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今後はhttps://taic02.hatenablog.jp/で更新します

芋掘り遠足 消えたバス乗務員

2022-05-25 23:02:31 | 昔のこと
小学校の遠足で、バスガイドに間違ったタイトルと歌詞の歌を教えられた思い出をアップした。
社会科見学での続きがあるとしたけれど、その前に、コメントをいただいて幼稚園の時のことを思い出したので先に。

通っていたのは、2年保育(年少・年長)の私立幼稚園。
※認定こども園制度などなかった当時は、制度上は保育所(保育園)と幼稚園は区別された別物。だから、幼稚園において「2年『保育』」というのは不適切な気もする(上の学校にならって「修業年限」とかでは?)が、今でもそれが一般的なようなので、そう表記します。今はほとんどの園が3年保育だが、1980年代半ばでも3年保育のほうが多かったのではないだろうか。

記憶にある限り、幼稚園で貸切バスに乗って出かけたのは、春の「遠足」と秋の「いもほり遠足」。
春は、2年とも保護者同伴で、大森山公園へ。小学校1年生の遠足も大森山だったから、3年連続で行くことになる。はっきりとは覚えていないが、秋田市交通局(秋田市営バス)だったはず。

いもほり遠足は、園児だけで、サツマイモを収穫しに行く行事。あいまいだが、弁当を持っていって、食べてから芋掘りか?
「ちびまる子ちゃん」で、静岡の幼稚園に「雪見遠足」なる行事があるのを知ってびっくりしたが、「いもほり遠足」は全国的に実施されているようだ。一方で、園の近くに畑を所有または借用して、日常的に農作物を栽培する園もあるけれど。
2年とも、天王町(現・潟上市)にあった「植村農園」という所へ行ったはず。植村農園は2009年頃まではあって、今は存在しない感じ。あの辺りは、ブドウやナシの観光農園があるが、その1つだったのか。
【10月31日補足・秋田でのサツマイモ栽培について】サツマイモは暖かい所の植物。秋田県産のサツマイモは、産直でたまに見かける程度で、大々的には売られていない。しかし、家庭菜園やこの農園のようにそれなりの規模で栽培されることもある。
ネットには、サツマイモが経済栽培可能(農家の商売として成り立つ)なのは南東北以南という情報もあるが、栽培時期の工夫や近年の温暖化により、北海道でもできなくはないとの情報もあり。秋田の実感と合致しそう。(以上追記)

年少さんの時は、バスの記憶はない。
芋掘りのほうは記憶がある。イモ畑の畝を一定間隔で区切って個々に割り当て、そこを掘る方式。僕に割り当たったところを掘ると、イモは見えるのだが、いくら掘ってもびくともしない。早生まれで小さくて力がなかったこともあるにしても。
先生に手伝ってもらって、片手でつかむのが大変なほど太いサツマイモを1本だけ収穫した。大人の基準で思い返しても、大きなイモだった。満足げな顔でそれを握りしめる写真が残っている。
イモは家に持ち帰る(一部は園で焼いて食べた?)とのこと。てっきり、その太いイモを持ち帰ることができると楽しみにしたものの、全員の収穫分をいっしょにして、その中から均等に配る方式で、(公平ではあるのだが)ちょっと悔しかった。

年長さんは、バスもイモも覚えている。
先にイモ。昨年と打って変わって、ちょっと掘っただけで、細くはあるが何本ものイモが埋まっている。今年は本数で稼いでやろうと、一心不乱に掘り始めたのだが…

その時、パラパラと雨が落ちてきた。
園児による芋掘りはそこで打ち切り。農園に場所がなくてバス車内で雨宿りさせようとしたのか、滞在を切り上げて帰ろうとしたのかは不明だが、乗ってきたバスが待つ駐車場へ向かった。
この時のバスは、交通局の貸切バス数台。赤とグレーの横縞の貸切塗装の車だったのを覚えている。
ほかに、幼稚園の通園バス(スクールバス)1台が加わっていた。
通園バスは、幼稚園が所有し、園の職員が運転するもので、日野自動車製のモノコックボディの中型バス(レインボーの前身。今はマイクロバスばかりで中型の園児バスは製造されていないようだが、20年くらい前までの秋田市内では、日産ディーゼルやいすゞ製を所有する園があった)。僕は徒歩通園だったが、平常の活動の中で平和公園や八橋運動公園へ出かけた(全園一斉でない外出?)時には、乗ったと思う。
【26日補足】※ここで言う「中型バス」とは、運転免許証における区分「中型自動車」のことではなく、バスの車両サイズの呼び名。大型バスより若干小さく車体長は9メートルあり、大型免許でないと運転できない。大型バスの幼稚園バスが存在するか知らないが見たことはないから、中型は幼稚園バスとしては最大級だろう。

いもほり遠足に園バスを出したのは、バス借り上げ費用の節約のためだろうか。


僕たちのクラスは、行きも帰りも市営バス貸切車が割り当てられたはず。
ということで、そのバスのところへ行ったのだが、ドアが閉まっていて運転士もバスガイドもおらず、乗ることができない。

幼稚園バスの運転士が、市営バスの車をちょっと触って、「ドアコックが効かないので、運転士とガイドは、バスに鍵をかけてどっかへ行ったようだ」「キノコでも採りに行ったんじゃないか」という趣旨のことを話した。
天王は、今は宅地開発が進んでいるが、海が近く松林もあって、キノコは生えそうだし、林の中では小雨に気付かなかった可能性もある。

で、その後、どういう経緯か知らないが、結局、僕たちのクラスが園バスのほうに乗って、先に帰ることになった。本来、園バスに乗るべきクラス、そして他のクラスはどうしたのだろう? あと、我々クラスは市営バスの中に荷物を置いてなかったのか?
担任の先生は「(なじみがある)幼稚園のバスに乗れていいじゃない」とおっしゃったが、僕は園児仕様のバスなどより、観光仕様の市営バスに乗りたくて残念だった。
イモもバスも心残りに終わった、最後のいもほり遠足の思い出。【6月8日補足・イモは農園側で収穫してくれて、前年同様、園児に配給されたはず。】


公共交通機関の乗務員は「待つのも仕事」の面も大きい。貸切バスなら、客が楽しんでいる間が、乗務員の休息時間であるべきだ。
そして、借り主の都合による急な予定変更に、どこまで対応する必要があるのか。早く帰ったのなら、料金が戻ってくるのか(それはないかな。反対に遅くなった時は、渋滞など不可抗力なら不要、客都合なら追加請求される場合があるようだ)。
当時と今では労働と運輸の法制度も異なるだろうし、おおらかな時代だった。今ならちょっと問題かも。あと、今ならキノコ狩りしていても携帯電話で連絡付けられそうだし、天気予報精度の向上や雨雲レーダーにより事前の対処もできそう。


バスガイドというか貸切バスの思い出シリーズ、次は社会科見学編へ続く
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バスガイドの嘘・Rock My …

2022-05-10 22:42:22 | 昔のこと
昭和末の学校の遠足と、貸切バスのバスガイドの、長い思い出。
小学校4年生だった1986(昭和61)年6月13日、通っていた秋田市立小学校の春の遠足があった。
当時、その小学校では、春と秋に「遠足」という学校行事が設定されていた。秋は、徒歩で全校一斉に大きな公園(年によって違う公園)に行き、縦割り活動なども含むもの。春は、修学旅行がある6年生はお留守番で、1~5年生がバスで学年ごとにそれぞれ違う目的地へ日帰りするもの。春のほうがメインで楽しい遠足だった。
※春は単に「遠足」、秋は「秋遠足」と呼ぶことがあったし、秋遠足ではおやつ持参は認められなかったような気もする。
※春は5月よりも6月上旬に行うことが多かったようだ。充分に暖かくなり、かつ梅雨入り前で、秋田ではいちばんいい気候。この年の6月13日は遅いほう。

春の行き先は、我々の6年間では、1年が大森山公園(大森山動物園)、2年が秋田空港・県立中央公園、3年が秋田県立博物館・寒風山、4年が蚶満寺・十六羅漢・象潟海岸、5年が天鷺村・高城山城址公園・県立岩城少年自然の家(オリエンテーリングなど日帰り利用)、が主な目的地であった。
4年生までは学年が上がるごとに目的地が遠くなる。4年生は、秋田県沿岸を南下し、ほんのちょっとだけ県境を越えた山形県遊佐町吹浦にある、十六羅漢(今は公的には「十六羅漢岩」と呼ぶようだ)まで行く。対して5年生は秋田市の隣町(当時は岩城町、今は由利本荘市)までなのがおもしろい。これは、5年生では、別に1泊2日でいわゆる林間学校こと「宿泊研修(宿泊訓練)」が設定されている分、遠足を控えめにしたという説明を受けた気がする。
【16日補足】象潟がある、にかほ市には、今は「白瀬南極探検隊記念館」や「フェライト子ども科学館」があり、遠足(校外学習)の見学先として最適であろう。それぞれ1990年と1998年開館で、昭和にはなかった。

そして我々世代は、1年生の時に日本海中部地震を経験している。遠足(行事名称は諸説あり)で海岸へ来てた合川町(現・北秋田市)の小学生が、津波で犠牲になった。
僕たちの小学校も、地震以前は、3年生が男鹿水族館や男鹿の海岸を目的地としていたのではないかと思われる(確証はありません)が、翌年度から男鹿へ行くのに海辺には行かないという行程に変わったのではないだろうか。
と言いながら、4年生の時には、象潟海岸の砂浜に敷物を敷いてお弁当を食べて、遠浅の海に膝まで浸かった(暑い日で気持ちよかった※)思い出があるのだが…(津波の情報収集と避難の体制が整っていれば、問題はないが…)
※気象データによれば、当日は晴れ、最高気温は秋田市で24.9℃、象潟の隣のにかほ(当時は仁賀保)では22.0℃。


さて、遠足の朝は、登校すると、校庭にたくさんの観光バスが待機しているのが恒例の光景で、気持ちが高ぶった。各学年3クラスあったので15台来るものの、学年=行き先ごとに出発時刻が異なるので、バスも一斉集結ではなかったはずだが。距離上、4年生がいちばん早い出発かつ遅い帰着(※)だった。
※遠足の「しおり」の予定によれば、4年生は8時00分集合、8時30分出発、16時00分帰着。翌年・5年生は8時20分集合、9時00分出発、15時40分帰着。

この年、バスを見て大きなショックだったのが「バスが違う」こと。秋田中央交通のバスがいた!
3年生までは、遠足も社会科見学も、秋田市交通局(秋田市営バス)の貸切バスだった。路線バスは学区内全域が市営バスエリアだったこともあり、当然だと思っていた。ちなみに、前年は路線兼用のワンロマ車が充てがわれ、冷房なし・ブルドック顔の三菱ふそうの車で寒風山へ登った。
当然、中央交通の存在は知っていたが「自分とは無関係なバス」。路線バスにもほぼ(まったく?)乗ったことがなく、少なくとも貸切はこの時が初乗車。
※今は学校行事でも、貸切専業事業者を利用することが多いが、当時の秋田にはそのようなバス会社はなかった。遠足シーズンには、学校側は日程決定・予約に、バス会社側は人と車のやり繰りに、苦労していたようだ。
2002年3月31日撮影の秋田中央交通の貸切バス
↑上の写真について。
現在は秋田市西部市民サービスセンターが建つ、新屋の秋田市交通局新屋案内所(旧南営業所)を撮影。市営バス新屋方面路線の民間移管に伴い、翌日から中央交通新屋案内所となるのに先立ち、路線車移動の都合で差し当たってジャマであろう貸切車両が大量に置かれていた。
現在の中央交通の貸切車は、白地にピンクと青紫の縦線が何本も入り「AKITA CHUO KOTSU」と書かれた塗装だが、かつては裾が肌色で、白地に青い横線が入るもの(国際興業系の線を太くした感じ?)だった。2002年時点では、旧塗装の車も少し残っていたようで、新塗装7台、旧塗装3台が写っている。中央交通のバスに興味がないので、横から遠目に撮っただけだったが、ちゃんと撮影しておけばよかった。
1986年時点では、すべてが旧塗装車であった。

少しの不満とともに学校を出発。当時は貸切バスには、バスガイドが必ず付くことになっており、遠足でも乗務(今の遠足ではどうなんだろう)。【6月8日補足・Wikipediaには、2000年の法改正以前は、貸切バスには必ずガイドが付いていたような記述がある。しかし、コメント欄で話題になっているように、法改正以前であっても、学校行事で単なる移動手段として乗る場合など、バスガイドが付かない貸切バスもあった。“ワンマン貸切”可能な、何らかの手段はあったのだろう。】
さっそくバスガイドがあいさつ。そこで、子どもながらにちょっと不安に感じる事実が発覚した(法令上の問題ではありません)。
そのガイドさんは、その春に入社したばかりの新人だという。

ところで、その前3年の交通局のガイドさんたちは、「この先の交差点で、バスはどっちへ進むでしょう?」とクイズを出したり、県立博物館の近くにある県立金足農業高校の実習田は、砂地であるためビニールを敷いているなどと説明があったりした。帰りなど、歌ったりゲームしたりもあったとは思うが、要所要所ではしっかりと。
これは、交通局やバスガイド自身が、遊びでなく学校教育の一環である遠足の意義を理解し、その行程に応じた知識を、児童にも分かるように提供してくれたのだと思う。

中央交通の新人ガイドでも、研修を受けていて、案内はそれなりできなきゃおかしいが、その人はそういう車窓案内の類が一切なかった。早々に歌を歌ったりゲームしたりしていた気がする。
岩城町へ入った時、担任の先生が、見かねたようにガイドからマイクを借りて、「右側の家の屋根を見てください。秋田市では見られない、瓦屋根の家(※)がほとんどですね。」などと説明。「しおり」にも書かれていて事前学習したことの実物を見るよう促した。ガイドさんは恐縮したような顔をしていたのを覚えている。【11日補足・このやり取りを見て、新人ガイドに対する不安と、大人って大変だなみたいな気持ちになった。】
※積雪に弱いという理由だと思われるが、雪国には瓦屋根の家はほとんどない(近年は多少増えている)。秋田県沿岸南部は、比較的温暖で雪が少ないため、旧岩城町辺りを堺に南で、瓦屋根の家が見られる。【23日補足・コメントいただいたように、トタン屋根だと潮風で錆びてしまうからという理由もあるようだ。】当時、小学校3~4年生の社会科では、秋田県内の地理を多く扱っており、県内でも気候が異なることの例として、豪雪地帯の山内村や温暖な由利地域沿岸部を取り上げていた。


その後、蚶満寺では、「蚶満寺七不思議」の1つである「咲かずのツツジ」が今年咲いたとかの説明を受けた記憶はあるので、まったく案内ができなかったわけではない(あるいはバスガイドじゃなくお寺の人かも?)。「走行中に車窓案内をする」という意識がなかったのか。
まあ、遠足の説明など、覚えている子どものほうが珍しいと我ながら思うのでどうでもいいが、本題は帰り道。たぶん、新人かどうかではない問題。
秋田中央交通のバスガイドにウソを教えられ、僕は40歳を過ぎるまで30年以上、信じてしまっていたのだ。例によって大した話じゃないが、人前で恥をかきかねない誤った情報。

象潟海岸で食べて遊んだ後、13時40分出発。車窓から金浦漁港を見学したらしいが記憶はない。あとは学校へ帰るだけだが、2時間20分もかかる計画(道の駅もない当時、途中休憩などあったのか?)。帰路は疲れて寝たか、歌やゲームはやったかも。
秋田市街地へ入ると、ガイドさんは「お別れに歌を教えましょう。簡単だからみんなも覚えてください」などと、みんなで歌うことになった。

たしかに覚えやすい歌で、こんな歌詞。
「高くて登れない 低くてくぐれない オー・ロック・マイ…」

黒人霊歌の訳詞(訳:野上 彰?)で、実際は覚えているよりもうし少し長い。最初からはしょって教えられたのか、忘れてしまったのか。
子ども向けレクリエーションソングとして知られ、輪唱もされ、6年生の音楽の教科書に掲載されていた(いる?)という話もある。NHK「みんなのうた」では1965年に違う曲名・歌詞で放送。
ただ、僕はこの先にも後(40過ぎまで)にも、タイトルも歌詞もメロディーも、まったく接することがなかった。

歌詞に出てくるフレーズが、曲のタイトルでもあり「ロック・マイ・ソウル/Rock My Soul」。

ところが、中央交通の新人ガイドは、その部分を「ロック・マイ・ソング」と教え、歌った。「Rock My Song」?
少なくとも僕個人の聞き間違いではない。周りのクラスメイトもみんな「ソング」と歌っていたから。仮に、バスガイドは「ソウル」だと分かっていたのならば、「ソングじゃなくソウルだよ」と訂正するのが普通だから、そもそも間違って覚えていて、教えた可能性が高い。
その後、英語を多少分かるようになって、時たまこの歌が頭に浮かぶと、「奇岩があって扱いに困り、どうにもならないけれど、それは自分が所有する岩」という内容なのかと考えていた。


時が経って、2018年頃だったと思う。
お笑い番組で、吉本興業のコンビ「プラス・マイナス」が、漫才を披露していた。その中で、この歌を歌っていて、「~ソウル」なのに驚いた。ネットで検索すると、それで合っている。「私の魂を揺さぶる」か。
中央交通にダマされていた!
さらにネットを見ると、「~ソング」と誤解している人は、そんなにいなそう。しかし、謎の英語「ロックマイソー」、謎の日本語「ろくまいそう(六枚草?)」だと思っていた人はちらほら。漫才で初めて知って、「プラス・マイナスが自作した歌だと思っていた」という人も(僕もガイドに教えてもらわないと同じ勘違いをしていたかも)。

一般にバスガイドの研修では、観光案内と歌はみっちり教えこまれると思う。あの頃の秋田中央交通では、間違ったタイトル・歌詞を教えていたのか。ガイド個人の判断で、好きな歌を歌うということもあり得るだろうけど。
そんな、小学4年生の遠足の思い出。
秋田中央交通では、開業100周年を記念して、同社バスに乗車した際の思い出を綴った作文を募集している。上記内容で応募(400字の制限に収められないけど)したら、直ちに審査対象外かな。



なお、翌年5年生も、残念ながら中央交通(市営バスの貸切には、宿泊研修などで乗る機会はあった)。
この時は、新人ではなさそうなガイドさんで、ソツなくこなしていた記憶。
おそらくいすゞ製のバスは、下固定・上横スライドの窓(逆T字窓)で、青系統と赤系統に着色されたガラスが交互にはめられ、窓を開けて2枚が重なると、紫色のガラスになるという、ヘンな仕掛けがあった。それを知って喜ぶ児童を見て、ガイドさんも「そういうガラスなんですよ」と喜んでいたが。

このガイドさんは、お別れに歌を歌ってくれた。
その曲は、おニャン子クラブ「恋はくえすちょん」。
当時、フジテレビ系で日曜18時から放送中だったアニメ「あんみつ姫」のオープニング曲。現在、IBC岩手放送の「じゃじゃじゃTV」の中継クイズコーナーで、部分的に流れている。

前年1986年11月に、旧中央交通本社・車庫跡にオープンした「中交ホリディスクエア」(長崎屋→ドン・キホーテ)の前付近を走行中で、車窓にそれを眺めつつ、少々恥ずかしく聞いた思い出。



話は変わって現在。
秋田中央交通にも女性運転士が複数名いらっしゃる。男だから女だからどうこうではないし、実際、男でもとても丁寧な運転で親切な接客の運転士もたくさんいるし、女でも…な運転士もいないわけでもない。
【11日追記・中央交通には、運転技能と接客のレベルを底上げして均質化すること。あるいはそれらが優れた社員への優遇をしてほしい。会社のイメージも、社員の士気も、向上するのではないだろうか。】

その中に、中央交通の元バスガイドで、いったん退職した後、同社運転士になった人がいる。
路線バスで時々お世話になるが、【11日補足・運転も接客も】気持ち良く乗車できる運転士さんの1人なのは間違いない。
ボロバス、中古、ダウンサイジングターボやオートマチックマニュアルトランスミッションなど運転特性がまちまちで注意を要しそうなバスが混在する中、どんなバスをどんな道で運転しても、いつも安心して乗車できる。
客層や時間帯で変えているそうだが、多くはないけれど的確な肉声案内もしてくれる。元バスガイドだったと思えば、たしかにそういうお声で聞き取りやすい。

このバス会社の代表取締役社長は、公の場にほぼ姿を現さない。
その一方、この女性運転士さんは、何度も多くの目に触れる場所に、顔写真やお名前が出ている。すなわち、求人情報媒体や、広告も兼ねた新聞記事など。
昨2021年、秋田魁新報の文化面か何かの記事にも登場した。そこでは、お歳まで掲載。社長の歳、代わりに出てくる営業本部長の歳は、新聞記事にも書かれないのに【社長のプロフィールは企画特集として掲載されたこともあった。この記事参照】。

失礼ながら、そのお歳から逆算すると、上記のバスガイドさんたちと、同年代に当たりそう。
ということは、もしかしたらこの運転士さんも、「ロックマイソング」を歌っていたのかも?!


バスガイドのウソは、中央交通ばかりではない。秋田市交通局のバスガイドにも、少々問題ある情報(例によって大したことじゃないですが)を教えられたことがあった。続く。【追記】その前に幼稚園の行事でのバスの思い出もありました。
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ジョーカーは新本店

2022-03-31 18:53:04 | 昔のこと
我が家でこんなものが発掘された。記憶の片隅にはあった。昭和末頃のものか。

プラスチックケース入り

(カードゲームの)トランプである。とある企業のノベルティグッズ。
トランプは、かつては、どの家庭にも1セットや2セットは必ずあったもの。だからこそ、ノベルティにもなったのだろう。

ケースの裏には「エンゼル」ロゴ。エンゼルプレイングカード株式会社という、ゲーム用カードでは任天堂に次ぐシェアを誇るメーカーらしい。
現在も、エンゼルも任天堂もオリジナルデザインのトランプの製作を請け負っている。マークや数字でない面(裏柄)、時には表面(表柄)も独自の柄にできる。

このトランプ、まずは裏柄を見ると、
広げかたが下手でスミマセン
みずみずしいマスカット。岡山か山梨辺りの企業?

では表柄。後述のスペードのエースとジョーカー以外は、独自デザインではないのだけど、
えっ!?
白地に黒か赤で印刷されていると思いきや、意表を突かれた。濃いめのややくすんだ緑の地に、白抜きで記号や数字!

絵札も含めて緑と白のみ
単色のトランプなんて、珍しいのでは。
そういえば、遊んでいても分かりにくく、このトランプはほとんど使ったことがなかったような気がする。

あと、秋田市営バスが1985年度に導入した新デザイン車両のうち、一部(208号車?)の行き先表示(方向幕)が、黄緑地に白文字でとても見づらく、短期間で通常に戻されたのだが、それを思い出した。


このトランプ。どこの企業が配ったものか。
「AKITA-SOGIN」裏面は単色印刷ではない
スペードのエースは、
「AKITA-SOGIN Original Playing Cards」

実はジョーカーは、カラー印刷で、
「信頼の礎・新本店 秋田相互銀行」

ということで、秋田市に本店があった「秋田相互銀行」のグッズでした。
秋田相互銀行は、1989年に第二地方銀行「秋田あけぼの銀行」に転換・改称、さらに1993年に羽後銀行に吸収合併されて北都銀行となっている。

ジョーカーの「新本店」とは、土手長町通り、中通五丁目に1982年10月にできた(その前の本店も場所は同じだったらしい)。北都銀行になってからは本店機能がなくなって「北都銀行別館」を経て、今(2011年から)はテナントビル「北都ビルディング」。
カードの面積に比べると小さい絵

(再掲)建物の外観は相互銀行本店当時と変わっていない

ジョーカーは2枚入っていて、同じ柄
新本店をアピールするジョーカーだから、新本店竣工直前~直後=1982年前後に作って配られたと考えられる。約40年前。

ところで、当時子どもだった僕には、秋田銀行や羽後銀行には、オリジナルキャラクターとかグッズになんとなく覚えがある。もしくは、近年の収集家のサイトなどで情報も少なくない。
しかし、秋田相互銀行のキャラクターとなると、まったく記憶がないし、情報も少ない。2005年2月8日の「二〇世紀ひみつ基地・相互銀行のターちゃん(http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-32.html)」によれば、「タイガーの「ターちゃん」と、チータの「チーちゃん」」なるキャラクターがいたが、短命だったとのこと。
だから、トランプがこんなモノになったのか。
【31日勘違いしていたので訂正】秋田出身の木版画家・池田修三氏の作品を、通帳やカレンダーに使っていたのが秋田相互銀行だった。池田作品の銀行グッズは覚えていたが、羽後銀行と取り違えてしまっていました。相互銀行が池田作品を起用していたのは1980年代だったそうだが、さすがにトランプに池田作品を使うのは課題も費用もあってできなかったのだろう。(以上追記)

このトランプからは、「緑色」が秋田相互銀行のイメージカラーかのようにも受け取れるが、違うと思う。
ジョーカーにあるように、赤地に白文字の銀行名表示(看板など)が印象深く、僕は相互銀行といえば「赤」だ。


そんなわけで、緑色ベース、マスカット(基本デザインの1つだったのかも)、単色印刷を選択した理由が分からない。
あと、カードの材質は、単なる厚紙のようで、その点でも使いにくい。だけどケースは立派なプラスチック製なのもなんだか。(少なくとも当時は)紙製ケースも多かったのに。
自慢の新本店をジョーカーにしてしまうのは、遊び心ともとらえられて悪くないと思うが、どうせならカード全面に大きく描くとか、いっそ裏柄にすれば、遊んでいる間ずっと、新本店が目に焼き付いて抜群の宣伝効果だったのでは?(おカネはかかるでしょうけど)

このトランプで、お客さまにに遊んでもらおうと思うのならば、もう少し使う(遊ぶ)側の立場になったトランプにできたのではないか。
当時の秋田相互銀行が、費用をケチったのか、センスがなかったのかもしれないが、本気でこれでいいと思ったのならば、自己満足のノベルティグッズかもしれない。

少し後の羽後銀行のノベルティグッズ
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JR東日本 新幹線チャイムの謎

2022-03-10 19:46:51 | 昔のこと
JR東日本の各新幹線(東北・上越・北陸・山形・秋田)の、自動車内放送の前に流れるチャイムの話。

1982年の東北・上越新幹線開業時は、各停車駅にちなんだ民謡などをアレンジして「ふるさとチャイム」として流していた。
1985年の上野、水沢江刺、新花巻の各駅開業時にも、追加で導入(ちなみにこのタイミングで、浦佐駅の曲を変更したほか、全駅分を再収録しているので、この前後で音色が違う【6月11日補足・特に開業時バージョンの、上毛高原「上州馬子唄」の鈴や燕三条「岩室甚句」の太鼓の音が特徴的。】。CDやネットで聴く時は注意)。
しかし、1990年のくりこま高原駅開業時に、同駅に「イメージに合致する地元の曲がない」として、導入を見送り。くりこま高原に停まる列車では、全駅で新たな共通のチャイムを流すようになった。
これが、今も使われるチャイムの最初。
【10日・言葉足らずだったのでこの段落書き換え】※この時点の、仙台~盛岡間の運行形態(停車パターン)は、「各駅停車」と「途中無停車(スーパーやまびこ)」の2つだけだったはず。したがって、このタイミングをもって、各駅停車しか停まらない、古川、一ノ関、水沢江刺、北上、新花巻のふるさとチャイムは聴くことができなくなったことになり、水沢江刺と新花巻は5年間しか流れなかったことになろう。

そして1991年6月の東京駅開業時には、上越新幹線も含めてすべての列車でふるさとチャイムを廃止して、共通チャイムに替えた。【2022年にふるさとチャイムが復活した! 末尾の追記参照】
だから、このチャイムはもう30年以上流れている。
※東京開業のタイミングで、自動放送の英語のナレーターが日本人からネイティブ(イギリスのJean Wilsonさん)に変わったようだ。日本語ナレーターは開業時から元フジテレビ堺正幸さん。

(再掲)200系電車
1991年東京開業時点では、東北上越新幹線には200系しか走っていなかった。左の先頭車がとがった(100系タイプ、シャークノーズ)のも200系だが、1990年代中頃に製造・改造された車両もあり、ふるさとチャイムを“知らない”200系もいたようだ。


共通チャイムは、2種類(2曲)あり、路線(方面)で使い分けている。東北新幹線系統の曲と上越・北陸新幹線の曲。※以下、それぞれを東北版、上越版と表記します。
山形、秋田両新幹線は、東北新幹線から枝分かれするためか、(単独運行区間も含めて)東北版。北海道新幹線も、JR北海道所有のH5系電車を含めて、東北版らしい。
一方、北陸新幹線のうち、JR西日本所有のW7系電車では、まったく違うチャイム。

また、Wikipediaでは、東北版は「北千住駅1番線で使用されていた発車メロディに類似」とある。2000年代まで使われていたようで、Youtubeに投稿されているのを聴いたら、前半はそっくりだった。詳細は不明。



僕は幼稚園の時に初めて東北新幹線に乗り、駅ごとに違うチャイムにも興味を持ち、そのカセットテープを買ってもらった。
そして、「特急ものしり百科」の類の本で、秋田にも新幹線が来る計画があることを知って(ミニ新幹線ではなく、田中角栄の頃の整備新幹線構想)、その時はどんなメロディーになるだろうと心を躍らせた。

その後10年近く経って中学生になっていたが、ふるさとチャイムがなくなってしまうのを知った時は、残念だった。
でも、聴いてみれば共通チャイム(当時は東北版しか聞く機会がなかった)も、上品で耳障りでなく、シンプルすぎずうるさすぎず、好きになった。



さて、このチャイム、誰が作ったのか。ネット上では一切、情報を見たことがない。
実は、我ながら感心することに、それが分かる当時の新聞を切り抜いていた。
1991年6月16日・日曜日 朝日新聞 社会面
「東北・上越新幹線の車内放送 民謡調から電子音楽に 20日から」
↑ふるさとチャイムも、エレクトーンのようなアナログ電子楽器(当時の機種の場合)で演奏していたと思われるので、それも電子音楽と言えるのではないか。ちなみに共通チャイムは、FM音源のデジタルシンセサイザーの音色か。

その中に、

JR東日本が決めた新しい電子音は、環境音研究家渡辺久芳さんの作曲。
とある。
「環境音研究家」という作曲家とかじゃない人らしい。ネットでも、日本音楽著作権協会(JASRAC)の登録を検索しても、渡辺氏についてはこれ以上分からず。

さらに、
「(チャイムは)東北、上越の両新幹線で別々だが、いずれもバロック調で「広い草原」や「さわやかな朝」をイメージした
東北版が「広い草原」ってこと? う~ん。上越版は、朝っぽいかも。
【12月15日追記・「さわやかな朝」は、開業時~2002年まであった上越新幹線の列車名「あさひ号」からの連想ではないかとのコメントをいただいた。だとすれば、筋が通る。】



実はネットには、東北版が「TR-11」、上越版が「TR-12」という曲名であるとの情報がある。
後年(2000年以降頃)、携帯電話の着メロなどで曲を商品として販売する時、管理の都合上で命名したのか、などと思った。駅のホームの発車メロディーには、そんなものがある(JR-SHシリーズなど)。
じゃあ、それをJASRAC検索(J-WID作品データベース検索サービス)したら…
あった!(JASRACが管理をしているわけではないが、登録はされているらしい)
作品タイトル「TR11-車内放送音楽」、著作者名(作曲)「八幡電気産業」、アーティスト名「金益 研二」
作品タイトル「TR12-車内放送音楽 」、著作者名(作曲)「八幡電気産業」
、アーティスト名は未登録
確証はないが、これ?
作曲者とされている八幡電気産業株式会社は、今も鉄道用の放送や通信機器を製造している。公式サイトでチャイムへの言及はないが、東北上越新幹線開業時に「テープ式自動放送装置」が採用されていた。ふるさとチャイムを再生して放送できるデッキのことだと思う。
「金益 研二」は、同名のピアニストはいらっしゃった。でも年齢的に、ちょっと若い気がする。

ふるさとチャイムからの流れで、八幡電気産業が共通チャイムにも関わることになり、渡辺氏に作曲を依頼した(が著作権登録では……)、みたいなことか???


【11日追記・さらに「株式会社スイッチ」という企業も関係するらしいことが分かった】
TR-11、TR-12があるのなら、TR-10とかもあるのではと思い、調べた。
JASRACには、八幡電気産業名義で、1、2、3、13も登録されていた。
Google検索すると「株式会社スイッチ」という企業のサイトを発見。鉄道向け音源制作などを行なう企業で、「音源供給先」の1つに鉄道会社とともに八幡電気産業も挙げられていた。
「音源リスト」には、「Water crown」など駅ホームの発車メロディーも挙げられていた。Water crownは、東洋メディアリンクスの製品だと思っていたが、スイッチが作っていたということか?

リストの「特急メロディー」には、TR01からTR28まで挙げられており、一部は列車名・曲名も出ていた。TR11とTR12は、やはり両新幹線。「TR」はtrainか。
そのほかは、JR東日本を中心に、小田急電鉄やJR西日本、JR九州も。
TR05~TR08は、青森と新潟の485系電車3000番台(リニューアル編成)に搭載されていた、「美しき青きドナウ(TR08)」などのクラシック曲のチャイム。※サイトでは「かもしか」も出ているが、かもしかは国鉄時代のままのオルゴールの「鉄道唱歌」でしたよ。

485系3000番台は、1995年登場。また、2001年改造の「きらきらうえつ」用チャイムにTR09、TR10、TR13が割り当てられている。登場時期と数字がバラバラ。
したがって、TR11とTR12は、制作時もしくは直後に命名されたのではなく、やはり後年に付けられたのだと思われる。【12日追記・スイッチの会社設立は1996年なので、この点からも、最初から関わったということではないのかもしれない。】(以上追記)


断片的な情報で、余計に分からなくなってしまった。



さて、もう1つ、東北版共通チャイムに関する話。
今回、ネットでいろいろ調べていたら、NHK「読むらじる。」で「車内チャイムに隠された謎とは? クラシックデュオ・スギテツが徹底検証!(https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/tetsutabi/vIMSiQQ9nI.html)」を見つけた。2021年4月16日放送。

その中で「東北新幹線のチャイム」について、「この車内チャイムの謎は4小節目3拍目の“ラソ”の音がコケちゃっているところ。」「そうそう。滑っているとも言いますよね~。」「これはワザとなのか偶然なのか? 東北を旅する、鉄道に興味のない音楽家の中でも話題になっています。」というやり取りがされていた。
音楽の素人には、そもそもどの部分なのか、そしてコケる/滑るの意味が分からない。

ツイッターでも、何人かが指摘しており、ゴスペラーズの北山陽一氏(八戸出身)は2014年10月10日に「三拍子で四小節目の三拍目のラソ(同時発音にきこえる)が、なぜ八分音符でないのか気になって仕方ない人が実は結構いるのではないか。」。
その他の方々のツイートも見て、自分なりに理解できた。

場所は、後半のトレモロ(?【11日追記・ここの場合は「トリル」のようだ】)に入る直前の、最後の部分を指すようだ。
その部分が音楽を知る人には、「ラソが同時発音」もしくは「ラが短く、すぐソが続く」と聞こえ、違和感を受けるという。その原因が「コケる/滑る」。すなわち、演奏時に指がもつれるなどして(ミスタッチ)、譜面と違う演奏になっているのではないか、ということのようだ。

つまり、チャイムの謎とは、
「本来は8分音符で等間隔に演奏されるべき「ラソ」が、それより短く不規則な長さで演奏されている。それは演奏ミスなのか、意図的に作曲されたのか」
ということのようだ。

そういえば、鉄道運転シミュレーションゲーム「電車でGO!」で、プレイ中の車内放送として、このチャイムが流れるものがあった。実物とは異なる音源で、その例の部分が、車内で流れるのと違う音符の配置じゃないかと思ったのを思い出した。ゲームでは正規の8分音符の長さで「ラソ」と鳴っていたのか。【11日追記・音が1音多いように聞こえたので、それが「ソ」に当たる。】


共通チャイムの音源は、後年にデビューした新型車両(400系~E7系まで8形式)も含めて、すべて同じ1990年の音を使い続けているはずである。各形式ごとの放送機器やスピーカーの性能で、違って聞こえることはありそうだけど。
他の鉄道車両のチャイムでは、曲は同じでも、車両型式によって音源が異なることがあるし、今ならば、途中でチャイムの音声データを入れ替えることも可能だろう。それなのに30年一貫して使い続けているのだから、演奏ミスではないと思う。最初からこう作曲されていたと考えるべきではないか。
ネットでは、放送前の注意喚起が目的のメロディーなのだから、気付かせるためにあえて不自然にしているのではないかとの声もあり、素人ながらそちらのほうが納得できる。【11日追記・素人には別に気にならないから、注意喚起の効果は低いようにも思えるが。】
【11日追記】ネット上では、一部に「E2系とE3系のチャイムは、若干音色が違う(高い)」という指摘もあった。それでも、例の箇所は同じなのだから、これはもうそう作曲されていると考えるほかないのではないか。


そういえば、上越版チャイムには、最後のほうで音が途切れて無音になる瞬間があるというか、テンポが一瞬乱れるような感じがして、ちょっとドキッとする。同じ意図でそうしているのかも。
ネット上で、音楽に詳しい人による指摘は見つけられなかったが。東北新幹線と比べると、やはり上越・北陸新幹線の利用者は少ないということなんだろうか。



謎はあるものの、多くの乗客にすっかりなじんでいるメロディー。
北海道新幹線が開業しても変わらなかったし、まだしばらく聞くことができそう。2030年度末という、北海道新幹線札幌開業の時どうなるか。その頃には、自動放送のナレーターも、そろそろ交代を視野に入れないといけなくなるだろうし。


【6月11日追記・2022年のふるさとチャイムの復活について
「「鉄道開業150年」事業」として、JR東日本が「懐かしの 200 系カラー新幹線が復活運転!!」を行なう。2022年は東北・上越新幹線開業40周年でもあるが、5月10日のプレスリリースでは、その名目とはしていない(その後のネットニュースでは40周年を謳うものもある)。
E2系電車の1本、J66編成を200系の塗装に変更するとともに、ふるさとチャイムを搭載して、定期営業運行(団体運行も)する。

6月9日から営業運行し、塗装は意外に違和感がない。
「上越新幹線と東北新幹線仙台以南で営業運行」との報道を見たが、とりあえずは東北新幹線で運行されているようだ【13日追記・この後、6月12日には上越新幹線でも運行】。Youtubeに投稿されたものを視聴すると、音源は廃止時と同一のようで、ふるさとチャイムがない東京駅は共通チャイムが鳴る。
一ノ関~盛岡のチャイムも再生できるのだろうが、仙台以北でE2系の定期運用がないので、団体列車以外では聞くことができなそう。
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2003年 仙台の国鉄車両

2021-11-29 23:53:08 | 昔のこと
2003年の山形駅の記事の続きを、ごく簡単に。
この時の目的は、仙台でのちょっとした会合で、1泊してこまちで秋田へ戻った。山形は完全な趣味の寄り道であった。そんなわけで、仙台の写真で紹介すべきものはほとんどなく、駅で撮影した2つの列車だけ。例によってもっと撮っておけばよかったと後悔。

仙台駅14番線にて、回送で発つ直前
懐かしい、白(クリーム色)に緑色帯で先頭が丸っこい東北・上越新幹線、200系電車。以前、2002年と2004年に撮影したものをアップしている。
この頃は、「やまびこ」で盛岡まではまだ来ていたようだが、廃車が進むとともに残った車両はリニューアルが施工されていた。リニューアル後は、運転席周りの形状と塗装が変わって、印象が変わってしまった。これは減りつつあった原型車両。
非リニューアル編成は2008年で全廃、リニューアル編成(1本だけ白緑に復刻塗装)は2014年までに完全廃車となった。なお、東北新幹線では2011年で運行終了。

200系には、1編成当たりの車両数や機器・設備の違いで、アルファベット(と数字)が与えられ区別されている。
写真の200系は「F80編成」。先頭は12号車222-1514。
F編成は2【30日訂正】12両編成で240km/h対応のグループ。両新幹線開業当初は210km/h対応のE編成で、1983年以降の追加製造やE編成の改造により、F編成へ移行。だから、開業からしばらくは、盛岡に来るやまびこといえばこれだったはず。
その後、改造などによりF編成の中でもバリエーションが増えた。以前の記事のような先頭が100系タイプの車など。

このF80編成は、見た目は普通だが、F編成のなかでも唯一のひときわ変わった編成で、うれしくて撮影した。
1984年製造のF17編成を1998(1997?)年に改造して、編成番号がF80に変わった。
改造内容は、長野新幹線(現・北陸新幹線、当時は長野止まり)乗り入れ対応。北陸新幹線は、途中で電源の周波数が変わり、急勾配があるため。
1998年2月に長野オリンピックが開催され、E2系だけでは輸送力が不足するため、200系では1本だけが臨時列車用に充当された。ほかにE4系にも対応する編成があった。
1998年11月には電源切り替え装置が撤去されたそうで、2003年時点では再び東北新幹線で活躍していたことになる。2004年に廃車。


今度は、仙台から松島海岸を経て石巻へ至る、仙石(せんせき)線。※2017年の乗車記
2000年に仙台寄りが地下化、あおば通駅まで延伸。2002年~2004年にかけて、山手線・埼京線用だった205系電車を改造して投入。
この時は、すでにほとんどが205系になっていて、唯一見かけた旧車両103系電車。
あおば通駅にて
昔は首都圏の国電のどの路線でも走っていた103系。仙石線への導入当初は、京浜東北線と同じ水色だったそうだが、JR化後・平成初期に103系から103系への置き換えをしていて、その時に改造と専用塗装がされている。
運転台が低いタイプで、そのフロントガラスが、原型の3分割から2分割に変わっているのか。

仙石線の103系は、205系がそろった2004年をもってすべて廃車となるはずだったが、多賀城駅高架化工事により車両が不足することになり、2006年に1編成だけ復活。トイレを付けるなど改造もされた。
結局、205系がもう1編成投入されることになって、残った103系は2009年で廃車、JR東日本から姿を消した。

国鉄車両が最後の活躍をしていた、2003年の仙台だった。
今も仙石線を走る205系も国鉄車両だけど、その代替の話もそろそろ出つつあり、今度も首都圏の中古転用か、そうではなく新製投入になるかも、といった噂が飛び交っているらしい。
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芥川作品の「割引電車」

2021-11-25 23:26:32 | 昔のこと
芥川龍之介の「父」という作品に出てくる、「割引の電車」について。※著作権がなくなっているので「青空文庫」サイトでも読めます。

秋田魁新報の高校入試対策連載「中学自習室」。2021年11月25日付の第186回・国語38回の問題文として、その前半が転載されていて、読んだ。
このコーナーの2016年辺りでは、漢字の読み書きにふざけた文がよくあった。その後、出題者もしくは方針が変わったのか、それはなくなって、魁の紙面(コラム「北斗星」や五木寛之「新・地図のない旅」の連載など)や著作権の切れた文学作品(芥川「トロツコ」)を掲載した上で、問題が続く形式が増えた。入試問題に近いとも言えるが、問題の分量は少ないと思う。「長文読解問題」としては難易度は低そう。まとまった文章を読ませることも狙っているのかもしれない。


「父」は、「自分が中学の四年生だった時の話」。
日光、足尾への修学旅行があって「午前六時三十分上野停車場前集合」で、自宅から「電車」で上野駅へ向かう。停車場でしばらく待っていると「そこへ割引の電車が来た。」。
「割引の電車」って?
よくあるように、本文中に※印を付けて、文末に難解な言葉の解説がある。中学4年が今の高校1年生に当たることなど。でも割引の電車の説明はない。分からなくても解答には支障はないが、気になる。
ネットで検索しても、誰も疑問に感じないのか、言及はなかった。

「父」は1916(大正5)年の作品。主要登場人物である「能勢五十雄」はモデルになった人物が実在したらしく、芥川自身の経験を綴ったものとする研究者がいるようで、だとすればその10年ほど前、明治末。
上野から今で言うJRで日光方面へ向かったのだろう。東武日光線は昭和に入ってから開通なので。なお、文中には「高架鉄道を汽車が通る」という描写がある。
「電車」とは、路面電車=都電、まだ東京市だったろうから市電か。東京市が運行するようになったのは1911年、それ以前は民営だったそうだ。

あと、芥川大先生に畏れ多くも申し訳ないが、上野駅のことを「上野停車場」、自宅近くの電車の乗り場のことも「停車場」としているのがまぎらわしい。※電車に乗る前に「停車場の赤い柱の前に立って、電車を待っている」とある。
当時の東京の人たちがどう呼んでいたかは知らないが、普通は路面電車の乗り場は停留所とか電停と呼ぶ。
今の、まして秋田の中学生は、こういうことは知らなくて当然。汽車と電車が両方出てくるし、停車場も2つありそうだし、と引っかかって悩んでしまわないだろうか。


で、割引の電車。学生専用電車とか修学旅行のために特発された電車のことかとも考えた。
しかし、車内では同級生1人だけ(それが能勢五十雄)と乗り合わせ、上野駅到着時点では「時刻が早いので、まだ級の連中は二三人しか集っていない」とあるので、そういうのでもなさそう。
「こみ合っている中を、やっと吊皮にぶらさがる」ともあるので、乗客は多いことになる。

「公益財団法人 交通協力会ホームページ(https://transport.or.jp/)」を見つけた。
その中に「鉄道辞典 上下巻・補遺版(デジタル復刻)(https://transport.or.jp/tetsudoujiten/)」があり、1958(昭和33)年に鉄道80周年を記念して刊行された鉄道関係用語の辞典を検索・閲覧できる。かなり貴重な資料かもしれない。
そしてその中に「わりびきでんしゃ 割引電車」があった!
「市内電車の中には朝早く乗車する旅客にかぎって、その運賃を割引する制度を採っているものがある。」それが適用されるのが割引電車。辞書の時点で東京都電など5事業者が採用。
「割引時間は始発電車から6時半または7時までの間に乗車した場合にかぎる」「普通往復旅客運賃の2割引程度(片道じゃないのはなぜ?)」「輸送力に十分の余裕のある時間帯に旅客を誘致して、つぎに来る朝の混雑時輸送を幾分でも緩和しようとする交通政策によるもの」

なるほど。辞書に載っているくらいだから、戦後でも鉄道業界や運行地域では、通用する言葉だったのだろう。【26日補足・辞典刊行当時は、秋田市電がまだ走っていたが、5事業者に含まれていないので、制度がなかったのだろう。】
今で言う「オフピーク」の優遇制度ことか。
今は、たいていは乗車券類を安く売って使える時間帯を制限する方式だったが、新型コロナ流行後はICカード乗車券へのポイント付与で実質割り引くものも出てきた。路線バスでは昔から昼間や休日を安くするものが多い(買物回数券など。秋田ではICカード導入で存亡の危機かも?!)が、コロナ流行で首都圏のJR東日本でも早朝などにポイントが付く。
一方、列車やバスの「便」を限定して、「これに乗ったら誰でも割り引き」というのは、あまり聞かない。イベントなどで、期間限定で値引くケースはあるけれど。専用のきっぷを作る必要なく、適用になるならないでモメたり混乱したりもなさそうで、簡単で分かりやすいかもしれない。
ただ、大都市を中心に運行される「深夜バス」では、誰でも、同区間の昼間の路線バスより運賃が高くなるので、割引電車と同じ手法と言える。
※「水曜どうでしょう」で言うところの深夜バスは、夜行バス(夜行高速バス)のことで違うし、間違い。本来の深夜バスは、一般路線バスの深夜に走る便を指す。

ということで解決。
それにしても、明治末~大正時代からオフピーク割り引きの概念があったのは、意外だった。そして、そのわりに混雑しているみたいだし。名称は分かりやすく「早朝割引電車」とかにしてくれれば良かったのに。
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2003年山形駅と駅弁

2021-11-23 23:11:39 | 昔のこと
18年前、2003年11月の山形駅周辺の写真から。
山形市は、何度か訪れているが、いつもちょっとだけ降りて見て終わるか、夜遅く着いて泊まって翌朝早く発つかしまっている。最近では2017年夏に訪問

JR山形駅の建物や周りは、今とさほど変わっていないはず。
駅の西口には、2001年に官民複合ビル「霞城(かじょう)セントラル」ができていた。24階に無料展望ロビーがあるので上ったところ、雨模様で雲が低くかかっていた。
線路向こう・駅東口方向
上の写真で駅からまっすぐ伸びるのが「駅前大通り」。
拡大
手前の赤い看板は、百貨店「十字屋山形店」。2017年の記事にも、同じ姿で写っているが、2018年1月で閉店。解体されて、ダイワロイネットホテルが今年2021年7月にオープンしている。
奥のほうは、おなじみダイエー。山形交通の「山交ビル」の核テナントだったダイエー山形店。1972年オープンで、ダイエーの東北1号店。2005年に閉店し、地元スーパーに代わって現存。十字屋閉店時に移ったテナントもあるそうだ。
十字屋もダイエー系列だったので、昔はそれでも棲み分けられていたことになる。秋田市でも西武とイトーヨーカドーが隣接していて、今は西武は残っているけれど…

山形駅改札口
中央の銀色の箱(ラッチ)に駅員が入る、懐かしい光景。
この時点では、新幹線側のみ自動改札機。新幹線と線路を共用する奥羽本線(山形線)も含めて、在来線側は非自動。秋田駅ほど明確に新/在が区分けされていないはずで、改札内は結局同じ通路で、新幹線はもう1回自動改札を通るんだったか?【2022年5月16日補足・この2階の改札入場後、1階の新幹線ホーム入口にも改札がある構造で、必ず2つの改札口を通らないといけない構造。この時点では2階に新幹線用改札機が置かれているので、必ず特急券も投入しないといけなかったことになるのか? 現在の2階は、新在の区別なく在来線用改札機が置かれている。】

この時は、新庄方面から来て、数時間途中下車して、仙山線で仙台へ抜けた。
719系電車による快速
仙山線では2001年の春に、元は急行用だった455系電車が撤退し、以降山形側では719系の独壇場だった(仙台側では701系も運用)。719系は2013年で撤退。
同じく2001年春には、仙山線のダイヤが平日/休日に分離された。快速列車には以前から「仙山」の愛称があり、この時から休日ダイヤの快速が「ホリデー仙山」にされたそうだ。乗ったのは土曜日だったから「ホリデー仙山」のはず。
その後、2004年秋には、快速の愛称がなくなっている。また、停車駅が少ない(ノンストップもしくは2駅のみ)特別快速の仙山/ホリデー仙山もあったが、2003年秋に廃止。

山寺から先の仙山線乗車はこの時が初めて(その次は2017年)。山形駅でなんとなく選んで買って、車内で食べた駅弁が、
特製山菜牛肉 みちのく弁当の旅 900円
これが、牛肉の煮付けがおいしくて気に入った。山形駅以外ではなかなか購入しづらく、その次はやはり2017年まで食べられなかった。その時の記事で触れたが、2013年頃にリニューアルされている。
(再掲)2017年のみちのく弁当の旅 1100円
製造元は「森弁当部」だったのが、2015年に「もりべん」に改称。
【24日補足】箱では「森弁当部 森旅館」とされていて、秋田の関根屋などと同様、駅前旅館が駅弁も兼業していて、後に旅館をやめたパターン。もりべんの社屋は旅館だった建物を使っているらしい。なお、記憶する限りでは、箸袋↓のように森旅館を付けない「森弁当部」だけで呼称するのが一般的だったと思う。

以前はほぼ正方形で、立派な箱に入っていた。全国的にたまに見られるタイプだが、箱に入れるのが手間そうだし、客も持ち運びや処分にちょっと困る。今は細長い筒。
蓋は経木

(再掲)2017年版

2003年版
おかずの構成は、変わっていなそう。牛肉の色の違いは撮影条件もありそう。玉子焼きは、若干質感が変わっていて、以前のほうがより手作りっぽかった。玉こんにゃくは表面がつるんとなった?
リニューアルでは、牛肉やぜんまい煮・ヒラタケ煮を中心に、量が減らされている。下のごはんも、減っているのだろう。
旧版では、おかずはごはんの上に雑然と置かれ、すき間が生じているのが、素朴というかなんというか。今のほうが見た目はきれいだし、量も少ないとは思わないから、時代に合わせたリニューアルととらえるべきか。ということで、また食べたい。→2022年に食べたのだが、また変化していた

続きとして仙台の鉄道を少々
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案内標識の絵

2021-11-11 22:54:39 | 昔のこと
「方面及び方向」の案内標識(108系)の続き。
1986年改正前の旧仕様標識として、前回主に取り上げた、県道233号の、保戸野原の町~泉南の1985年開通区間。そのうち、BとCの標識があった、秋田生鮮市場保戸野店の交差点から西へ伸びる市道「泉ななかまど通り」。それを400メートル進んだ、市道「泉いちょう通り」との交差点が今回のメイン。
西側から
この交差点には、4方向とも案内標識が設置されている。周りの同様規模の交差点では、設置されていない方向のほうが多いのに。
しかも、ここの案内標識は若干変わっている。
東進側
東進向きのものだけ、下に「50m」と書かれ、他の3枚にはなし。4つとも交差点との距離は同じくらいだけど、手前に小さいながら交わる道があるからだろうか。間違う人はいないだろうけど。
南進側
案内される地点は4枚とも同じ。北「土崎」、東「仁別」、南「大町」、西「川尻 山王」。一般的な標識に比べると、板に対して文字が大きい。
前回の県道にはあるべきなのになかった、土崎、大町、山王は出てきた。でも、あちらにあった手形や八橋は消えてしまったし、秋田駅や県庁市役所はどちらもない。

そして、土崎には船、仁別には山、大町にはビル(7階建て?)の絵が、それぞれ添えられている。ほかは青色だが、山は緑色で描かれ、とても険しい姿。
駅など施設に対してはピクトグラムが添えられることもあるが、これは施設ではなく地名に対するものだし、ピクトグラムというよりわりとリアルな「絵」。絵は具体的だが、絵が指すものが抽象的というか雰囲気だけで、この絵だけを見せられて、それぞれの地名を連想できる人はいないだろう。
リアルな船で波紋も描かれる
【12月14日追記】1枚だけ新しいものに作り直されており、船の絵が違うものになっていた

一般的なピクトグラムの例。
土崎の市道の案内標識
この港のマークは、秋田港というピンポイントに対応するものだし、船のほか係船柱(ボラード)も描かれていて、港であることが伝わりやすい。ただ、ピクトグラムとしてJIS規格(末尾参照)に定められた港は、船だけのようだが。

青森県道260号、弘前市「取上」交差点東
岩木山は岩木山っぽいし、天守と桜となれば弘前城しかないが、うまい具合にピクトグラムっぽくしている。このように、ピクトグラム部分を反転表示させる場合もある。
あと、ここは「弘前駅」くらいはあっていいのでは?【12日追記・「弘前城」は、「弘前公園」かせいぜい「弘前城址」とすべきではないだろうか。現役の城ではないし、現代の案内なので。】

泉・保戸野に話を戻して。
この交差点ができたのは、生鮮市場のほうよりは数年遅い、昭和の終わりのはず。1988(昭和63)年時点で、ここを通る千代田町経由神田交通局線が走っていた。
案内標識が現行仕様(ローマ字あり、ナール書体)に改定されたのが、1986年10月。前回最後のような最初期は建設省管轄でもまだ手書きのものがあったが、ここが開通する頃には秋田市管轄でもナールを使うようになっていたことになる。

前回も触れた国交省のサイトによれば、1986年の改定では、標識に「市町村章、都府県章、シンボルマークの表示を可とした」とのこと。それでピクトグラム入りが増えたのだろうか。
ここの交差点の場合、黎明期のため、秋田市が「シンボルマーク」とは何かを理解していなかったか、拡大解釈して地名に対する絵にしてしまったのか。そして、ここまでやったなら「川尻 山王」に絵を入れてやれなかったのか。
地名の選択や文字サイズも、模索の途中だったのだろう。文字の大きさは、大きいほうがいいと思うのだけど、どうして最近のは小さくなったのかな。

開通直後、僕はこの標識の絵を見るのが楽しかった。これからはこんな案内標識が増えていくのだろう。その時はどこがどんな絵になるのかな、と楽しみにしていたのだけど、ここだけに終わってしまった。


その後の設置例をGoogleマップストリートビューより。
横金線を広面から北進した、手形山。秋田高校の坂へ下りる交差点の手前。
仁別に例の絵が!
今は県道41号だが、最初は市道だったはず(手形山大橋・手形トンネル開通前は、直進方向はなかった)。南からこの交差点までが開通したのは、平成初期頃だろうか。文字は現行並みに小さくなっている。
直進の橋~トンネルが開通したのが2000年頃。仁別へは、県道15号との交差点を右折することになるが、そこの案内標識には仁別でなく「仁別国民の森 Nibetsu Kokumin no Mori」で文字のみ。


場所変わって、手形山の下、市道と県道15号が交わる「からみでん」交差点。県道はこの交差点で曲がっていて、北と東。
県道・秋田大学方向から西進する側
ここでも「仁別国民の森」で、こちらはピクトグラム付き。大きい木とその下にベンチっぽいものが描かれているが、伝わりにくいデザイン。

この向こう、天徳寺・旭川橋から東進する側は市道。市道側にも案内標識が設置されている。同時に設置されたかどうかは分からないが、以下のように差異があるので、別々に発注されたようだ。
ピクトグラムたくさん
左折方向に3つのピクトグラム。でも文字は「仁別国民の森」と「太平山リゾート公園」の2つだけ。
仁別国民の森のローマ字は「Nibetsukokumin no Mori」と、県道とは区切りが微妙に違う。どっちみち日本語を知らない人には通じないでしょうけど。ピクトグラムは同じ。

残りのピクトグラムは、泳ぐのとスキーするのと。
仁別でそれとなれば、前回記事の石川市長時代(計画は高田市長時代から)にオープンした、「クアドーム・ザ・ブーン」と「太平山スキー場 オーパス」。太平山リゾート公園の主要施設であり、リゾート公園の名前より市民に浸透しているかもしれない。ただし、リゾート公園にはほかにキャンプ場や植物園もあり、この2つのピクトグラムだけでいいのかとも思う。
リゾート公園への誘導が、県道側になくて市道側にあるのは、単に設置時期の違いかもしれないが、リゾート公園は秋田市が主導したものだからだろう。県としては知ったこっちゃないと。

ところで「仁別国民の森」。物心ついた頃は、秋田市民は仁別に遊びに行く時は、代名詞のように「国民の森」と言っていた気がする。その後、太平山リゾート公園ができると、以前ほどは聞かなくなったような…
仁別国民の森は、林野庁の管轄で、今も存在する。1966年、明治100年記念で全国に6つの国民の森が指定された1つ。その後で「仁別自然休養林」にも指定。林野庁ホームページでは「仁別自然休養林(仁別国民の森)」と紹介している。
ただ、現在でも秋田市民に「仁別国民の森」は充分浸透している。ツイッターで「"国民の森"」で検索すると、仁別ばかり出てくる。ほかの5つの国民の森はどうなったのか。
仁別はその後「家族旅行村(今は国交省管轄)」にも指定。遊園地「仁別レジャーランド」ができて7年でなくなり、リゾート公園ができて今に至るようだ。


以上、案内標識のピクトグラムは、統一されていないのが実情。
国土交通省では「道路標識設置基準」において「表示するピクトグラムは、表示する公共施設等の性質、種類等が容易に識別できるもの(当該公共施設等が日本工業規格 Z8210 に定められているときは、これに適合するもの)でなければならない。」としている。
そのJIS規格自体が、オリンピックパラリンピックなどもあって変遷していることも一因のようだが、ここで紹介したピクトグラムは「駅」以外は適合していないと思われる。まあ、通じればとりあえずいいのだろうけど。
そして、前回と今回で触れているように、文字で示される案内先も、一貫性がないものが多い。もう1回続く
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元秋田市長 石川氏逝去

2021-11-09 19:52:57 | 昔のこと
1990年から2001年まで秋田市長を務めた、石川錬治郎(れんじろう)氏が、2021年10月29日、82歳で亡くなった。※弘前と直接の関係はありませんが、最後のほうでちょっとしたつながりが出てきます。
死因は未発表だが、「急逝」とツイートしている政治関係者がいる。
11月3日付 秋田魁新報 社会面には、死亡記事と「評伝 「草の根」を掲げ多くの支持得る」が掲載された。遺族による死亡広告や、死亡届に基づくおくやみ欄掲載はなかった。東京の病院で亡くなったとの報道もあり、秋田から転出していたのだろうか。5年くらい前だろうか、市内でお見かけしたのが最後だった。公式ホームページは2015年頃、公式ブログは2016年7月21日でそれぞれ更新停止。

石川氏は、秋田県五城目町馬場目生まれ。千葉大学助手を経て、1983年から参院選や市長選に出馬するも落選。前市長の病気辞職後に秋田市長となり計3選。3期目途中(残り1年)で女性への現金授受騒ぎが起きて、妻の介護を理由に辞任。その後、秋田県議会議員を1期務めた(前後に衆院選や県議選で落選)。
といった経歴。
なお、出生地はWikipediaでは「日外アソシエーツ」を出典として「五城目町字杉沢」としているが、大字の「馬場目」が抜けていることになる。


秋田市長としての業績は、秋田公立美術工芸短期大学(現・秋田公立美術大学)の開学、中高一貫校・御所野学院の開校が挙げられよう。Wikipediaでは美短は触れていない。【2022年2月10日追記・市立美術工芸専門学校を短大化した経緯について、秋田魁新報「シリーズ時代を語る・青木隆吉18」より】1986~1989年度に在職していた専門学校長に対して、高田市長から「学校の将来について考えてほしいとの話があり、それが短大構想の始まりだったようです。」とあり前市長時代から内々で話は出ていたようだ。公約にした石川氏が当選し「短大構想は急速に具体化しました。」。
魁では2000年に「国連軍縮秋田会議」を開催したことも挙げていたが、記憶にない。

振り返ってみれば、そのほかにもいろいろある。前任者時代から進んでいた事業だが、秋田市出資の第3セクター企業による、ポートタワーセリオンやクアドーム・ザ・ブーン、太平山スキー場オーパスのオープンも任期中。
秋田新幹線開業は秋田県主体だが、開業と同時の秋田駅舎改築も(高架化も検討されたが、橋上駅舎に収まった)。開業日(関連記事)の秋田駅ホームのテープカットでは、石川氏は上が茶色・下がベージュ色の羽織袴姿で、ミッキーマウスとともに異彩を放っていた。

古紙など資源化物(資源ごみ)の回収品目の充実、救急救命士と高規格救急車の導入は、どちらも全国的に早いほうだった。国が進めたことだが中核市移行は全国第2弾。
以前、「きらめく北の人間都市あきた」という市のキャッチフレーズを取り上げた。1991年度策定の「第7次秋田市総合計画」が初出で、2001年頃まで使われたとしたが、石川市長の在任期間と一致する。


バブル崩壊の直前に就任したわけで、以降、日本経済も秋田市も衰退し続ける中での仕事だったことになる。
上記3セクの経営は悪化した。就任前に街びらきしていた御所野ニュータウンには、イオン秋田ショッピングセンター(現・イオンモール秋田)がオープンし、(イオンだけが原因ではないと思っているが)秋田市中心市街地は衰退した。郊外移転した秋田赤十字病院跡地には、「芸術文化ホール」構想も出たが立ち消え、退任後も長く空き地が続いた。

そして、秋田市の公営企業であった、秋田市ガス局と秋田市交通局(秋田市営バス)を廃止し、民間企業へ移管したのは、石川氏の決断であった。その結果、ガスはともかく、バスの現状は…
全国的な流れもあったし、いろんなしがらみや抜き差しならない事情もあっただろうから、石川氏自身がどうしても民間移管したかったわけではなかったかもしれない。
市長退任後の石川氏は、自転車(※)のほか路線バスで出歩くことが少なくなかったようで、駅前のバス乗り場で何度も見かけ、車内で乗り合わせたこともあった。「あんたが決めた結果がこのありさまだよ」と思ってしまったけれど。※魁には自転車で初登庁する姿が話題になったとあったが、秋田テレビでは市役所正面の広場方向から歩いて初登庁する映像が流れた。その後も自転車通勤(保戸野八丁の市長公舎=現・保育園から)することがあったとは聞いている。
良くも悪くも、今の秋田市があるのは、多かれ少なかれ石川氏の力があったことになる。自分が子どもから大人になる時期の市長だった人の記憶を留めておくことにしたい。

【2023年10月22日追記】秋田市の人口が30万人を突破したのが1989年。2002年まで増加を続けた。その後、2005年に河辺雄和両町と合併したものの、減少が続き、2023年には30万人を切ることになる。石川氏在任中は、人口としては増え続けていた時代。


石川氏の訃報を受けても、ネットでもマスコミでも、市長時代の業績に関する言及はかなり少ないと思った。仮にも県庁所在地の20年前の市長なのに、もうすっかり過去の人なんだろうか。
秋田市長は石川氏の前が高田景次氏(1973~1990年。2003年没)、後が現秋田県知事の佐竹氏(2001~2009年)、その後が現職の穂積氏。
秋田市長経験者で存命なのは、佐竹氏だけになった。でも、佐竹氏=秋田県知事が定着してしまったから、佐竹氏が秋田市長だったことも、すっかり忘れられていることでしょう(実際、“腰掛け”市長だったと思う)。

【10日追記】11月10日付 秋田魁新報 文化面に歌人の佐佐木幸綱氏による「石川錬治郎さんを悼む/ほろ酔いの身を翻し」が掲載。2人は早稲田大学で同級生だったとのこと。1998年に秋田市で「日本文化デザイン会議・秋田会議」が開かれ、その後石川氏が「日本ほろよい学会」を立ち上げ(よく知らないけど会議も学会も名前は聞き覚えある)、佐佐木氏も関わって親交が深まったといった内容。




以下、石川氏に関する個人的エピソード2題。
我が家では、石川氏がしゃべる姿をテレビで見聞きする時、話題になることがあった。
この人、かなりなまる。
なまると言うのは、イントネーションではなく、言葉に濁点が付くような。「わだずが、あきたすちょうのいすかわです」みたいな。秋田の人でそう話す人はいなくはないが、石川氏はかなりきついほうだった。

ずっと秋田にいる・いた人なら、まあそれも当然。でも、東京の大学を出て、千葉で大学の先生をしていた人。
大学の講義でしゃべることもあったろうに、なまりが抜けることがなかったのか、それが学生にどう思われていたか…

ところで、菅前首相は、秋田弁風(純粋な秋田弁ともまた違うようにも感じる。少なくとも秋田の人がみんなああいう話しかたではない)のイントネーションが抜けない。
このかたも、高校卒業後秋田を離れ、ずっとあちらにいたのに抜けず、そのしゃべりで何度も選挙を勝ち抜いて、内閣総理大臣にまでなった。首相就任時の東京での街頭インタビューでは「なまりが素朴で親しみが持てる」などと好意的な声があったのにも驚いた。それならば、もっと心をこめて、真に“丁寧な説明“をしてくれれば、もっと好感度が上がったのでは?

東北の人は、自分のなまりや方言をコンプレックスに感じることが多いもの。そして秋田県人は「いいふりこき(見栄っ張り)」で方言を隠したつもりで、うっかり使ってしまうこともある。
だけど、このおふたかたの話しぶりには、それらが感じられない。堂々となまっている。見習うべきかもしれない。


石川氏の大学教員時代の専門分野は、公式プロフィールでも「千葉大学園芸学部」までであまりはっきり示されないことが多かった。魁の評伝などにある通り「農業経済学」が専門。
千葉大の園芸学部は、他大学の農学部と同義。
農学系と言えば、生物や化学的分野が連想されるが、それ以外にも幅広い。土木や機械の農業工学、そして農業経済学というのもある。農学系唯一の社会科学系(文系なんだろうけど、入試は理系科目だったりする大学も)。
2000年頃の弘前大学農学生命科学部では、農業経済学分野に5名の教官が配置されていた。農政、経営、流通、協同組合、農村社会学などを研究していた。概論的な授業を受けたことがあるが、個性的で話が上手な先生が多く、おもしろかった。そのおひとりが「ペルーのフジモリ大統領(当時)も農業経済学者(今調べたら、農業工学の数学が専門のような情報も)。農業経済を学んで政治家になる人も多い」と話していた。石川氏もそのひとりであり、フジモリ氏とほぼ同年代、市長・大統領就任期間もだいたい重なる。
石川氏のさらに細かい専攻が、農業経済の中のどの分野だったのかは分からないが、どんな講義だっただろう。


ところで、その頃の弘前大学の教育学部(学校教育 発達心理学分野)には、石川教授という教官がいらして、共通教育(旧・一般教養)の授業を受けたことがあった。
その石川先生は、なんと石川錬治郎氏の親戚らしい。

といっても、確証は1つもない。
石川教授は、なまってはいなかったと思うし、お顔が似ているわけではなさそうだったし、秋田出身だとか話した記憶もない。
ただ、情報源は学生間の噂話レベルではなく(弘前で秋田市長が誰かなどどうでもいい話)、信頼の置ける人から直接伺った話(「親戚らしい」の形だけど)だから、僕は信じている。

石川教授は、1998年度(1999年3月)で停年退官(定年退職)。錬治郎氏より6歳ほど年上。
「学園だより 第123号」に退職に当たっての文章を寄せている。それから分かったのは、1959年に仙台から弘前へ来て、以後40年間在職したことくらい。


さらにもう少し関連。
1999年4月、弘前大学教育学部に新しい教官(当時の職名・助教授)が着任した。発達心理学ではなく、教育心理学という分野所属のようだったが、石川教授の後任なのだと思う。
その助教授の前任校は、秋田公立美術工芸短期大学。
石川市長の親戚の後任者が、石川市長が開学させた大学から赴任したとは、なかなか奇遇ではないだろうか。
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旧仕様案内標識

2021-11-07 18:54:02 | 昔のこと
秋田市道の「方面及び方向」の案内標識に関連して。
前回の2つ目では、楢山・牛島橋バス停付近の古い案内標識を交換したものを取り上げた。その周辺には、もう2本、古い標識があった。
そこから北に位置する楢山広小路バス停・秋田楢山郵便局の交差点。北側(中央通り・聖霊高校から南進向き)と、西側(下新橋から東進向き)にあった。
前回のコメント欄の通り、北側は2017年7月から2018年7月の間に撤去された(更新されず)。逆L字型の角がアールを描き、標識を吊り下げる柱でサビで茶色くなっていて、表示板はもともとは手書き文字だったのが2012年10月から2015年8月の間に新しいものに交換されていた。牛島橋と酷似した見かけなので、進行方向も同じことだし、同時に設置されたのかもしれない。ただ、こちらの手書き版は文字がはっきりと判読でき(更新の必要なかったかも)、直進が国道13号、左折が「秋田駅(馬編の点が1つにまとまっている)」、右折が「大町」。更新後は直進に「牛島」も追加されていた。

交差点西側のものは、現役(2021年夏頃以降未確認ですが【2021年11月28日時点で現存】)。
左が聖霊・右が牛島橋
これも吊り下げタイプだが、支柱のサビがなく、表示板の文字も異なる。
左折方向は無視。「中通」くらい書いてもいいのに
文字が手書きではなさそうだが、写研「ナール」でもない。そして見覚えがある。
かつてのバスの行き先表示でおなじみ、モリサワの丸ゴシック体だと思われる。ただ、「秋」の「火」の点の向きから、バス方向幕とは同一書体ではなさそう。旧脳研・成人病医療センター前の看板(書き換え済み)など、道路標識類での使用例はなくはない。
モリサワでは、角ゴシック体をベースに丸ゴシック化した書体を、写真植字機時代には何種類か提供していたそうだ。昔は看板やテレビの字幕などでもわりと使われていた。しかし、どれもデジタルフォント化はされていない(例外中の例外でNHKでは特注で使えるらしい)。ナールや最近の丸ゴシック体とはまた違う雰囲気があって、個人的には好きなのに…


ここで、案内標識に関する法令の変遷をまとめておく。以下のサイトに、詳細や写真があります。
 国土交通省 わが国の道路標識の歴史 https://www.mlit.go.jp/road/sign/sign/douro/hist01.htm
 光和産業株式会社 標識デザインの変遷 http://www.kowa-roadsign.com/20200907153336
交差点に設置される方向を1枚にまとめた標識(108系)は、1962(昭和37)年に初登場。当時は手書きで、ローマ字入り。
1971(昭和46)年には、ローマ字表記を廃止。
1986(昭和61)年には、ローマ字を復活。※国交省のサイトでも「英語」ではなく「ローマ字」としている。
この1986年に、文字を手書きでなく活字とすることとし、ナールを用いるのが定着して現在に至る。ただし、必ずナールでなければならないわけでもない。建設省(当時)が示した仕様書「土木工事標準設計図」でナールで例示されたのに、自治体も追随した(自治体単位では規定している所もあるようだ)という、デファクトスタンダード状態なのだろう。

楢山広小路西の標識は、ローマ字がないから、1986年より前の設置だろうか。にしては活字を使ったとなれば、当時としては先進的だったのでは。


ここで場所と時期を変える。
秋田県道233号のうち、保戸野~泉の「原の町通り」と愛称が付けられた部分+アルファの区間(約500メートル)。ここは1985(昭和60)年の春に開通したと記憶する。秋田市街地において、縦型信号機が初めてまとまって設置されたはずだが、大幹線ではない道路としては案内標識が多く設置されたのも目新しかった。開通区間に3つある交差点のうち、すべての方向だから4か所設置された。同じ交差点でも、新規開通でない方向には、その時点から現在まで、まったく設置されていない。
地理院地図に加筆。設置位置はA~D
支柱はアールがなく太く、現行と同様。板は小さめで、色は水色気味(楢山のより薄い)。経年による退色もあろうが、元から薄めだった気もする。ローマ字なし、手書き文字。

いちばん南側のA地点
秋田大学教育文化学部附属中学校近く、マンションアーバン原の町のあるY字路交差点の南進向き。
そう言えば、ここから右折・新国道(高陽幸町交差点)方向は、1985年より若干後に開通した気もする。Y字路に信号機が設置されたのが少し後で、中古品を寄せ集めて、車両用はなぜか横型で設置されていた(2014年交換済み)。

左折が「手形」「千秋トンネル」、右折は「八橋」。秋田市民には通用する。
でも千秋トンネルという、地名や施設でない道路構造物、しかもわずか500メートル先にあるものを表示するのが珍しい。そして「秋田駅」あるいは「大町/中通」はあるべきでは。
「八橋」は妥当だが、「山王」や「県庁/市役所」、新国道を指す「県道56号」もあるべきでは。

逆向き・北進するB地点
秋田生鮮市場保戸野店近くの交差点。ここは当初は左折しては新国道(新川向交差点)までは細い道だっだはず【8日補足・拡幅後は1990年に「泉ななかまど通り」と命名】。
ここも左折は「八橋」のみ。右折は「平和公園」と「添川」でどちらも珍しい。後に設置される標識では、平和公園でなく「天徳寺」が一般的だし、この方面だと「卸売市場(当時は中央卸売市場)」あるいは「外旭川」もあって然るべき。

Cを飛ばして、そのまま右折してすぐ、それ以前からあった交差点との接続部D。したがって開通以前は丁字路で、信号はなかった。
引き続き「平和公園」「添川」。
県道としては直進する。右折は狭いが元県道。1つ手前の生鮮市場の交差点のこの向きには案内標識がないから、手形、大町、秋田駅方向へ行く人は、標識による誘導がまったくされないことになる(さらにもう1つ手前の交差点にはあるが)。この交差点を通り過ぎてしまうと、大町や駅へ行くのは遠回りになる。市道と県道で調整して、標識を増設したほうがいいかもしれない。

戻ってC。
縦の道が2本、「八橋」が2つ
左折して350メートル進んだ、A地点の標識の内容を内包した表示。親切なようではあるが、戸惑う人もいよう。現行ではこのような表示は規定外ではないだろうか。
そして現状では、やはり「秋田駅」「県庁/市役所」「県道56号」さらに「土崎」もあるべき。

旧仕様としては最末期設置と思われる標識。加えて、表示する地点の選択にクセというか偏りがあるように感じられる。特に秋田市中央部へは誘導したくないかのような雰囲気。板や柱の状態は悪くないが、いつまで残るだろう。
秋田市道の古川添交差点の南側・卸町にも、アールなしL型柱の手書き標識がある。
(再掲)現在は本荘と大曲は上貼り修正
書いた人が違うということだろう。タッチが違うかな?
【12日追記】今回のA~Dの中でも、Aだけ「八」の2画目の横が長く、そのほか「橋」の右下のハネ、「形」の右側など、C~Dと少し形が異なる。


Googleマップストリートビューより。新屋の雄物川左岸、雄物新橋から川沿いに下って、雄物大橋(の上)手前。【7日追記・現存しないようだ。】
ローマ字入りで手書き
これは市道だが、国道7号北行き側にも同じ仕様の標識がある。
「雄物川河口」は、いわゆるももさだ海岸。「R.M.」とは「river estuary」か。【8日訂正】河口を英語では「estuary」とも言うが、厳密には「河口域」や高校の地理で習った「三角江、エスチュアリー」を指すようだ。ピンポイントとしての河口はそのまんまの「river mouth」だそうだ。語源としては偶然の一致なのか、それとも関係(どちらかを訳したとか)があるのだろうか。

雄物大橋と続く国道7号秋田南バイパスが開通したのは、1986年10月。案内標識に再びローマ字を入れる決まりに改正されたのと、同月。
したがって、新仕様になった最初期の作例と思われる。建設省(当時)直轄であったはずの国道側でもナールではないということは、手配が間に合わなかったか、最初期はナール使用が浸透していなかったということだろうか。

新基準初期の例について、続く
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'03大館 信号とバス

2021-10-23 23:30:05 | 昔のこと
2003年8月2日17時台に、秋田県大館市のJR大館駅周辺で撮影した写真を、少々ご覧いただきます。当時の大館を知るかた、よりは路線バスや信号機に興味のあるかたに懐かしい画像かもしれません。
21世紀の2003年=平成15年、そんなに昔ではない気もしていたけれど、18年も前。何より写真に写っているものは昭和のもので、やはり「昔」になってしまっていた。

当時どうして大館にいたかと言えば、日帰りで弘前ねぷたを見に行ったから。開始時刻頃に弘前に着く普通列車で行って、大館での待ち時間で駅周辺をぶらついた。ちなみに帰りは、当時運行されていた秋田に翌日1時過ぎに到着する臨時特急を利用。
当日は雨で、夏の17時にしては暗く、カメラ性能もあって写りは悪い。夜には上がって、ねぷたへの影響は少なかったようだ。

2013年も記事にしていたが、駅前から秋田県道21号を進み、貨物線として営業中(旅客は1994年まで。2009年完全廃止)だった小坂製錬(小坂鉄道)の踏切を渡れば、御成町二丁目の商店街。
「2丁目大通り」
1973年に設置(着工は1970年。一部サイトで1970年完成とあるのは誤り)され、2015年に撤去されたアーケード。※ここの南、長木川対岸(大町商店街?)では今も古くなったがアーケードがある。
ご多分に漏れず、今は寂れた通りで、当時もその傾向はあったのだろうが、煌々と蛍光灯が灯り、路上駐車もあって、にぎやかそう。
右奥には、2006年に閉店したジャスコ大館店(解体済みで更地。2016年の記事)も見える。

この写真を撮影したのは、アーケード街を撮りたかったからではない。先方の信号機を撮りたくて(だからアーケードも路駐もジャマだったのだけど、今思えば撮っておいて良かった)。
当時としても、また秋田県中央地域住民としても、貴重な信号機。歩行者用もそうではあるが(撮らないでしまったけど)、何よりも車両用信号機。
LED式・縦型がほとんどになった今では、電球式・横型だけでも珍しいが、それだけではない。鉄製ボディの、京三(きょうさん)製作所製という点で珍しい。

信号機の材質は、今はステンレスやアルミニウム。その前は樹脂(主にポリカーボネート)。さらにその前は鉄が、それぞれ主流だった。鉄製ボディの初期は、直方体の四角い箱だったが、その後角が取れて丸っこくなった。
秋田県警では、鉄製は1980年頃までの採用。それ以前に設置された信号機が、細々と21世紀まで残っていた。秋田市内では1972年より後の製造の日本信号製が2011年まで残っていた

信号機のメーカーは大手3社以下複数あり、相互にOEM供給し合う製品もあるが、各社独自設計のものもある。鉄製時代は、大手3社それぞれで個性が強いデザインだった。
秋田県では、エリアによって信号機のメーカーに偏りがある。今も昔も、京三製作所製は大館周辺に多く、秋田市内にはかなり少ない。

というわけで、2000年代でも秋田県としてはレアでレトロな信号機が、大館の県道の商店街に残っていたのだった。
なお、この時点では、交わる市道側は縦型に交換されていたようだ。その後、アーケード撤去より前に、県道側も縦型に交換。その後さらにフラット型に交換。

車両用信号機のレンズ(点灯する部分)の直径は、25センチか30センチが原則。昔の秋田県警では、赤だけ30で黄と青は25というのも多かった。ここは、幹線道路ということかオール30センチ。

横型電球式のごく普通の信号機に見えるかもしれないが、いろいろと違うのです。
まずボディ色がほぼ白色。樹脂製以降はグレーが標準。これは他メーカーでも同じで、ペンキの色ということか。鉄製では、定期的に錆止め・再塗装が行われていた。フード(庇)の内側が黒でないのも、この時期の特徴。

ほかには、柱に取り付ける2本のアームのうち、下側が大きな弧を描いている。
今の信号機は、細い一直線の棒のようなスタイリッシュなアームもあるし、信号機本体とアームの組み合わせは自由で、途中で交換することもある。一方、昔の信号機は、本体とアームはセットが基本だったようで、メーカーによってアームのデザインも違っていた。
フードもメーカーや製造時期で違い、これは先が細くとがった「くちばし」のような形状。

参考までに、だいたい同世代だと思われる、秋田市の新国道「八橋大畑」にあった日本信号製。
(再掲)これはアームは無塗装、フード内側は黒
どちらも箱型だったボディが丸っこくなった最初のモデル。1970年代前半~中頃の製造ではないだろうか。
日本信号製は、いかめしい感じがするのに対し、京三製作所製は柔らかく見えないでしょうか。ボディの余白が少なく、相対的にレンズ部分の占める割合が多いようにも見える。

大館の信号機と同タイプの信号機が、秋田市内にあった記憶はない。しかし、同時期製と思われる、赤だけ30センチの信号機は少数存在した。新屋船場町の丁字路や、羽後銀行本店前の歩道橋(現・北都銀行本店前、歩道橋は撤去。歩道橋直付けでアームはなし)、そのほかにも多少あった(臨海バイパスの「川尻若葉町」もだったかな)はず。※県外で撮影した写真があるので、いつか。
それらは、オール30センチよりもさらに柔らかく愛嬌のある顔つきに感じられて、子ども心に好きだった。そして日本信号製は怖い印象で、しかも設置数が多くて嫌いだった。

撮影した2000年前後は、インターネットを使い、多くの趣味のサイトを見るようになった頃。信号機趣味のホームページもあり、この京三製作所製の古い丸型信号機に、愛好家によって愛称が付けられていることを知った。
愛称というのは、C57形蒸気機関車の「貴婦人」、ボーイング747の「ジャンボジェット」みたいなの。ジャンボは、当初ボーイング社は嫌悪感を示したそうだが、後に自らも使用。

上記の通り、ボディに対してレンズが多くを占め、さらにフード形状によってもレンズが目立ち、「目玉がぎょろっと」しているのをエイリアンにたとえて、「宇宙人」と呼ばれる。
一部サイトでは、特定のエイリアンのキャラクターと結びつけた命名だとか、25センチではなくオール30センチのみを指す名称とされているものもあるが、それらが合意形成されているのかは不明。
個人的には、宇宙人の名を知った時、実に的確なたとえだと感心した。25センチ版のほうがより宇宙人っぽく見える気もする。

印象的なデザインの信号機なのは間違いないようで、「ヒョロ」「笹かまぼこ」など別の愛称も付けられていたようだが、宇宙人が多数派。
ネットの普及で“用語が統一”されたこともあるだろうし、実物の信号機は撤去が進んで数が少なくなり(温暖な地域には、2021年でも多少現存するのでは?)、信号機愛好家でもなじみがない人が増えたこともあるだろう。
なお、名古屋の大須や宮城県などにある、4方向の信号機をまとめて吊り下げた集約灯器は、マスコミが「UFO」にたとえることもあるが、宇宙人信号とはメーカーやデザイン等の関係はない。
信号機はここまで。


次は大館駅前の秋北バスの一般路線バス。当時は、今より国際興業との結び付きが強かった関係で、車両はいすゞ製で統一されていた。
車体塗装は、この頃、赤とキャラメル色のような独自デザインから国際興業グループ共通塗装に代わりつつあった。しかし、2008年の創業65周年の復刻、さらに国際興業との関係が薄れたことにより、今は再び自社塗装が多数。当時は、減りつつある自社塗装の記録として撮影した。
秋田200か57。側面はラッピング
いすゞLV(LT?)キュービック。秋北バスとしては珍しくもなく、秋田市交通局でもおなじみの、カキッとした車体とフロントガラス1枚・オーバーラップワイパーが特徴の車。【24日補足・秋田中央交通は自社発注では1台もなく、2000年前後に中古で初登場。交通局譲渡車も加わってそこそこの勢力になったが、2020年で全廃。】
今ネットで調べても、この車の情報はほぼない。
秋田中央交通の「か66【26日補足・三平バスより先に1台だけ入った初のエルガミオ。今春廃車されたとのこと。】」は2000年導入だから、これもその頃の登録。ということは中古車、当時だから国際興業から来たのか。

秋田22い745
なんとも懐かしい“昔のバス”。昔とは1980年代中頃までの製造のこと。「スケルトンボディ」になる以前「モノコックボディ」という構造で、僕にはどれも同じに見えてしまう。幼かったことに加え、当時は同じ車種でも、車体を組み立てる(架装)メーカーが複数あって、それによってぱっと見では識別が難しかったことが理由。
これは、キュービックの1世代前のいすゞ車。1980年~1984年と短期間のモデルだったとのこと。架装は川崎車体(KAWASAKI COACH。後にIK COACH、いすゞバス製造を経て、今もいすゞのバスを製造するJ-BUSに変遷)だから、これが当時のいすゞの純正ボディ。
その頃の秋田市営バスのいすゞ車は、富士重工と北村製作所の架装が多く、川崎架装の車もあったが少数派だったようで、そのせいかなじみが薄い顔。【24日訂正・川崎架装車は台数としては一定数あって、富士重工よりは多かったか? ともかく、キュービックのような抜きん出た個性や存在感はなかったと思う。】

この車は国際興業の中古らしい。秋田市営バス最後となった1996年度の導入車両のナンバーが780番台だから、その直前の移籍。
以前、2002年の弘前のバスを紹介したことがあった。その中に、これと同世代の三菱の通称「ブルドッグ」もまだ走っていた。
秋田市営バスではモノコックボディのバスは、1999年度頃までに廃車済みだったはずだが、地域によってはまだ普通に走っていた。それが21世紀初めという時代だった。


最後に、秋北バスの2台の行き先表示(方向幕)について。
57号車「羽立経由 弥助」は、昔の方向幕で一般的なモリサワの丸ゴシック体。745号車「新沢(?)経由 大館鳳鳴高校前」は、細身のナールっぽい書体。
そして、どちらも幕の枠に対して、中央にちまっと文字が書かれ、上下左右とも余白ができてしまっている。後に他社同様枠いっぱいに表示されるようになったが、当時の秋北バスではわりと見られたはず。

どうしてこんな書きかたなのか。
昔存在した、枠が小さい表示機用の幕を使い回せるよう共通化したのかと思うが、違いそう。小型幕は左右の幅が狭いから、これほど左右の余白があってはセットできないだろうし、逆に小型幕を使い回したら、幅が足りずに左右に中の蛍光灯が見えるはずだし、自動停止のバーコードのセンサーも働かないはずだし、上下のコマの文字が出てしまうかもしれない。

幕に文字を印刷する時の費用や作業の都合上、文字の部分だけ小型幕用のものを使い回しているのではないだろうか。
また、文字の上下の余白は、前や次のコマの余白と共通して使えそうなので、方向幕の総延長が節約できるメリットもあるかも。


大館以外の2000年代の写真など、またいつか。
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2021年夏の訃報

2021-08-24 23:47:01 | 昔のこと
2021年夏、著名な人が何人か亡くなった。
特別な思い入れがあるわけではないが、活躍されていたお姿が記憶に刻まれている方々。全国区で4名、秋田で1名をここに記録しておきます。一部敬称略。

●江田五月 政治家 7月28日 80歳没
1990年代、政治に多少興味を持つようになった頃、活躍が目立った。参議院議長や菅直人内閣で大臣も歴任、2016年引退。

自民党で今も現役の、ASO氏や2階氏と同世代だそうだけど、彼らのような傲慢さやふてぶてしさ、見ていて不快感はなく、むしろスマートで穏やかな印象。
立派な、というかこれが本来の政治家なのではないか。


●サトウサンペイ 漫画家 7月31日 91歳没
史上初のサラリーマンが主人公の4コマ漫画「フジ三太郎」を、1965年から1991年までの長期にわたり、朝日新聞に連載。

ほかに「ドタンバのマナー」という作品もあり、テレビアニメ化された。
1985年か1986年頃、秋田テレビ(AKT)で土曜の20時前に5分間放送していた。「ドタンバ」という男(前髪以外はフジ三太郎に酷似)が主人公で、生活上の気配りやエチケットが題材。
Wikipediaによれば、283話あり、フジテレビで1984年から1987年まで曜日・時間を変えながら放送したものの、全国ネットではなかった。サザエさんと同じエイケン制作。
フジで土曜19時55分枠だったのは1984年10月~1985年9月(この後10月開始の「ハイスクール奇面組」は20時00分まで枠が拡大)で、AKTで見たのはそこか。

さらに、70歳近い1990年代後半には、当時普及したパソコンに挑戦。
エッセイ扱いのようだが「パソコンの「パ」の字から」シリーズを執筆。元は「朝日パソコン」連載で、後に単行本化されたはず。
軽く読んだことがあるが、パソコンの基本から、インターネットまでひと通りこなして、分かりやすかった。最終的には、パソコンで漫画の描画にも挑んだようだ。

ところで、ここ最近は「ハイレゾ」として「ハイレゾリューションオーディオ」が少し注目されている。ハイレゾとは「高解像度」なこと。
その20年前の「~「パ」の字から」にも「ハイレゾ」が取り上げられていて、「ハイレグじゃないよ」と書いてあったのを記憶している。何を指すのかは記憶にないが…
当時は、「マルチメディア」がパソコンの宣伝文句の1つだった。やはり音のことを指すのか、あるいはNECのPC-9800シリーズに、画面の解像度を上げる「ハイレゾモード」があったそうで、そっちか。
あと「デバイス」は「出っ歯が椅子に座ってるんじゃないよ」もあった。「ディスクトップじゃなく、デスクトップで、2つの意味(ノートブックに対するパソコン本体の種類、OSの基本画面)がある」みたいな説明もされていた気がする。
当時はパソコン関連用語のほとんどが耳慣れないもので、必要以上に用語を覚えないといけない感覚があったのかもしれないが、分かりやすい説明だった。今はこういう本ってあるだろうか。
パソコンとは関係ないけれど、読者からの編集部への質問で「『(以前の連載に、料理の)レシピ』という語がありましたが、どういう意味ですか」というのも。時代を感じる。


●斎藤雅広 ピアニスト 8月8日 60歳没
新聞の訃報欄に、写真付きで出ていたのを見て、忘れかけていたのを思い出し、若くして亡くなったのに驚いた。
作曲編曲も手がけ、軽妙なトークというかオヤジギャクというかとともにテレビにも出演。

僕が存在を知ったのは、テレビ出演でも最初のほうに当たる、NHK教育テレビ(現・Eテレ)「トゥトゥアンサンブル」。1997年度~1999年度放送【25日追記・斎藤氏が出演したのは1998年度まで】。
この番組は、小学校3・4年生向け音楽科の学校放送番組。22年続いた3年生向け「ふえはうたう」の後継であり、どんなもんかと見た。

1994年度に終了して後継がなかった4年生向け「ゆかいなコンサート」の内容も扱うようになって、ふえはうたう時代よりリコーダーの扱いは少なくなった。最初の2年間はリコーダーを教えるのは専門の先生ではなかった(オカリナ奏者 本谷美加子、ケーナ奏者・俳優 田中健)。
そんな番組の全体の進行役が、斎藤さん扮する「キーボーズ」。紫の着物(作務衣?)など派手な衣装とパフォーマンスの一方、正装でピアノも演奏した。学校放送で存在感を放ったキャラクターの1人であった。

トゥトゥアンサンブル終了後、2000~2002年度は3年生向け「歌えリコーダー」になり、ふえはうたう時代に戻った形になったそうだ【25日追記・キーボーズが出なくなった1999年度から、その傾向はあったようだ】が、2003年度以降の後継番組はなし。2015年度には3~6年を対象とした「おんがくブラボー」というのが始まっている。


●笑福亭仁鶴 落語家 8月27日 84歳没
上方落語の重鎮、1960~1970年代にはラジオやテレビの司会で大人気、吉本興業への功績も大きいそうだ。
でも、僕は世代・地域的にNHK「バラエティー生活笑百科」の相談室長(司会)。
番組は1985年に始まり、最初は西川きよし氏が室長だったが、選挙出馬のため1年で降板して、仁鶴氏に交代したのだが、その記憶はない。※レギュラー化前は板東英二も務めたことがあったらしい。
だから、仁鶴氏といえば「土曜のお昼の人」。それが学校が半ドン(=午前中で終了)の頃は、1日半の休日の始まりの合図であった。
【2023年8月6日追記・1985年度は小学校の授業が4時間目まであり、帰宅時しても番組に間に合わなかった。幼かったことに加え、長期休み中以外は見る機会がなかったので、西川氏の記憶がないのだろう。1986年度からは(下校が遅いことが問題視されたのか)3時間目で終わるようになった。】

長らく続いたが、お歳のせいもあるのだろう、2016年には、桂南光 相談室長補佐を置くようになった。
2017年途中からは仁鶴室長が出演しなくなってしまっていた(桂南光はCEOに)。夫人を亡くした心労があったようだ。
今後は、「笑点」の桂歌丸“永世名誉司会”のように名誉室長のような形になるのか、桂南光CEOが昇格するのか。→生活笑百科の枠を使った追悼特番が放送され、「名誉室長」となることが発表された。オープニングの声も継続。

あとは毎年1月3日にNHKで放送する「初笑い東西寄席」の、なんばグランド花月中継担当も印象にある。2000年から2014年。



●山田 實 8月12日 100歳
8月23日付 秋田魁新報は、訃報欄ではなく、社会面の記事「軽妙な語り口で秋田の習俗紹介/山田實さん死去 100歳」として報道。
その肩書は「元ラジオパーソナリティー」だったが、詩やエッセイを書き、文化財保護に関わるなど多様。
うちの年寄りの話では、秋田市通町にあった、あるお店が生家とのこと。

1947年に秋田魁新報社入社、社会部記者、放送部長、製版部長などを歴任。→新聞社で「放送部」ってのは何? 時期的に秋田放送(ABS)はもう独立していただろうし。
魁を退職後は秋田放送などでキャスターとして活躍。1985年から2006年までエフエム秋田の番組「あきた歳時記あれこれ」で親しまれた。→FM秋田開局時からの番組か。


僕は15年ほど前だが、1度だけ講演を聴いたことがある。ご自宅は秋田市手形山で、1年間の手形山から日の出の位置を記録した話などされていた。
その前、山田氏の存在を知ったのが、1980年代後半、ABSで流れていたテレビCM。
秋田の冠婚葬祭の概要をまとめたような本の告知で、最後にABSの副調整室かラジオスタジオのような場所にいる山田氏が、「秋田では秋田のルールがございます。カンコンソーサイ ハンドブック」と秋田なまりと独特の抑揚で話すのが印象的だった。あと、これで「冠婚葬祭」の言葉を覚えた。
その後、第2段のようなCMもあったが、それはさほどインパクトがなかったような。


調べると、「秋田の冠婚葬祭ハンドブック : いざというとき役に立つ、マナー&エチケット」が1986年3月に出版されていた。編集・製作はアートシステム(秋田市の広告会社)、出版者が秋田放送。1380円(当時は消費税なし)。

CMの通り続編があって、1988年5月に「秋田の冠婚葬祭ハンドブック Part-2」、1994年8月に「秋田の冠婚葬祭ハンドブック Part3」が、同じ作者、出版元で発行されていた。
今は絶版のようだが、秋田市立図書館や3以外は秋田県立図書館に収蔵。

3冊出たからには、それだけ“秋田のルールがございます”のだろうか。いつか読んでみないと。
秋田では火葬後に葬儀をすることとか、あるいはお盆の飾り付け(今年も当ブログに多数アクセスをいただきました)なんかも載っていたのか。今の時代にもあるべき本かもしれない。
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サンライフの天気時計

2021-08-16 23:45:36 | 昔のこと
秋田市八橋運動公園の西隣、八橋南一丁目に、秋田市やそれに関係する福祉・保健分野の施設がまとまる一角がある。福祉エリアとか、まとめた名称があってもよさそうだが、なさそう。この点はまた後日。
1978年まで秋田市立秋田商業高等学校があった場所で、1980年代中頃に今のようになった。1997年の中核市化にともない、秋田市保健所が(当初は駐車場だった場所に?)追加で造られている。
なお、八橋南は2002年の住居表示実施でできた地名で、それ以前は「八橋字戌川原(いぬかわら)」だったはず。

前にバス停があって、その名は「サンライフ秋田・秋田市保健所前」【28日訂正】「秋田市保健所・サンライフ秋田前」。
その名の通り、よく分からない多くの機関・施設が集まる中で、サンライフと保健所がここにあることを知る市民は多いはずで、このエリアを代表する施設と言える。
なお、1988年の冊子時刻表によれば、保健所設置前のバス停は「サンライフ秋田・秋田市保健センター前」【28日訂正】「秋田市保健センター・サンライフ秋田前」だったらしいが記憶にない。
※したがって、この記事では、このエリア全体を指して「サンライフ」「サンライフ秋田」と表記することにします。


山王大通り「児童会館前」交差点から、市道を北・面影橋方向へ進み、この一角に差しかかる地点。
左側がサンライフ
ここに最近まであったある物が、いつの間にかなくなっていた。
植えこみに撤去した痕跡
Googleストリートビューによれば、2019年9月にはまだあって、2020年10月にはなくなっていた。

僕はここはほとんど通らない。2020年4月に通りかかって、こんなものがここにあったのかと、写真を撮影したのが、最後の記録になってしまった。
2020年4月
撤去されたものは、公園にあるような自立式の時計である。タワー状のてっぺんにセイコー製のアナログ電気時計が両面設置されているが、その下に、木の枝葉のように別のものがくっついてる。ただの時計じゃない。

反対面も同じ
葉に見立てたのか、5つの緑の箱があって、それぞれ、
「よくなるでしょう」「快方に向かいます」「下り坂に向かいます」「わるくなるでしょう」(ここまで4つにはランプが付いている)
「これからのお天気ガイド 約8~10時間語のお天気の傾向を予測いたします」
また、てっぺんには風見鶏も付いている。動くのかは不明だが、東西の方角表示は正しい向き。

この先の天気が表示される。と言っても、気象庁や気象会社の発表を受信して表示するようなものではない。気圧計が内蔵されていて、それに基づいて表示するような仕組みのはず。
「天気予報」というよりは「天気傾向予測」程度か。

同種の時計は現在でも、屋内用の掛け時計や置き時計として市販されている。
屋外用では、セイコー、シチズン、パナソニックの設備時計大手では、少なくとも現在はなさそう。
一方、「石川商事」という企業では、大手の設備時計をベースにしたモニュメントなどの「特殊時計」を作っていて、その1つに「温湿度計・天気予報」というのがあった。現在も、デジタル表示で天気予測する屋外用時計はあるようだ。

「お天気ガイド」で検索したら、サンライフとはまったく別デザインで同種のものが2つ見つかった。
北海道小樽市「サンモール一番街」には、アーケード天井から吊り下げで「8時間後の予報です」。
同じく北海道留萌市の「留萌駅前大通り」には、道路の中央分離帯に、サンライフよりコンパクトな自立式。時計はシチズン製。「約8時間後の天気予報」で、(実測していると思われる)温度表示も装備。
何時間後は異なるが、「お天気ガイド」名で天気傾向が4種、時計本体は複数メーカーであることからして、やはり時計本体とは別のメーカーが、3つとも手がけたのではないだろうか。


秋田のものは、2020年時点で、時計は動いていたが、天気表示はたしかどれも点灯(点滅?)していなかったと思う。
金属部分にはサビが出て、天気表示枠もボロっちくなっていて、危なっかしい状態。特に「よくなるでしょう」が穴が開いていてよくない。撤去もやむなし。

「サンライフ」は「中高年齢労働者福祉センター」が正式で、「テルサ(勤労者総合福祉センター)」などと同じく、雇用保険の福祉事業の一環の施設。
2007年に雇用促進住宅などとともに、雇用福祉事業が廃止。秋田の場合は財団法人秋田市勤労者福祉振興協会へ譲渡されて現在に至る。

この時計を設置管理していたのは、秋田市ではなく、サンライフ側だったのだろうか。
歩行者は多いとはいえず、利用者の多くは車で来るようなこの場所、しかもバス停からは見えない。現在なら、ただの時計でさえ、設置されないかもしれない。現に、撤去後代替の時計は未設置。
昭和末、バブル期に突入していた頃だからこそ、設置されたのではないだろうか。 

【10月6日追記】コメント欄でも触れたが、このタイプの時計は、秋田市内のほかのどこかにも設置されていたような記憶もあるが、定かではない。
もしかしてと思い出したのが、中通の公営駐車場の中央通り側。車の入口辺りに、歩道に向かって、高さは配置は違うが、表示部の作りはよく似たものがあったようなおぼろげな記憶があるようなないような…
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トラペンアップの思い出

2021-08-06 19:30:02 | 昔のこと
先日のOHPの続き、「トラペンアップ」のこと。
本題の前に【「投影」と「投映」について】
前回の記事では、プロジェクターの画像をスクリーンに映し出すことを「投“影”」と表記した。「投影」が最初に変換されたし、それしか思い浮かばなかった。その後、OHPメーカーのホームページに「投“映”」表記があり、そちらのほうが適切かもと思って、調べてみた。
毎日新聞 校閲センターのサイト「毎日ことば」で、2020年6月19日に「映す場合でも「投影」が多数派(https://mainichi-kotoba.jp/enq-249)」がアップされていた。
まとめると、「投映」は1960年代以降に出てきた言葉であり、スクリーンに映すのが「投影」でも間違いでない。現在は「投影」が多数派だが、使い分ける新聞社も出てきている。といったところ。今回の記事も引用部分以外は「投影」とします。


本題。
前回、OHPに投影する原稿であるシート・フイルムのことを、「transparent(=透明な)」から「トラペンシート」「トラペン」「トラペ」などと呼ぶこともあったとした。「TP」と呼ぶ場合もあったらしい。僕はそうした呼び名に触れたことはこれまでなかった。

今回の「トラペンアップ」は、シートのことではなく、機器の名称で商品名。
OHPを知っていても、トラペンアップを知らない人はとても多いはず。ネット上では昔の思い出として、主に学校でトラペンアップを使ったような話はいくらかある程度。

僕がトラペンアップに接したのは1度だけ。1985年度、小学校3年生の時。
学級担任は、当時40歳前後の女性。教材研究に熱心だったようだ。
教室のOHPのそばに、ある時から、黒くて、平べったいボディの機械が置かれた。天面にちょうつがいがあって開く、後のフラッドヘッドスキャナ(もしくは複合機など小型コピー機)のような姿。
そばには細長い紙箱も。用途は見当がつかなかった。

なかなか使わなかったが、ある理科の時間。OHPとともに、その機械を使う時が来た。その時初めて、先生が「トラペンアップ」と口にしたと思う。
その授業では、児童各自にノートをまとめさせ、机間を回って何人かのノートを選び出した。
細長い紙箱の中には、筒に巻かれた透明なビニールっぽいもの。箱には刃も付いていた。つまり食品包装用ラップフィルムみたいなので、それを少し大きくした感じ。
その透明なのをラップのごとく切り取って、(以下の手順はうろ覚え)ノートとともにトラペンアップの蓋を開いてはさむと、ピカッと光って、透明なものにノートの内容が転写された!
それをOHPのステージに載せると、ノートと同じものがそのまま投影された。
トラペンアップとは「紙の原稿から、OHPシートを作成する装置」なのだった。


先生は僕のノートも取り上げてくださり、紹介してくれた。
そして、投影が終わったシートをくれた! 紹介してくれたこともうれしかったが、もらえたのもうれしかった。
そのこともあって「トラペンアップ」の意味不明な独特な響きが、記憶に刻まれた。

当時も意外に感じたのが、ラップ式シートの材質と印刷の色。【最後に写真があります】
一般的なカット済みOHPシートは、ぺらぺらした硬いもので、折りづらいが折ると折り目が付いてしまう。
ロールのシートは、ふにゃっとした柔らかい材質だった。食品包装ラップよりは厚く、引っ張っても伸びたり裂けたりはしにくい。
インクのようなものがあったかは忘れたが、転写された色は、銀色に見えた。投影すると黒く映ったので、光を通さないインク(?)だったことになる。


その先生には次年度まで2年間お世話になったのだが、その後、トラペンアップを使った記憶はない。機械もいつの間にか教室からなくなった。
学校の備品を長期間教室に独占するとは考えにくいから、もしかしたら先生の私物(ご夫婦で小学校教員だったから共有してたかも)だったのか。


以上の思い出を基に、ネットで調べた。
トラペンアップは上記の通り、特定メーカーの商品名。「トラペン(=OHPシート)をアップ」する機械という意味なのだろう。

製造販売元は「理想科学工業」。
前回、OHPのプロジェクターのメーカーの1つに挙げた。公式サイトによれば、OHPもトラペンアップも1972年5月に発売開始。トラペンアップは「OHP用フィルム製版機」としている。
企業名のなじみは薄いかもしれないが、世代によっては知らない人はいないであろう家庭用印刷機(主に年賀状用、1977~2008年頃)「プリントゴッコ」、今は「リソグラフ」などオフィス用印刷機(コピー機ではない)のメーカー。

※印刷技術については詳しくないし、実はプリントゴッコを使ったこともないので、ネットの受け売りです。
リソグラフもトラペンアップもプリントゴッコも、「孔版印刷(シルクスクリーン)」の原理を使っている。
ネットには、トラペンアップでプリントゴッコの代用ができるとか、一部部品や消耗品を共用できるとかいう話もあった。
孔版印刷は紙以外にも印刷できるそうだから、普及しつつあるOHPに目を付けて、トラペンアップを製品化したのだろうか。【7日補足・2021年時点のリソグラフやリコーの同種オフィス用印刷機では、紙類のみ印刷可能とされている。】

1972年の初代トラペンアップの型番は「TU-230」。その後「TU-250」「TU-265」も存在したようだ。
ネットに画像はとても少ないが、オレンジ色がかった赤い蓋の写真はあった(プリントゴッコの古い機種も同じ色だったようだ)。担任の先生が使っていたのとは違いそう。


「TPロール」「トラペンロール」という言葉も見かけた。ネットに1つだけ箱の写真があり、RISOロゴと「トラペンアップ専用OHP投映用フィルム」とあった。箱のデザインの記憶はないが、あのラップ式のフイルムだ。
孔版印刷は何にでも印刷できるというからには、通常の硬いカット済みシートにも印刷できそうなものだが、何か制約があったのか、それともロールのほうが安価だったのか。


ネットで見つかる役所や学校の資料では、競合商品がないためか、商品名の「トラペンアップ」をそのまま記載することも多かったようだ。
秋田県大館市立有浦小学校は、1971年末に火災で全焼。その見舞いの金品が寄せられたことが、1977年2月1日の「広報おおだてNo.235」で紹介されていた。その1つに、市内の教材会社から「トラペンアップ一式(135,000円相当)」を贈られていた。

一方、1978年11月15日愛知県「岡崎市AVL(岡崎市視聴覚ライブラリー)」発行「月報視聴覚教育NO47」には、「TP作成機、市内1/3の学校に設置」として、市立小中学校に「TP作成機(ゼノファックス180型)」が3年計画で導入されることを紹介。
「この機器は、従来から普及しているトラペンアップの最高級機にあたるもの」「単色カラーシートを使えば」「コピーなどもでき」とある。
印刷機と兼用するものを導入したのか。
プリントゴッコも版を分けてカラー印刷できたとかいうから、OHPもカラー化できたということか? でもインクが光を通さないと、OHPではカラーにならない。よく分からない。

さらに1980年12月1日の同NO68では、ゼノファックスを「教室に持ち込み」授業で使った事例が報告されている。ゼノファックスとは、今のリソグラフの前身かと思ったが、小ぶりな機械だったのだろうか。


前回のコメント欄で話が出たが、OHPの欠点の1つは、シートの修正が困難なこと。【7日補足・あとは細かいグラフなどを投影したい時、シートに直接書くと、ツルツル滑って描きづらかったり、インクが乾かなかったり、難儀することも欠点か。】
書き上げた紙を転写すれば、特にシートに直接手書きしてうっかり字を間違えるような不安はなくなる。でも、それは(前回の通り平成初期頃以降は)コピー機でもできる。
両者のランニングコストは分からないが、OHPにしか使えないトラペンアップは導入費用や置き場所では不利だろう。
コピー機よりトラペンアップのほうが優れているのは、大きくない機械なので、電源がある場所ならどこでも持ち運べ、紙に書いたその場で転写して、その場でOHPに載せて投影することが可能。
だから、経験したように教室で書かせたものをすぐに見せられ、授業の“ライブ感”が出るので、学校現場で好まれたのではないだろうか。
そんなことも、今では、書画カメラや、最初からパソコンで作成して大画面に出力できてしまうが。個人的には、その場でなく、先生がじっくり選んでくれて、紙に印刷して配ってじっくり見て参考にするというようなことも悪くなく、そもそもライブ感がそんなに必要なのかとも思う。

宮崎県高崎町立(現・都城市立)高崎小学校では、1992(平成4)年度の卒業記念品としてトラペンアップが贈られており、平成初期にはまだ販売されている。
全国的にいつ頃まで使われていたかは分からないが、OHPといっしょか少し先に、その役目を終えたのだろう。


ネットで、とても珍しいトラペンアップの学校教育での使用法を見つけた。
公益財団法人 東レ科学振興会「東レ理科教育賞(https://www.toray-sf.or.jp/awards/education/winners.html)」の1988年度受賞作に「TPシートを用いたプレパラートの作製と活用」があった。当時の埼玉県浦和市立教育研究所の指導主事の研究。
ガラスを使わず安価で扱いやすい、中学校理科で使うプレパラートをトラペンアップで作るというもの。


最後に、36年前に作ってもらったトラペンロール。今も保存している。
広げるのは何年ぶりだろう。

経年で黄ばんでしまった。折って保管していたので、その折り目が付いたほか、細かい傷もある。
上のヘタクソな黒い文字は、もらった後に油性ペンで書いたもの。もらったうれしさと、「トラペンアップ」の語を忘れるのが惜しくて書いた。どうせなら日付も書けばいいのに…

油性ペン文字の下が、トラペンアップの印刷だが、上の写真ではほぼ見えない。上記の通り銀色っぽい印字で、36年前より薄れてしまったような気がしなくもないが、さほどでないかもしれない。
手で触った程度で剥離するような状態でなく、しっかりくっついている。指先で触ると若干凹凸があって、裏面に鏡像で印刷されているのかな?

原稿となったノートは、ジャポニカ学習帳のたぐいでなく、教科書の内容に連動した「理科学習ノート」みたいなワークブック的なもの(副教材として買わされていた)。その枠線だけ印刷されたフリーページに書いたようだ。
うっすらと縦長長方形の枠が見えると思うが、それがほぼノート1ページ(B5判)のサイズ。

「日なたと日かげ」みたいな単元で、校庭と中庭で温度を計測したことをまとめている。中身は大したことないし、我ながら字がとても汚い。
と思いながら見ていたら、思い出した。先生が選んでくれた時「字の濃さがいいね」みたいなことをおっしゃった。前後で、ノートの字がくっきりと転写・投影されないことを悩んでいた(トラペンアップを調整していた?)ような気もした。選出理由は中身じゃなく筆圧か…

シート(トラペンロール)を細かく見てみる。
厚さ、柔らかさ

刃による切れ目

シートの下に白い紙を置いて、上から直射日光を当てた状況

同上拡大

OHPステージを想定して、下からLEDライトを照射
↑36年前とあまり変わらず、銀色に見える。

OHP投影を想定して、正面からライトを当て、少し離れた白い紙に投影すると、

油性ペンの文字さえ薄く映ってしまった。それを踏まえて比較すれば、トラペンアップの文字でも充分判読できる濃度だと思う。
だけど、本当にOHP投影を目的として紙原稿を作るのなら、普通よりは少し太めの筆記具で書いたほうが見やすかったのかもしれない。

以上、昭和末期のOHPとトラペンアップの思い出でした。
シートといっしょに、教科書に関する資料も出てきたので、いずれまた
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OHPの思い出

2021-07-28 22:28:17 | 昔のこと
「OHP」をご存知でしょうか。
世代によって認知度が分かれるらしい。知っている世代はほぼ全員知っているはず。
機器の名で、少し前まで学校には必ずあり、企業・団体でもよく使われていた。現在はほぼ使われなくなっている(死蔵はしているかも)。

日本では1960年代頃から広まったらしいが、全国の学校にあまねく配置されたのはもっと後だと思う。宇都宮市の作新学院小学部のサイトには1973年に全教室にOHPを設置したとある。そんな感じで1970年代に普及した雰囲気。団塊の世代が在学中は、まだなかったかもしれない。ただし、卒業後、就職先等で知った人は多いだろう。
下の世代では、昭和生まれ/平成生まれが、知る/知らないの大雑把な境のようだ。地域差はあまりなさそう。
そんなわけで1970年代~2000年頃が、OHPの全盛期だったようだ。


OHPとは「Overhead projector(オーバー・ヘッド・プロジェクター)」。
なお、OHPは知っていても、何の略かは知らない人も少なくないようだ。
プロジェクターの一種なのだが、基本的には映写機などとは違う見た目をしていて、知らない人は、プロジェクターと分からないかもしれない。

OHPは、写真とか動画ではなく、透明なシート(※)に記した文字や絵を、投影する装置。授業・講習やプレゼンテーションに重宝された。
学校教育向けには、教科書に連動した資料を印刷したシートや、エンジンの構造と動きを説明するような動く指導用教材も発売されていたようだ。
【30日追記・コメント欄のように、動くパーツを使って、子ども向けのお話を、動く紙芝居というか影絵劇のように上演することもあった。】
※無地のOHP専用シートが市販されていた。実態は無色透明の薄いプラスチック。平成に入る頃までは手書きが基本だったはずだが、色ペンを使えばカラー表示できる。【30日補足・OHP用を謳うペンも市販されていたが、油性ペン(細字マジックなど)で代用可能。】
OHPシートは「OHPフィルム」とも呼ばれるほか、「transparent(=透明な)」から「トラペンシート」「トラペン」「トラペ」などと呼ぶこともあったとのこと。業界や組織で、呼び名に偏りはあったと思われる。名残りで、今のプレゼンソフトのファイルや(プリントアウトした?)資料のことも「トラペン/トラペ」と呼ぶ企業や人もいるらしい。


ネット上に手頃なOHPの画像がなかったので、自分でかいてみました。
単純化した典型的なOHP
このほか、進化形のOHPもあるので、後ほど。
ちなみに、どんな絵でもありそうな「かわいいフリー素材集 いらすとや」には、現時点でOHPのイラストはなさそう(ワープロやVHSは掲載)。過去の遺物なのか。

上の絵のようなOHPは、人が両手で抱えてギリギリ持てる程度の箱から、棒(ヘッドアームと呼ぶらしい)が突き出たもの。
箱の中に電球や冷却ファンが入っていて、天面が原稿を載せる平らなガラスの台=ステージ(コピー機の原稿台のような感じ。絵の黄色い部分)。電源コードが出る。
アームの上のほうに、台の原稿をスクリーンへ反射するミラー(やレンズ?)が付く。
下からの光と原稿の像が、ミラーで90度前方のスクリーンに投影される、みたいな構造。

話者が説明する時、スクリーン(に映った像)ではなく、プロジェクターに置いた原稿を指し示しながら、(スクリーンを背にして)聴衆のほうを向いて話できるということで、Overhead。
説明しながら原稿を指し示すだけでなく、その場でペンで書きこんだり、複数のシートを重ねたりもでき、当時としては画期的なプレゼンテーションツール(という言葉はなかったけど)だったようだ。

2000年代になると、書画カメラ(OHPと通ずる点はある)や、PowerPointなどプレゼンテーションソフト、パソコンと直結したプロジェクターや電子黒板が出現。その普及でOHPの役目は終わった。
ただ、プロジェクターや電子黒板だと、基本的に指し示す時は画面を向いてやらないとならず、Overheadではない。レーザーポインターも普及した。Overheadはそれほど要求される条件ではないのか。また、Lifehacking.jpの「いまでも参考になる OHP 時代のプレゼンの「ダメ」な例」では、OHPであってもスクリーンのほうを指し示すべしとしているように読める。この辺は分野の慣習や流派・流儀のようなのもあって、見解は分かれそう。


以下、OHPの思い出を織り混ぜつつ。
OHPに出会ったのは小学校。
1980年代の秋田市立の小学校では、各教室の前(正面の黒板と重なる位置だったか、その横だったか?)に、スクリーンが備え付けられていた。【2022年7月5日言葉足らずだったので補足・スクリーンは巻取り式で、教室の天井に取り付けられていた。それに引っ掛けて下ろすための、金属製のフック付きの棒も、各教室に配備されていた。】
OHPの機械は、全クラス分ではないがけっこうな台数あった。どこかのクラスに置きっぱなしにして、ほかのクラスが借りに来ることもあった。

Wikipediaのオーバーヘッドプロジェクタの項に、
「金属製の頑丈なキャビネットを兼ねた台の上に乗せて利用する。使わないときは、キャビネットの中に入れて施錠することで高価なOHPの破損や盗難を防ぐことが出来る。」とある。
小学校ではたしかにキャビネットとOHPがセットだったと思うが、中に入れずに、上に載せて、ビニールカバーをかけて、教室前の廊下に置くこともあったはず。重くてガラスで危なそうだけど、やんちゃな子が抱きついてひっくり返すようなことは、ありそうでなかったのか。

小学校のOHPは違うメーカーのものが何種類かあったが、機能は変わらないはず。
内田洋行(1976年制定の「UCHIDA」ロゴ)やOEMだろうけど学研(当時はブランド名で社名は学習研究社)のもあった。
1つだけちょっと変わったのがあった(内田のだったか)。メイン電源を入/切すると、「チーン」とベルが鳴るもの。緑色系統のボディで「Chime」とか書いてあったか。※上のイラストは、これをイメージしました。
電球切れは珍しくないようで、本体に2球をセットし、レバー操作ですぐに交換できるものもあった。

ネットで調べると、リコー、プラス、富士フイルム系列(後述)、3M、理想科学工業、とオフィス用品メーカーなどがOHPに参入していた。キヤノンなんかも作れそうだけど、同社は未参入っぽい。
小学校にはなかったが、原稿台が上下するズーム機能付き、ヘッドアームが台側に倒れてかさばらずに収納できるものなどもあった。


小学校では、先生にもよるけれど、頻繁・定期的ではなかったが、たまにOHPを使った。
戦前生まれ・当時50歳前後の先生は、1人に1枚ずつシートを配って、好きな絵をかかせて上映会をした。
OHPの名前は先生にも児童にも浸透していた。「オーバーヘッド」と呼ぶ先生も一部いた。
【30日追記】教室で先生が準備している間などに、(スクリーン前もしくはステージ上で)手でキツネやハトの形を作って手影絵する子もいた。あと、校内テレビ放送が試験的に実施された時には、スタジオの照明の代わりとしてOHPを使っていた気がする。


秋田市立中学校は、各教室の前方右側にスクリーンがあったと思う。
OHPは全教室に1台ずつ配備され(テレビはなかったけど)、Wikipediaの通り、台兼用のキャビネットに入って、教室右前に置かれていた。
1年生の時の新採用の英語の先生が熱心に使ったが、それ以外はほとんど使わず、稼働率は小学校より低かった。
技術科でも使ったことがあったようで、スクリーンに向かって説明する生徒を見て、身振りを交えて「OHPってのはな、オーバー、ヘッド、プロジェクターなんだぞ!」と、前を向いて話させたのを記憶している。そこでオーバーヘッドの意味を初めて知った。

斬新だったのが、学級目標の紙製横断幕作成。担任の先生が段取りした。
本の字典(書体見本)から、必要な文字をOHPシートに転写。
黒板に色画用紙を貼って、そこに文字を投影して、輪郭をなぞる。その画用紙を切り抜いて、ほかの紙に貼り付ければ、きれいな活字の横断幕ができあがるというもの。
当時のワープロ専用機やパソコンでは、拡大に耐える文字はまだなかった頃だから、そうするしかなかったのだろう。

字典からシートへの転写方法は、職員室のレーザーコピー機(トナーを使う普通のコピー機)で、シートに複写したはず。こんなツルツルしたものにコピーできるのかと、感心したはず。
でもコピー代やシート代を考えれば、無駄が少なくない。
このやり方は、手がきの看板屋さんが使うことがある(あった)らしい。

【8月2日追記】中学校では可搬式スクリーンとともに体育館へ運んで、学校祭の時にテーマソングの歌詞などを投影したこともあったと思う。小学校の学習発表会でも、同様に使ったような気もする。


秋田県立高校は、貧乏だったのか、1度もお目にもかからなかった。校内どこかに何台かはあって、可搬式スクリーンはあったかもしれないけど。


そして大学。ここで画期的なOHPに出会った。
両開き冷蔵庫、明朝体のリュウミン、マイクロピペット、インクジェットカラープリンター、デジタル・グランドピアノ等々と並んで、これまでの人生で「感動した工業製品」の1つ。

入学早々の授業で、(当時はまだ普通にあった)プリンター一体型・大型液晶画面のワープロ専用機のようなサイズと見た目の、持ち手が付いた機械を持ちこんだ先生がいらした。
それを広げると、
Internet Archive(後述)より
なんとOHPが完成!(広げても、点灯するまで分からなかったかもしれない)
あの抱えなければならない分厚い原稿台部分が、厚さ5センチあるかどうかまでコンパクト化されている。
投影するミラー部分、アームもそれぞれ折りたたむことができ、電源コードは本体に巻き取り収納。
光源やファンは、上のミラー部分へ移されている。原稿の上から光を当てて、反射させる方式のようだ。
このタイプを「ポータブルOHP」と称するようだ。僕は、持ち運べること以前に、分厚いOHPをここまで小さくたためる構造にしたことに感激した。
赤矢印を加筆
たたむ時は、上から順に、ミラーを光源部分へ、光源をアームへそれぞれ収納し、アームをステージまでぴったり倒して、蓋をする。広げる時はその逆。上の写真では、蓋が写っていないことになる。


Wikipediaには、
「超広角ミラーを利用した軽量薄型の機種も存在した。薄型の機種の場合は専用のキャビネットを使わずに、通常の机やレクチャーテーブルなどに置き使用し、使用する箇所に持ち込む事が容易なため、高価なOHPの台数が削減できたり、盗難から守りやすくなる。また、OHPを備えていない会場に持ち込み使うこともできる。 」と記述あり。
なるほど、ミラーがコンパクト化の肝だったのか。でも、光源を下から上へ移すという、発想の転換もポイントなのではないかな。
記述の通りで、大学では講義室ごとの配備ではなく、使う教員が都度、事務局から借りてくる方式。ただ、講義室の机に置くと、スクリーンに比べて低い投影位置になってしまうので、画像がゆがんでしまったり、対策として物を置いてかさ上げしたりしていた。


弘前大学では少なくとも2機種のポータブルOHPが存在し、どちらも「FUJI」ロゴがあった。
教養部(共通教育棟)備品は、まさに上の写真のもので間違いない。薄いグレーのボディで、アームがキリンの首のように斜めに持ち上がる機種【30日補足・アームは片側に寄って取り付けられるので、左右非対称のデザイン】。こちらのほうが新しそう。
農学部備品は、当時のパソコンのようなクリーム色っぽいボディで、アームが面のような作りで、光源部分を2本の細い棒で支える機種【30日補足・左右対称のデザイン】。

調べると、農学部のものは、当時の富士写真フイルム株式会社(現・富士フイルム)の「FUJIX」ブランドで、1985年にグッドデザイン賞を受賞した「フジックス OHP CP-1(13万5000円)」というのがあり、それに似ている。もう少し柔らかい形状だった気もするが、構造は同一。

インターネットアーカイブで、2000年8月17日の富士ゼロックス(今春から富士フイルムビジネスイノベーション)のサイト「商品一覧(http://www.fujixerox.co.jp/product/index.html)」を見ると、OHPが4機種載っていた。上の写真はそこから転載。これら4機種は、2002年2月までは、掲載されているのを確認できた。
分厚い従来型(アームが倒れる)で、ステージが上下するズーム付きZ2が21万8千円(税別。以下同)。
その上位機種で、メタルハライドランプにより「3,200ルクス。明るい部屋でも鮮烈な画面を投影。」を謳うZMが44万8千円。
ヘッドアームをステージの下に内蔵した、液晶プロジェクターと変わらないような姿のM250が24万8千円。

そして、いちばん安い「L2(FUJI XEROX OHP L2)」が、このポータブルで14万5千円。
「ワンアクションでアームアップ。ワンアクションでスペアランプ交換。しかも携帯に優れた軽量・コンパクトなOHP。」
ステージサイズ285×285mm、ハロゲンランプ搭載なのは、従来型のZ2と同じ。
投影距離・拡大率は1.4~3.0m、4~8.5倍。Z2は1.5~6.0m、4.3~16.8倍(最大ズーム時8.6~33.6倍)なので、ポータブルには制約もある。
サイズは幅330×奥行440×高さ545mm(携行時129mm)・6.9kg。Z2は387×584×680mm(アーム収納時264mm)・16.5kg。数値にすると大したことない感じもするが、あの見た目とギミックは衝撃的だった。


さらに、中古品販売サイトなどには「FUJIX OHP CR-1」という、これとそっくりなのも見られた。当時のフジフイルムとゼロックスの棲み分けがよく分からない。
そこでインターネットアーカイブで「富士フイルム ビジネスサプライ株式会社(http://www.fujifilmbusinesssupply.co.jp/OHP/frame-ohp.html)」のサイトを見ると、1997年から2004年まで、CR-1が出ていた。サイズ、重さ、価格はやはりL2と同一。
ゼロックスより詳しい仕様があり、投影方式:反射式(従来形は透過式)、ハロゲンランプ300W、5m自動巻き込み式(コードリール)など。
交換ランプは1個7千円、複写機用フイルムA4判100枚6千円。

結局どっちかは分からないが、FUJI XEROX OHP L2 もしくは FUJIX OHP CR-1 のはず。当時最新機種であり、OHPの最終機種だったかもしれない。


ポータブルOHPも、複数メーカーが製造していた。確認した限りでは、フジと同一デザイン(OEMの可能性がある)のものはない。
グッドデザイン賞では、1984年のリコーの17万9千円が最初。1988年にもリコーが受賞していて9万5千円と低価格化。フジも含めて価格はだいぶ上下している。
内田洋行のサイトには、1997年12月5日「「ウチダ ポータブルOHP HP-300」新発売~3.5kgの軽量・小型OHP(オーバーヘッドプロジェクター)~」というのがあった。かなり軽い。



大学の授業でOHPで投影されるシートは、手書きでなく、ほとんどが資料をコピー機で転写したものだったはず。
大学だからということもあるだろうが、コピー機やOHPシートが、互いに対応するようになったという技術革新なのだと思う。
※昭和60年代の小学校では、レーザーコピー機自体は使われていた。OHP印刷には対応していなかったということかもしれない。

大学の授業では、これまでほぼ見たことがなかった「スライド映写機」を使うこともあった。1コマずつプラスチックの枠にセットされたポジフィルムを投影するもの。
(医学部の教官だったと思うが)今のパワーポイントのように文字や図表を焼き付けたフィルムを用意する人もいた。
写真はそのまま投影でき、画面送り【30日補足・いわゆる「スライドショー」】が容易で決まった順番で表示しやすい(リモコン付きもある)というメリットはある。OHPより輝度は低く、部屋をだいぶ暗くしないと見えない欠点もあった。
【30日追記】事前の設定通りに順送りで表示するスライドショーは、プレゼンソフトでもできるが、OHPではできない。OHPの欠点。


さらに、1990年代後半は、パソコンとインクジェットプリンターが普及した。
OHPシートも、インクジェット対応のものが出回るようになった。これも時代の変化を感じた。※OHP対応シートでも、レーザープリンター用とインクジェットプリンター用は別物で、使い回しは不可。
研究室内でささやかな卒業研究発表会を行った時は、データやグラフはOHPで示すこととされ、研究室のインクジェットプリンターで印刷。それをFUJIXのポータブルOHPで投影して、どうにか発表して、卒業できた。


2000年代以降にテレビで見たのが、演芸の紙切り。
林家二楽師匠が、切った紙をOHPのステージ上で動かしながら、ストーリー性のある作品を上演していたのが斬新だった。切った紙そのものは直接観客に見せない、ある種の影絵劇みたいなもので、本来の紙切り芸とはちょっと違うかもしれないけど。その時は、ポータブルでない普通のOHPを使っていた。
林家正楽師匠など一門全体でも、通常の紙切り作品(観客の注文を受けて切ったもの)を、完成後にOHPで投影して大きく見せることをしているそうだ。

OHPそのものはほぼ消滅してしまったが、上記の通り、書画カメラなど基本的な思想は残っているとも言える。
しかし、透明シート、手書き・コピー機転写・プリンター印刷による原稿作成、電球といった、OHPならではのものは過去のものだろう。
その1つに「トラペンアップ」なるものもあるのですが、これは知らない人が多いでしょう。いずれまた。【2022年7月5日リンク追加・続き記事へのリンクを張り忘れていました。】

【2022年2月6日追記】アニメ「ちびまる子ちゃん」で2005年1月30日に「影絵で遊ぼう」の巻が放送されていた。
次の授業でスライドを見るとして、段ボールっぽい(もしくは木製の)箱に入った「プロジェクター」をどこかから教室へ運んでセットして、休み時間中に手や体を投影して遊ぶ場面から始まる。授業中の場面はなし。
プロジェクターの見かけは、ごく一般的なOHP。スクリーンは、黒板の前に置かれ脚があるので可搬式(運んだ描写はなし)。
1974年度が舞台だが、当時OHPがあってもおかしくはない。
コメント (3)
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