極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

高校2年 27

2004-09-20 23:30:55 | Weblog
現在も付き合いのある渥美や西村たちといつから親しくなったのか、実は記憶にない。なんとなく、だったのだと思う。渥美はそうでもなかったが、私や西村、市川などは、成績でもクラスの底辺部にいた。通信簿にはクラスの順位がつけられていた。どういう基準でランキングされたか、今となっては確認できないが、おそらくは通信簿の平均点で順位が決まったのだと思う。

クラスは44名~45名くらいだった。西村はいつも40番台だった。自ら「40番グループ」と言っていた。私は常に30番台後半だった。

勉強はまったくしなかった。高校時代、勉強したという記憶がない。

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高校2年 26

2004-09-19 22:01:17 | Weblog
通学時間は30~40分かかった。どれくらいの距離だったのだろうか。地図で確認すると7、8キロはあるように思う。途中に坂もある。随分遠いなと思うが、もっと遠くから通っている生徒も多かった。

オートレースの前を通り、自衛隊の基地の脇を通り、「コンビニエンス スヤマ」の前を通ると、校舎が見える。しかし、まだそこからかなりの距離があるのだった。

「コンビニエンス スヤマ」は、現在のコンビニではなく、しけたスーパーだった。私達はここで雑誌を立ち読みしたり、アイスを買ったりした。

1979年、静岡の地方都市にはまだ大手コンビニは進出していない。記憶にあるのは「デイリーヤマザキ」くらいだが、どちらかといえば「パン屋に毛が生えたもの」程度に感じていた。

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高校2年 25

2004-09-18 21:28:37 | Weblog
自転車で通学した。高校は静岡の地方都市のはずれにあった。まわりに建物が少なく、遠くからでも校舎がよく見えた。

当時、ブリヂストンの「ロードマン」という自転車が流行っていた。いっしょに通学することの多かった池谷も「ロードマン」だったように思う。私も「ロードマン」にしようと思っていたのだが、なぜかミヤタ自転車の「カリフォルニアロード」という自転車を買ってしまった。「ロードマン」が売れたので、ミヤタがパクったシリーズだ。全体の雰囲気は「ロードマン」そっくりだった。

どうして「カリフォルニアロード」にしたか、忘れてしまった。「カリフォルニアロード」の方が、若干安かったのかもしれない。「カリフォルニアロード」なんてネーミングからして「パクりです」と言っているようなもので、ちょっと恥ずかしかった。圧倒的な「ロードマン」軍団の中で肩身の狭い思いをしていた。

「ロードマン」にすればよかった、と何度か思った。

「カリフォルニアロード」はその後、東京で盗まれた。

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高校2年 24

2004-09-17 23:39:00 | Weblog
一次審査で落選したが、審査評は送られてきた。すべての応募者に結果とともに送られた。私はその後、いくつかのコンテストに応募するが、落選時、寸評付きで返信が来たのはポプコンだけだ。ポプコンはこの時しか応募していない。

たしか、赤いインクで書かれていた。「添削」のようだった。審査評にはこのように書かれていた。

「声はいいが、もう少し音程の練習をしなさい」

曲についてのコメントはなかった。審査員の苦労がわかる。

音痴だったのか、と思った。

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高校2年 23

2004-09-16 20:11:36 | Weblog
1975年秋「時代、中島みゆき」 
1977年秋「あんたのバラード、世良公則」
1980年春「街が泣いてた、Side by Side」
1981年春「サヨナラ模様、伊藤敏博」
1981年秋「完全無欠のロックンローラー、アラジン」
1982年春「まつわ、あみん」

この頃まではポプコンが注目されていたように想う。中島みゆきと、なんとか岡村孝子(あみん)が残っているくらいだ。みんな消えてしまった。

1984年春「顔、Concent Picks」
1984年秋「ふられ気分でRock'n Roll、TOM CAT」 
このあたりまでなんとか記憶がある。

1983年秋「雨の日、辛島美登里」
辛島美登里がグランプリだったなんて知らなかった。
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高校2年 22

2004-09-15 22:37:02 | Weblog
ポプコンネタでもうひとつ。

「あなた、小坂明子」は1973年、この年は春と秋でグランプリを出さず、1973年の秋にグランプリ大会をしている。開催日は秋の本選会の次の日、つまり2日間やったわけだ。ヤマハの力の入れようがわかる。

ちなみにグランプリ曲はもうひとつある。「さすらいの美学、伊勢功一&卍(まんじ)」だ。

記憶がない。

グランプリ大会が行われたのはこの年だけ。
ポプコンは1986年、第31回で終了する。
グランプリは「明日(あした)行きの列車、小野健児」

知らない。

大石吾朗の「コッキーポップ」をよく聴いていたのに 知らない。
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高校2年 21

2004-09-14 23:26:39 | Weblog
ポプコンは春と秋、年2回開催されていた。ポプコン好きだったはずだが、記憶にない。インターネットで調べてはじめてわかった。私の行った「夢想花」の第16回は1978年の秋となる。したがって、私が応募したのは第18回で1979年の秋の大会になる。

参考までに、1979年春、第17回のグランプリは「流浪(さまよい)、小柳孝人&Box Office Band」と「I'll Wait For You、Lisa Lee」のダブル受賞。第18回は「大都会、クリスタルキング」だ。

クリスタルキングはよくおぼえているが、第17回の方はほとんど記憶がない。ヒットしたのだろうか。
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高校2年 20

2004-09-13 21:00:27 | Weblog
高校2年でポプコンに応募している。

1978年10月1日に地田君と行った、つま恋のステージに立ちたいと思ったからだ。ラジカセでギター一本で録音した。曲は「LOVE SONG 3」だ。

カセットを事務局に送った。

見事、一次審査で落選した。

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高校2年 19

2004-09-12 18:05:34 | Weblog
雅之は「やる気」を出していた。1年の頃とあきらかに違っていた。

それは1年生がいたからである。新入部員の男女構成比は我々の代と同じ、圧倒的に女性が多かった。後輩の女学生に囲まれて、彼は「がんばって」いた。後輩の面倒見からいえば、雅之の方がむしろ部長に向いていた。

その後、雅之は後輩のひとりを好きになり、無謀とも思える「恋の道」に邁進することになる。

雅之は私以上にギター演奏の才能はなかった。だが、情熱を持つ男だった。それは現在の彼の姿を見ればわかる。その時々では滑稽に見えたことも、雅之にとってそれは、間違いではなかった。

現在の彼は地元の超優良企業で活躍している。部下も何十人といるそうだ。高校2年のやる気に満ちていた雅之の姿とダブってくる。
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高校2年 18

2004-09-11 22:56:25 | Weblog
記憶がないのは、やはり興味があまりなかったからだ、と思う。

その頃の私の興味はまだ、フォークにあった。(エレキバンドなんて)と思っていた。音がでかくてうるさい、と思っていた。だからあまり興味がなかった。池谷の影響で音楽雑誌「プレイヤー」を買ったりはしたが、バンドは聴くもので、自ら演奏するものではなかった。

クラシックギター部も新入生が入ってきていた。3年生は実質「引退」という形になっていた。運動部のように正式な大会があるわけでもなく、軟弱な体制だった。部長は2年生から選ばれ、私は休学しているうちに部長になっていた。男子は私と雅之しかいなかったのでどちらかが部長になる運命だった。

1年の頃、ちゃらんぽらんだった雅之だが、しばらくぶりに見るギター部の彼はちがっていた。
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