1983(昭和58)年5月26日の昼、秋田県沖を震源とするマグニチュード7.7の日本海中部地震が発生した。秋田県ではこの日を「県民防災の日」として、今も訓練や犠牲者の追悼が行われている。
しかし、35年も経って全国的には知らない/忘れた人も多いだろうし、26日の秋田魁新報によれば、(高齢化が著しい中でさえ)秋田県民も4人に1人が地震を経験していない世代になったそうだ。
この地震で秋田県、青森県、北海道で104人が亡くなっていて、うち100人が津波によるもの(秋田県では83人中79人)。
当時は日本海側には津波は起きないという俗説があったそうだし、警報発表やその通知体制が未熟だったこともあるのだろう。(一方で昼どきなのに火災が1件も起きなかったのは、消火意識が徹底されていたからとされている。)
中でも、学校行事で男鹿市の海岸を訪れていた、合川町立合川南小学校(現在は市町村合併と学校統合により北秋田市立合川小学校)の児童のうち13人が、津波で亡くなったのは、衝撃であった。
合川南小学校の教訓と慰霊は、現在も現地や統合後の学校で継承されているし、当時を知る県民も忘れることはない。
秋田朝日放送ニュースサイトより
1992年開局で地震当時は存在していなかった、秋田朝日放送(AAB)でも、おそらくテレビ朝日が保存する当時の映像も使って、しっかりと報道している。
上の静止映像は、今年の遺族による慰霊の模様で、赤い水筒は遺品とのこと。
さて、例によって些細なことで申し訳ないのですが、このことを伝える報道について。
上記では、あえて「“学校行事”で男鹿市の海岸を訪れていた」と表記したのだけど、当時を知る皆様は、それがどんな「行事」だったか、ご記憶だろうか。
上記のAABのサイトにもあるように「遠足」だと思うかたが大多数だと思う。僕もそうだった。
ただ、今年まで全校(全学年)で同じ場所に訪れていたのかと思いこんでいたが、実際には4年生と5年生だったとのこと。
報道でも「遠足」で来ていたとするのが圧倒的多数。2018年でも民放各局、確認した限りの地方紙・全国紙各社が「遠足」としている。
そんな中、唯一の例外があった。
それが、NHK秋田放送局。
「社会科見学の途中」
「社会科見学の途中」とするのは、今年に始まったことでなく、昨年かそれ以前に気づいた。
今年は3月5日の「(東日本大)震災7年を前に(男鹿市の)保育園で防災教室」というニュースの中でも、「社会科見学の途中」としていた。
2013年5月24日の「NHKニュースBOT」ツイッターより
また、2013年には「社会科見学の途中」としている原稿と、「遠足で」としている原稿の2つが存在したようだ。その頃が“転換点”か。
遠足と社会科見学。
時代や地域によって解釈は異なるのだろうが、一般的には「遠足」はレクリエーション的要素が強く、「社会科見学」は施設見学に重きを置く行事だろう。遠足=社会科見学ではない。
合川南小では、2つの学年だけとはいえ、カリキュラムが異なる学年の合同で社会科見学をするのは、考えにくいし、合川から男鹿まで来て何を社会科見学するのか想像できない。水族館とか地形を見に来たのだとすれば、それは「“社会科”見学」ではないのではないか。
「遠足」が死語になって通じないから、NHKの判断で言い換えたのかとも思ったが、今も充分通じるだろう。言い換えだとすれば「校外学習」「校外活動」辺りにしたかったのを、言い換え間違えたのか?
北秋田市のホームページを見ても、合川南小学校は「遠足」で訪れていたとするものが圧倒的。
ただ1つだけ、「社会見学中の合川南小学校の児童が遭難」との記述があった。
2005年3月発行の旧合川町の「広報あいかわ」最終号(No.560)の「合川町50年を振り返って」という年表内の記載。
ということは、合川町の沿革史のような記録の一部には、何らかの理由で遠足でなく「社会見学」と記載されているのかもしれない。
また、2014年に北秋田市の市議会議員が「北秋田(旧合川南小学校)社会見学の小学生達が」とツイートしている。
これらは、NHKの「社会“科”見学」ではなく「社会見学」。両者は微妙にニュアンスが違うとも言えよう。
いずれにしても、35年前も、現在の北秋田市やNHK以外の報道各社も「遠足」としているのに、現在のNHKだけがなぜか遠足とは呼んでいないのが現状。
北秋田市に尋ねたり、NHKに質問すれば解決するのだろうが、そこまでするのも気が引ける。でも、気になる。
この程度のことは、誤って継承されたとしても大勢に影響はない。
だけど、どうせ残すなら極力正しくするべきだと思う。あえて違う言葉に置き換える意味はない。“セリオンタワー”と同じように。
NHKの地方局では、初詣のニュースのように、毎年ほとんど同じ原稿だったり、秋田公立美術大学附属“高校”のように、過去の誤りを繰り返したりするケースが散見される。社会科見学も、何らかの理由で使い始めた言葉で、以降、考えずに使いまわし続けているだけのような気もしなくはない。
若手が多かったり転勤があったりして、記者がその土地のことを充分に知らずに、過去の例に従ってしまったり、間違いを見落としたりしてしまう事情もあるのだろうが、視聴者としては受信料を払って、一定の信頼を寄せる放送局なのだから…
【2021年5月26日の報道について追記】
2021年もNHK秋田放送局はかたくなに「社会科見学」。民放3局と秋田魁新報は「遠足」。
26日付魁のコラム「北斗星」では、合川南小の一行が、加茂青砂海岸を訪れる前に、秋田県庁を見学していたことが述べられていた。(北斗星内では、一般的な学校行事として「社会見学」が軸の話で、「遠足」のフレーズは出てこない。)
このことが、NHKが社会科見学を使う理由かもしれないが、それだったら、我々の昔の遠足だって県立博物館とか蚶満寺とかを見学したが、遠足は遠足。
※その後、新たな事実も判明した2023年の記事。
日本海中部地震の自分の記憶。
当時も秋田市にいた。秋田市は震度5(現在と異なる震度階級、測定地の気象台も現在と別の場所で、人による観測)。
小学校に入学したばかりで、体調不良で学校を休んだ日であった(当時は虚弱だった)。
いくぶん体調が良くなって、起き上がってぼーっとしていると、突然ものすごく揺れた。【29日追記・幅が大きく、短い周期の横揺れと記憶している。】それまで地震というもの自体、はっきりと認識したことはなく、何が何だか分からなかった。
その後に経験したどんな地震よりも激しい揺れ(小さかったとか体調が悪かったとか、そういう理由ではないと思う)で、まさに動けなかった。【6月2日追記・恐怖とか身の危険にまで考えは及ばず、とにかく揺れに戸惑うことしかできなかった。】大人も近くにいたけれど、やはり動けない。
揺れが収まり外を見ると、近所のおじさんが家から道路を渡った駐車場へ飛び出していた。我が家では家具が倒れるといったことはなかったはず(考えてみれば不思議。向きなどが幸いしたのか)。
停電もなく、テレビのニュースを見ていると、市郊外に住む知人のおじさんが血相を変えて訪問。外出先で地震にあって逃げこんで来たのだった。
すると、また、揺れた。大人が「ヨシンだ」と言う。「余震」を知った。
11時59分の本震後、当日中に最大震度3(秋田市)の余震が何度も起きている。
秋田市では、市中央部でも塀が倒れたり、百貨店「本金」のタワーが倒壊して死者が出たりしたそうだが、当時の記憶はない。
覚えているのは、どこかの道路に大きな亀裂が入った写真と、やはり合川南小学校の津波被害。
あと、身内が借りていて地震発生時に無人だったアパート4階の室内では、側面を壁に寄せていた食器棚の角が、石膏ボード(?)の壁をこするように動いたらしく、長さ10センチほどの穴が開いた。穴が開いたことで(穴にひっかかって)、食器棚が倒れるのを食い止めたのだろう。
その後、学校では、定期避難訓練以外に明確な防災教育を受けた記憶はないけれど、合川南小のできごとだけはしっかりと刻みこまれた。
通っていた小学校では、3年生の遠足で男鹿方面へ行くのが恒例で、地震前は男鹿水族館へ行っていたのが、地震後は海岸へは行かなくなって、寒風山へ変更されたはず。ただ、4年生では、山形の十六羅漢や象潟海岸へ行ったから、直接的に海を避けていたというわけでもない。
しかし、35年も経って全国的には知らない/忘れた人も多いだろうし、26日の秋田魁新報によれば、(高齢化が著しい中でさえ)秋田県民も4人に1人が地震を経験していない世代になったそうだ。
この地震で秋田県、青森県、北海道で104人が亡くなっていて、うち100人が津波によるもの(秋田県では83人中79人)。
当時は日本海側には津波は起きないという俗説があったそうだし、警報発表やその通知体制が未熟だったこともあるのだろう。(一方で昼どきなのに火災が1件も起きなかったのは、消火意識が徹底されていたからとされている。)
中でも、学校行事で男鹿市の海岸を訪れていた、合川町立合川南小学校(現在は市町村合併と学校統合により北秋田市立合川小学校)の児童のうち13人が、津波で亡くなったのは、衝撃であった。
合川南小学校の教訓と慰霊は、現在も現地や統合後の学校で継承されているし、当時を知る県民も忘れることはない。
秋田朝日放送ニュースサイトより
1992年開局で地震当時は存在していなかった、秋田朝日放送(AAB)でも、おそらくテレビ朝日が保存する当時の映像も使って、しっかりと報道している。
上の静止映像は、今年の遺族による慰霊の模様で、赤い水筒は遺品とのこと。
さて、例によって些細なことで申し訳ないのですが、このことを伝える報道について。
上記では、あえて「“学校行事”で男鹿市の海岸を訪れていた」と表記したのだけど、当時を知る皆様は、それがどんな「行事」だったか、ご記憶だろうか。
上記のAABのサイトにもあるように「遠足」だと思うかたが大多数だと思う。僕もそうだった。
ただ、今年まで全校(全学年)で同じ場所に訪れていたのかと思いこんでいたが、実際には4年生と5年生だったとのこと。
報道でも「遠足」で来ていたとするのが圧倒的多数。2018年でも民放各局、確認した限りの地方紙・全国紙各社が「遠足」としている。
そんな中、唯一の例外があった。
それが、NHK秋田放送局。
「社会科見学の途中」
「社会科見学の途中」とするのは、今年に始まったことでなく、昨年かそれ以前に気づいた。
今年は3月5日の「(東日本大)震災7年を前に(男鹿市の)保育園で防災教室」というニュースの中でも、「社会科見学の途中」としていた。
2013年5月24日の「NHKニュースBOT」ツイッターより
また、2013年には「社会科見学の途中」としている原稿と、「遠足で」としている原稿の2つが存在したようだ。その頃が“転換点”か。
遠足と社会科見学。
時代や地域によって解釈は異なるのだろうが、一般的には「遠足」はレクリエーション的要素が強く、「社会科見学」は施設見学に重きを置く行事だろう。遠足=社会科見学ではない。
合川南小では、2つの学年だけとはいえ、カリキュラムが異なる学年の合同で社会科見学をするのは、考えにくいし、合川から男鹿まで来て何を社会科見学するのか想像できない。水族館とか地形を見に来たのだとすれば、それは「“社会科”見学」ではないのではないか。
「遠足」が死語になって通じないから、NHKの判断で言い換えたのかとも思ったが、今も充分通じるだろう。言い換えだとすれば「校外学習」「校外活動」辺りにしたかったのを、言い換え間違えたのか?
北秋田市のホームページを見ても、合川南小学校は「遠足」で訪れていたとするものが圧倒的。
ただ1つだけ、「社会見学中の合川南小学校の児童が遭難」との記述があった。
2005年3月発行の旧合川町の「広報あいかわ」最終号(No.560)の「合川町50年を振り返って」という年表内の記載。
ということは、合川町の沿革史のような記録の一部には、何らかの理由で遠足でなく「社会見学」と記載されているのかもしれない。
また、2014年に北秋田市の市議会議員が「北秋田(旧合川南小学校)社会見学の小学生達が」とツイートしている。
これらは、NHKの「社会“科”見学」ではなく「社会見学」。両者は微妙にニュアンスが違うとも言えよう。
いずれにしても、35年前も、現在の北秋田市やNHK以外の報道各社も「遠足」としているのに、現在のNHKだけがなぜか遠足とは呼んでいないのが現状。
北秋田市に尋ねたり、NHKに質問すれば解決するのだろうが、そこまでするのも気が引ける。でも、気になる。
この程度のことは、誤って継承されたとしても大勢に影響はない。
だけど、どうせ残すなら極力正しくするべきだと思う。あえて違う言葉に置き換える意味はない。“セリオンタワー”と同じように。
NHKの地方局では、初詣のニュースのように、毎年ほとんど同じ原稿だったり、秋田公立美術大学附属“高校”のように、過去の誤りを繰り返したりするケースが散見される。社会科見学も、何らかの理由で使い始めた言葉で、以降、考えずに使いまわし続けているだけのような気もしなくはない。
若手が多かったり転勤があったりして、記者がその土地のことを充分に知らずに、過去の例に従ってしまったり、間違いを見落としたりしてしまう事情もあるのだろうが、視聴者としては受信料を払って、一定の信頼を寄せる放送局なのだから…
【2021年5月26日の報道について追記】
2021年もNHK秋田放送局はかたくなに「社会科見学」。民放3局と秋田魁新報は「遠足」。
26日付魁のコラム「北斗星」では、合川南小の一行が、加茂青砂海岸を訪れる前に、秋田県庁を見学していたことが述べられていた。(北斗星内では、一般的な学校行事として「社会見学」が軸の話で、「遠足」のフレーズは出てこない。)
このことが、NHKが社会科見学を使う理由かもしれないが、それだったら、我々の昔の遠足だって県立博物館とか蚶満寺とかを見学したが、遠足は遠足。
※その後、新たな事実も判明した2023年の記事。
日本海中部地震の自分の記憶。
当時も秋田市にいた。秋田市は震度5(現在と異なる震度階級、測定地の気象台も現在と別の場所で、人による観測)。
小学校に入学したばかりで、体調不良で学校を休んだ日であった(当時は虚弱だった)。
いくぶん体調が良くなって、起き上がってぼーっとしていると、突然ものすごく揺れた。【29日追記・幅が大きく、短い周期の横揺れと記憶している。】それまで地震というもの自体、はっきりと認識したことはなく、何が何だか分からなかった。
その後に経験したどんな地震よりも激しい揺れ(小さかったとか体調が悪かったとか、そういう理由ではないと思う)で、まさに動けなかった。【6月2日追記・恐怖とか身の危険にまで考えは及ばず、とにかく揺れに戸惑うことしかできなかった。】大人も近くにいたけれど、やはり動けない。
揺れが収まり外を見ると、近所のおじさんが家から道路を渡った駐車場へ飛び出していた。我が家では家具が倒れるといったことはなかったはず(考えてみれば不思議。向きなどが幸いしたのか)。
停電もなく、テレビのニュースを見ていると、市郊外に住む知人のおじさんが血相を変えて訪問。外出先で地震にあって逃げこんで来たのだった。
すると、また、揺れた。大人が「ヨシンだ」と言う。「余震」を知った。
11時59分の本震後、当日中に最大震度3(秋田市)の余震が何度も起きている。
秋田市では、市中央部でも塀が倒れたり、百貨店「本金」のタワーが倒壊して死者が出たりしたそうだが、当時の記憶はない。
覚えているのは、どこかの道路に大きな亀裂が入った写真と、やはり合川南小学校の津波被害。
あと、身内が借りていて地震発生時に無人だったアパート4階の室内では、側面を壁に寄せていた食器棚の角が、石膏ボード(?)の壁をこするように動いたらしく、長さ10センチほどの穴が開いた。穴が開いたことで(穴にひっかかって)、食器棚が倒れるのを食い止めたのだろう。
その後、学校では、定期避難訓練以外に明確な防災教育を受けた記憶はないけれど、合川南小のできごとだけはしっかりと刻みこまれた。
通っていた小学校では、3年生の遠足で男鹿方面へ行くのが恒例で、地震前は男鹿水族館へ行っていたのが、地震後は海岸へは行かなくなって、寒風山へ変更されたはず。ただ、4年生では、山形の十六羅漢や象潟海岸へ行ったから、直接的に海を避けていたというわけでもない。