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広く浅く

今後はhttps://taic02.hatenablog.jp/で更新します

さくら 表札に学校名?

2023-10-03 19:32:07 | 昔のこと
2002年度前半のNHK連続テレビ小説「さくら」
主人公・さくらが、岐阜県飛騨高山の中学校に英語指導助手として赴任する。それに関していろいろと。【2024年2月19日補足・物語の設定年代は2002年1月から2003年3月だそうで、放送期間をまたいで少し前~半年後となる。】

まず、「英語指導助手」。
現在は、ALT・外国語指導助手と呼ぶのが一般的なようだが、昔はAET・英語指導助手と言っていた。いつの間にか変わったという感じ。
Wikipediaには、外国語青年招致事業(JETプログラム)において、ALTの呼称を用いているからとある。しかし、JETプログラムは1987年に始まったそうだが、それ以降もしばらくはAETの呼称が主流だったのだから、ズレがある。EからLにかわったきっかけは、ほかにあるのではないか。
そもそも作中では、学校独自の求人で採用されたので、JETプログラムではないと思われ、だったらどうでもいいのかも。


外国人を指して「外人(がいじん)」と呼ぶことがある。
現在では、差別用語に近い扱いになっていて、テレビ番組で一般人が「外人」と発言しても、字幕では「外国人」に置き換えられる場合がある。
昔は、外国人ではなく外人と呼ぶのが当たり前だった。横浜や函館などの「外国人墓地」も、かつては「外人墓地」だった。「外人」を、差別的な意味合いで用いることはなくはなかったと思われるが、その意図がないことも多かったはずで、「外人さん」など親しみをこめた呼びかたでもあった。
2002年当時では、外国人のほうが主流になっていた頃か。作中のセリフでもそうだが、たまに「外人」も出てくる。文字放送字幕でもそのまま表示。


そのほか、職場のお茶くみや飲み会でのお酌、上司より先に帰宅してはならないなど、2020年代ではなくなったとまではいかないが、前時代的な慣習ととらえられているものが、描写される。ただ、当時でも、好ましくはないものとされていたから、ドラマに採用されたわけで、20年経っても、完全にはなくなっていないということでもある。


舞台となる学校は、高山市内にある「高山あけぼの中学校」。私立男子校。実際には、飛騨地方には私立中学校は存在しないとのこと。
作中で、あけぼの中の教員たちの「うちは受験校(または進学校)」というセリフがよく出てくる。高校進学率がほぼ100%になって久しく、中学校はどこでも受験校なんじゃないのかと思うが、要はより上位の高校合格を目指す中学校ということだろう。【19日追記・第30回には、教員による「我が校は 県下でも名だたる優秀校です。」のセリフあり。】
【20日追記】高山あけぼの中学校の校舎は、高台にある比較的新しい建物。岐阜県立高山高等学校(2005年から飛騨高山高等学校岡本校舎)でロケしたとのこと。

東京に、同経営の中学校と高校(校名が分かるシーンがあったが名前は忘れた。男女共学だったかも)があり、理事長はそちらにいる。
【4日追記・高山の校門には「学校法人 高山あけぼの中学校」と表示されていた(普通は法人名に「中学校」まで入れないと思うが)。でも、それだと同経営ではなく、東京とは別法人扱いの可能性を感じさせる。その場合、理事長は、東京と高山の両法人を兼務していることになろう。こちらも男子校らしい。】
【11月29日追記・45、47回の東京の校門には「学校法人 東京あけぼの中学校(改行)    東京あけぼの高等学校」の表示。高山とは法人が異なり、東京は長ったらしい法人名ということになる。】
【11月30日追記・48回での曙大作理事長の話によれば、自身は高山出身で、出征し復員後、東京で財をなし、それを元手に東京で学校創設。そして「15年前 高山に分校を作りました」】
家庭訪問(後述)のシーンで「(高校進学時に)東京の本校に移るには 偏差値が65以上なんでしょ」のセリフがあったことから、内部進学のような制度が存在するようだ。偏差値65は保護者から教員への問いかけであって、それに対して否定も肯定もしていないものの、偏差値65以上は上位7%以内に相当し、かなり狭き門。上記の通り高山側も進学校だそうだし、系列校ならばもう少し緩くても良さそうだけど。

さらに野暮なツッコミだけど、寮母が勤務(住み込みでなく通い)し食事も出る教職員寮【3日補足・「あけぼの寮」】がありながら、その入居者は1人しかいないのは非効率。だったら、後述の通り通学範囲が広いのだから生徒寮を作ったほうがいいのでは。
こういうことは私立学校ならば経営者の方針次第でなんとでもなるから、なくはないとも言えないでしょうけれど。
【11月22日追記】高山校では、夏休み中に希望者を東京校へ連れて行って、「夏期講習」もしくは「補習」を行っている。
第44回では、東京での宿泊先のシーンがあった。3階にだけ明かりが灯った、4階建ての校舎のような建物。門の表示は「東京あけぼの 中学校 高等学校 あけぼの寮」、字幕は「東京あけぼの寮」。内部は畳敷きの大広間、修学旅行の旅館のような部屋。

【2024年2月19日追記】142回で教室の掲示物が映るシーンがあり、「給食委員」や「給食」「配膳」当番の存在が判明。学校給食が行われていることになる。また、時間割表には土曜日3時限分の教科(英語、国語、数学)が記されている。公立学校では、本作が放送された2002年度から完全週5日制になっているが、私学かつ進学校だけに未実施だったようだ。


そろそろ本題。
高山あけぼの中学校には「家庭訪問」がある。学級担任の教員が、児童生徒の自宅へ来るヤツ。
時代や地域・学校によっても違いはあるはずだが、ここは私立学校。学区が限られた公立学校とは違って、広範囲から生徒が通うわけで、家庭訪問も広範囲。「いかに効率的に回るかが大事」といったセリフも出てくる。
これも経営者の方針次第だろうけれど、実際の私立学校では、家庭訪問はないのが一般的ではないだろうか。
ちなみに、平成初めの秋田市立中学校では家庭訪問に相当する行事は、「学区巡視」という名称だった。同様の呼称の学校は、現在でも全国的にちらほら存在するようだ。
生徒の通学路や家庭周辺の環境を確認する目的であって、保護者が仕事を休んでまで応対しなくていいとされていた。保護者が在宅なら、玄関先であいさつする程度。

さくらは、列車に乗って古川町(現・飛騨市)の生徒宅まで行くことになる(第16回)。駅名は飛騨古川。僕は15年ほど前、途中下車でちょっとだけ訪れたが、風情ある町だった。【5日補足・さくらはAETながら学級の副担任を任されている。効率を重視する担任によって、家庭訪問を2人で分担することになり、単身で訪問させられる。】
道に迷ったさくらは、たどり着いた和ろうそく屋の作業とたたずまいに見とれてしまう(第17回)。そこへ、家庭訪問するべき生徒がやって来て、店の若女将と家庭訪問がどうこうと話し始める。
「…ってことは ここ もしかして…」
「俺んち」と言いながら、生徒は玄関の上、鴨居を指差す。この次の画面に謎のアイテムが一瞬映る。

表札?
なお、住所は「古川町五之町」とされているが、実際の当地には三之町までしかないようだ。また、郵便番号の一部が「09-4341」と判読でき、実際の周辺の番号と合わせると「509-4341」だと思われるが、実在しない番号。

画面中央左の白いのが、世帯全員の名を記した表札。ここが彼の家である、何よりの証になる。
おかしいのは、その右。
上の画面を拡大
釘にぶら下がった、2枚の木札。
姉とともに、通学する高校/中学校名と氏名が記されている。札のサイズも、筆跡も同じ。
これは何だ?

見た目が似たものとして、出退表示(で通じるかな)を思い出した。片面に黒、裏面に赤で名前を書いて、その人の在不在を示すもの。道場とか、あとは一部の企業とか下宿屋(食事したかどうか)などにはあるような。国会や地方議員が登院しているかの表示は、今は電気・電子式だけど、昔は木札だったのだろうか【4日補足・今は企業団体でも電子式が多数派か】。
それが一般家庭にあるのはまだいいとしても、学校名まで示すのはおかしい。


ネットで調べると、岡山県の情報が見つかった。多くはないがChakuwiki「岡山の学業」など。実物の写真がないのが惜しいが、読む限りでは作中の木札と矛盾はほぼない。それによれば、
・別名「カマボコ板」。かまぼこ板より少し大きいとの声も。
・高校入学時に、記名済みの板を学校がくれる。
・最近はもらっても玄関には付けない人が多い。一方、卒業後も撤去しない人も。

・岡山市内(? 県内どこでもではない)の一部県立高校などで行われる。2008年時点でまだ配っていた学校もあるが、すでに配らなくなった学校も多い。

・建前上は、成績表郵送時に必要との理由。
・ホンネでは、ステータスが高い高校に通う子がいることを示すため。

岡山県の一部で見られる(見られた)、風習ということになろう。
岡山に限らず、昔は地方では高等学校が最高学府同然だったことはあるだろうから、ひょっとしたら他地域でもかつては存在した風習なのかもしれない。そして、岐阜県、あるいは飛騨でも実は残っていたのか。【3日補足・岡山と比べて、作中のものはサイズが小さく、各家庭で記名したという相違があることになろう。】
シーンとしては、通常の表札だけでも通用するのに、全国的に認知されていないものをあえて採用したのだから、まるっきり無縁というわけではない気がする。実際はどうなのか、知りたい。
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「さくら」も見てしまう

2023-10-01 22:26:57 | 昔のこと
NHK総合テレビで平日午後に再放送している、昔の連続テレビ小説。「ひらり」は、勢いで最終回(2023年9月1日)まで見てしまった。
9月4日からは「さくら」が始まった。ひらりのおよそ10年後、2002年度前半の作品。当時ちらちらと若干、見ていて、音楽や登場人物に多少おぼえがあったが、思い入れはなく、再放送を見るつもりはなかった。のだが、どんなもんかと少し見てしまったのがいけなかった。また、見続けてしまっている(というかひらりより朝ドラらしくていいかも)。以下、敬称略。
【1日補足・今考えてみれば、主人公は僕と同世代であり、時代設定が2002年当時のリアルタイムなので、親近感を抱いたり、感情移入したりしやすいドラマと言えるかもしれない。】

「さくら」は、ハイビジョン制作となった初の連続テレビ小説作品だそうで、音声もステレオ(どの作品が最初かは不明【1日補足・アナログ放送では、副音声とステレオは両立できなかった。ということは、初のハイビジョン制作となった本作が、初のステレオ作品かもしれない(憶測です)】)。オープニング映像は、実写と絵をCGで重ねたようなもの。そんなわけで、一見、今のドラマと違いは少なく、21年前とは思えないかもしれない。
一方、オープニングの表示はナールなど写研製の文字(下記の通り例外あり)で、これは時代を感じさせる。

いちばん最初に出る「連続テレビ小説」が、ポップ書体系。なんか場違いな気がするし、POP体にしては下手にも見える。縦に文字を並べても一直線に見えないし、「ビ」の濁点が小さすぎる。用途によっては、かわいらしい感じで悪くないかもしれないが。
ニィス製「JTCじゃんけんU」というデジタルフォント。
ニィスフォントシリーズは、2000年代によく使われていたようで、当時はテレビの字幕で多用され、秋田中央交通のバス停表示板でも見られた。「さくら」では、他は写研書体なのに、ここだけあえて使っているのだから、こだわって選んだのだろうが、意図はよく分からない。

連続テレビ小説では、1996年度前期「ひまわり」以降、週(または2週)をセットにしてサブタイトルを付けるようになった。「さくら」では1週単位でことわざが付けられている。その表示。

「クレヨンしんちゃん」のタイトル(=アニメの各話ごとのサブタイトルではなく、作品名そのもの)でも使われる、写研の「ゴカール」。ゴカールは、当初は漢字がないかな文字のみの書体だったが、1997年に漢字も登場。
(再掲)
その他、出演者・スタッフの表示はすべてナール。
ストーリー上、英語のセリフもあり、和訳の字幕がナールで表示。


副音声解説は、初代・関根信昭に代わって、本作から江原正士。えはらでなく「えばら」さんなのを初めて知った。
副音声では、英語のセリフ部分に重ねて、江原さんが和訳を読み上げる。主人公の「もう! 日本人の考えが分からないわ!」みたいなのをけっこう感情を込めていて、ちょっとおもしろい。2021年後期「カムカムエヴリバディ」では、女性のセリフは別の人が担当していたそうだ。


主人公はハワイで生まれ育った日系人・さくら(高野志穂)。岐阜県飛騨高山の中学校に英語指導助手として赴任して、奮闘する日々を描く。
その他出演者は錚々たる面々。ひらりより豪華であり、タイムリーだったり意外な人選も目立つ。
ユニークなところでは小林亜星、ラモス瑠偉、ケント・デリカット。後でKONISHIKIも出るらしい。
鍵本景子は「ひらり」以来、鈴木砂羽は「あぐり(1997年度前半)」以来の出演か。後で「マー姉ちゃん(1979年前半)」主人公の熊谷真実も出てくる。
TBS「さんまのSUPERからくりTV」で活躍したセイン・カミュ、その回答者であった浅田美代子も。浅田さんは歌は下手と言われたけど、演技は上手。
歌手としては、さくらの母役に太田裕美。当時、お名前は知っていたけれど過去の人だと認識していた。一時活動を休止し、再開間もない頃だったようだ。演技としては、まあ…
そして、さくらとともに授業する英語教諭役の野口五郎。クセのある人物を好演している。カラオケで森昌子の「せんせい」を熱唱するシーンがあって、「なかなか歌も上手いな(あ、歌手か)」と思ってしまうほど、しっかりと俳優をしている。なお、野口五郎は岐阜県出身だが飛騨ではなく、由来となった野口五郎岳は飛騨山脈だが、長野県・富山県に位置する。
中曽根正晴校長は江守徹、竹下徹教頭は笹野高史と納得の配役。この2役が、内閣総理大臣経験者と同姓なのは、何か意図があるのか。
そして、さくらの教え子であり下宿先の子には、えなりかずきの弟・江成正元、その姉に、駆け出しの長澤まさみ。

やっぱり最後まで見てしまうのだろうか。
ところで、作中の家庭訪問のシーンで、意味が分からないアイテムが出てきたので、別記事にて
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ひらり(終)

2023-09-02 17:41:17 | 昔のこと
秋田市が少しだけ舞台となった、1992年度後半のNHK連続テレビ小説「ひらり」の再放送が、2023年9月1日に最終回(第151回)を迎えた。※敬称略。勘違いやうろ覚えの点もあるかと思います。

秋田ロケのシーンが放送されたのは第49回~51回以降は、ほぼ欠かさず視聴した。最終回まで、会話の中では秋田のことがたまに少々出てきたが、その映像は一切なし。

やはり、展開にまったくおぼえがなく、30年前にはほぼ見ていなかったのは確実。
主人公の姉・藪沢みのり(鍵本景子)が、大学の時の先輩にそっくりなのに気付いた。その先輩に出会ったのは放送後のわずか2年後。熱心に視聴していたのならば、その時点で気付くはず。実際は、当時まったくそんなこと思わなかったのだから。
あと、安藤竜太の後任者でありライバルの小林雅人医師(橋本 潤=現・橋本じゅん)は、その存在が記憶になかった。主人公・藪沢ひらり(石田ひかり)は当然として、安藤竜太(渡辺いっけい)、個性的な脇役の花沢徳衛・石倉三郎親子なんかは覚えていたけれど。

普段、特に新作ドラマはほぼ見ないので、30年前の作品を評価できる分際ではない。それに今さらツッコむのは野暮。
だけど、見た限りで言わせてもらえば、バタバタしているようでモタモタしているような、話が堂々巡りしていた。みのりは恋に悩みまくり、両親は微妙な仲が続いて。

それと、相撲部屋専属栄養士という目標を見付けたひらりが、栄養士専門学校の受験勉強をしながら、梅若部屋のマネージャー見習い/栄養士見習い(業務内容は、力士の食事や健康管理から、部屋の雑用までこなす)をするという展開。梅若親方(伊東四朗)は、栄養士になれなかったら(※)クビという、厳しい条件を付ける。
※栄養士の資格取得は、学校に入学して最短2年後のはず。ただ、作中では「学校の入試に落ちたらクビ」というニュアンスで話が進んでいたように感じた。
放送日と作中の時間経過は同じ設定のようで、部屋の手伝いを始めたのが1993年1月ということらしい【3日補足・開始時点では1992年4月の設定。その後秋田に来たのが8月だったりするので、1年分を半年に収め、後半で追い付いたことになる。】。試験まで3か月を切っていて、しかも難しいらしく、竜太先生に毎日勉強を教えてもらうほど。
それなのにひらりは、力士のデータ管理のためにパソコンを使おうと思い立ち、パソコン学校だかパソコン教室に通い(習うシーンはなく話のみ)、そのすぐ後に部屋にパソコンを買ってもらって使いこなしている。
なんとも忙しいというか、自分を極限に追い込む人なのか、受験勉強に専念すればいいのではと思わずにいられなかった。厳しい梅若親方が「今は受験勉強に集中。パソコンは後でいいだろう」と言わなかったのも、厳しさなのか?
そして、入試は滑り止め校は落ちたものの、本命校に見事合格。これから栄養士目指して勉学が始まるというのに、家族や梅若部屋の人たちが、まるで栄養士資格を取ったかのように大喜びするのも、なんだか…

【3日追記】登場人物たちが、デートから相談ごと等々まで、時には連日、会食のほとんどを「どぜう料理 すみ多」の座敷でしていたのも、ツッコミどころ。毎回どじょう料理で飽きないのか、そんなにどじょうが好きなのか。たまにもんじゃ焼き屋のこともあったけれど。

相撲そのものが描写されるシーンは、ほぼすべてが梅若部屋の中で、国技館など“外”の場面は描かれなかったのも特徴的。日本相撲協会の協力は得ていたものの、現地ロケするにはいろいろと制約があったのかもしれないし、それが話の展開の制約につながったという事情もあるかもしれない。(以上追記)


最終回は無難にハッピーエンド。両国五丁目の人々が、大学病院へ戻る竜太を見送るのが最終シーン。ひらりの入学式当時の朝に当たると思われる。ほかの登場人物たちも、新しいステップへ進み始める。
そこには、ひらりの父方母方それぞれの祖父、藪沢小三郎(島田正吾)・深川金太郎(花沢徳衛)の姿がない。小三郎は、149回で渡英して1年間の遊学。さらに金太郎は、唐突に姿を消し、小林医師の父と有馬温泉に10日間滞在している旨が150回で明らかになった。古い人たちを追い出してしまったようにも感じてしまう。
「完」は太い楷書体(織田特太楷書か?)。NHKが卵ロゴになるのは1995年
連続テレビ小説では、「ちゅらさん」など単発ドラマで続編が作られることがあるが、ひらりは本編限り。栄養士を目指している(もしくは栄養士となった)ひらりを軸に、登場人物たちのその後として、充分ストーリーが成立しそうだった。


以下、いろいろと。
147回のみのりのウェディングドレスの仮縫いのシーン。
「ブティック・デザイナー」役で桂由美が出演。「これもつけてみましょうかね」「いかがでしょうか?」のセリフあり。【2日補足・ということは使われたドレスも桂由美ブランドなのだろう。NHKとしては「衣装協力」扱いはできないので、当人を出演させることで代替としたのかも。】


第90回放送時点辺りで、番組のオープニングの曲や映像について記事にした
連続テレビ小説のオープニングは、作品を問わず、月曜日はスタッフも表示されるため、ほかの曜日より少し長いバージョンが放送される。
ひらりの「晴れたらいいね」も同様だったが、その長いバージョンは月曜日以外でも流れることが少なくなかった。これは異例かもしれない。長い日は登場人物が多いなどではなく、単に尺合わせ・時間調整のような気がする。
歌詞では、長いバージョンは、1番すべて+「一緒にね いろんな話~」で1分30秒。
短いバージョンは、1番最後の「一緒に行こうよ」以降をカット(例(前回の記事参照)の「‘こくわ’の実」「ナビゲーター」部分)し、「一緒にね」へつながる。1分15秒。


前回の記事のコメント欄で、連続テレビ小説では、番組の終わりにも主題歌が流れる場合があったことが話題になった。ひらりの場合、初期は見ていなかったので不明、秋田編以降91回前時点では、流れていなかった。
ところが実は、第99回【3日補足・1993年2月初め放送】から、散発的にエンディングでも「晴れたらいいね」が流れるようになった。

「つづく 制作・著作NHK」の画面が出た後に流れる。
オープニングと同じ長短があり、映像は、両国周辺の風景や、最終回近くでは本編のダイジェスト。歌詞の字幕があり、ナールで「“こくわ”の実」と珍しくダブルクォーテーションになっていた。最後に色文字の石井ゴシックで「明日も/来週も おたのしみに」。

エンディングが流れた回とその長短(無印=短)を記す。間違っているかもしれません。
99 104 105長 119 121 122 126 128 129 134 139長 140 142長 144 146長 148 149
法則はなさそう。やはり尺合わせか。
【3日補足】最終回の最終シーンでは、BGMとして「晴れたらいいね」が最後までフルで流れた。セリフと重なるので音量は低く、歌詞の字幕はなし。


副音声の解説は声優・関根信昭。
アニメや吹き替えのほか、教育テレビの学校放送のキャラクターの声も担当した。「ことばのくに」の悪役・へんしんタンマなど。大昔は、ラジオドラマのナレーションのようなものも担当していたそうで、連続テレビ小説の解説の声を懐かしく聞いたという人がいた。連続テレビ小説の解説は「凛々と」から「ほんまもん」まで10年以上担当。

ただ、「ひらり」では128~133回の1週間分に限り、梅津秀行が担当。
同時期に教育テレビ「ともだちいっぱい~かずとあそぼ」のペカリンさんの声。ひらり終了直後・1993年4月から始まった、夜の「ドラマ新銀河」枠では副音声解説を務めたので、ひらりは関根さんの代役兼お試しだったのか。


ドラマを見ない者としては、15分といえども毎日はしんどかった(←だったら見るな)けれど、それなりにおもしろかった。
以前の繰り返しだが、連続テレビ小説でいちばんおもしろいかったのは1997年度前半の「あぐり」だと思っている。

※再放送枠では、この後2002年の「さくら」が放送
※2024年、ひらりの登場人物と同じ、「寒風山」というしこ名の秋田出身の力士が、実際に誕生した
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AMBITIOUS JAPAN!

2023-07-21 19:02:52 | 昔のこと
東海道山陽新幹線の、JR東海所属車両の車内放送チャイム、TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!(アンビシャス ジャパン)」が、2023年7月21日からほかの曲に代わった。ヘンなタイミングだけど、夏休み開始にでも合わせたのか?
後継は、JR東海の新キャンペーンに連動した、UA「会いにいこう」。
変更は今年2月16日に発表されたので、(それまではなかったことにされていたのに)この数か月で突然問題視されるようになった、ジャニーズ事務所(ジャニー喜多川氏)の不祥事を受けてということではない。

「AMBITIOUS JAPAN!」は、2003年11月24日から約20年使われたこと。
なお、JR西日本所属車両では、同時に「いい日旅立ち・西へ(鬼束ちひろが歌い、原曲と歌詞も異なる)」が使われるようになったが、今後も継続(東京~新大阪間でも流れる)。
それ以前は、東海・西日本共通で、ひかり&こだま/のぞみで異なるオリジナルメロディが流れていた。もっとさかのぼると、ピンポンパンポンだったり(音程が一般的なものと違う)、黛敏郎作曲の(奇抜な?)オリジナル曲だったり、開業時は「鉄道唱歌」のオルゴール(在来線車両とは多少異なる?)だったりしたらしい。


日本の大動脈で20年も親しまれたものがなくなるということで、ネットばかりでなくマスコミも取り上げ、名残惜しむ声が上がっている。
個人的には、数度しか聞いたことがなく、東日本の新幹線とはいろいろ違ううちの1点に過ぎないし、その前のひかり・こだまのチャイムこそ、東海道新幹線という感じがして好きだった。
ちなみに、東北上越新幹線のチャイムは30年以上変わっていない。リンク先の記事では、東海道新幹線のことは触れていないが、今回の変更で連想する人が多いようで【22日追記・もしくは勘違いや間違いで?】、たくさんのアクセスをいただいています。


「AMBITIOUS JAPAN!」のチャイムは、始発駅発車後・終着駅到着前に流れる長いものと、途中駅用の短いものがある(いい日旅立ちも同様)。
前者は、歌いだしの部分で12秒。後者は、サビの「Be ambitious!」部分でわずか5秒。
どちらもテンポはゆっくりめで、伴奏が控えめでシンプルな印象。ビジネス客も多い東海道新幹線だけに、あえてそうしていたのかもしれないが、シンプルすぎるとも思っていた。途中駅版は、(伴奏音は走行音でかき消されるので実質的に)「トン トン トン ト トーン」のわずか5音。

元歌のCDは、オリコン1位になったこともあるそうだが、大ヒットというほどではなかったと思う。
まして20年経った今、覚えている人は減っているだろうし、チャイムのメロディーが何なのか分からない人は多いだろう。以前、「東海道新幹線のチャイム、どこかで聞いたことがあるんだけど、何だっけ?」と悩む人のツイートを見たことがある。

日本国民誰もが知るヒット曲が少なくなった今、流行歌を車内チャイムに起用する以上は避けられないことであり、新チャイム「会いにいこう」も、秋田駅発車メロディー「明日はきっといい日になる」も、いずれ同じ道をたどることになる。「いい日旅立ち」だって、若い人は知らないだろうし。
まあ、元歌を知らずに/忘れて、東日本の新幹線のような“車内チャイム専用曲”だと思ってしまっても、さほど問題はないけれど。

ネットで「会いにいこう」の新チャイムと元歌(JR東海がプロモーション映像を公開)を聞いた。
チャイムは全駅共通の9秒で、今までよりは音数が増えて、一般的な車内チャイムらしくなった。だけど元歌をよく知らない状態だと、やっぱりよく知らないチャイム。
ちなみに、N700S(系)と N700A(系)ではスピーカーの位置が違い、それでも同じように聞こえるよう、それぞれ向けに調整されたチャイムが流れているとのこと(鉄道新聞https://tetsudo-shimbun.com/article/topic/entry-3546.htmlより)。



ところで、「AMBITIOUS JAPAN!」も、当時のJR東海のキャンペーン連動。西日本「いい日旅立ち・西へ」と同時展開で、2003年10月1日の新幹線・品川駅開業と「のぞみ」増発に合わせたもの。
キャッチコピーは「AMBITIOUS JAPAN! のぞみは、かなう。」で、後に「AMBITIOUS JAPAN! のぞみはいつも、そこにある。」になったそうだが、前者しか記憶にない。

ところで「ambitious」という英単語は、日本人にどの程度認知され、それを使ったこのフレーズ(曲名)は、どうとらえられていた/いるだろう。
いくつかの英和辞典サイトでは「大学入試レベル」とされ、weblioでは「英検:2級以上」「TOEIC® L&Rスコア:470点以上」「大学入試:難関大対策レベル」。大衆向けキャッチコピーにしては難解なようにも感じる。
そのためか、質問サイトで「AMBITIOUS JAPAN」や「be ambitious」の意味を尋ねる投稿も見受けられる。

2004年3月13日のJR東海ニュースリリース「「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーン実施中!(http://www.jr-central.co.jp/news.nsf/frame/2004312-21463)」を、ネットアーカイブで確認。※この時点でサブコピーは「のぞみはいつも、そこにある。」になっていた。
その中で、
2.楽曲名
 AMBITIOUS JAPAN!(アンビシャス ジャパン)
 ※「大望を抱く」あるいは「意欲にあふれる日本」という意味です。
と説明されている。

僕は「日本よ大志を抱け」だと思っていたし、英語は不得意でも中学生の時からambitiousを知っていた。
ambitiousといえば、クラーク博士では?
明治初めに札幌農学校に赴任。帰任時に「Boys, be ambitious!」のことばを残し、「少年よ大志を抱け」と訳され、今日に伝わっている。
中学校の修学旅行先が札幌であったこともあり、学級目標に採用する(Boys and girls として)クラスがあるなど、身近だった。

JR東海(あるいは曲の制作側)としては、クラーク博士のことばを、もしくはことばを多くの日本人が知っていることを念頭において、ambitiousの語を使ったのだと思っていたのだけど。訳を「日本よ大志を抱け」としなかったのは、クラーク博士への遠慮か。



JR東海のキャンペーンでインパクトがあったのが、
2004年12月 広島駅
当時最新だった700系電車の、JR東海所属編成の両先頭車(1・16号車)側面・窓下の青帯部分に、「AMBITIOUS JAPAN!」の文字を大きく表記。


鉄道車両にこんなに大きく文字を書くことはあまりない。新幹線では、今でもこれが唯一だと思う【21日訂正・九州新幹線「いだてん」や西九州新幹線「HAPPY BIRTHDAY」では、もっと大きな文字が表記されていた】。
在来線では、JR東日本の「EF81」とか、かつてのJR貨物の「地球環境に優しいJRF」とか、労働組合が幅を利かせていた頃の国鉄で要求などを書き殴ったのとかはあるけれど。
屋外広告物条例の規制も気になるが、当然、クリアできていたのでしょう。

当初は2003年末で終える予定だったが、好評だったので、開業40周年や愛・地球博とからめて2005年9月25日まで続いた。
僕も好意的に受け止めており、キャンペーンや歌よりも、この表記が印象に残っている。当時は、静岡、四国、九州を旅する機会があったので、その途中でいくらか撮影していた。
2003年12月 どこかの駅で隣の列車内から

300系電車では、ドア横に円形ロゴを表示(700系にもあったようだ)。
2003年12月「のぞみは、かなう。」
ちなみに、100系電車は2003年9月16日で東海道新幹線から引退。山陽新幹線では0系電車もまだ走っていた。そんな頃。

2003年12月 東静岡駅
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手形の風景2003

2023-06-27 23:29:42 | 昔のこと
菊谷小路2004に続く、昔と今の風景の対比。2003年7月25日早朝に撮影した、秋田市内のとある場所。
どこだかお分かりでしょうか?

現在の同じ場所
秋田市手形地区、JR奥羽本線「第一手形谷地町踏切」の東側から東方向の風景。
背後が第一~踏切、道路右側が手形新栄町、左手前側が手形休下町、左奥側が手形住吉町。秋田大学手形キャンパスが左前方。秋田駅西口から来る路線バス・秋田温泉線と仁別線は、先方(東)から来て、この交差点を右折して北へ進む。【30日補足・交差点右・南方向が第二手形谷地町踏切。】

20年の間で、変わったものが多い。
ほとんど写っていないが、交差点の右奥の角は「あべとん」で親しまれた食堂「とんかつあべ」。2022年9月で閉店した(関連記事)。
右手前角は、赤いタキシード(?)とシルクハットで自転車に乗って「月々わずかな費用で自転車をお手元に!」と言う、鼻の大きい男のイラスト看板を角に掲げる、自転車店。いつの間にか、営業はやめてしまったようだ。Googleマップストリートビューによれば、2015年8月時点では営業中らしいが、2017年7月にはやっていない感じ。※近くの別の自転車店の話
以上、右(南)側は、建物はあまり変わっていないが、寂しくなってしまった。
【28日画像追加】現在の交差点南方向。2店とも看板は残っている


そして左(北)側は、外見からがらりと変わってしまっていた。
奥のほう、ピンク色の建物は集合住宅。これは外壁が黒く変わっただけ。

その手前、交差点角。今は高齢者向け住宅やクリニックからなる「三愛会ビル」。2009年10月にオープンしたようだ。
そこの2003年。素っ気ないフェンスで囲まれ、そんなに古くなさそうな民家風の平屋。桜などの木もある。フェンスの感じからすれば、民家ではないだろう。何があったんだっけ?
【30日追記・たぶん判明】所在地は手形住吉町1番9号。それとかすかな記憶で調べると、以前は「秋田中央道路建設事務所」があったことになる。2007年に開通した、地下トンネルを含む秋田中央道路の建設工事を担当していた、秋田県庁の出先機関。工事は2001年から本格化したようなので、撮影時点では、事務所が機能していた可能性が高い。ちなみに、この工事で掘られた千秋公園・大手門の堀に生えていたハスが、バックアップのためここで(水槽か何かの容器で)栽培されていたはず。(以上追記)


2003年の写真では画角から外れてしまっている、左手前角。
現在は、タカヤナギが運営するスーパーマーケット「グランマート手形店」。交差点角は、建物の裏側に当たり、塀が立っている。2003年当時は、開店したかどうかの頃のはず。そして、それ以前は何があったんだっけ?

調べると、グランマート手形店は、2004年7月30日オープン。撮影時は着工前か。
ちなみに、秋田市内のグランマートは、泉店が1997年、短期間で閉店した勝平店(新屋豊町)が2000年5月、外旭川店が2001年に、それぞれ開店しているそうなので、手形店がいちばん新しい。

ではそれ以前。
過去の地形図を見ると、「官公署」の地図記号が付されているようだが、表示位置が微妙でもあり、よく分からない。
過去の航空写真を見ると、今のグランマートの建物の位置に、高さがありそうなビルっぽいものがある。北側の今、駐車場の部分は、低層の大きい建物がありそう。
いろいろ調べたら、ここにあったのは「秋田電気通信部」→「NTT秋田支社」のようだ。
所在地は、グランマートは手形休下町2番1号、秋田電気通信部は2番32号と違うようだが。


電気通信部とか、NTTの支店でなく支社など、その存在からして知らなかった。
電電公社時代は「東北電気通信局」の出先機関のような形で地方電気通信部が置かれていた。各電報電話局を指導管理する機関。
電電公社もお役所だから、今、国の省庁で 運輸局>運輸支局、森林管理局>森林管理署があるようなものなのだろう。

手形休下町には1971年6月28日に新築移転。
1985年の民営化後は、NTT秋田支社となったが、1990年4月で廃止・NTT秋田支店などに機能を移行。その後、いつか分からないが建物がなくなって、グランマートが建ったのだった。

以前触れたように、ここの近所には、1991年まで旧郵政省系の「秋田電波観測所」もあった。


2003年にここを撮影した理由は、信号機。
当時は多かった、横型・電球式の樹脂(ポリカーボネート)製の車両用信号機だが、特徴がある小糸工業(現・コイト電工)製。他社と比べて、点灯するレンズ面の色合いと模様が独特。弘前大学前の信号機(交換済み)は、小さなドットが並ぶレンズ。ここは、
格子が入るレンズ。カメラと光線のため色合いは不正確です

【28日画像追加】
いちばん古いストリートビューの2012年10月時点で、縦型に交換済み。


ひんぱんには通らず、なじみが薄いとはいえ、大きな変化はないと思っていた場所も、20年で、道路の形以外すべてと言っていいほど、変わっていた。
例えば、秋田大学の卒業生が、何十年ぶりにここを訪れたとしたら、懐かしいと感じるだろうか、違う場所になってしまったと感じるだろうか。
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駅弁屋の名残

2023-06-12 23:03:36 | 昔のこと
秋田駅前、買物広場バス停の東側から、中央通りの向かい(南)側を見る。
中通四丁目。末廣ラーメンと工事中のビル
工事中のビルは「アジマックス秋田駅前ビル」。
以前は、笑笑、炭火焼鳥 めでた家、魚民のいずれも秋田西口駅前店が入っていたが、いつの間にか閉店。以前は黒かった外壁が黄色くなったので、改装して違う店になるのだろうか。【2024年8月11日追記・このビルの居酒屋以前は、地元スポーツ用品店の店舗の1つ「スポーツボックス竹半」が入っていたらしい。】

ところで、ここにあった3店はモンテローザ運営。
一方、「アジマックス」とは、秋田周辺で養老乃瀧(だんまや水産)などを運営するフランチャイジー(本社秋田市)。アジマックスとモンテローザの間に、フランチャイズ等の関係はなさそうだけど、ビルの所有者ではあるのだろうか? それとも別のアジマックス?

本題は、アジマックスビルと末廣ラーメンとの間の、狭い道路。
これでも対面通行
中央通りより南側一帯は、地元の個人経営の店を中心とした、ちょっとした飲み屋街。再開発の手は入っておらず、昔は鉄道通勤者・旅行者・国鉄~JR関係者でにぎわったのだろう。
そんなわけで、ほかにも狭い道路が伸びているが、ここはひときわ狭い。すぐ隣にもう少し広い道路もあるので、あえて選んで通る人も車も少ないはず。僕も今回、初めて歩いたかもしれない。そこで発見。
古い街灯
灯具に少々凝ったカバーが付いた、自立式の街路灯。ケーブルはつながっていなそうで、支柱はサビサビで、機能していないだろう。
反対側から。向かいがフォンテAKITA、右奥が秋田駅西口

灯具とは別に、行灯式だろうか、広告看板が付いている。

達筆な「駅弁の東洋軒」。
南向きは文字の褪せが激しい
東洋軒、聞き覚えがある。かつて秋田駅で構内営業(販売)していた駅弁業者。

現在では、秋田駅の駅弁業者は関根屋のみ。※花善の鶏めしは、構内営業ではなく大館駅からの輸送販売。
少し前は、関根屋のほか、伯養軒秋田支店→泉秋軒(2014年倒産)、日本レストランエンタプライズ(NRE、旧・日本食堂。いつの間にか撤退)と3社体制であったのは記憶しているのだが、さらにそれ以前、東洋軒という駅弁業者もあったという。

ニッポン放送NEWS ONLINE 2023年3月3日「昭和のころ「自由席」が生んだ秋田駅の駅弁需要、その理由は?」では、関根屋の社長が、
「東洋軒は弊社より後に駅弁に参入して、90年代まで作られていましたが、廃業に当たっては、弊社で従業員さんを引き受けました。」と言っている。※関根屋は明治35年創業。
ネット上には、東洋軒の駅弁の掛け紙の画像がいくつかアップされている。いずれも幕の内系(国鉄の区分で普通弁当)のようで、容器や材料が特殊な弁当については見当たらない。昭和末=1980年代前後商品の画像が多いが、戦前のものもあった。【10月27日追記・1979年に「とんかつ弁当」というトンカツの玉子とじ(カツ煮)の弁当を買って食べたという思い出を、ネットで見た。また、当時はホームでの立ち売りは関根屋だけで、東洋軒は改札外で購入したとのこと。】

関根屋社長は「秋田新幹線開業時には日本食堂(後のNRE)が入ってきました。」とも発言。
記憶では、1997年の秋田新幹線開業時点では、東洋軒はもうなかったはず。
したがって、関根屋・東洋軒・伯養軒の3社体制が1990年代前半もしくは中頃まで長く続き、1997年に関根屋・伯養軒・NREとなり、2010年代に関根屋だけになったという変遷になろう。

昭和末の東洋軒の掛け紙には、株式会社東洋軒の所在地が「秋田市中通り4丁目13の2」とある(正しくは中通四丁目)。
それはまさに、アジマックス秋田駅前ビルの所在地。
ちなみに、関根屋本社は現在は駅裏・東通一丁目にあるが、以前は「中通四丁目5-19」、ここより西の秋田銀行秋田駅前支店・今はなき金萬ボウルのブロックにあったようだ。創業地は駅前旅館として、駅の真向かいにあったそうなので、何度か移転していることになる。

「二〇世紀ひみつ基地」2011年9月1日「秋田駅前居酒屋激戦区・定点観察」には、アジマックス秋田駅前ビルを指して、「かつての「スポーツボックス竹半」。さらにさかのぼると、戦前からこの近くで営業していた駅弁の「東洋軒」。」とあった。
同じ建物で、東洋軒→竹半→アジマックスと変遷したのか?

広告付き街灯は、東洋軒の本社の脇というか裏に立っていたことになる。
(他の広告主のものも含めて)同じデザインの街灯がほかにもないか、周辺をざっと見渡してみたが、なさそうだった。
広告主(あるいは設置管理者)である東洋軒がなくなった後、その管轄があいまいになって、放置されてしまっているのが実情だろう。なくなった地元企業の名を残す貴重なアイテムではあるが、老朽化で倒壊などしないか心配でもある(Googleマップストリートビューを見る限りでは、2012年以降で大きな変化はなさそう)。

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大橋小橋2001

2023-06-10 23:09:33 | 昔のこと
これまで、2001年まで使われていた先代(=初代)の秋田大橋、秋田大橋の北隣にある(あった?)「秋田小橋」、秋田小橋のたもとにあった自転車屋さんが更地になったことを記事にしてきた。
今回は、それらに関連した、2001(平成13)年12月29日15時過ぎ、右岸・茨島側で撮影した写真を紹介。

2代目秋田大橋は2001年11月22日供用開始。
初代の橋は、通行止めされたもののしばらくそのままにされ、2002年度と2003年度にかけて解体された。
(再掲)現在。東側歩道から南(小橋・大橋)方向
大橋が下流側(西・上の写真右)に架け替えられたため、接続する道路もそれに合わせて右へ付け替えられた。その分、東側歩道の外にスペースが生じた。
2001年。上の写真よりは若干、南(先方)で撮影
今、松が植えられている植樹帯は整備されたばかり。そして、自転車屋さんは営業中。

かつての道路脇ギリギリ、というか道路外に当たる位置には、
「秋田小橋」の看板。端が折れている
幹線道路の大きな橋の手前にはよくあるヤツ。道路管理者管轄の案内標識で、信号機に設置される、いわゆる交差点名と同じ「主要地点」ということになるのか。
現在は大橋にしか設置されていないが、以前は小橋にもあった。
(再掲)2代目「秋田大橋」の標識

初代秋田大橋にも「秋田大橋」。これも道路外側に設置
先日取り上げた、長野市の交差点名と同じような、昔は普通だった手書き文字。


大橋と小橋で筆跡がそっくりなので、同時期かつ同じ人の手によるものだろう。

逆光ですが元道路のど真ん中。現役当時は無理なアングル
通行止めのバリケード際から、ぐっとズームすると↓
トラスの重なりが美しい
っていうか、廃止されて通行止めの橋を、買い物袋を下げて歩いて渡っている父さんが!!

この時点では、単に封鎖されたのみだったので、実質的に危険はない。
それに、この日の新しい橋の歩道は、積もった雪が凍結してツルツルになっており、滑りやすかった。古い橋は、ザクザク状態で歩きやすかったはずで、実態としてはむしろ安全ではあったのだが。
この人は、認知症ぎみで…とか、実は一休さんで…(「端」を渡っているけれど)とかではなく、歩きやすさ(+名残惜しさ)から、意図的にそうしていたのだと思う。ちょっとうらやましくも思えたが、決まりを守らないのはよろしくない。

この翌年度は、北側半分だけ撤去された。南側から渡っていくと、雄物川の真ん中に落下することになるわけだが、そこはさすがに、より厳重にバリケードが置かれていたと記憶する。
もう21年半も前の風景でした。
コメント (4)
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中央交通も復刻塗装

2023-03-12 22:35:58 | 昔のこと
公共交通機関の「復刻塗装(復刻カラー)」。
今は使われなくなった、昔の車体塗装/機体塗装のデザインを、一時的に再び採用すること。何らかの記念の名目で、一部の車両や機体限定で施されることが多い。
飛行機ではANAの「モヒカン塗装」が2009年から5年ほど復刻された程度のようだが、鉄道やバス会社では、ここ20年弱くらいの間に日本各地のあちこちで行われている。
車体に塗装をしなくても、ラッピングフィルム貼付でも対応できるようになったこと(※)や、特に鉄道では、それ目当てのイベントや集客が見こめることなどが原因だと思う。「昭和は良かった」とか「平成が終わった」とか、感傷的・感情的な理由もあるかもしれない。
※以下に紹介するJR東日本の復刻塗装は、ラッピングではなく、ちゃんとした塗装。

秋田周辺で、意識して復刻塗装を見たのは、2001年秋頃から盛岡地区のキハ58・キハ52形気動車で、国鉄時代の塗装(国鉄色)にされたのが最初だった。秋田県内では、花輪線で2008年春まで走っていた。
2003年、大館駅にて。キハ58 1504(のはず)
僕にとって、小さな頃に見て記憶していた塗装。この当時は、ほとんどの車両が、新しいデザインに塗り替え済みであったため、10数年ぶりの“再会“だったはず。
第一印象は、懐かしさとともに、若干の違和感。
色の塗り分けは記憶と違わないのだが、塗られた2色とも、記憶より「濃い」というか「どぎつい」ような、やや「派手」な色合いに感じた。何度か見ているうちに、こんなもんかなとも思うようになって、大きな違和感ではないのだが。
原因は、
・単なる記憶違い。時間の経過で「記憶が」色あせた。
・昔はそれほど丁寧な保守がされておらず、「経年と汚れで」色あせていたが、復刻時は塗りたてなので鮮やかで、しかも日頃の車体清掃も行き届いていたから。
・昔と復刻時では、使われた塗料あるいは塗装技術が違い、色味が異なる。
のどれかではないかと思っている。

1987年に国鉄がJR各社に分割民営化された直後、車両は国鉄時代のものを使い続けなければならなかったが、国鉄のイメージを払拭するために、各地で独自の塗装に塗り替えが行われた。
それから15年経って、今度は国鉄回帰。
この頃は、国鉄車両の廃車が進んでいて、その最後として、かつての姿を再現する意図もあったのだろう。

その後、近年。
国鉄車両はかなり少なくなった。国鉄塗装を復刻するにしても、国鉄塗装をまとったことがない、JR化後の車両で再現しなければならない。
車体形状が違うので、単なる塗り替えでなく、デザインし直す必要がある。中には、ムリがあるように感じるものもあるが、意外に似合ってしっくりするものもある。JR東日本では、キハ110系気動車は真四角なボディ形状が幸いしたのか、どんな塗装でも違和感がないし、E2系新幹線電車の200系塗装もいいと思う。
2023年、常磐線・勝田駅にて。国鉄特急色(485系など)のE653系電車
元「フレッシュひたち」の車両で、2014年までにいったん全車が新潟へ転属して「いなほ」などに使われるようになった。うち1本だけ、2018年に国鉄色に塗り替えられて勝田車両センターへ戻って、臨時列車や団体列車に使われている。
塗装は秋田総合車両センター(旧・土崎工場)で施工したようで、出場直前に目撃したのだが、やはり色が濃く感じた上に、形が違うのだから違和感が少なくなかった。
国鉄形式の特急車両とE653系とでは、前面形状やライト位置が違うから、その影響で側面の赤いヒゲがなんか違う存在になってしまっているのと、客席窓の位置が下にあるのか、窓の大きさのせいか、側面全体のバランスも違う感じ。
だけど、久しぶりに見たら、まあ、これもありかな。若干、色あせたようにも見えてなじんだのかも。

時代劇だって、今の役者が昔の人を演じているわけで、身長とか顔立ちとか、本来なら違和感があるはず。それを知らないだけで。
車両の復刻塗装についても、それと同じなのではないかと思うようになった。寛容な気持ちで、楽しく眺めるべきでしょう。



そして、バスの場合。
弘南バスが1年前(2022年春)から路線バスで実施中。周年記念などバス会社側が行ったのではなく、地元の愛好家たちが発案し、資金を集めて実現したらしい。さらに、2022年秋には2台目も登場したとのことだが、それはどういう経緯で実現したのかは不明。
1年前、(現在はなくなった鉄道の)開業100周年を迎えていた秋田中央交通では、やるつもりがないのねと決めつけていた。

ところが先週。
旧塗装をまとったいすゞエルガミオ(新しく入った中古車)が、同社秋田営業所に置かれているとの目撃情報がネット上に複数。
中央交通も復刻塗装をやるとは!!

中央交通の車体塗装は、細部の違いを含めるといろいろあるが、大きく分けると、現行塗装、先代塗装(1990年~1993年の導入車)、先々代塗装の3つになると思う。
先代塗装は、2016年頃までは秋田市内でもわずかに見られた。濃淡の緑色が使われ、前面(フロントガラス下)のラインも直線でデザインされて現行塗装に近いが、側面に社紋(社章)があった。
先々代塗装は、濃い緑でなく淡い緑色のみが使われ、前面の白いラインが直線でなく )V( で、窓より上がグレー。

今回復刻されたのは先々代の塗装。

弘南バスでは、塗装変更後も、既存の旧塗装車はそのまま使うことが多かった。だから、復刻塗装といっても、せいぜい10数年ぶりのことだった。
一方、中央交通では旧塗装車も塗り替えることが多かった。先々代塗装は遅くとも2000年にはすっかりなくなっていたはずなので、今回は20年以上(30年近く?)ぶりの復活になるかと思う。

会社設立102周年、開業101周年に当たる今、どういう名目でやるのだろうか【13日追記・1943年6月26日に、戦時統合によって「秋田中央交通」が発足していたから、今年は中央交通の名が付いて80周年には当たる。】。出発式とか報道発表はされるのだろうか【末尾の追記参照】。
知らない乗客にしてみれば、「中央交通の塗装が新しくなった!」と誤解されたり、「ヘンな色のバスが来た」と乗り過ごしてしまうかもしれない。中央交通に限らず、復刻塗装を行うほとんどの交通事業者に共通する問題点だけど。

どの営業所で運用されるかは、これはもう秋田営業所(大川反車庫)であってほしい(子会社を含む秋田市外でもいい)。元々の中央交通の車庫なのだから。
秋田市営バスの元利用者としては、臨海営業所には来てほしくないし、以前も述べたように、市営バスの塗装を復刻してそれを「中央交通が運行する」ということもしてほしくない(という複雑な心境)。

ともかく、やはりこの復刻塗装も寛容な気持ちで眺めたい。
現役当時の旧塗装をご存知のかたは、今のうちにそれを思い出し、そうでないかたも「秋田中央交通 旧塗装」で画像検索して見ておいて(先代塗装との違いに注意)、復刻車を実際に見た時の心づもりをしておいてはいかがでしょう。
往時の塗装と比べて、色が濃く、どきつく、派手に見えるかどうか。それに昭和のバスにはなかった車体形状、縦目ライト、大きな窓のエルガミオに、昭和の塗装がどう映えるか。そんな楽しみもできそう。

【追記】コメントいただいた通り、3月15日に「秋田200か1595」が秋田営業所と思しき運用(回送)に入っていたとの目撃情報あり。
その後、さらにもう1台、復刻塗装車がスタンバイしているらしい。

3月26日付秋田魁新報 社会面「ふきのとう」欄で報道された。ICカードAkiCaが26日で1周年を迎えることと、高齢者用ICカードシニアアキカの4月の完全移行に合わせた企画。中央交通の整備工場長が発案し、現行車体に合わせてデザイン。2台目となる1604号車の写真掲載。
夏ごろまでに計5台を導入し、秋田、臨海、五城目各営業所に配備する」とのことで、さらに3台増えることになる。
記事では「1990年ごろまで使用していた車両の塗装を再現したデザインの路線バスを導入した」とある(回りくどい言い回しだけどしょうがない)。弘南バスの復刻塗装の報道と同じく、「1990年ごろまで」というのが「その塗装が施された車両が『導入された』時期」なのか「その塗装が施された車両が『見られた』時期(いつまで走っていたのか)」があいまいになってしまっている。当ブログ本文の通り、1990年頃まで導入した車両に施され、その後、廃車や塗り替えられるまで10年程度は残っていたのが実際。

3月30日に2台目「秋田200か1604」の臨海営業所路線での運用を確認。
実車の写真など続きはこちら
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ひらり 秋田編1

2023-02-23 20:44:46 | 昔のこと
予告した通り、1992年度後半のNHK連続テレビ小説「ひらり」の秋田ロケの回が、再放送(アンコール放送)された。以下、敬称略。
※タイトルであり主人公の名である「ひらり」のアクセントは「ひ↑ら↑り↓」、「タモリ」「かなり」「秋田」と同じ。出演者のセリフ、語り(倍賞千恵子)、副音声解説(関根信昭)とも、それで統一されている。

秋田の場面があるのは、第49回~51回(1992年11月30日~12月2日放送、今回は2023年2月17日、20日放送)。
東京の場面をおりまぜて展開するので、全編秋田ではないし、屋内シーンはスタジオセットでの撮影だと思われるので、実際の30年前の秋田が映ったのは、正味10分にも満たなかった。
また、後述のオープニング映像に入るダイジェストでは、竿燈や寒風山が、52回以降も(たぶん53回まで)映る。
なお、49回の直近に、主人公の姉が秋田市へ行ったことになっているが、会話の中とお土産だけで、直接的なシーンはない。ほかに、ガイドブックを見たり、「竿燈を見てみたい」と期待する会話などが盛りこまれる。帰京後、第52回でも秋田土産が登場し、秋田県産業会館(秋田県産品プラザかな)の紙袋や包装紙が使われている。


「ひらり」は、両国在住で相撲好きの20歳の藪沢(やぶさわ)ひらりが主人公。
力士「寒風山」となった、秋田のいとこ・加賀谷久男が、巡業のついでに帰省。それに合わせて、ひらりも1泊2日で秋田へ出かける、というシチュエーション。

「ひらり」のオープニング曲(主題歌)は、ドリームズ・カム・トゥルー「晴れたらいいね」。
現在の朝ドラは、歌詞付きの主題歌のほうが多いが、当時としてはかなり珍しく、曲自体も、NHKのドラマとしては斬新だったと思われる。テレビ朝日「題名のない音楽会」において、黛敏郎がおもしろ半分に批評していた。

オープニングの映像も、当時の朝ドラとしてはトレンディというかスタイリッシュだったと思う。→オープニングの文字や歌詞などについて
両国周辺の空撮画像に、画面いっぱいでなく右下に、横書き(教科書体なのはふさわしいのかどうか…)でクレジットを表示。その週の作中の場面を、ダイジェスト的に入れこむなど、現在のドラマでもあまりないのでは。
昔も今もそうだが、連続テレビ小説では、毎週月曜日だけオープニングが少し長く、スタッフや協力者もクレジットされる。第49回が月曜。
写研の石井教科書体か?
「協力」として、日本相撲協会とともに「秋田県」「秋田市」。

ほかのドラマなら「○○市のみなさん」がクレジットされることもあるが、今回は、エキストラなど一般人が映りこむ場面はほぼなかったせいか、なし。
ただ、竿燈の演者と、桟敷席の周りの人たちは映る。「秋田市竿燈会」と出しても良さそうだが、「秋田市竿燈まつり実行委員会」であるところの「秋田市」にまとめたのだろう。
現在なら、フィルムコミッションが協力することがあるが、当時はそんなものなし。


49回の11分経過時点で、ひらりが秋田へ。移動手段は往復とも(特に映らないが、会話から)飛行機。
【27日補足・この時点では秋田新幹線は開業前で、盛岡駅での乗り換えが必要だった。航空機の羽田便は、1991年に、それまでの全日空に加え、新たに日本航空が参入して「ダブルトラッキング」態勢となっていた。庶民でも飛行機を使う人は使う時代になっていたはずで、秋田~東京の交通手段は、飛行機がやや優位な頃だったと思う。】
「秋田市」
懐かしい眺め。
秋田駅東口に移転する前(2008年3月まで)、山王一丁目にあった、NHK秋田放送会館(秋田放送局)から、東方向の風景だ。
アンテナタワーに設置されていた、リモコンカメラ(お天気カメラ)からの映像だろう。思ったより(山王大通りと反対の)北寄りに設置されていたようだ。

右手前のレンガ色の建物が8階建ての「三交ビル」。
その右奥の道路が「く」の字になっているところが、山王十字路。そこより奥が、竿燈まつり会場・竿燈大通り。三交ビル左奥の緑が多い所は「山王第二街区公園」の裏側。
奥も含めて、見えている大きな建物は、現在とあまり変化がなさそう。
旧・秋田局の跡には、秋田市役所新庁舎が建った。庁舎は7階建てで天カメより低く、部外者が立ち入れない場所かもしれないけれど、今もほぼ同じ眺めができると思う。


49回の秋田の場面は、寒風山の実家・加賀谷家で展開。
記憶になかったが、実家は、秋田市内にある造り酒屋「千秋(せんしゅう)」という設定だった。

酒屋の前と思われる画では、未舗装で奥で左に曲がる道路、その向こうにケヤキらしき大木が茂っている。少なくとも、秋田市に実在する場所ではないはず。どこかほかの場所だろうか。【↓27日付追記参照】

母親役は奈美悦子、父親役は石田太郎。
奈美さんは、後に本荘の病院で皮膚病を治すことになる。
刑事コロンボの2代目吹き替えでおなじみ石田太郎さんは、「おしん」では酒田の奉公先の主人役も演じていた。ご出身は京都だそうだが、それなりに上手く東北弁を話す、ものの、実際に話されている秋田弁とは微妙に異なり、同じように話す地元の人はいないとも感じた。「方言指導」者はクレジットされていない。

セットであろう座敷のシーンに続き、酒造りの工場(こうば)を見学。

歴史がありそうな、蔵のような建物で、その扉の外にも屋根がある。
横手市増田町(当時は増田町)の「内蔵(うちぐら)」だろうか?
増田には「日の丸醸造株式会社」の内蔵もある。ただ、現在の同社の内蔵とは、梁の配置が違っているから、確証は持てない。

ちなみに、同社では、連続テレビ小説史上、唯一の秋田が(メインの)舞台となった、1981年前期「まんさくの花」のタイトルを借りた酒を製造販売している。
【25日コメントいただき追記】秋田市立新屋図書館に「酒の資料コーナー」があり、ドラマで使われた「千秋」のこもかぶり(化粧樽と表記)が3つ展示されていた。新屋地区に複数あった酒蔵のうち、新屋表町の「7月吉日 黄金井酒造(株)の工場にてロケ」が行われたそうで、出演者の写真も展示されていた。
それでも、店前の道路は、ここではないと思う。
黄金井(こがねい)は、少なくとも2010年時点ですでに、やめてしまっている。建物は現存する。
【27日コメントいただき追記】酒屋前の道路のシーンは、黄金井酒造の敷地内ではないかとのコメントをいただいた。今は隣にアパートが建ち、敷地内はだいぶ荒れてしまっているが、線形や残る建物などは共通するものがあり、背後のケヤキは隣接する天龍寺ということになる。(以上追記)


第50回では、竿燈(かんとう)まつりを見物。
実際の祭り本番の会場内で撮影を行ったことが、当時から報道されていた。
桟敷(さじき)席で竿燈を見物する、ひらり一行たちの表情を織りまぜ、遠景と近景で竿燈の演技が次々に映し出された。セリフ(下記語りは除く)は「すご~い」「頑張れ~」程度。東京の場面をはさんで、30秒間ずつ2回。
竿燈を見る側は「どっこいしょ どっこいしょ」と掛け声をかける(あるいは場内放送する)ことになっているが、本作では聞こえない。たしかに、この当時はそれほどどっこいしょを言っていなかった気がする。

語りでは「竿燈のちょうちんは、豊作に揺れる稲穂を表しています。米どころ 秋田らしい祭りでした。」。
副音声解説では「秋田市内の大通り。提灯の付いた竹竿を額に立て、両手を離し、はっぴ姿の男たちが通りを歩いている。桟敷に座り、まつりを見ているひらりたち。」。→「額」以外にも、てのひらや腰などにも載せるし、演技しながら「歩く」わけではないのだが。

ひらりたちが座った席は、右奥に三井アーバンホテル秋田(1988年オープン、2006年閉店、2010年から福祉施設。この記事など参照)があるので、東寄り(大町西交差点~日本銀行秋田支店付近?)の北側の中央分離帯ということになる。
会場の中では、歩道部の混雑が激しい場所なので、出演者の出入りと、野次馬が殺到する危険を考えると、もっと人が少ないポイントのほうがやりやすそうにも思えるが。ネットなどない当時は、噂にならなかったのか。

アーバンホテルが映ったように、沿道の看板や提灯の企業ロゴはそのまま映されている。今だったら、CGで消せてしまうが、当時はそうもいかない。
会場風景をテンポ良く切り替えていたが、それは躍動感を出すためと、企業ロゴを長く映さないための工夫だったのかも。

提灯やはんてんで確認できた、町内や企業を挙げてみる。※提灯の紋について
保戸野鉄砲町、「TDKテープ」、下肴町、四十間堀町、柳町、下肴町、「積水ハウス」、ニコス?、「秋田県ホンダ」、「JUSCO(新ロゴ)」、「てらまち(寺町四区?)」、「金萬」など。
下肴町は、桟敷の真ん前で、幼児用「幼若」が倒れそうになり、ひらり一行に「頑張れ~」と声をかけられていた。

以前から思っているけれど、竿燈の提灯は手作りで、模様を描くのも手作業のはず。それなのに、企業ロゴが実物に極めて忠実に描かれているのが、すごいというか不思議。平面ならばカラーコピーでもすればいいが、湾曲し、細かく骨も入っている提灯に、どうすれば、あんなにきれいにロゴが入るのだろう…
1992年当時も、ロゴに関しては同じようだった。ただ、「TDKテープ」や「秋田県ホンダ」といった、宣伝文句(提灯1つに1文字ずつ)は、手書きの看板屋さんのような文字だった。今ではそういうのもフォントを使って(ということは下書きはパソコンか)いるので、見られなくなった。

会場の遠景は、東西両側から。
西端・山王十字路側。どこかのビルから撮影か
↑手前左の赤い縦長の看板は、山王十字路上りバス停前の「ホテルアルファイン秋田」。当時開業間もないはず。
中央左上の、緑っぽいネオンサインは「テルモ」の看板(この記事など参照)。後でまた少し。
突き当り、すなわち二丁目橋を渡った先の明るいものは…
アップになるシーンがあった。
あまり記憶にはないが、懐かしい
今は「産業会館跡地」と呼ばれている場所。※この記事など参照。
1960年にできた「秋田県産業会館」が建っており、1989年にできたアトリオンの中に移転(上記、お土産の袋はここ)。その後、建物は1995年10月まで「産業会館別館」として使われ、1996年~1997年に解体されて、現在に至る。
大通り突き当りの立地を活かし、建物の外壁には、秋田テレビによる電光ニュースと、県内酒メーカーの広告が設置されていた。赤いのが電工ニュース? その下に、縦書きで「両関」など酒のブランド名が掲出されているようだ。

東端・二丁目橋側
↑大通り全幅ではなく、右・北側半分を映している。産業会館ではなく、みずほ銀行秋田支店辺りからの撮影か。
画像左端の、ブレていない竿燈が、中央分離帯に固定された「置き竿燈」。提灯には「秋田竿灯まつり」「8月4日~7日」とある。ここで、開催日程と表記について。
開催日程は、(たぶん)1987年以前は8月5日~7日の3日間開催。(たぶん)1988年から、8月4日~7日の4日間に拡大された。2001年からは、8月3日~6日に前倒し。
表記は、以前記事にした通り、少なくとも1957年から「竿灯」が使われており、本来の表記に戻すべく、1993年から「竿燈」となった。※イベントの名称としては「秋田竿燈まつり」。
この年が、最後の「竿灯」だったことになる。

当時から字幕放送(文字放送)が実施されていた。アナログ放送時代は、専用機器がないと見られない、限られた人向け同然だったが、デジタル放送(ネット配信含む)では、ボタン1つで誰でも見られ、何かと便利。
副音声解説は、当時のものをそのまま放送しているが、字幕は違うようだ。
原則としてすべて「竿燈」表記だったので。
「竿燈(かんとう)」。背後はテルモ看板
デジタル化に際して、字幕を全部入れ直したのか、それとも、表記が変わったことを理解し、気を遣ってくれて「灯」を「燈」に修正してくれたのか。

例外で、ひらりが書いた絵はがきを読み上げるシーンだけは「竿灯」であった。なぜなら、
丸文字ってやつ
はがきの文面に「灯」と書いたからなのだろう。なかなか細かい。


この後、一夜明けて、車で、男鹿市の寒風山へ。ふもと(中腹?)のシーンのみ。頂上の回転展望台などなし。
第51回では、加賀谷家へ戻って、あいさつをして秋田を離れるのだが、まだ、秋田市のシーンがある。続く(カテゴリーを変えています)。
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予告・「ひらり」秋田編 放送!

2023-02-11 16:42:27 | 昔のこと
NHKの朝の「連続テレビ小説」、いわゆる「朝ドラ」。
だいぶ前から、BSで過去作品の再放送(アンコール放送)が行われていたが、2018年からは地上波・総合テレビの16時台にも(BSと別作品が)放送されるようになった。
総合テレビでは、1日に2話が続けて放送され、大相撲中継や国会中継で放送がない日もあるため、初回・最終回の時期や週のつながりなどは変則的。見逃し配信サイト「NHKプラス」では、BS分は配信されないが、地上波分は配信されるようだ(もしかしたら作品ごとに対応が違うのかもしれない)。

地上波で2022年12月20日からアンコール放送中なのが、「ひらり」。
1992年度前半【23日訂正】後半放送で、脚本・内館牧子、主演・石田ひかり。

2014年に記事にしたように、内館さんは秋田市土崎出身であり、作中には秋田出身の力士「寒風山」が登場し、秋田市でロケーションも行われた。
秋田がメインの舞台ではないものの、秋田とゆかりが小さくはないドラマだと言える。

それなのに、秋田県民にはあまり知られていない感じ。
2014年の記事でも触れたように、秋田県議会で朝ドラ誘致をしようという話になった時も、過去作の例からひらりはスルーされてしまったらしい。今のアンコール放送でも、放送時間の関係はあるにせよ、盛り上がってはいない。


NHKの放送予定サイト(https://www.nhk.jp/p/ts/6X3V93R3K8/schedule/)によれば、2023年2月13日(月曜日)は、第42回・第43回の放送。
そして、たぶん第49回からの週(第9週・1992年11月30日~12月5日放送)で、秋田ロケが織りまぜられる(全回・全編ではない)。

第50回で竿燈まつり(当時の表記は「竿灯」)、第51回で千秋公園と天徳寺が出てくるようだ。【13日追記】第52回では、もう東京に帰ってしまうようだ。
主人公・ひらりたちが、広小路のお堀沿いを歩くシーンがあったのを記憶している。にぎやかだった30年前の秋田市を垣間見ることができると思う。

現在の予定では、2月17日(金曜日)が50・51回を放送。【15日追記・15日は国会中継により放送休止となったため、50・51回は20日(月曜日)放送に変更。】【18日追記・17日放送の49回の後半から秋田市が舞台となった。49回は、ほとんどがセットもしくは秋田ではない場所での撮影ではないかと思われる。】
その後1週間は、NHKプラスで配信(無料・要登録)される。興味があるかたはどうぞ。→放送内容はこちらにて
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アニソン以外の水木一郎さん

2022-12-19 20:38:38 | 昔のこと
歌手の水木一郎さんが12月6日に亡くなった。
アニメソング界の「帝王」と称される一方で「アニキ(兄貴)」とも呼ばれ、持ち歌は1200曲。
秋田の「超神ネイガー」、弘前の「超城合体タメノブーンV」など、ご当地ヒーロー/キャラクターの歌も歌った。

しかし、水木さんはアニメやキャラクターの歌ばかり歌っていたわけではない。
NHK「おかあさんといっしょ」の、2代目うたのおにいさん(歌のお兄さん)も務めていた(1976年4月~1979年3月。初代・田中星児、3代・たいらいさお 両お兄さんと隔週出演)。
「アニキ」の由来は、これだという。
水木さんの代表作の1つである「マジンガーZ」は1972年だから、アニソン歌手になった後で、歌のお兄さんとなり、その後、アニソンに戻って、さらに精力的に活躍していったことになろう。


各マスコミにおける水木さんの訃報記事では、歌のお兄さんについては触れたところと、触れずにアニソン歌手としてだけ伝えたところに分かれる。
確認できた限りでは、読売新聞やテレビ朝日、秋田魁新報に掲載された共同通信配信の評伝では、簡単に言及があった(アニキの由来うんぬん等はなし)。

「おかあさんといっしょ」の放送局である、NHKでは…
伝えていない。
これには苦言を呈さざるを得ない(実際に呈しました)。
昔のこととはいえ、自局の専属契約だったであろう人。しかも、当時の映像は残っており(多くはないだろうが)、「ぼくは忍者」を歌うシーンは市販DVDにも収録されている。
NHKだからこそ、伝えられる情報と映像なのに。

それに、これを伝えることで、「水木一郎=アニメソング」の印象しか持っていない視聴者に、新たな情報がもたらされる。
おかあさんといっしょは、物心つく前から見られる番組(NHKとしては2~4歳児対象らしいが、その前後でも見る子は多いだろう)なので、「自分の記憶にはないが、生まれて間もない頃、実は水木一郎お兄さんを視聴していたのかも」と、水木さんとの新たな接点に気付かされる視聴者もいるはずである。
「浅い」報道だった。



以下、個人的な思い出。
僕が「水木一郎」の存在を意識したのは、大学生の時だった。小さい頃に見たアニメ番組の偏りのため、それに昔はそれほど「アニソン」や「アニソン歌手」がもてはやされなかったこともあると思う。

それ以前にも知らないだけで、関わりはあった。
まずは、上記、「自分の記憶にはないが、生まれて間もない頃、実は水木一郎お兄さんを視聴していた」世代に当たる。僕にとって、初めてのうたのおにいさんであったはずなのだが、DVDで映像を見ても記憶がよみがえるようなことはなかった。※明確に記憶があるのは、幼稚園入園時の5代目・かしわ哲お兄さんから。


もう1つは、小学校中学年頃に見た、藤子不二雄(※)原作のテレビ朝日のアニメ「プロゴルファー猿」のオープニング曲「夢を勝ちとろう」。歌手は知らないが、かっこいい歌だと思って聞いていた。
※藤子不二雄のコンビ解消以前。1987年頃のコンビ解消後は、藤子不二雄A(正しくは○にA)作品。

「プロゴルファー猿」は、テレ朝では1985年から1988年に、藤子アニメ複数作品がオムニバス形式で放送される30分番組「藤子不二雄ワイド」→「藤子不二雄ワールド」の1つとして放送された。1作品ごとの放送時間が短いため、オープニングのみでエンディング曲はなし。
秋田朝日放送開局前の秋田では、少し遅れて放送されたと思われるが、Wikipediaによれば最初は秋田テレビ、途中から秋田放送がネットしていたとのこと。

1988年には、同じ枠で「新プロゴルファー猿」が10話だけ放送され、別の歌を水木さんが歌ったそうだが、記憶にない。
おそらくこの2曲が、水木さんが歌った唯一というか唯二の藤子アニメソングではないだろうか。【21日訂正】ドラえもんの派生作品「ドラえもんズ」の映画の1つ、1999年「ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?」の主題歌が、水木さんと堀江美都子さんの歌唱だった。ほかにもあるだろうか。


そして大学生の頃。
以前も触れたが、1995年から10年ほど放送された、NHK教育テレビの幼稚園・保育園向け学校放送番組「なんでもQシリーズ」。「むしむしQ」→「あにまるQ」→「むしまるQ」などと変遷(一部並行して放送)。
弘前大学農学部の城田助教授(学部名・職名は当時)が、その構成や監修を担当されており、授業で紹介されたのをきっかけに視聴していた。

CGアニメのキャラクターが、昆虫や動物についてのクイズを出す番組で、合間に歌のコーナーがあった。番組向け書き下ろしの、やはり虫や動物にちなむ歌が、たしか月替りで流れた。
その1つ「アリとアリクイ」が、水木さんと橋本潮さんの(「エスパー魔美」主題歌や「ともだちいっぱい うたってあそぼ」のお姉さん)デュエットであった。
Wikipediaによれば1996年4月~1998年3月の間の「あにまるQ」が初出。

なんでもQの歌は、曲調も内容もコミカルな歌が多い中、「アリとアリクイ」はバラード調の落ち着いた曲であり、歌詞はコミカルでいながら、食物連鎖や食べることの意味について考えさせられる内容であった。放送されなかった後半部では「医食同源」「大権現」が登場する。そして、2人のハーモニーがきれいだった【21日補足・ヒーローものとは違う、優しい歌いかたで、水木さんの違った一面が出ている】。


今まで知らなかったが、水木さんはほかにも、なんでもQの歌を歌っていた。
初期のむしむしQで「フン・フン・フンコロガシ☆」。言われれば、タイトルは聞き覚えがあるが、歌やCGは思い出せない。

そして2000年に、魚のフグとアンディ・フグを掛けた「Fighter the FUGU」を歌ったものの、そのアンディ・フグが急逝してお蔵入り、放送されないまま終わったという。
CDには、みんなのうたで歌った「なんのこれしき ふろしきマン」のカップリング曲として収録。
ちなみに、水木さんがみんなのうたで歌ったのは、この1曲だけ。

そして、おそらくその頃から、「アニソン」という分野が広く知られるようになり(フジテレビ「快進撃TVうたえモン」は1999年)、水木さんの知名度と偉業が高まっていったのだと思う。



最後に、もう1つ、水木さんの思い出。
2000年代後半かと思う。大宮から横浜方面への移動に、湘南新宿ラインのグリーン車を使った。横須賀線直通・逗子行きの電車だった。

電車が渋谷駅に到着した時。昼下がりで乗客が少ないホームのグリーン車乗り場に、存在感を放つ男が立っていた。
それが水木さんであった。
黒い革ジャンみたいなのを着て、電車に視線を向けてカッコよく待っていて(単に空席を探されていただけかも)、テレビで見るのと違わないお姿だった。

グリーン車は2階建て×2両だから、僕が座っていた部屋には来られなかった。
鎌倉にお住まいとのことだから、NHK辺りで仕事を終えて、帰宅するところだったのか。


それと前後する時期、超神ネイガーのイベントで、秋田に来られたことがあって、その時の目撃情報も耳にした。
イベントが終わった頃、秋田駅前のナガハマコーヒーのカフェで、ひと息つかれていたとのこと。やはりテレビで見るのと変わらぬ姿で、オーラを放っていたという。



ところで、水木さんに先立って11月28日には渡辺徹さんも亡くなった。
生前、最後の仕事が、秋田大学医学部のフォーラム(秋田市には来たものの、体調不良で別室からのリモート出席だったようだ)。帰路には米の新品種を使った「サキホコレ弁当」を食べたという。

徹さんといえば、僕は1990年代中頃のテレビ朝日の視聴者投稿番組「邦子と徹のあんたが主役」の司会。
とおるという名の芸能人はほかにもいるけれど、「とおるさん」で通るのは渡辺徹さんだけではないだろうか。

そして、こんな思い出。
小学校中学年頃だったか、秋田県河辺町(当時)の岨谷峡へ行った。紅葉の時期だったはずで、駐車場から川沿いに入っていくところには、何人かがたたずんでいた。
その中に、バイクで1人で訪れた、ジーパンの男がいた。ヘルメットを外して、周りを眺めている。
この人、テレビに出るあの人では?
「あの人」とは渡辺徹さんを指すのだが、当時、お名前を知らなかった。だけど周りの大人は誰ひとり気付かない。芸能人なのに誰も気付かず騒ぎもせず、おかしいなと思った。

思い返せば、岨谷峡なんか(と言っては失礼)に徹さんがわざわざ、バイクで来るとは思えない。時期的には榊原郁恵さんと結婚するかどうかの頃。
徹さんに髪型が似た、小太りのお兄さんだった可能性が、極めて高い。
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火曜日のサザエさん

2022-11-17 19:43:10 | 昔のこと
25年前・1997年11月18日(火曜日)が最終回だったテレビ番組がある。

いわゆる「火曜日のサザエさん」である。
といっても、25年も経てば、忘れた人、そもそも知らない人も多いでしょう。
フジテレビ系列局がない地域で、火曜日に遅れて放送されていたということではなく、フジテレビ系列各局で全国一斉(末期は例外あり)に、火曜日の19時00分から30分間放送されていたもの。日曜18時半のほかに火曜日も、週に2回サザエさんが放送されていた時代があったのだ。
火曜日のサザエさんの実態は、日曜の再放送。直近の日曜ではなく、何年も前に放送された作品。

日曜版そのまんまの単純な再放送ではなく、オープニングとエンディングの歌やアニメーションは独自のものに差し替え、正式には「まんが名作劇場 サザエさん」という番組名であった。新聞のテレビ欄に「再」マークがあったかどうかは忘れたが、ネット上には「あった」との情報も。視聴者の多くには、「サザエさんの再放送」「火曜日のサザエさん」のほうが通りが良かったはず。
※昭和末辺りまで、一般人はアニメーションのことを「アニメ」ではなく、「漫画」と称することが多かった。「まんが日本昔ばなし」というアニメ番組もあった(過去の記事)。

再放送のために専用の歌と映像を作ること、それにゴールデンタイムに再放送のレギュラー番組があるとは、今では信じられない(当時としても珍しい)ことだろう。
なお、火曜版の存在を知らない世代には、その歌は「サザエさんの幻の歌」として都市伝説的に扱われることもあるらしい(歌については後述)。


※以下、Wikipedia「サザエさん(テレビアニメ)」「フジテレビ系列火曜夜7時台枠のアニメ」の項を参考にしています。敬称略。
日曜の本放送は1969年10月開始。ギネス世界記録認定の長寿アニメ番組。
火曜版は1975年4月開始だから、22年半以上続いたわけで、充分長寿番組だ。
火曜版の初期はカルビーなどがスポンサーだった(なんとなく覚えているような…)が、1985年10月から放送局ごとにスポンサーが異なるようになって、ローカルCMが流れた局も。
また、当時は地上波でプロ野球中継を放送するのが当然だったので、オンシーズンは放送されない週も少なくなかった。

どのくらい前の作品が再放送されたかについて、Wikipediaには「本放送で放送された季節に合わせ、5,6年前の再放送となっていた。」とある。一方で、ネット上の他の情報では「7年遅れ」とも。
1985(昭和60)年辺りかと思うが、「今年は昭和5?年、(干支は)?年」と言及する正月の作品(現在はないが、当時のサザエさんでは恒例だったと思う)が再放送されたのを覚えている。
火曜版では、次回予告はなかったので、内容に応じて放送順を組み替えたり、再放送を見合わせたりすることは難しくなかった(フイルムだとそうとは限らない?)かと思う。それなのに、作中の年と干支で、再放送であることが分かってしまう話をそのまま流してしまうのは、それでも構わないという意向だったのか。

1985年頃時点の日曜版では、今と同じく、サザエ(たまに他のキャラクター)が毎話のサブタイトルを読み上げていた。しかし、その頃の火曜版では、読み上げずに文字だけが表示されていた。
その他、マスオ役の声優が交代(1978年。再放送でも記憶にない)しているし、ノリスケ一家が一時名古屋へ転勤したり、お隣一家や三河屋の御用聞きが替わったり(いずれも1985年。本放送で記憶あり。後述)もした。その他、脚本の内容や絵の作風の変化もあったかもしれない。
永年変わらないと思えるサザエさんの世界でも、5年前の再放送となれば、日曜日とは違いもあった。


オープニング(OP)・エンディング(ED)について。
日曜版の「サザエさん」「サザエさん一家」は、前者は長さなど微調整が何度かされたらしいが、曲は一貫して不変。
火曜版は、WikipediaによればOP、EDとも、おそらく同タイミングでの切り替えで、5世代(5曲ずつ)使われている。ただし、初代と5代目は同じ歌なので、曲数としては4曲×2。
Wikipediaに各曲の放送期間は記載されていないが、シングルレコードの発売が、2代目が1977年、3代目が1979年、4代目が1980年。なお、3代目は、原作サイドから「『サザエさん』のイメージに合わない」といったクレームがあって、短期間で終わったらしい。

僕が知っているのは、4代目と5代目=初代の2つだけ。昭和末辺りで替わったような記憶がある(根拠後述)。4代目は5年以上使われたことになり、初期と比べて、変更のサイクルが長くなっていたことになる。
OP・EDとも、4代目は松尾 香、初代=5代目はアニメ主題歌の女王・堀江美都子の歌唱。4曲とも、今でも時々頭に浮かぶ歌だが、雰囲気がどこか似ていて、どれがどの歌かごっちゃになってしまう。
歌い出しは、4代目OP「ハッピーディ・サザエさん」が「スズメのコーラス楽しむように」、ED「ひまわりみたいなサザエさん」が「サザエさん サザエさん みんなが声かける」。5代目OP「サザエさんのうた」が「窓を開けましょう ルルル」、ED「あかるいサザエさん」が「明るい笑いをふりまいて」。
どれも、サザエさんの明るさを讃える内容。「ハッピーディ~」では「サザエさん」の3連呼(日曜EDの「~一家」も同じだけど)、「~のうた」では「わたしもサザエさん あなたもサザエさん」と、サザエさんに洗脳されそう。特に「あなたもサザエさん」で男声コーラスが加わるのが、なんか怖かった。
OPは、「サザエでございまーす」でいきなり始まる日曜版【12月18日補足・シングルバージョンでは前奏あり】に対し、4代目・5代目とも、印象的な前奏(イントロ)が付いていたが、両者を入れ替えても通用しそうで、それがまぎらわしさの一因。特に4代目「ハッピーディ~」が好き。
4代目ED「ひまわり~」の歌詞、「(周りがいつでも)温かい」の部分は「あったったーかい」と歌われる。僕は小さい頃、そこを「わっぱっぱーがい」と聞いてしまって、理解できなかった【18日補足・“わっぱっぱ貝”ってのがあるかと想像したり】。

OP・EDのアニメ映像。
日曜版は、OPは全国巡礼、EDは原作4コマ漫画で、3か月周期で替わる。
火曜版では、少なくとも歌が4代目から5代目に変わるタイミングで、アニメーションも変更された。それ以外のタイミングでも、(曲はそのままでアニメだけ)何度か変更されているようだが、日曜版ほど頻繁ではないかと思われる。
5代目OPの冒頭では、屋根がない状態の磯野家を真上から見下ろすシーンがあって、間取りが見て取れた。また、フジテレビは目玉マークのロゴで表示され、EDでは、山手線205系電車っぽいステンレスボディの電車が描かれているため、5代目への切り替えは1986年以降になるし、映像は初代の使い回しではないことになる。


それらに合わせて表示される、キャスト・スタッフの表示。コンピューター作成の現在は、デジタルフォントを使って、レギュラーでない役と声優名は、毎回それに応じて変わっている(日曜版について)。
昔は技術的にそんな細かいことはできなかったはずで、毎回固定だったと思う。日曜版では、原作者名や姉妹社の名は手書きのゴシック体、それ以外は活字のゴシック体(写研の石井太ゴシック?)だった。
火曜版4・5代目では、すべて、道路標識でおなじみ、写研の丸ゴシック体「ナール」だった。日曜同様、歌詞は出ない。
なお、それ以前は、手書きや活字の角ゴシック体だったり、3代目当時は、歌詞が石井(細?)丸ゴシックで表示されたりしていたようだ。※ナールは1972年リリースなので、再放送開始時点で使用できたはず。
また、声の出演で、日曜版では出ない「タマ」役が、「……?」や「?」としてクレジットされるのも特徴的だった。実際には、効果音扱い(サウンドトラックCDにも収録)なのだが。



僕は火曜日のサザエさんが好きだった。中身は日曜日と同じはずなのに。
まず、小学生にとって5年以上前の再放送となれば、それは初見と同じこと。
1985年からしばらくは、お隣が、日曜日は伊佐坂先生、火曜日は浜画伯といった違いもあり、パラレルワールドを行き来するような楽しみもあった。

そして、内容とは関係ないが「火曜日の夜」という放送枠。
サザエさんに続いて、19時30分から21時前までは「火曜ワイドスペシャル」。週替りのバラエティー番組で、中でも月に1度は、ザ・ドリフターズによるコント「ドリフ大爆笑」があり、それが楽しみだった。サザエさんが“ドリフの前座”的存在だった。
その後、21時からのクイズ番組「なるほど! ザ・ワールド」もちょっと楽しみだった。なるほど~は1981年から1996年まで14年半の放送だから、サザエさん火曜版より短い放送期間なのか。

さらに、僕だけかもしれないが、翌日が水曜日なのも楽しみだった。
時代や地域によって差があるようだが、平日5日の中で、水曜日は学業や業務が“軽い”ことがある。職場ならノー残業デーとか。
僕が通った幼稚園では、水曜日も半ドン。小学校から高校でも、午後の授業がなかったり(給食後すぐ下校)、短かったりした。ここでは関係ないが、大学も水曜午後には授業がほとんど設定されていなかった。週の半ばでひと息という意味のほか、職員会議・教授会などの時間を確保する意図だと思う。
学校が嫌いではないが、大好きでもなかった僕にとって、そんな水曜日はうれしかった。
火曜日のサザエさんを見て、「明日は早く帰れる」、それに「明日が終われば、今週が半分終わる」と思ったものだった。

最近あまり言われない気がするが、いわゆる「サザエさん症候群」。
日曜日の夜にサザエさんを見ると、明日・月曜日から学校や仕事が始まることを意識させられ、憂鬱な気持ちになるというもの。
僕にとっては、火曜日のサザエさんで“逆サザエさん症候群”になっていた。

Wikipediaのパロディーサイト「アンサイクロペディア」など、ネット上にも、「日曜と火曜はパラレルワールドである」とか「憂鬱を引き起こす日曜版とのバランスを取るために、火曜日のサザエさんを復活させるべきだ」とする、冗談めかした記述が見られる。
「火曜日のサザエさんのほうがおもしろかった」という声もあるが、上記のような心理的要因かもしれない。


「まんが名作劇場 サザエさん」の最終回は、告知もなしに、ひっそりと幕を下ろしたようだ。
僕自身は、フジ系がなく火曜版がネットされていない青森県にいたので、見ようにも見られなかった。
※当時も今も、TBS系青森テレビで、日曜版を土曜日夕方に放送している。それ以前、1980年代には、火曜版もネットしていて、日曜の夕方や朝に放送していたらしい。
【2024年9月28日追記・というわけで、日曜にサザエさんが放送されない青森県津軽地方の大部分では、サザエさん症候群は起こり得ないことになる。なお、津軽の一部や、津軽以外の青森県内では、隣接エリアのフジ系が越境受信できる。】

翌週・1997年11月25日からは、ほかのアニメ番組の再放送枠となった。「ドラゴンボール」と「ゲゲゲの鬼太郎(1985年の戸田恵子版)」が再放送されるが、それも1998年6月で終了。
その後は、怪奇ドラマ「怪奇倶楽部」の再放送を経て、バラエティー番組の枠になった。
なお、さかのぼれば、サザエさん以前は新作アニメ枠で、あの「昆虫物語 みなしごハッチ」などが放送されていた。

裏番組では、テレビ朝日系が1995年10月に「ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー これができたら100万円!!」を開始。視聴率を奪われたのが、サザエさんの終了とアニメ再放送枠の終了の原因だったようだ。
【17日追記・2000年前後に「裏ワザ」紹介で人気番組となる、日本テレビ系「伊東家の食卓」もこの枠で、1997年10月28日開始。しかし、裏ワザが本格的に紹介されるのは1998年春から。伊東家による磯野家への影響はなかったと言える。】
まったくの憶測だが、サザエさん原作者の長谷川町子が1992年に亡くなり、翌年には著作権を持っていた姉妹社が解散したことも、ひょっとしたら再放送終了の理由につながるかもしれない。

そもそも、サザエさんは、映像ソフト化や再放送はしないのが大原則のイメージがある。火曜日のサザエさんは例外中の例外。ほかには、放送50周年記念として2018年末から、過去の一部放送回が、有料配信されている。
一方で、アニメ制作会社「エイケン」でチーフアニメーター、プロデューサー、社長を務めた毛内節夫は、2010年、東奥日報のインタビューに「数年後に再放送した時にも違和感ないように、なるべく流行の物を入れないようにしている。」と話している(関連記事)。ということは、アニメを作る側は、再放送も構わないというスタンスのようだ。

1996年3月6日放送のドラマ「古畑任三郎(第2シリーズ)」の「間違えられた男(風間杜夫が犯人役)」では、古畑が「これだけは見たい」などと言ってテレビを点けて火曜日のサザエさんのオープニングを見て、その場の時計がずれていることを確認する場面がある。
古畑は青森でも放送されたが、視聴者の多くは意味が分からなかったかもしれない。
後年、この場面が権利上の制約となって、この回がCSでの放送やネット配信ができない(過去の記事)。フジテレビでの再放送や、映像ソフト化は可能なようで、複雑。
サザエさん再放送のシーンがあるばっかりに、その古畑が再放送(配信)できないとは皮肉なものだが、初回放送時はよくぞ問題なく放送できたのだと、ある意味感心する。

「サザエさん」の再放送について、それぞれの立場で、さまざまな思惑があったのだろうが、視聴者のことを考えて、もう少し歩みほってほしかったように思える。今からでも、火曜日のサザエさん復活があってもいいのではないでしょうか。



ちなみに、僕が弘前にいた4年の間で、終わってしまったフジテレビの番組がほかにもあった。
上記「なるほど! ザ・ワールド」、「FNNスーパータイム(1997年3月)」、「キテレツ大百科(1996年6月)」など。
なるほど~の実質後継番組(水曜に移ったが、旭化成単独提供)である「メトロポリタンジャーニー」というのを、帰省していた時に数回見て、おもしろいと思ったが、1年で終わってしまった。
唯一、キテレツは青森でも見られた。青森テレビで土曜早朝に、だいぶ遅れて放送されていた。その後、アニマックスで見た回もあるが、最終回は見ていない。というか、見たくない。



最後に、アニメ再放送終了25周年よりも、大切かもしれない記念日もまもなく来る。2022年11月22日。
原作の設定において、サザエさんは1922(大正11)年11月22日だそうなので、生誕100年。100歳の誕生日!(原作内では永遠の23歳)
アニメ版では、永遠の24歳であり、未年生まれなので、一致していない(1922年は戌年)。
同い年なのはJR左沢線と水木しげる、三浦綾子、瀬戸内寂聴、丹波哲郎など。長谷川町子は1920年生まれ。
【23日追記】100歳の誕生日である2022年11月22日。ツイッターでは、そのことに触れた人が多少いたものの、トレンドワードになるようなことも、報道されることもなく、静かな誕生日だった。


【2024年11月26日追記】2024年11月26日(火曜日)の19時から2時間、フジテレビ系で「国民的アニメの祭典サザエさん55周年SP◆全放送回から厳選!意外な真実41連発」が放送。
その冒頭30分は、「27年ぶりに復活!火曜の『サザエさん』」として、1985年11月26日に放送された(再放送された)番組を、ほぼそのまま放送。浜さん一家(ミツコさんは出なかった)や三河屋の三平さんが登場。本放送(初回放送)がいつだったかは、明らかにされなかった。
オープニング・エンディングは、堀江さん歌唱の曲(3・5代目)と映像だった。記憶では、1985年は4代目だったような気がするのだが… なお、エンディングの映像は、季節に応じた内容になっていたのを思い出した(日曜日のように毎年作り変えるのではなく、毎年使いまわしていたのかも)。
火曜日に見るサザエさんは、やっぱり格別だった。
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菊谷小路2004

2022-09-18 18:04:24 | 昔のこと
秋田市保戸野(ほどの)の県道233号の一部、通称「菊谷小路(きくやこうじ)」中ほどから、北方向を見た風景。
2022年9月撮影
背後すぐを左に入ると諏訪愛宕神社、通りのずっと後方が通町方向。先の押しボタン式信号を左折すると保戸野小学校正門。
見づらいがもう1つ先の信号機の左右が、千秋トンネル通り。突き当りには、太平山の山並みが見える。※突き当り付近の過去の記事。千秋トンネル通りとの交差点から先は市道になり、そこまでは菊谷小路とは呼ばないのが一般的だと思う。
地名は、通りの左側が保戸野すわ町、右側が保戸野中町。
「小路」の名の通り、もともとはもっと狭い道だったのが、戦時中の建物疎開で保戸野中町側に拡張されたとのこと。

この辺りは、住宅と商店が混在する。ここ十数年ほどで、やめたお店や、建て替わった家、新たな家も少なくないのは知っていたが、全体の雰囲気としては、数十年変わっていないと思っていた。
今回、ここを撮影したのは、18年前=2004年3月に撮影した写真を見つけたから。
2004年3月撮影
改めて見ると、いろいろと違っている。
全体の印象としては、18年前のほうが「にぎやか」な雰囲気。

2004年と2022年の細かな違いを、左手前→奥→右手前と見てみる。
・左手前にあった居酒屋は、建物ごとなくなった。
・左側の電柱広告は、この裏通りの整形外科医院。2010年代後半に閉院して、今は広告なし。
・押ボタンとその先の信号機が、電球式横型から、LED式縦型に更新(2010年以降数年かけて)。
・突き当りの駐車場だった所に、保育園ができた。2022年の写真では、その赤茶色の屋根が見える。

上の写真右奥を拡大
・右奥に「緊急出動」の表示。秋田市消防本部 秋田消防署保戸野出張所。
2003年12月に廃止(本署に編入)。跡地に2005年8月に秋田市保戸野地区コミュニティセンターが開館。
※保戸野小学校敷地内に今もあるのは、非常勤の組織である、秋田市消防団保戸野分団の車庫。保戸野出張所は、常時消防隊員が詰めている消防署の小規模なもの。末期はポンプ車1台のみで、救急車等の配置はなかった。

・歯科医院前には、白と緑の市営バス「すわ町(神田線・添川線上り側)」バス停。2005年3月に秋田中央交通へ移管され、バス停ポールも更新
2004年5月撮影。向かいの下り側。市営バスが「二面体」として1986年度に設置した(参考記事)バス停ポールは、風を受けて倒れやすく、しかもプラスチック製で壊れやすかった。これもフレームの上辺がなくなっている。中央交通の名前も書いてるのは、楢山大回り線だけ先に移管していたため。

・「ハイタク興業(株)」は、秋田市内全タクシー共通のタクシーチケットを扱う企業。2000年代に寺内蛭根へ移転。建物解体。

右手前を拡大
・「秋田魁新報」は魁の販売店。2017~2019年頃に、この先の「原の町通り」沿いに移転し、経営者が替わった(その旨のあいさつ状が購読者へ届いた)。

・「With」、見づらいが黄色い「小学館の学習雑誌」は、「エス書店」。大人向け商品が充実していたと評判。
写真を拡大すると、この時点では営業していないように見えるが、建物と看板はまだ残っていたのか。

・右いちばん手前は、医療用機器を扱う企業。現在も変わらないものの、「フジカラー」の看板はなくなっている。写真店などでも見なくなったから、フジフイルム側の都合か?

・歩道部分が真新しい舗装。
2002年9月時点では、保戸野すわ町側だけきれいで、保戸野中町側はボロっちくて縁石がないようなあるようなあいまいなもので、視線誘導標(デリネーター、デリニエーター)がなかった。


また、奥まっているなどで写真では見えないものとして。
・魁の向かい、押しボタン式信号前には、文具店「のてや」があった。2019年閉店

・消防署向かい辺りには、1990年代頃まで「小僧寿し」があった。

・魁販売店とエス書店の間には、平成初期頃まで、スーパーマーケット「マルナカ」があった。寺内や勝平にあったのと同じチェーン。「マルダイ」や県外にあるマルナカとは無関係。
その跡と思われる場所には、1990年代半ばの通町の再開発事業の際、通町から豆腐店が移ってきたが、2010年頃の時点でやめている。


Googleストリートビューがまだない頃だけに、手前味噌ながら貴重な写真。残雪の山並みがきれいで撮影したはずだが、思いがけず、街の変化を伝えてくれた。
それにしても、21世紀、たった18年前の風景なのに、思っていた以上にずいぶんと変化してしまっていた。
【18日追記】店が少なくなったものの、その跡が民家になった場所もある。空き家は多少ありそうだが、空き地はほぼない。人の暮らしは継続している地域と言える。「店舗の割合が減って、住宅地に特化しつつある」という変化なわけだが、それをもって「寂れた」と言っていいのかどうか。

※新旧比較シリーズとして2003年と2023年の手形の風景
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ピッツァ&ピッツァ終了

2022-08-26 19:16:52 | 昔のこと
高度経済成長期以降、技術革新や生活の変化に合わせて、数多くの新しい食品が現れた。しかし、平成末期~令和まで数十年生き残った商品であっても、ここ数年で製造終了や販売地域縮小されるものがちらほらある。1968年発売の明治のスナック菓子「カール」は、2017年からは西日本限定発売になり、1921年から90年以上売られた明治のタブレット錠菓「カルミン」は2015年で製造終了など。
これもまた、時代の変化。

今回は、明治の冷凍ピザが生産・販売終了になるという。上記例示も含めて、全部明治だな…
6月23日配信の「食品産業新聞社ニュースWEB」より。
「明治は2022年度いっぱいで冷凍ピザの生産を終了する。」
「現行の生産ラインは操業から30年以上が経過し老朽化が進む一方で、同社冷凍ピザの売上は減少傾向が長年続くため、設備の更新を断念した。」

「「明治レンジピッツァ&ピッツァ2枚入」は冷凍ピザ市場でシェアトップの商品であるため、市場への影響に配慮して段階的に販売を終了する。2022年9月から販売地域を東名阪エリアに縮小し、2023年2月末に全国での販売を終了する。」

「茨城工場を立ち上げた1976年当初から「ピッツァ&ピッツァ」(当時はオーブントースター調理)の製造を開始した。」
「「明治レンジピッツァ&ピッツァ2枚入」は2001年発売。発熱シートを付けて、レンジでも香ばしく仕上がるようにしたのも明治が初。」
「同社の冷凍ピザ事業は46年で、その歴史に幕を下ろすことになる。」
かつては、3枚入りなど他のピザもあったようだ。
製造設備更新を見送ったのは、チルド(冷蔵)やスーパーのデリカ(惣菜やベーカリー)のピザの普及も理由とのこと。


というわけで、多くの地域でまもなく購入できなくなる。
「明治の冷凍ピザ」と言われてもピンとこなかったが、「昭和からある家庭用冷凍ピザ」となれば、思い出がよみがえる。ネット上でも同様の声があるが、「生まれて初めて食べたピザが、冷凍ピザだった」というもの。宅配ピザもスーパーの惣菜のピザもなく、イタリア料理といえばスパゲティーだった頃の話。我が家では、日曜の朝によく食べていた。

普段買ってないのになくなるという理由で買うのは、商品やその常連客に対して失礼(鉄道の“葬式鉄”と同じこと)ではあるが、8月中旬に、ハッピー・ドラッグ(ウエルシアグループ)で300円強で買ってきた。その時点では在庫は通常。
2枚が上下に重なっているので分厚い袋
冷凍ピザはほぼ買わないから、5年以上ぶり(もっと今風の別商品)か。その時、オーブントースターでなく、電子レンジ加熱に代わっていたことが衝撃だった。
一般に、オーブントースターより電子レンジのほうが庫内が広いから、電子レンジ用ピザのほうがサイズは大きくできるだろう。
おいしさのヒミツ
↑上面をオーブンで焼いているとのことだが、下側は焼かずに冷凍してあるってこと?
1枚ずつトレイに入って個包装
1枚125g、345kcal。
加熱前
袋から出して、紙トレイごと500W3分、600W2分20秒。
加熱後(加熱前の写真と180度反対側)
所定時間レンジ加熱しても、チーズがあまり溶けない。それでも充分熱くなっているので、こんなもんなのでしょう。
サラミがほとんど隠れるほど、トマトソースがかかっているのが特徴的。【27日訂正】特徴的なのは、サラミがチーズよりも下にあって、多くが隠れていること。そしてトマトソースの量が多め。

ピザ生地は、6等分できるように切れ目が入っていて、容易に分割できる。厚めでしっかりしているが、中は比較的ふっくら。
トマトソースの味の主張が強く、ピリッとややスパイシーな感じも。4種のチーズ使用を売りにするわりには、相対的にチーズが控えめ。サラミやピーマン、コーンも存在感が薄い。分割した時、チーズがびろーんと伸びるよりも、ソースが垂れるほうに注意しないといけない。

昔食べた思い出のピザとは、だいぶ違う。
生地は薄く、そもそも四角かった気がする(オーブントースターの狭い庫内を有効活用できる)し、サラミやピーマンの存在感が強く(ただしサラミは少なめ)、トマトソースは控えめだったはず。
明治でリニューアルされた可能性もあるが、かなり違うので、他社製品だったのかな。
でも、今主流のピザと比べれば、マイルドというか日本的で昭和的というか、ピザを知らない日本人向けの「入門用ピザ」みたいなところは共通するかも。

定義は知らないが、こういうのを「ミックスピザ」と呼ぶのでしょう。なお、マルハニチロの冷凍ミックスピザでは、チーズの上にサラミが載っている。そのほうが主流では。

意外だったのが商品名。「ピザ」でなく「ピッツァ」である。1976年の発売開始時からそうだったのだろう。
名称欄も「ピッツァ」
21世紀に入ってからなら、「ピッツァ」表記も浸透しているが、それでも日本人で「ピッツァ」と発音する人はあまりいないだろう。サンドウィッチマンの宅配ピザのコントで「ピザじゃなくてピッツァです」とこだわる配達人がいて、それで笑いが取れるのだから。

まして45年前。そもそも「ピザ」さえ知らない人が多かったはず。
昭和末の時点では、「ピザパイ」と呼ぶことも多かった。
それは、「ピザ」だけだとナニモノか(食べ物かどうかさえ)理解できず話が通じないため、ある程度絞りこめる「パイ」を付けたのだと思う。「コリー犬」「ビーグル犬」「ふじりんご」「清見オレンジ(厳密には清見タンゴールなのだが)」「セリオンタワー」などのように。
そんな頃、「ピッツァ」なんて発音できない人もいたかもしれない。一方で、“舶来物”らしいオシャレな名前ととらえられたかもしれない。

※コメディアン・古川ロッパ(古川緑波)はグルメでもあり、1955年の「ロッパ食談」で「僕は然し、イタリー料理なら、ピザ・パイで、キャンティーってとこ」と記している。ごく一部の食通限定だろうが、日本にも古くからピザがあり、ピザパイも古い言葉ではあるようだ。


ピッツァ&ピッツァと同じ1976年に製造や制作が始まり、今も定着しているものをWikipediaから拾ってみた。順不同。
ヤマザキナビスコ(現・ヤマザキビスケット)「チップスター」、ヤマト運輸「宅急便」、日清「日清焼そばU.F.O.」と「どん兵衛きつねうどん」、石屋製菓「白い恋人」、テレビ朝日「徹子の部屋」等々。
連載終了している秋本治「こちら葛飾区亀有公園前派出所」連載開始、役目を終えた日本ビクター(現・JVCケンウッド)の家庭用VHSビデオデッキ発売も、この年。僕もほぼ同い年。短いような長いような45年という時に、なんとも言えない感慨を持たずにいられない。
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プリンスホテルの白テレビ

2022-07-22 22:53:21 | 昔のこと
平成初め頃製造のテレビ、「番組」ではなく「家電製品」=テレビ受像機について。

2008年、岩手県の雫石プリンスホテルに宿泊した。JR東日本の懸賞が当たって。
リゾート地だけに、ちょっとゆとりのある部屋に置かれていたテレビが、目新しくもあり懐かしくもあった。

テレビ本体の下に、VHSビデオデッキと有料放送チューナーが一体化した装置(メーカー不明)があり、両者の色合いが同じでテレビと一体化して見える。
部屋に置かれていたリモコンは、テレビ付属品ではなく、ビデオ・有料チューナーも操作できる非純正品だった(今でもこのタイプのリモコンを置くホテルが多いが、無料放送を見るは使いにくいし、電子番組表など機能が制限される場合もあって嫌い)。

本題のテレビ本体は、白いボディーの画面アスペクト比4対3・21インチブラウン管式、ステレオ・音声多重対応。※画面の縦の長さを基準にすると、16対9の横長画面では32インチと同じ程度。また、昔は音声多重非対応のモノラルテレビも存在した。
テレビのボディーカラーは、1980年代前半辺りまでは、プリント合板の木目(家具調テレビ=サザエさん家のテレビ)とかプラスチッキーな赤とかのもあったが、以降は黒~濃いグレーがほとんど。カタログを見ると、一部メーカーや機種で赤とか青もラインナップされていたが、買うのはもの好きな人くらいだったと思われ、実物を見た記憶はなかった。
こんな白いテレビなど初めて見たので、目新しかった。

ブラウン管下中央には「Panasonic」ロゴ。※当時はPanasonicはブランド名。メーカー名は松下電器産業。
両脇にはスピーカーが少々幅を取り、それが側面にも少し回りこんで、金網(パンチングメタル)のカバーが付いている。その網も白い。
ブラウン管は、四隅のアールがなくて角があるが、湾曲はわりとある。
これと同系統の形の黒いボディーのテレビは、見覚えがあり、懐かしかった。ほぼ同タイプの25インチが中学校にあった(型式等は後述)。

1990年7-12月期製造。
雫石プリンスホテルは1990年12月31日開業なので、その時から置かれていたようだ。

Panasonicロゴの下には、当時のブラウン管テレビでは普通だった、操作ボタンを隠すフタがある。その右側には、
「PRINCE HOTELS」
ホテルのロゴ入りテレビとは初めて遭遇。
市販品のテレビにロゴだけ入れたのではなく、本体のボディーカラーを白くするところから特注した、プリンスホテル専用テレビのようだ。
情報は少ないが、ネット上には「かつてのプリンスホテルといえば白いテレビ」みたいな投稿があった。地デジ・薄型対応で、現在は雫石を含めて、普通の黒い液晶テレビに替わっているようだけど。

1993年開業の釧路プリンスホテルは、2010年時点で白いテレビ。Panasonic製で形も雫石のに似ているが、ボタンの配置が違うので別機種のようだ。ビデオはなし。
苗場プリンスホテルは2010年か2011年に、白から薄型へ交換されたとのこと。


雫石のテレビには、型番が表示してあった。
「TH-21XV1HE」
ナショナル~パナソニックのテレビの伝統である「TH-インチ数」の型番だけど、お尻が妙に長い。
他のメーカーでもそうかもしれないが、パナソニックでは、基本モデルと微妙に違う機能などを付けたモデルに、枝番のような型番を付けるようだ。例えば、街のでんきやさん・パナソニックの店での販売限定で、簡単リモコンも付いているテレビとか、大手家電量販店での販売限定のシェーバーとか。

調べると「TH-21XV1」という、いかにも標準的な型番のテレビが、1990年に発売されていた。
そのプリンスホテル向けカスタマイズ版が、TH-21XV1HEなのではないだろうか。

さらに、パナソニック コネクト株式会社「パナソニック業務用映像機器 サポート情報サーチ」というホームページを見つけた。業務用=一般向け販売されないナショナル/パナソニックの製品のサポート情報が調べられるようだ。
TH-21XV1HEが掲載されており、1990年12月販売開始、1991年5月生産終了。

そのサイトで「TH-21XV1」で検索(前方一致)すると、BとかCとか、HEを含めて、実に11機種が1990年9月から1992年6月にかけて製造されていた。わずか1か月しか製造されなかったモデルも。
モノラル専用とかテレビデオことビデオ一体型の場合は、XV1部分が別になるはずなので、11機種はどれも21インチステレオテレビという点では共通のはず。どこがどう違ったのだろう。プリンスホテル以外にも、独自仕様を発注した企業があったのだろうか。


以下、ベース機種であろう、TH-21XV1について。
平成初期のパナソニックのテレビといえば「画王(がおう)」である。津川雅彦が王様の格好でCMに出演していた。
今にすれば、バブリーな時代の象徴にも思えるが、衛星放送の本放送開始に合わせたBSチューナーや重低音に強い「ドームスピーカー」搭載、すっきりしたデザインなど、時代の最先端でもあったと思う。【24日補足・当時の他メーカーのテレビは、スピーカーが耳のように本体から飛び出て、ボディは角張ったものが主流だったと思う。パナソニックはいち早く、スピーカーを内蔵させ、やや丸みのあるボディにしていたはず。】

北斗の拳「ラオウ」を意識した命名だったのかは知らないが、ラ王(1992年、スパ王も)、モナ王(1995年)、小説ながら陸王、サキホコレの最終候補の1つだった稲王などは、画王のヒットにあやかった命名だと思っている。


画王は1990年10月発売開始とのこと。【23日補足・松下電器のカラーテレビ30周年の節目でもあったそうだ。】
しかし、TH-21XV1は画王ではない。画王は、上位機種(おそらく25インチ以上とか)限定のシリーズ名だから。
TH-21XV1は、画王以前のシリーズ名を引き継いだ「PANACOLOR X(パナカラー イクス)」シリーズ。ただ、“画王と同期(同世代)”らしく、ドームスピーカーは搭載し(後述)、デザインにも共通性がある。
Wikipediaの「パナソニックのテレビブランドの変遷」という項目には「1990年発売の「TH-21XV1」はAV入力に「ブリッジ接続」を採用。」とある。前面の外部入力端子と、背面のビデオ1端子がつながっていて、片方に入力された信号を、そのままもう片方から出力できるというものらしい。

オークションサイトや中古品やり取りサイトには、TH-21XV1がジャンク品として出品されていた。
1991年下期製造で、黒いボディ。写真を見る限りでは、白とボディの輪郭は同じ。
相違点もあり、白では、画面下のフタの右側に穴が開いていて、フタを開けずに前面ビデオ入力端子が使えるようになっているのに対し、黒ではフタの穴がない(端子は同じ場所にあり、フタを開いて使わないといけない)。宿泊客が持ちこんだホームビデオなどを、分かりやすくつなげるようにという配慮かも。
白では左側のリモコン受光部に記された型名は、黒ではその右側にあり、ほかに「DOME speaker system」「PANACOLOR X」のロゴ。
フタ内は、ビデオ(入力切替)、チャンネル、音量は押しボタン。ほかに、5個以上の回転する小さなツマミ(おそらく画質や音質の調整)、ほかにも押せそうなボタン(おそらくチャンネル設定)もある。そういう設定はまだリモコンではできなかったようで、付属リモコンはシンプルなもの。
上の写真のように、白では「主電源(赤) RED STANDBY」などと英語が併記されているが、黒は日本語のみ。ホテル向けならでは。

背面は、電子銃部分が飛び出ておらず、平ら。今の薄型テレビと比べればとても分厚い【24日補足・約40センチとのこと】が、昭和時代のテレビと比べると、いくらか薄いはず。
天面には通気孔が細かく開けられている。この後、1990年代中頃には、天面に通気孔がないテレビもあった。ゴミが落ちて中に入るのを防ぐためと思われる。
持ち手は、側面ではなく、裏面の上部。21インチ程度だと1人で持ち運べる(※)ので、側面よりも裏に手を入れるほうが持ち上げやすく、1990年代後半頃は三菱電機でも同じ作りになっていた。
※7月20日放送の「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」で、1999年生まれのジャニーズタレントが、民家の片付けを手伝っていた。その中で、ブラウン管テレビ(21インチくらいで側面に持ち手)を2階から下ろそうとしたのだが、持ち手に気付かなかったり、後ろや横から抱えようとしたり、危なっかしかった。年代的に知らなくて当然だが、ブラウン管テレビは前側が重いので、前から持つのが鉄則。階段は特に慎重に。

これより後では、裏面に大きな「Panasonic」ロゴが浮き彫りされていたものもあったが、ない。定格消費電力120W。


これより後のパナソニックのテレビでは、スピーカーが金網でなく布状のもので覆われたり、VHSビデオデッキを内蔵した「テレビデオ」こと「2-SHOT」がヒットしたりした。
ビデオデッキ「録画王」や横長画面の「ワイド画王」も出たが、1994年には後継の「ヨコヅナ」が登場、以降「美来(みらい)」「T(タウ)」を経て、今の「VIERA(2003年)」。

なお、バブル期のパナソニックの家電製品としてもう1つ象徴的なのが「コブラトップ」。仰々しくフタが開閉するCDラジカセで、これも1990年発売開始(最終機種は1999年)。
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