日独裁官は天の兆候を占ってから、神々に祈り、奉納し、神々の援護を願った。彼が高揚した気分で兵士たちのほうに進むと、夜明けとともに兵士は武装を始め、出撃命令を待っていた。独裁官は彼らに言った。「諸君、我々は勝利するだろう。神々の考えを占った神官がそう予言している。だから希望を持って戦え。敵は我々より弱い。槍を持たず、剣だけで戦え。先走ってはいけない。一歩も引かず敵の攻撃を受け止めよ。敵が短い槍を投げても、楯に当たらるだけだ。敵が無秩序に前進してきたら、剣をふるってなぎ倒せ。神々が諸君の見方であることを忘れるな。神々が諸君を戦場に送り出したのだ」。
次に独裁官は騎兵長官に言った。「クインクティウス、戦闘が始まるまで動くな。両軍の歩兵がぶつかり、敵が自信をなくし始めたら、攻撃を開始し、敵の戦列を崩せ」。
ローマの騎兵と歩兵は独裁官の指示に従って行動した。独裁官の作戦は兵士たちを裏切らなかった。運は独裁官に味方した。

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