恒例のNHKのローカル報道についての苦言。今回は山形放送局。
先週末の仙台からの東北ブロックニュースで見たニュース。その内容・動画が「山形 NEWS WEB」に23日19時07分付でアップされ、26日17時時点でもそのまま。
ニュースタイトルは「JR左沢線 全線開通から100年 記念イベント開く」。
山形県内を走るJR東日本・左沢(あてらざわ)線が、23日に開業100周年を迎え、記念列車運行や催しが行われたというもの。
山形 NEWS WEBより
その記念列車の説明。
「特別運行された開通当時のディーゼル機関車と旧型の客車を再現した記念列車」とアナウンスされ、映像にも「開通当時再現」の字幕。
鉄道の知識(というより一定の常識?)がある人なら、説明と映像が一致しない、するはずがないのは、お分かりだろう。
上の映像の赤い鉄道車両は、列車の先頭に付き、後ろの客車を引っ張る「機関車」。客は乗れない車。
「DE10 1649」の表示の通り、DE10形と呼ばれる形式。2022年時点では、多くはないが全国各地に類似形式も含めて一定数存在し、見かける機会はある。
DE10の動力源は、ディーゼルエンジン。だから、蒸気機関車でも電気機関車でもなく、「ディーゼル機関車」に分類される。
鉄道への興味が薄くても、ディーゼル機関車は知らなくても、少なくとも「蒸気機関車か蒸気機関車でないか」は、ぱっと見でなんとなくでも理解している人は多いと思う。
NHK山形によれば、100年前にこれが左沢線を走っていたことになる。「当時再現」だから赤い塗装で。
100年前の1922年、すなわち大正11年。
余談だが、水木しげる、三浦綾子、瀬戸内寂聴、丹波哲郎、フグ田サザエ(原作での設定)、が生まれた年(敬称略、誕生日順)。
大正の、東北の短距離のローカル鉄道に、赤いディーゼル機関車が走っていたことになるのだが。
Wikipedia「日本のディーゼル機関車史」によれば、日本で最初のディーゼル機関車は、1923年に静岡の鉄道会社(現存せず)がドイツ製を輸入したのが最初(1914年頃に夕張炭鉱が使っていたとも)。
JRの前身、鉄道省では1929(昭和4)年に輸入したのが最初。国産化され、運用が本格化したのは戦後。
そんな歴史を紐解くよりも何よりも、DE10形ディーゼル機関車は、1966(昭和41)年に1号機が製造されている。今回担当した1649号機は1973年製造。
そんなわけで、NHK山形の報道は誤りである。大した話ではないが、間違いとしては大きな間違いだと思う。
同じ話題を地元民間放送局・山形放送では、
山形放送サイト「山形・愛称「ザワ線」JR左沢線開通100周年記念イベント」より
「1970年代から活躍したディーゼル機関車と1950年代に製造された客車で編成した記念列車」
上記の通り、DE10は1966年製造開始=活躍開始なので、そこだけ間違い。
後ろの客車3両は、通常は蒸気機関車といっしょに走ることが多い、高崎(ぐんま車両センター)所属の「旧型客車」と総称されるもの。秋田総合車両センター(旧・土崎工場)でもメンテナンスを担当しており、時折見かけることがあるが、美しく整備されている。
高崎には7両在籍していて、どの3両が来たのかは不明。そして7両の製造年はまちまちなので、山形放送の「1950年代に製造された客車」というぼやかした表現は適切とするべきだろう。
山形新聞「JR左沢線、全線開業100周年で記念列車 左沢駅前でイベントも」では、「記念車両は73年製造のDE10形ディーゼル機関車1両と、53年製の旧型客車3両の編成」としている。しかし、7両中、1953年製造の客車は1両しかないようなので、これも間違い。NHK山形の大間違いと比べると、どうってことないが。
では、100年前の左沢線で、実際にはどんな列車が走っていたのか。調べても分からなかった。
しかし、開業時の左沢線は「軽便鉄道(けいべんてつどう)」という規格の鉄道、「左沢軽便線」だったそうだ。
軽便鉄道は、レール幅が狭いなど、通常の鉄道より簡易な規格の鉄道。北上線、田沢湖線、男鹿線なども、最初の最初は軽便鉄道だったようだ。※今も軽便鉄道の面影を残す三重県四日市市の鉄道。
おそらく、幅の狭い小さな蒸気機関車と客車、あるいは蒸気機関車と客車が一体化した「蒸気動車」なんかが使われていたのではないかと考える(根拠はありません)。※秋田県の男鹿線では、おそらく戦前に蒸気動車が運行されていて、乗った人の話を聞いたことがある。
線路幅が違うことからしても、現在のJRの車両が100年前の左沢軽便線を走ることができたわけがない。
それにしても、何を根拠に、今回の特別列車が「100年前を再現した」ことになったのか。
JR東日本では、2022年3月2日にプレスリリース「おかげさまで「左沢線」は全線開通 100 周年を迎えます」を出し、「記念列車の運転」も記載されている。
「趣ある旧型客車の車窓から 100 年の歴史あるローカル線の旅をお楽しみください。」「DE10 形ディーゼル機関車 1 両+旧型客車 3 両」
など書かれているが、100年前と同じという文言は見当たらない。他のマスコミがほぼ正しく報道しているのだし、そもそもJR東日本が間違うことはあるまい。
取材やチェックした記者・デスクは、鉄道の知識がとても少ない人たちだった可能性はある。
そうだとしても、NHKの職員ならばそれなりの知識や常識はお持ちだろう。それに記者という職業柄、ここ100年来の日本の産業や文化の大まかな変遷みたいなのは、ご存知だと思っていた。【27日補足・「大昔(戦後しばらく辺りまで)の鉄道では蒸気機関車が主力だった」という、現在の日本においては基礎的知識・常識に分類されるであろう事項を、記者は知らなかった可能性がある。】
あるいは、小さなことでも疑問に感じて気に留め、すぐ調べて確認してから、原稿にする癖が付いていると思っていた。
実際に記念列車を見て、それが100年前の列車だと思っていたにしても、
「あれ? 昔の鉄道といえば、黒くて煙を上げる蒸気機関車だけど、これは違いそう。何だろう?」
「100年前の大正時代に、こんな赤い列車が走っていたのか? その頃、左沢線以外の鉄道ってどんなのだったろう?」
などイメージを広げ、それを調べていけば、どこかで、こんな列車が100年前には走っていなかったと、気付けたのではないだろうか。【27日追記・ただ、その前提となる、上記の基礎的知識・常識がない人であれば、それも無理な話になる。本件はそれに該当してしまいそうな気もする。】
また、山形放送では、機関車側面の運転席付近で記念撮影する子どもを映しており、そこの車体に「川崎 昭和47年」といった製造銘板が映りこんでいる。NHKでも、そういうものに注意を払っていれば、間違いは防げた。
以前から繰り返しているが、NHKの地方放送局(特に県域放送局)の記者など職員は、採用されて間もない、経験が浅い人が多いと思われる。人員総数も多くはなく、多少の詰めの甘さや間違いが起きてしまいやすいとは思う。ただし、それは職員個人の責任ではなく、指導やチェックができなかった、上司やNHK全体の責任である。
ただ、失礼ながら今回のことは、基礎となる知識に欠け、根拠がない思いこみで書かれているように感じられ、加えてそそっかしさ、いい加減さを感じないでもない。
それでもやはり、山形局の上司や仙台局の職員らが誰も疑問を感じず、そのまま放送されてしまったのも、おかしいし情けない。
ちなみに、NHK秋田放送局でも、2019年に、秋田港のフェリー20周年のニュースで、似たような事実でない報道をしてしまっていた(指摘したのだが、訂正もされず、サイトに期限いっぱいまでアップされていた)。
NHK秋田放送局は1931(昭和6)、NHK山形放送局は1936(昭和11年)にそれぞれ開局。当然、当時はラジオ放送のみ。
こんな調子では、90年前の昭和初期から、両放送局でカラーテレビ放送をしていた、なんて思いこんでいるNHK職員がいても、おかしくはないかも?!
先週末の仙台からの東北ブロックニュースで見たニュース。その内容・動画が「山形 NEWS WEB」に23日19時07分付でアップされ、26日17時時点でもそのまま。
ニュースタイトルは「JR左沢線 全線開通から100年 記念イベント開く」。
山形県内を走るJR東日本・左沢(あてらざわ)線が、23日に開業100周年を迎え、記念列車運行や催しが行われたというもの。
山形 NEWS WEBより
その記念列車の説明。
「特別運行された開通当時のディーゼル機関車と旧型の客車を再現した記念列車」とアナウンスされ、映像にも「開通当時再現」の字幕。
鉄道の知識(というより一定の常識?)がある人なら、説明と映像が一致しない、するはずがないのは、お分かりだろう。
上の映像の赤い鉄道車両は、列車の先頭に付き、後ろの客車を引っ張る「機関車」。客は乗れない車。
「DE10 1649」の表示の通り、DE10形と呼ばれる形式。2022年時点では、多くはないが全国各地に類似形式も含めて一定数存在し、見かける機会はある。
DE10の動力源は、ディーゼルエンジン。だから、蒸気機関車でも電気機関車でもなく、「ディーゼル機関車」に分類される。
鉄道への興味が薄くても、ディーゼル機関車は知らなくても、少なくとも「蒸気機関車か蒸気機関車でないか」は、ぱっと見でなんとなくでも理解している人は多いと思う。
NHK山形によれば、100年前にこれが左沢線を走っていたことになる。「当時再現」だから赤い塗装で。
100年前の1922年、すなわち大正11年。
余談だが、水木しげる、三浦綾子、瀬戸内寂聴、丹波哲郎、フグ田サザエ(原作での設定)、が生まれた年(敬称略、誕生日順)。
大正の、東北の短距離のローカル鉄道に、赤いディーゼル機関車が走っていたことになるのだが。
Wikipedia「日本のディーゼル機関車史」によれば、日本で最初のディーゼル機関車は、1923年に静岡の鉄道会社(現存せず)がドイツ製を輸入したのが最初(1914年頃に夕張炭鉱が使っていたとも)。
JRの前身、鉄道省では1929(昭和4)年に輸入したのが最初。国産化され、運用が本格化したのは戦後。
そんな歴史を紐解くよりも何よりも、DE10形ディーゼル機関車は、1966(昭和41)年に1号機が製造されている。今回担当した1649号機は1973年製造。
そんなわけで、NHK山形の報道は誤りである。大した話ではないが、間違いとしては大きな間違いだと思う。
同じ話題を地元民間放送局・山形放送では、
山形放送サイト「山形・愛称「ザワ線」JR左沢線開通100周年記念イベント」より
「1970年代から活躍したディーゼル機関車と1950年代に製造された客車で編成した記念列車」
上記の通り、DE10は1966年製造開始=活躍開始なので、そこだけ間違い。
後ろの客車3両は、通常は蒸気機関車といっしょに走ることが多い、高崎(ぐんま車両センター)所属の「旧型客車」と総称されるもの。秋田総合車両センター(旧・土崎工場)でもメンテナンスを担当しており、時折見かけることがあるが、美しく整備されている。
高崎には7両在籍していて、どの3両が来たのかは不明。そして7両の製造年はまちまちなので、山形放送の「1950年代に製造された客車」というぼやかした表現は適切とするべきだろう。
山形新聞「JR左沢線、全線開業100周年で記念列車 左沢駅前でイベントも」では、「記念車両は73年製造のDE10形ディーゼル機関車1両と、53年製の旧型客車3両の編成」としている。しかし、7両中、1953年製造の客車は1両しかないようなので、これも間違い。NHK山形の大間違いと比べると、どうってことないが。
では、100年前の左沢線で、実際にはどんな列車が走っていたのか。調べても分からなかった。
しかし、開業時の左沢線は「軽便鉄道(けいべんてつどう)」という規格の鉄道、「左沢軽便線」だったそうだ。
軽便鉄道は、レール幅が狭いなど、通常の鉄道より簡易な規格の鉄道。北上線、田沢湖線、男鹿線なども、最初の最初は軽便鉄道だったようだ。※今も軽便鉄道の面影を残す三重県四日市市の鉄道。
おそらく、幅の狭い小さな蒸気機関車と客車、あるいは蒸気機関車と客車が一体化した「蒸気動車」なんかが使われていたのではないかと考える(根拠はありません)。※秋田県の男鹿線では、おそらく戦前に蒸気動車が運行されていて、乗った人の話を聞いたことがある。
線路幅が違うことからしても、現在のJRの車両が100年前の左沢軽便線を走ることができたわけがない。
それにしても、何を根拠に、今回の特別列車が「100年前を再現した」ことになったのか。
JR東日本では、2022年3月2日にプレスリリース「おかげさまで「左沢線」は全線開通 100 周年を迎えます」を出し、「記念列車の運転」も記載されている。
「趣ある旧型客車の車窓から 100 年の歴史あるローカル線の旅をお楽しみください。」「DE10 形ディーゼル機関車 1 両+旧型客車 3 両」
など書かれているが、100年前と同じという文言は見当たらない。他のマスコミがほぼ正しく報道しているのだし、そもそもJR東日本が間違うことはあるまい。
取材やチェックした記者・デスクは、鉄道の知識がとても少ない人たちだった可能性はある。
そうだとしても、NHKの職員ならばそれなりの知識や常識はお持ちだろう。それに記者という職業柄、ここ100年来の日本の産業や文化の大まかな変遷みたいなのは、ご存知だと思っていた。【27日補足・「大昔(戦後しばらく辺りまで)の鉄道では蒸気機関車が主力だった」という、現在の日本においては基礎的知識・常識に分類されるであろう事項を、記者は知らなかった可能性がある。】
あるいは、小さなことでも疑問に感じて気に留め、すぐ調べて確認してから、原稿にする癖が付いていると思っていた。
実際に記念列車を見て、それが100年前の列車だと思っていたにしても、
「あれ? 昔の鉄道といえば、黒くて煙を上げる蒸気機関車だけど、これは違いそう。何だろう?」
「100年前の大正時代に、こんな赤い列車が走っていたのか? その頃、左沢線以外の鉄道ってどんなのだったろう?」
などイメージを広げ、それを調べていけば、どこかで、こんな列車が100年前には走っていなかったと、気付けたのではないだろうか。【27日追記・ただ、その前提となる、上記の基礎的知識・常識がない人であれば、それも無理な話になる。本件はそれに該当してしまいそうな気もする。】
また、山形放送では、機関車側面の運転席付近で記念撮影する子どもを映しており、そこの車体に「川崎 昭和47年」といった製造銘板が映りこんでいる。NHKでも、そういうものに注意を払っていれば、間違いは防げた。
以前から繰り返しているが、NHKの地方放送局(特に県域放送局)の記者など職員は、採用されて間もない、経験が浅い人が多いと思われる。人員総数も多くはなく、多少の詰めの甘さや間違いが起きてしまいやすいとは思う。ただし、それは職員個人の責任ではなく、指導やチェックができなかった、上司やNHK全体の責任である。
ただ、失礼ながら今回のことは、基礎となる知識に欠け、根拠がない思いこみで書かれているように感じられ、加えてそそっかしさ、いい加減さを感じないでもない。
それでもやはり、山形局の上司や仙台局の職員らが誰も疑問を感じず、そのまま放送されてしまったのも、おかしいし情けない。
ちなみに、NHK秋田放送局でも、2019年に、秋田港のフェリー20周年のニュースで、似たような事実でない報道をしてしまっていた(指摘したのだが、訂正もされず、サイトに期限いっぱいまでアップされていた)。
NHK秋田放送局は1931(昭和6)、NHK山形放送局は1936(昭和11年)にそれぞれ開局。当然、当時はラジオ放送のみ。
こんな調子では、90年前の昭和初期から、両放送局でカラーテレビ放送をしていた、なんて思いこんでいるNHK職員がいても、おかしくはないかも?!
大型潜水艦の開発に相当支障が出ました。
これは元海軍の職業軍人だった叔父から聞いた話しです。
最も重要な軍需産業でさえ開発に苦しんだディーゼル機関が国鉄のローカル線の機関車として走っていたなんて。
大正も昭和も遠くなりけり。
個人的にもディーゼル機関車は思い出があります。
幼稚園の頃は奥羽本線でも蒸気機関車が普通に走っていました。
見た目は格好良いSLも勾配とカーブに弱く短いトンネルでも煤が客車に充満して顔ばかりか下着も真っ黒。
(煤で顔が汚れたのでかつてのホームには洗面所があったのです)
牽引力も弱く発車のスタートも遅く。
それがディーゼル機関車が導入されて速いスピードに幼心にも「凄い!」と。
あと冬季は機関車から送られるスチーム暖房も良く効いていました。
まさに文明開化でありました。
当時は姿から赤ブタと呼ばれて親しまれたと記憶してます。
NHK秋田
呼出符号
JOUK
所在地
秋田縣秋田市龜ノ丁新町1番地4
周波数
650kHz(0.3kW)
送信機
東京無線製(500Wを300wに減力)
空中線
自立式三角鉄塔(高さ55m)2基、逆L型(水平部48.3m、垂直部54m)
1932年2月26日
645kHz(0.3kW)で放送開始
1936年7月1日
周波数を650kHzに変更
戦後に作られた青函連絡船洞爺丸は、石炭ボイラーの蒸気タービン駆動で、それも沈没の一因だったそうですが、当時の技術ではディーゼルでは乗り心地が悪かったようです。
鉄道では、ディーゼルよりもガソリンカーのほうが先に実用化され、調べたら潜水艦も初期はガソリンエンジンだったようです。
蒸気機関車からディーゼル機関車への移行は、画期的だったのですね。鉄道写真を撮る人たちは、SLを駆逐する憎き敵ととらえる人も多かったようですが…
僕が物心ついた頃の秋田周辺ではすでに、DE10と、それを大きくしたようなDD51と、凸型車体の機関車がわずかに走るだけで、存在感も印象も薄かったです。昭和30年代には、DF50など箱型車体の機関車も走っていたそうで、その光景を見てみたかったです。
秋田放送局は、東北で2番目の開局だそうで、今以上に(?)重要な拠点だったのでしょうね(3局目が山形という順番も興味深いですが)。
今は中通総合病院の敷地の一部になっている所にあったと聞きます。
テレビ放送開始が昭和34年、山王への局舎移転が39年だそうなので、テレビの最初の5年間は、南通から行っていたのでしょう。
これは当然であたりまえではありますが、土日と違いまだ復活率が少ない。
NHKは鉄好きな人は本当に好きなんですが、山形仙台は異常に当たりがわるかったのか。
例えば数年前まで秋田にいた塚原アナ、新しく平日の昼をやっている糸井アナ、大阪に異動して長い近田アナなど。
山形、仙台は若い新人以外はいつも同じような顔ぶれになっているのもあるんでしょうか。
秋田も今は一人少ないですが。
実際のところ、仙台局で誰かが誤りに気付いても、山形局から送られてきたニュース素材に対して、意見を付けたり修正したりすることは許されない、もしくはハードルが高いのかもしれません。この程度の誤りでは。
勝手に手を加えると、上司決裁など制作過程上でまずいということかもしれないし、放送局間の遠慮なのかもしれないし、連絡したり修正したりするのが面倒というだけかもしれないし。
NHK組織内の縦割り意識、硬直化も、原因ではないかと勘ぐります。
当時の普通旅客列車は基本的に機関車牽引の客車列車で、電化前はSL(C61、D51)やDL(DD51)、電化後はEL(ED75)がいわゆる旧客を牽いていました。ただ電化後も、停車駅の発車合図は、車掌が乗客の確認後、トランシーバーでED75の機関士と通信しており、車掌の近くに乗り合わせていた私にも、その会話が聞こえてきたものです。
車掌 「上り444列車車掌。どうぞ。」
機関士 「上り444列車機関士。どうぞ。」
車掌 「上り444列車発車!」
車掌の「発車!」と同時にED75のピーッという発車合図が鳴って、列車が動き出しました。
電化前のSL牽引列車は、発車の汽笛が鳴り、ひと呼吸置いてから、機関車牽引の振動がガタンガタンと後方の客車に伝わって、ゆっくりと加速していったものですが、電化後のEL牽引は、伝わる振動は同じでも、SL時代とは比較にならないパワーでの加速が印象的でした。
ちなみに客車内の暖房も、電化前はSLなどからの蒸気暖房で、奥羽線の客車は窓側下に蒸気暖房放熱管が走り、蒸気がそのなかを通る際に、キン!カン!という金属音がして車内が暖まってゆきました。
それが電化されてEL牽引に代わると、暖房も電気暖房となって、座席下の電熱源によって直接座席の暖まった変化も体感しました。
無線での発車合図は、寝台特急「日本海」廃止まで鷹ノ巣駅で行われていました。隣のホームの701系の無線機から聞こえる音声と、動き出す列車を見る機会が何度かありました。
電車でも、車両性能や運転技能の差を多少感じますが、機関車+客車ではそれが顕著だったと思います。
暖房のキンカンはスチームハンマーと呼ばれる音ですね。高校と大学がスチームボイラーだったので、そちらでは経験があります。
除雪もSLが行っていたそうで、今では見られない貴重な風景がたくさんあったはずです。