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今後はhttps://taic02.hatenablog.jp/で更新します

急行 お祭り北東北

2025-08-13 23:22:43 | 昔のこと
2001年の東北夏祭り向けの長距離臨時列車の続き。
2025年8月11日の記事は、JR西日本の583系電車を使った、寝台急行「東北夏祭り号」を取り上げた。19年間(たぶん)にわたって、期間中は連日運行されたので、記憶に残っている人も少なくないようだ。

それとは別に、JR東日本の583系電車による寝台急行が運行された時期もあった。期間が短く、毎年1回しか運行されなかったので、鉄道好きでも知らない人も多そうで、ネット上にはダイヤの情報はある(参考にさせてもらいました)が、写真はなさそうだった。
その貴重な写真があります。
2001年8月5日7時15分頃、前回と同じ、秋田駅北の奥羽本線300キロポスト付近で撮影。
「臨時」表示
下手な写真&もったいぶってごめんなさい。何のことはない、当時としてはさほど珍しくない、583系9両編成の臨時列車。
JR東日本の583系電車は、1994年で定期運用は消滅。以降、臨時列車や団体列車に使われていた。当時はまだ青森の車両基地所属で、仙台と秋田に1編成ずつ転出(青森の配置がなくなる)するのは、2002~2003年のこと。

写真は、青森方面から奥羽本線を上って、秋田駅へ入線するシーン。関西から、東北夏祭りを見に来た人を乗せて夜を走ってきた「東北夏祭り号」とは、逆方向。
どういう経路で、どういう乗客が乗っているのか、想像が難しいと思う。

列車名は、寝台急行「お祭り北東北2号」。
始発駅は青森、終着駅は秋田。途中停車駅はなし。【14日追記・秋田駅は、2001年、2002年とも2番線に7時17分着。】
別の年のダイヤを後述するが、2001年もほぼ同じで、青森から秋田まで7時間程度かかったはず。電車特急なら2時間半の区間、各駅停車の倍の時間をかけている。
すなわち、青森ねぶたを見終わった人を乗せて、途中駅でドアを開けずに長時間停まりつつ秋田へ来たことになる。
“列車ホテル”の意味合いが強い列車。似たような列車が、かつては、つくば万博や甲子園の高校野球向けなどで設定されていた。

反対方向の列車もあったが、単純に往復するものではなかった。
この日(8月5日)の夜に秋田を出発、青森経由の仙台行きの「お祭り北東北4号」。下りなのに偶数号なのは、東北本線内に合わせている。
4号は、秋田竿燈まつりを見終わった人を、東北地方太平洋側へ運ぶ列車。
さらに、2号と4号を組み合わせて、青森ねぶた→秋田竿燈→仙台(北東北でないけれど仙台七夕もある)と周遊してもらう意図もあったのではないだろうか。そういうツアーがあったのかもしれない。

ネットから、お祭り北東北の変遷を拾ってみた。
1998年運行開始のようで、同年はすべて8月3日に、1号 一ノ関→八戸、3号 八戸→青森、4号 青森→秋田。
北東北を半周して、お帰りは各自というルート。
1号と3号は昼行のようだが、料金設定や座席仕様だったのかは不明。
八戸でいったん打ち切っているのは、3日がクライマックスだという「八戸三社大祭」を見てもらうためか。それならば、八戸、青森、秋田と北東北の3つの夏祭りを見られ、「お祭り北東北」によりふさわしい(岩手は無視されているけれど)。

1999年は号数なし。
8月4日 青森23時28分→秋田7時04分
8月5日 秋田22時30分→青森1時25分~1時51分→盛岡4時27分→北上4時57分→一ノ関5時44分→仙台6時56分
青森起点となり、ねぶたと竿燈の2つを見て、仙台に戻るコースに変更。

2000年からは、おおむね同じダイヤで、4日が2号、5日が4号に。
2002年が最後の運行だったようだ。
なお、東北夏祭り号と違って、グリーン車も座席として発売されていた。

仙台行き4号は、ねぶたを見た後に青森駅からも乗車可能なはずだが、時間的には遅い。
同じく2002年まで、仙台~青森で、24系客車による急行「ねぶたドリーム号」が運行されていて、そちらが最適な時刻だったはず。
今回も「居酒屋ドリーム」
この時の最後尾は、クハネ583-17。
終点到着時にカーテンが閉まっている寝台が多いのは、空席?
2003年に仙台へ転出し、その後、秋田の編成が廃車となった代替として、2011年に秋田へ転属。青森向きの先頭車となって、2017年のさよなら運転まで走り続けた。
他の車両は廃車となり、2025年時点でこのクハネ583-17は、車籍を有する唯一の583系。といっても、他の車両がないので自走は不可能だし、秋田総合車両センター(旧・土崎工場)に色あせてサビが多い状態で置かれており【2025年6月14日の記事で少々】、今後はどうなるか。


2010年代以降、夜行列車、寝台列車は、超豪華なものを除けば過去のものとなってしまった。【14日補足・唯一の定期寝台列車となり、まもなく30年を迎えるサンライズエクスプレスは、いつまで走り、その後継は出るのか。】一方で近年は宿泊価格が高騰している。
それを意識したのかは分からないが、JR西日本「WEST EXPRESS 銀河」が登場し、そしてJR東日本が2027年春に「新たな夜行特急列車」を運行する。いずれも「寝台」ではなく座席扱いだが横になることができ、そんなに高い料金ではなさそう。高くなったホテル代を考えれば、庶民でも手が届くと思って【14日訂正】ある程度納得できる価格で、庶民でもなんとか手が届きそうで、期待している。
東日本のものは、首都圏と北東北を結ぶ計画だそうだが、このような夏祭りの輸送手段にもなるだろう。運行区間を変えれば、「お祭り北東北」の復活もなくはないのでは。※「東北夏祭り号」のほうは、車両の対応電源、路線の第3セクター化、JRだけでも西日本・東日本をまたぐことになるため、復活は難しい。


【14日追記・2002年の夏祭り列車について】
2002年には、24系客車「夢空間」をつないだ(食堂車は非営業)、「夢・夏祭り号」が、8月2日、5日に上野19時23分→秋田8時02分、3日、6日に秋田19時14分→上野10時58分で運転されていた。これも、上りは、まだ竿燈まつり途中で中途半端な時間。

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急行 東北夏祭り号

2025-08-11 23:53:17 | 昔のこと
2025年8月6日の記事に続いて、昔の東北地方の夏祭り向けの長距離臨時列車の話。
今回は、2001年8月に秋田駅北の歩行者用跨線橋や手形陸橋の下(=奥羽本線300キロポスト付近)で撮影した写真から。
※当時のダイヤの記録は持ち合わせてないので、「Rail・Artブログ」等ネットの情報を参考に、簡単にまとめました【コメント欄も参照】。
朝日を浴びて秋田駅を北へ向かって出発
いきなり話がそれますが、写真で線路向こう側の建物。
左奥から、秋田駅ビルアルス(ALS)、他の建物と架線柱に隠れてあまり見えないが、秋田フォーラス(現・秋田オーパ)の旧ロゴの屋上看板(2012年5月9日の記事など)。
車両の右に見えている辺りは、秋田駅西北(にしきた)地区土地区画整理事業が行われている一帯。緑のとんがり屋根は、結婚式場「秋田セントポール教会(アールベルアンジェ秋田)」。2010年に隣接地に建て替えられたので、現在とは別の建物(2011年4月21日の記事)。その右、「居酒屋フレンズ」などはなくなった。

夏の朝の日差しが強かったのを記憶している。気象データを見ると、撮影時は20℃程度、同日の最低気温19.3℃、最高気温28.4℃で、24年後の感覚では涼しい。
2001年8月3日 6時17分頃撮影
当時の鉄道を知る人なら見覚えがあり、列車名も覚えているかもしれないが、東北地方の一般人には、濃淡グレー塗装の車両の外観も、列車名もあまりなじみがないかも。

国鉄が、寝台・座席兼用の特急車両として製造した583系電車の、JR西日本所属編成。1991年頃薄い水色に塗り替えた後、1997~1998年にこの塗装になった。西日本では2015年までに廃車。
※国鉄時代の塗装のままだったJR東日本の583系電車については、2012年9月17日の記事2015年5月4日の記事など。

大阪~新潟の定期急行「きたぐに」のほか、1990~2000年代前後は、このような臨時列車、修学旅行(集約臨時列車)や高校野球応援団輸送など団体列車に使われていて、秋田でも見る機会はそれなりにあった。
グリーン車(寝台にならない)1両、2段式A寝台(改造車)1両を含む10両編成。グリーン車の一部座席を撤去してサロンにした車両を組みこんだ編成を臨時や団体用の「シュプール編成」、そうでないものを「きたぐに編成」として分けていたが、実際の運用は、厳密に分かれてはいなかったとのこと。

余談。583系のB寝台は3段式だが、JR西日本の583系の中には、2段式としても使うことができる車両があり、それを使った、神戸~軽井沢の寝台急行「シャレー軽井沢」が運行されたことがあったのを、今回調べていて知った。
583系の寝台のギミックはとても複雑だそうだが、そこをいじって(上段を使わないとか?)2段にもできたということか(だとしたらA寝台との差が小さいのでは?)。どうしてシャレー軽井沢だけが2段仕様で運行されたのだろう。そして、583系が2段寝台で運行できたのなら、使い道の幅が広がっていそうにも思えるが、他に波及しなかったのは何か問題があったのか。
583系の下段には「きたぐに」で何度か乗ったが、窓を独占でき、寝台内の面積が広くて快適で、客車寝台より好きだった。一方、中段と上段は、1度は乗ってみたい気持ちもあったが、(寝台内の天地の)狭さと(床からの)高さにおじけづいて、その勇気がなかった。

撮影時は、先頭がクハネ581-24、最後尾がクハネ581-25の、シュプール編成「B1」編成。
クハネ581形は(前身の581系と)583系初期の先頭車。後継のクハネ583形との違いは、搭載する発電機(MG)の違いと、それに伴う定員(2ボックス分増)。
ヘッドマーク(トレインマーク)は絵入り
列車名は、寝台急行「東北夏祭り号」。もちろん夜行列車。
ずっと大阪~青森での運行だと思っていたが、変遷があった。
初運行の1989年は、下り・大阪発秋田行きだったという。上りは不明【12日追記・上りも秋田始発だったようだ】。
1990年から1997年は、神戸~青森で上下とも運転。
1998年から2006年は、大阪発青森行きの下りのみ運転。2007年以降設定なし。
運転日は、1990年代以降は、大阪発8月2日~5日が基本だったようだ。初年については後述。

下りの大まかなダイヤは、
大阪を18時頃に発ち、0時頃まで北陸の主要駅に停車。翌朝5時・象潟から停車し、大館8時、弘前9時前、終点青森9時半頃着。【14日追記・秋田駅は2001年は3番線6時14分着/6時16分発。2002年は3番線6時12分着/6時16分発。】
寝台特急「日本海1号」の30分~1時間ほど後を続行する感じ。急行ながら停車駅はさほど多くなく、さらに583系の走行性能を考えると、日本海を追い抜かないよう、長時間停車や運転停車は多そう。


ところで、夏祭りが終わった直後・お盆の帰省シーズンには、大阪~青森で同じ583系による、急行「あおもり」が(運行日は異なるが上下とも)運行されていた。
元々は寝台特急「日本海」の臨時便で20系客車が使われていた。3段式寝台では特急料金を取りづらくなって、1990年から急行になったようだ。1994年から583系化。2000年以前は年末年始も運行され、2008年で運行終了。
なお、1970年代頃には、名古屋~青森(米原・北陸経由)の急行「あおもり」が存在した。
20系時代は絵入りテールマーク(トレインマーク)があったが、583系では、東北夏祭り号と違って赤文字の「急行」。

あおもりの下りは、大阪20時半発、福井を過ぎて日付が変わり、庄内地方にも停車、秋田9時過ぎ、青森12時過ぎ。こちらは「日本海3号」の続行。
上りは青森17時、秋田21時前、大阪10時前。東北夏祭り号の上りも、これと同時刻だったようだ。
羽越本線~奥羽本線内のダイヤは上下とも、(JR東日本の)583系による東京ディズニーリゾート行き団体列車「わくわくドリーム号」と、ほぼ同一か。


撮影時の写真を見ると、ところどころ、窓のカーテンが開いている。
早く目が覚めた下段の乗客が、朝の奥羽本線の車窓を眺めておられたのだろうが、青森まで先は長い。
583系では、運行途中で寝台/座席を切り替えることはないと思っていた。だが、ネットの乗車記を拝見すると、2005年下り「あおもり」では、朝に寝台を解体して座席にしていたという。羽後本荘から東能代まで作業員が乗車。乗客が希望し、かつ構造上、隣接する区画の乗客にいったんよけてもらって、座席にしていたそうだ。青森着が昼過ぎと時間が長いための配慮だろう。2006年の下りでは解体なしとの情報もある。
また、あおもりも、東北夏祭り号も、グリーン車は座席として発売せず、全乗客が利用できるフリースペースだった。狭い寝台内では飲食もしづらいための配慮だろう。


そもそもの話だが、「東北夏祭り号」は、関西・北陸の人たちに東北の夏祭りを見に行ってもらうための列車のはず。
この列車を降りた駅(街)で、大きな夏祭りを見られるのは、秋田、弘前、青森。小規模なものや、乗り換えれば、他にもあるけれど。
トレインマークの絵柄や、特に関西での知名度からすれば、青森ねぶたを念頭に置いていたのだろう。

だから、1989年の運行開始時のトレインマークは知らないが、秋田止まりだったとは驚いた。同年の運行日は、大阪発7月28日~8月8日(秋田着29日~9日)。
当時の竿燈まつり(当時は「竿灯」表記)は、8月4日~7日開催。ちなみに、1987年までは8月5日~7日の3日間、2001年から8月3日~6日。
つまり、秋田以外の祭りを見る人たちには、秋田から乗り換えてもらわないといけないし、秋田で祭りをやっていない日にも、秋田行きで運行されていたとは、なんだか不親切。
それどころか、青森ねぶた祭は7日まで、仙台七夕は8日までのはずなので(当時は違ったのか?)、最終運行日はどの祭りを見せるために運行していたのだろう。

青森まで行くようになってからも、どこかちぐはぐだったと思う。
いずれも夜のお祭りなのに、到着時刻が早すぎる。秋田で6時に降ろされても、時間を持て余す。弘前、青森だってそうだろう。
北陸各地を含めた、JR西日本沿線各地から乗車しやすい時間帯に設定した可能性はあるが、それだったら深夜にどこかで長時間停車してでも、「あおもり」のダイヤに乗せたらどうだっただろう。

青森17時、秋田21時の上りが運転されていた頃は、その時間も悪い。青森や弘前は祭りが始まる頃の出発、秋田は祭りが終わる前に会場を離れれば、かろうじて間に合う時間。
これでは、祭りを見終わってすぐ帰路に就くのは難しく、現地で1泊が必要になる。宿泊が要らないのが夜行寝台列車のメリットなのに、本末転倒。だから上りが先になくなったのかもしれないが、帰りは各自でご自由にというのも、不親切。

下りだけになっても10年近く運行されたのは、一定の利用(祭りだけでなく、北海道方面や早めの帰省なども含めて)はあったのだろう。複数社をまたぐ長距離臨時列車のダイヤは、制約が多いものだが、工夫の余地はあったかもしれない。

長くなって恐縮ですが、2001年8月には、まだほかにも583系の夏祭り臨時列車があった。続く
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ねぶた臨時特急

2025-08-06 23:56:58 | 昔のこと
昔の臨時列車の話。
祭りや帰省シーズンに運転される、JR在来線の臨時列車、特に長距離のものは、この20年ほどで少なくなってしまった。
2025年は、8月初めの東北地方各地の夏祭り向けで、優等列車(=特急・急行)や県を越えて運行されるものは、秋田~青森の特急「ねぶたまつり」1往復だけだと思われる。
始発駅基準で8月2日~6日の運行。特急「つがる」用E751系電車4両編成使用。
1号は指定席3両(うち1両は半室グリーン車)で秋田13時14分→青森16時08分、2号は全車指定席で青森21時31分→秋田0時19分。
上下で自由席の有無が異なるのと、1往復なのに号数が付いているのがおもしろい。

メインターゲットである、青森ねぶた祭の日程に合わせた運行(8月1日の前夜祭は除く)だが、最終日7日は運行されない(昨年以前は不明)。同日は、夜は花火大会と海上運行だからなのだろうか。青森県内完結の普通列車の臨時列車は、7日も運行。
青森と少しずれた日程で、弘前ねぷたまつりや五所川原立佞武多も開催されるが、運行日であれば、弘前乗降でそれらへの行き来にも利用可能。帰りは五所川原からの臨時普通列車から接続があり、弘前22時08分発。


この特急は歴史がある。少なくとも1988(昭和63)年には運行されていて、上りに乗車したことがある。485系電車(5両編成か6両編成か? 3両ではなかったと思う)による特急「ねぶた(号数なし)」の列車名で、少なくとも上りは2025年とほぼ同じ時間帯で、自由席があった。


2002年12月に、東北新幹線が八戸まで延伸。接続する在来線特急の「つがる」の一部列車が、弘前まで運行されるようになった。
これにより、2003年から青森ねぶた臨時特急の上りの運行方法が変わった(下りは不明)。
近い時間帯に運行されていた八戸発(青森経由)弘前行き「つがる」を、秋田まで延長し、秋田発八戸行きとして運行。号数は東北本線内基準なので、奥羽本線内では上りでも奇数で、2003~2005年は25号、2006年以降は29号だったようだ。

この時期にも、2003年と2004年に乗っている。【7日補足・いずれも弘前から乗車。】
2003年 秋田駅6番線到着
車両は、リニューアル編成である485系3000番台6両編成(半室グリーン車)で、上りも自由席あり。
2003年 弘前駅の発車標
2004年は、弘前22時58分→秋田1時13分。2003年も弘前22時57分だから、秋田着は大差ないだろう【14日追記・1時11分着だった】。

2003年 側面行き先表示は「弘前」の上に「秋田」をシール貼り。「臨時」で済まさないのはよろしい

2004年には「秋田」がセットされた

2004年の乗車券・指定席特急券
2004年は青森ねぶたの「前夜祭」である8月1日も運行されていたようだ。前夜祭だからか、指定席はガラガラだった。
【7日追記・2004年8月1日に弘前から乗車する人も、ほとんどいなかった。改札を入って、階段でホームへ下りようとすると、白い制服の駅員(駅長か副駅長?)がいて、我々を見つけると、エレベーターの扉を開けて誘導してくれた。実はその時、通常なら上り/下り1本ずつのエスカレーターが、2本とも上りで運行されているため、その代わりの対応だったようだ。通常の弘前止まりの日もそうしていたのかどうかは分からないが、それだけ弘前で下りる客(八戸からの客+青森ねぶた帰りの客)は多いということなのだろう。】

2010年12月の新幹線新青森駅開業時に、「つがる」は秋田までの定期運行・E751系化された。
ほとんど気にかけないで来てしまったが、青森ねぶた臨時列車は、再び全区間臨時列車となり、車両と名称も変わって、今に至るのだろう。
【13日追記】2014年は、当時、秋田の車両基地に所属していた、583系電車6両編成で運行されたようだ。


臨時列車が減った今でも運行されていることを踏まえれば、乗車率は悪くないのだと思う。【7日追記・定期列車だけならば、現地に宿泊しないと祭りを見られない地域の人たちが、日帰りできるわけで、存在意義が大きい臨時列車である。】
1988年、2003年、2004年(上記の通り少なめだったようだ)とも、空席も目立ったが、秋田駅ではそれなりの人が下車していたはず。ツアーやパック旅行で指定席に乗る人もいるのかもしれない。

青森発秋田行きのねぶた臨時列車は、車内の減灯などはないものの、夜行列車・夜汽車の趣がある。
小学生で初めて乗った1988年は、深夜の奥羽本線を、日付を越えて運行する特急列車に、特別な感情を抱いた。

また、快速列車だが、2000年代以降には、キハ40系気動車による五所川原発(弘前・大館経由)秋田行きの臨時列車が運行されたこともあった【この列車や、つがる25号等のダイヤも含めて、コメントで教えていただいた】。国鉄型気動車で深夜の矢立峠を越えるのも、特別なものだっただろう。

乗ったことはないが、特徴的な夏祭り臨時列車は他にもあった。続く=2025年8月11日の記事
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生誕隣接地

2025-04-17 23:09:29 | 昔のこと
秋田市中央部、千秋公園の丘の西側のふもと、千秋矢留町(せんしゅう やどめまち)のほぼ北端。
千秋トンネル通りと、トンネル~鷹匠橋の間で交わる、小さな道。
奥が千秋トンネル通り、その向こうにマンション群=その辺りが矢留町の南端
かつては台所町(だいどころまち)と呼ばれ、侍屋敷があったという。今もその名残りか、庭がある広めの敷地のお宅も少なくないが、アパートや新しい家もある。

そんな場所に、昨冬から今春の間に、新しい建物がまた1つできた。

民家のようにも見えるが、学童保育施設。
トンネルの反対側にあったものが、ここへ移転したようだ。
反対側から
この場所には、以前はアパートがあった。
2024年5月Googleマップストリートビューより

2024年5月ストリートビュー
道路に面した壁は水色で、大きく「★ family ESPERO」とアパート名が記されていた。「ファミリーエスペーロ」と読むようで、エスペーロには、希望とか西とかいくつかの意味があるそうだが、★があることを踏まえれば「宵の明星、金星」?
「いい部屋ネット」によれば「1978年12月に完工し、建物の構造は木造です。」。もうちょっと古いような気もしたが、昭和50年代前半のアパートってこんなものか。1978年12月といえば、千秋トンネルの開通と同年同月。
なお、遅くとも2020年までは、水色の壁を覆うように、壁際に常緑針葉樹(カイヅカイブキ?)が植えられていた。

ところで、上のストリートビューの画像右側のエアコン室外機の左に、黒っぽい物体がある。
2020年8月ストリートビューより
石の台座に、銅製の厚みがある箱状のものが載って、「秋田が生んだ永遠の歌手 東海林太郎 生誕の地」と表示。
表示板・案内板のようにも見えるが、東海林太郎音楽館ホームページでは「生誕地記念碑」としている。

ここで生まれ育ったのが、昭和の大歌手・東海林太郎(1898年~1972年)。
だと思っていたら、ちょっとだけ違うのだった。
「二〇世紀ひみつ基地」の2007年11月4日アップ「東海林太郎・台所町の生家(https://20century.blog.fc2.com/blog-entry-363.html)」によれば、生家は碑が立つ場所の隣地で、今は駐車場。上の写真で、黒いフェンスで囲まれ、「無断駐車お断り」の表示がある所。
1991年に「生家は取り壊され駐車場となり、隣地のアパート敷地内に道路に面して銅板の記念碑が建てられている。」のだそう。

ファミリーエスペーロができた後、平成の初めまで、生家は残っていたのだった。行動範囲内だったのに、当時は通ることもない道だったのが惜しい。
そして、記念碑は正しくは“生誕隣接地記念碑”ということになる。もしかしたら、もともとは隣接地も東海林家の敷地だったのかもしれないが。

そんな記念碑だが、現時点では見当たらなくなってしまった。

日本の歴史に残る大歌手が、生まれてから中学校(現・高等学校)までを過ごした秋田市だが、その功績を残すものはかなり少ない。民営の記念館「東海林太郎音楽館」があったり、銅像があったりする程度。以前は東海林太郎のサブレがあったが、今もあるかな?
一般の市民では東海林太郎が秋田市出身なことばかりか、その名さえ知らない人が増えているのではないだろうか。没後50年の今ならまだしも、没後20年に満たない、昭和末期でも似たようなものだった。恥ずかしながら、僕は大人になるまでは名前くらいしか知らなかった。

近くに特に見るものもない場所に、記念碑だけがある生誕地をわざわざ訪れるのは、相当なファンかもの好きだろうから、存在意義は小さい記念碑だったかもしれない。でも、記念碑がなくなれば、生誕地と東海林太郎を、誰もが分かる形で結び付けるものが何もなくなってしまうことになり、惜しいことでもある。
記念碑のデザインからして、市など行政が立てたのではなく、有志のような民間が設置したのではないだろうか。土地所有者が代わるなどして、その管理があいまいになって、撤去ということになってしまったのか。
いや。学童保育施設の外構工事はまだのように見えるので、完成の暁には、どこかに再設置されるかもしれないと期待する。

【6月23日追記・再設置された】その後外構工事が進み、5月中旬以降に、以前と同じ碑が再設置された。設置位置は、隣の生家跡寄りかつ、道路から見えやすい場所なので、以前より適切と言えそう。ただ、野ざらしのようなので、碑の劣化は進むかもしれない。
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羽銀カセットメモパッド

2024-11-05 23:46:28 | 昔のこと
我が家の発掘品シリーズ。
プラスチックケースの中に紙
ケースを開くと、
中身はカラフルなメモ用紙140枚
「カセット・メモ・パッド」
ケースとスタンドを兼用した、メモ用紙セットというわけだけど、モチーフになった物が何かは、一定の年齢以上のかたならご存知でしょう。「カセット・メモ・パッド」の名の通り、コンパクトカセット、いわゆるカセットテープのケースと同じサイズ・構造。
カセットテープケースは、2つのパーツからなる。初期のケースは、テープ(ここではメモ用紙)を入れる側は透明で、もう一方は黒いものが一般的だった。1980年代半ば(バブル前後)頃には、どちらも透明のものが主流になり、このメモ用紙もそれにならっている。

JANコード(バーコード)や「MADE BY P(R)yramid IN JAPAN」の表記からして、大阪のピラミッド株式会社の製品。型番らしき「NO.CM-48」の表記も。同社は現在は単語カードやメモ帳を製造販売しているが、さすがにカセットメモパッドはなさそう。

「メモを使い終ったら、カセットケースとして御使用下さい。」とある。サイズが同じだからできなくはないが、本来のケースには突起があって、カセット側のテープを巻いたリールの中心(「ハブ」と呼ぶそう)の歯車状の部分がはまるようになっている。それがあることで、持ち運び時に安定するし、ないとカセットが傷付いたり、テープが緩んだりしてしまいそう。突起がないこのケースでは、カセットテープに良くない影響もなくはないかも。
「台紙の裏はカセットレーベルになっています。」とも。
カセットレーベルとは、テープの中に何が録音されているか記した紙。何も録音されていない生テープの場合、罫線を引いてA面B面ごとに記入できる厚紙がセットされた状態で販売され、各自、記入したものだ。レーベル自体を自作したり、イラストなどが描かれて雑誌の付録になったりすることもあったはず。
台紙というのは、この説明が印刷されたピンク色のペラペラの紙ってことでしょうか。では裏は、
何もないのですが
この紙に自分で書けってこと?

我が家のカセットメモパッドは、企業のノベルティグッズとしてもらったもの。出どころは、
「羽後銀行」
赤いシールが、若干雑に貼られている。お手軽なノベルティってとこだったのでしょう。でも実用的だし、当時の流行りに乗っていたのだろうし、2024年に存在してもそんなに時代遅れでもないと思う。
羽後銀行は、1993年に秋田あけぼの銀行(旧・秋田相互銀行)を吸収して、北都銀行となった。
そんなわけで、昭和末~平成初期のものではないだろうか。※その少し前頃の秋田相互銀行のトランプ

羽後銀行のロゴについて。
地色は赤。秋田相互銀行も看板の地色が赤だったが、朱色に近かった。羽後銀行のほうがより赤かったはず。店舗の看板は、赤地に白文字で「うぎん」と縦書きされたのは記憶にあるが、シールのような漢字表記かつ横書きは覚えがない。手書きっぽい丸ゴシック体風だ。
「UB」の略は覚えていた。店舗に表示があったかどうかまでは記憶にないけれど。藤子不二雄A作「ウルトラB(アニメ主題歌について)」も「UB」と略され、同じじゃないかと思った思い出がある。


ところで、現在の話。
北都銀行は、同じ持株会社・フィデアホールディングス傘下にある荘内銀行と、2026年度中に合併予定。
2024年11月5日付秋田魁新報が1面トップで「新名称候補、一部を商標出願」と報じた。3つの銀行名を商標出願登録しており、持株会社が「新銀行の名称の候補であることは事実」と認めている。

3件は「いでは銀行」「新緑銀行」「創羽銀行」。
「いでは」は旧国名「出羽」のことだろうから、ふさわしいのでは。「フィデア」に響きが似ている。ただ、「いでは」にしても「いでわ」にしても、言いにくいかな。
「新緑銀行」は漫画に出てきそう。夏秋冬は時期外れで場違いでは。
「創羽」はよく分からない。「そうわ」と読めばいいのか。
担当者レベルでは、案は「100件以上あると聞いている」そうで、実際どうなるか。

【6日追記】コメント欄の通り、翌6日夜に、秋田魁新報と山形新聞が(共同通信が?)、「新銀行名を「フィデア銀行」とする方向で検討している」と報じた。想定の範囲内で無難なところではあるが(+どこの銀行か伝わらないし、フィデアの意味も分からないけれど)、前日の魁の報道は何だったのか。
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元・焼肉南山

2024-09-07 21:00:22 | 昔のこと
秋田市中央地域・保戸野(ほどの)地区の北寄り、千秋トンネルと新国道を結ぶ「保戸野学園通り」と、新国道の東を並行する「保戸野みその通り」~「泉いちょう通り」が交わる信号機付き交差点。住居表示では、保戸野千代田町、保戸野原の町、保戸野すわ町、保戸野鉄砲町の4町の境界。
秋田では多い無名交差点であるが、そこそこ主要な交差点かもしれない。他県なら「附属中学校西」とか「聖園短大北」とか命名されそうな。会話でこの交差点を伝えたい時、どう言えば通じるか。

この一帯は、お店がそこそこ多い。どの道路も、1980年代に整備されたもので、その後、住宅に混ざって店ができた感じ。
そんな経緯を見てきた者としては、数年前の秋田朝日放送の情報番組「サタナビっ!」で、(たしか)みその通りを指して「保戸野のメインストリート」と称していたのは、ショックだった。保戸野のメインストリートといえば、江戸時代から続く通町(と大工町)じゃないの? いや、実情として、そしてこの40年で生まれたり引っ越して来たりした人にとっては、そのほうが適切なのか…などと。
2023年7月には千代田町のガソリンスタンド跡に、秋田県再進出(2022年に11年ぶり)した「シャトレーゼ保戸野店」がオープン。だから、「シャトレーゼの交差点」で通じるかもしれないが、厳密には、この交差点から2件隣の小さい交差点の角に面しているので、不正確。
永年営業しているところでは、クリニック2件(1件はすわ町側角。もう1件は原の町側の交差点に面していない元・靴量販店)があるが、地元住民以外には通じにくそう。
それと、原の町側角の「ローソン秋田保戸野原の町店」。1997年秋田県初進出したローソン1号店の1つなのだが、ここはローソン密集地帯なので、「ローソンの交差点」では少々まぎらわしい。
ちなみに、鉄砲町側角は駐車場。

そして、千代田町側角が本命かも。
「中国料理 甜甜酒楼(てんてんしゅろう)」がある。のだけど…【15日追記・店舗の看板の一部は「中国東北料理 甜甜」表記。】
仮囲いが設置されていた
2024年7月20日で閉店したとのこと。
最近は、週に1度はここを通っていたのに、気付かないでしまっていた。状況からして、建物ごと解体されるのだろう。【23日追記・コメント欄の通り、解体ではなく、改装など別の工事が行われていそうな感じもする。要観察。】

甜甜酒楼に行ったことはなかったが、評判や人気は悪くなかったようだ。秋田では珍しい「刀削麺」も出していたらしい。
刀削麺は、昔「なるほど!ザ・ワールド」で、中国のものを見て知ったような記憶がある(「空飛ぶ空芯菜炒め」も見たけど、それはタイらしい)。日本上陸は1995年と、歴史は浅いそうだ。
そんなわけで、閉店前の秋田市では、「甜甜(酒楼)の交差点」で通じることがあったかもしれない。
ただ、上記の通り、我々、近場なのに行ったことがない者にとっては「千代田町にある、原の町のローソンの向かいの中華料理屋」程度の認識。
むしろ「南山(なんざん)の交差点」のほうが通じるかも。

甜甜酒楼の建物は、かつて「南山」という焼肉店だった。多くはないが、行ったことがある。
1980年代中頃~後半辺りに、新築でオープン。けっこう永く営業していたが、いつの間にか閉店して、中華料理店になっていたという感じ。
南山時代の建物の外観は、白っぽいグレー一色(のタイル張り?)。時期的に、秋田市立中央図書館明徳館(1983年開館)と、どことなく通ずるものがあったような。「南山」は朱色もしくは赤のカキッとした手書き文字のロゴだった。
南山閉店後に改装されて、一部外観が変わった。
また、交差点角には、おそらく南山時代からシュロの木が植えられていた。2012年10月のGoogleマップストリートビューでは2本あって、平屋の建物=車両用信号機程度の高さ。2022年10月でも変わりないが、2023年8月には2本とも姿を消していた。

ネットの断片的な情報。
・甜甜酒楼は2008年11月15日オープン?
・南山から甜甜酒楼に直接替わったのではなく、その間に他の店が(複数?)入っていた?【22日追記・いただいたコメントによれば、他の焼肉店や洋食系の店が短期間入っていたらしい。】
・南山は2004年10月25日~2004年12月2日の間頃に閉店?

・往時は「焼肉レストラン 南山グループ」というフレーズを使っていた。
言われてみればそうだった。他に南山という店はなさそうなのに、どうして「グループ」なのかと疑問だったのを思い出した。
ウェイバックマシンで当時のホームページを見ると、秋田の南山があった当時は、京都市左京区に「南山グループ本部」があった。2004年始時点では、秋田、名古屋、滋賀、京都、福岡、大分、長崎に店舗があることになっている。2004年の春以降、大分や長崎、そして秋田の店がなくなった。
南山グループは「南山レストラン事業協同組合」を指すらしく、「南山グループは、飲食業を天職として愛し、この仕事を生業として日々精進する、 小規模飲食店主らによる事業協同組合です。 」などとあった。
1965年に大分県中津市で飲食店(洋食店?)を創業。後に焼肉レストランに転向して、飲食店経営を目指す人を指導して、のれん分けを進めた。「そののれんわけ店舗が集まって結成されたのが「南山レストラン事業協同組合」です。南山グループは、1981年4月、農林水産省からの認可を受けて「事業協同組合」として再編成」。
創業者は、2001年に病気で引退、2011年に84歳で亡くなった。2000年代は牛海綿状脳症(BSE)などもあって、経営が苦しかったらしい。

各地の南山グループの店舗名は、「○○店」が多かったが、秋田の店は「秋田南山」というのが正式だったらしい。地域ごとに運営会社が存在することもあり、秋田南山は「(有)レストラン南山」が運営していたらしい。詳細は不明だが、秋田県には「(有)サンユー企画 」というのも存在。

2004年当時のURIは、実は現在も有効で、運営者の所在地も同じ。ただ、南山グループや協同組合の名はなくなっている。
2024年時点の運営者は「株式会社きたやま南山」で、店舗は京都の1店のみ。昔とは、店の雰囲気もだいぶ違ったようだ。
現在掲載される「沿革」では、1971年から全国展開し、そこに「大分県、福岡県、鹿児島県、長崎県、山口県、滋賀県、愛知県、山形県、岩手県、秋田県、福島県」とある。秋田の保戸野でない場所に「1971年時点」で店があったのかもしれないが、そうではなく、「最終的に」記載された県に店舗があったという意味ではないだろうか。また、「運営会社として㈱きたやま南山(当社)設立」は1979年としている。

ともかく、秋田市にあった焼肉南山の面影がなくなろうとしている。そして、交差点の場所がさらに説明しづらくなりそう。

【8日画像追加】
北・泉いちょう通り側から、交差点方向
タイルは南山時代から変わっていないはず。上の写真右後方・建物の北側に駐車場があった。
囲いのすき間から、店舗玄関
玄関は東辺中ほど。建物地際の御影石や、床面のタイルも南山時代のままだろうか。


【10月10日追記】10月9日時点では、上部の外壁が取り払われて、鉄骨がむき出しになっていた。
11月16日までに、更地になった。続きはこちら
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旭化成 ハマナカ…

2024-07-16 22:54:49 | 昔のこと
秋田市大町の手芸店。2017年時点では営業していたが、その後しばらくすると、いつもシャッターが下りるようになったようで、やめられたのか。それでも、看板は残っている。
電柱の陰にあるせいか、今まで気付かなかった看板を見つけた。懐かしいと思うより先に、ある歌というかサウンドロゴというかジングルを思い出した。何十年ぶりだろう。
南向きは色あせが著しい
下の赤い部分に白抜きで「楽しい手芸の店」。
北向きはマシ
上の赤に薄れた「旭化成」。大きなロゴマークの下に黒で「ハマナカ(R)手芸糸」。

「旭化成 ハマナカ手芸糸」である。思い出したかたがいらっしゃるならば、40歳代以上でしょう。
昔、テレビCMがあって、その最後に「♪あさひかせー はまなか…」と女声のジングルが流れていたのだ。

流れていた番組は、旭化成グループ1社提供のフジテレビ火曜21時「なるほど!ザ・ワールド」。
「なるほどサランラップ」とか、キュプラ生地の裏地の「ウラジミール・キュプラスキー」、加熱機能付きカップ酒「富久娘 燗番娘(ふくむすめ かんばんむすめ)※」などとともに、そのCMもあった。CMの内容は記憶にないが、ジングルは覚えていた。
※現在、富久娘酒造は旭化成グループを離れ、オエノングループ。燗番娘はなくなったようだ。

なるほど~は1981年から1996年まで放送された。僕が見て覚えていたとすれば、1980年代後半以降だろう。
あれ? 「手芸糸」だっけ? 「旭化成 ハマナカ手編み糸」だったような…


動画投稿サイトに、当時のCMがいくつかアップされていた。
1972年のCMではジングルでなくナレーションで「旭化成ハマナカ手芸糸」。同じく1社提供だった「スター千一夜」で流れていたのか。
その後、ジングルに。写真の看板と同じ画像が表示され「この看板のお店で」の文字とともに流れる。いつのCMか不明だが、1983年デビューの伊藤麻衣子(現・いとうまい子)が出演しているので、それ以降。
引き続き伊藤麻衣子出演の1985年のCMでは、文字とジングルが「旭化成ハマナカ手あみ糸」に変更。
ということで、1983年から1985年の間に、手芸糸から手あみ糸に変更されたようだ。
素人には「手編み糸」より「手芸糸」のほうが範囲が広いように(例えば刺繍糸、縫い糸等も含みそう)思われるが、単なるブランド名変更ということでいいのでしょうか。とすれば、手芸店の看板は40年以上前に設置されたことになるけれど。手芸糸と手編み糸が共存していたのか??
【17日追記・↑これらのジングルを聞いて、「そうそうこれ」と思いかけたが、なんか違うような、古臭いような印象を受けた。】

1988年には、タレントが別の人に変更。引き続き手あみ糸だが、ジングルが新しくなった。声やかすかに聞こえる伴奏も変わったが、メロディというかイントネーションが若干変更。
特に「ハマナカ」の部分が、従来は「ハマ↑ナ↑カ↓」とアクセントがあった【17日補足・「浜名湖」と同じアクセント】のが、平板になった。僕が記憶しているのは、このバージョンだ。【17日補足・CMの中身は、記憶になかった。ジングルだけが印象に残っていた。】

その後、どうなったのか。
トランプマンが出るようになったなるほど末期や、後継の1年で終わった「メトロポリタンジャーニー(※)」では、流れていたかどうか記憶がない。
※当時いた青森では放送されておらず、ほとんど見られなかったが、おもしろい番組で好きだった。

現在では、あのジングルを聞くことができないのは確実。「ハマナカ」が旭化成グループを離れため。
ハマナカ手あみ糸の企業は、京都市の「ハマナカ株式会社」(その他グループ企業あり)。手芸糸~手あみ糸初期のジングルの「ハマナカ」のイントネーションは、関西弁のそれの影響を受けているのかも。
1940年創業、1957年に旭化成と共業開始としているが、旭化成との関係がいつ解消されたのかは不明。
現在も、旭化成時代と同じロゴマークや「ハマナカ手あみ糸」の名を使っている。ホームページでは、ページタイトルなどに「ハマナカ手芸糸」の表記も見られる。


旭化成傘下にあったことは、ハマナカという企業にとってどうだったのかは分からないけれど、一定の効果はあったはず。手芸をしない者が、30年以上経っても、その名を覚えていたのだから。
そして、親会社(グループ)名、企業・ブランド名、商品のジャンルを並べて、メロディを付けたジングルとしては、名曲ではないだろうか。押し付けがましくないのに印象付けられ、30年以上保持されるのだから。「エバラ焼肉のタレ(たかしまあきひこ作曲だそう)」並みの名作。
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メローイエロー復刻?

2024-06-03 23:49:06 | 昔のこと
ロッテのキャンディ「小梅」を初めて食べた(食べさせられた)のは、1984年・小学校2年生の時に学校でだった。
6年生になった昭和最後の1988年度には、学校で2つの食品を初めて食べたり飲んだりした。

1つは、ブルーベリージャム。
当時は今ほど普及していなかったと思う。学校給食のパンに付くジャムは、イチゴジャムかマーマレード(リンゴジャムも?)だけで、一般家庭でもその辺りが一般的だったはず。イチゴは甘くて酸っぱくて複雑な味(?)で、マーマレードは苦くて、どちらもさほど好きではなかった。

元号が平成になって、卒業も間近になった3学期(当時の秋田市立学校は3学期制)。
家庭科の調理実習の授業参観を兼ねて、保護者を呼んで茶話会みたいなのが開かれた。メニューはサンドイッチ。そのサンドイッチの具材の1つとして、ブルーベリージャムがあった。名前は聞いたことがあったと思うが、青いジャムを初めて食べて、これはおいしいと思った。【4日補足・この時の食材は学校から支給され、ジャムは市販品だった。ということは、当時でもブルーベリージャムはそれなりに流通していたことになろう。我が家ではなじみがないだけだったのかも。】
その後、1990年代後半辺りだろうか、ブルーベリーアントシアニンが目にいいという話が広まったこともあり、ジャムの中ではブルーベリーをわりと選ぶようになった。


もう1つが本題で、メローイエロー。
コカ・コーラが製造販売していた炭酸飲料。
Wikipediaによれば、1979年にアメリカで発売され、1983年に日本で発売。松居直美がテレビCMで「とっても訳せない味」と言っていたのはなんとなく覚えている。「いっきに飲める 新カンキツ系」のフレーズもあったそうだ。
容器は黄色ベースで、丸ゴシック体のような書体で右上がりに「mellow Yellow/メロー イエロー」と表記。300mlのややころんとした緑色の瓶、250ml缶、1.5l緑色PETボトルのラインナップだったようだ。当時は一般に小容量ペットボトルはなく、350ml缶も少なかった。後に瓶がなくなり、350ml缶も出たと思われる。

CMを見て、メローイエローの名前と容器デザインは頭に入ったが、飲むことはなかった。飲みたいとは思わなかったかもしれない。
当時、炭酸飲料は飲んでいたが、新商品に“冒険”するほうではなかったし、ばあさんが冷蔵庫にファンタのオレンジやグレープ、三ツ矢サイダーなんかを入れてくれていたので、それで満足していた。

それを初めて飲むことになったのが、発売から5年経った、学校であった。それも理科の授業中に。以下、記憶の美化や脚色もあるかもしれません。
理科室に移動して授業をした終わり近く、担任の先生が、4人ずつの机(実験台)ごとに、紙コップと1.5lPETボトル(中身の入った)を数本ずつ配った【4日訂正・4人に1.5l×数本だと多い。数卓ごとに数本ずつか】。PETボトルはいずれも炭酸飲料で、ほかは忘れたがその1つがメローイエローだった。
そして「これからみんなで飲みましょう」とおっしゃった。
事前予告はなかったはずで、突然の授業中の“飲み会”に、戸惑いながらうれしく飲んだと思う。中でも、初めてのメローイエローが、訳せなくてもとってもおいしかった。

どうして理科の授業中に、炭酸飲料を飲むのかについては、先生が説明してくれた。
6年生の理科の単元(リトマス試験紙なども使う「水溶液の性質」かな?)の一環として、二酸化炭素が溶けている飲み物を飲もうということで、学年のお金(集金袋で納める学年会計、学年費)から購入したとのこと。学級担任の独断ではなく、学年3クラス共通で行ったことになり、後に渡された会計報告にも該当する支出が記されていた。
時期的には、少なくとも冬ではなく、夏だったような気がする。年度末ならば余剰金処理で、ということもあるだろうけれど、そうでないのなら、純粋に飲ませるために購入したのだろうか。当時、学校の近くにあったスーパーででも買ったのか、メローイエローを選んでくれた先生に感謝。

メローイエローのおいしさを知った後も、あまりメローイエローを飲む機会はなかったと思う。そもそも炭酸をあまり飲まくなったのと、平成に入って、はちみつレモンやカルピスウォーターなども出てきたから?
そして、気が付けば、メローイエローを店頭で見なくなった。
ネットで調べると、平成に入って間もなく1995年頃には、缶やロゴのデザインが変更されてポップなものになっていた(画像を見たらなんとく見覚えが)。その後、2000年に製造終了。再発売の声は根強いようで、2004年以降、断続的に(店舗や地域限定も含む)復刻発売が繰り返されている。

蛍光色のような黄色い液体だが、レモン味などではなく甘め。カフェインを含有し、発売当初は「みかん果汁」、後に「バレンシアオレンジ果汁」が1%入っていたが、2011年の復刻時に無果汁に変更。
復刻発売は、直近では2021年頃が最後だったそうだ。

ところで、メローイエローに先行し、かつ現存する競合商品に、ペプシコ「マウンテンデュー」がある。現在の日本では、サントリーから350ml缶が発売中。
大々的宣伝はされていないし、売られているのもあまり見ることが少なく、個人的には存在感が薄い。15年くらい前に、緑色の缶を自販機で買って飲んで、メローイエローっぽいかなと思いながら飲んだことはあった【末尾追記に続き】。


2004年5月21日。ローソン限定で、メローイエローが復刻発売された。
「ローソン研究所(https://www.lawson.co.jp/lab/tsuushin/art/1486879_4659.html)」サイトでも「復刻発売!」としているのだが…
ファンタシトラス&メローイエロー 490ml 税込み162円 1本255kcal
形状や容量は違うが、最初と同じ、黄色いラベルと文字が懐かしい。裏表とも英字で、カタカナ表記はなし。「無果汁」は片面のみ表示 なので、上写真の面にはなし。

だけど、なぜか「Fantaシトラス」が上半分を占める。
ローソン研究所では「爽やかなファンタシトラスを、なめらかな味わいでほどよい炭酸の「メローイエロー」でシュワっと仕上げました。」としている。
なんだかよく分からない。「ファンタシトラス」に「メローイエロー」を混ぜたってこと???

「黄色4号」による色は、往時と変わっていないそう。
強くなく弱くもない炭酸の刺激は、こんなもんか。カフェインも入っている。
味は…昔の味の記憶がおぼろげで確証はないけれど、昔のメローイエローとは違うのでは。果汁1%でないことを加味しても。昔はもっと、甘いというか濃いというか、もっとはっきりした味だったかな。
【4日追記】まずいというわけではなく、メローイエローじゃない炭酸飲料と思えば悪くない。

昨今の国際情勢、経済状況、オレンジの不作により、天然果汁を使うのは難しそうだけど、純粋なメローイエローの復刻品を飲んでみたい。
あと、今、調べて知ったのだけど、1987年から短期間、姉妹品が存在した。ピンク色ベースの容器の「メローレッド(mello Redd)」で、クランベリー果汁1%。クランベリーはコケモモの仲間(イコールではない)で、ジュースとして珍しい。飲んでみたかった。


【11日追記・マウンテンデューを飲んでみた】本件を受けて、マウンテンデューが飲みたくなって、自販機を探してみた。サントリーの自販機さえ見つかれば、扱っている確率は高そうで、2台中2台に、2枠入っていた。140円。
100mlあたり50kcalなので、52kcalのメローイエローより若干ローカロリー。黄色4号ではなく「カロチン色素」使用。ホームページにはカフェイン量が掲載されていて、100mlあたり「約20mg」。ペプシコーラの倍で、缶コーヒーよりは少ない。
そうそうこれと思わせる味。後味にほのかなオレンジっぽい風味が残るのが特徴的で、これが“肝”かも。ファンタシトラス&メローイエローとは違う。マウンテンデューのほうが好き。何度でも飲みたくなった。【14日追記】ドン・キホーテでは96円。その他のスーパーでは見かけない。


【2024年9月18日追記・その後のファンタシトラス&メローイエローについて
いつの間にか、販売が終了していたようだ。しかし、2024年9月17日、再びローソン限定で「復活発売」。量や価格は同じ。
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JRC登録式

2024-05-13 22:34:39 | 昔のこと
昭和末の小学生時代、毎年春に恒例の学校行事がいくつかあった。運動会(当時から秋田では秋より春のほうが大々的)、遠足、交通安全教室、避難訓練、身体測定・各診療科の検診などもそうだが、今回取り上げるのは「JRC登録式」。
卒業アルバムの中の行事記録で確認できた、6年間のうち3年は、ゴールデンウィーク前後(4月下旬から5月上旬)に行われていた。
ネットで調べると、全国的には現在でも、幼稚園・保育所・こども園から高等学校まで、行う園・学校はある。しかし、秋田市内では行われていなそうな雰囲気。

JRC(ジェーアールシー)とは「Junior Red Cross」、「青少年赤十字」のこと。
※以下、日本赤十字社岩手県支部の資料(https://www.jrc.or.jp/chapter/iwate/pdf/ae8362b1caa8c5b5b669907403abfa8fd256d73c.pdf)も参考にさせてもらいました。
詳しくは日本赤十字社のホームページ等でご覧いただきたいが、赤十字の活動を学校教育に取り入れるもの。そのために新入園・新入学した園児児童生徒を、「登録」する式典といったところ。ただ、実際には、年度単位での登録らしいので、手続き上は、2年生以上も毎年全校児童を登録更新していたのだろう。

岩手県支部の資料には、5月8日の「世界赤十字デー」にちなみ、その辺りで登録式を行う学校が多いとある。実際には新年度初めとか、連休前後という、学校運営的にふさわしい時期がそこであるという理由のほうが大きいかもしれない。
基本的にどこでも同じようだが、母校では、全児童が体育館に集まる、全校集会の形で行われた。岩手県支部の資料には、日赤支部から「担当者が出席して,お祝いと激励を申し上げます。」とあり、そういえば、昔の秋田でもそうだったかも。ほかの内容としては、赤十字の起源や目的の説明があったり、児童代表が作文を読んだりといったところだったはず(その他後述)。

といっても、登録式以外には、明確なJRC活動をした記憶がない。「JRC委員会」が存在する学校もあるが、母校にはなかった。
JRCに関連して「小さな親切運動」というフレーズにはおぼえがあるが、何かをしたわけではないはず。今調べると、「1円玉募金」に赤十字やJRCが関わっているようで、言われてみれば何度か小学校でやった気もするが、毎年ではなかった。
幼稚園、中学校以降では、JRCの名を耳にする機会さえなかった。
というわけで、実質、JRC=JRC登録式なのだが、JRCを印象付けるものがいろいろあった。
●バッジ
赤十字を、白抜きの桜の花(★星にも見える)が並ぶ青い円で囲んだのが、JRCのマーク。
新入生には、それをかたどった直径1センチ強のピンバッジが配られた。多くの児童は、それをクリアケース状の名札(関連記事)の中に入れ、大切にした。2年生以上に進級しても、引き続き名札にいれる子もいたが、学年が上がるごとに少なくなっていき、5年生・6年生ではほとんどいなかったのではないか。
ところで、JRC未登録の学校から、登録式以降に転入して来た子は、バッジをもらえたのだろうか。

●「空は世界へ」
JRCの歌。
登録式前、つまり新年度早々に、音楽の授業など各クラスで練習して、式で歌った。式が終われば歌う機会はなかったと思うが、毎年のことだから、6年間で忘れることはなかったし、今も歌詞は怪しいが、メロディーはよく覚えている。

歌詞は「空は世界へつづいてる」が歌い出しで、「空が僕らの私らの こころよ心よ少年赤十字」で終わる。歌詞では「青」が抜けた「少年赤十字」。
「空」「心」は1番で、2番以降ではその部分が違うものになり、けっこう長い歌だと記憶していた。

調べたら4番まであり、2番は花・姿、3番は星・誇り、4番が旗・しるしであった。
作詞は杉江健次、杉江健介、作曲は橋本国彦。
「赤十字WEBミュージアム」によれば、1946年「日赤は青少年赤十字の戦後再建を進める中、毎日新聞社の後援で「子ども赤十字の歌」の歌詞を一般から募集」し、橋本氏に作曲を依頼。別の情報では、作詞のお二人は兄弟らしい。
作曲者(1904~1949)は東京音楽学校教授を務め、「朝はどこから」や秋田県立湯沢高等学校校歌も手がけている。

1954年には「青少年赤十字の歌」が作られており(田中進兵衛 作詞、山田耕作 作曲)、中学校以上ではこちらが歌われるようだ。

●しんしん
プログラム的には、歌より先のようだが、式では、「ちかい」、いわゆる“誓いの言葉”を全員で唱和する。岩手県支部資料では「各学年ごと一句ずつ」とあるが、我々は最初から最後まで全員で声をそろえたはず。

アメリカのJRCのちかいを基に、戦後ずっと使われているそうで、「ちかい/わたくしは青少年赤十字の一員として心身を強健にし…」というもの。
ずっと前に、学校給食の記事への追記で触れているのだが、この時に、低学年を中心とした児童の間で、クスクスと笑いが起きた。
原因は「心身」が福神漬を連想させるから。

当時、株式会社新進が、福神漬を「新進漬(しんしんづけ)」として発売していた。学校給食のカレーの時にも出され、献立表にも商品名で記載されることがあったので、子どもにもその名が知られていた。「心身」という言葉を知らない、低学年にはおかしかったのだろう。
※現在は「しんしん」ロゴはあるが、商品名としては「福神漬」になっている。また、新進は今なお福神漬のトップメーカーであるが、プライベートブランドの福神漬ができ(製造元は新進だけど)、以前は秋田ではあまり見なかったと思う東海漬物が躍進するなど、相対的に「しんしん」の知名度は下がってしまったかもしれない。

●教室前方
学級担任の方針により違いはあっただろうが、各教室には、その「ちかい」が、通年で掲示された。正面の黒板横の掲示板なんかに張られることが多く、毎日目に入った。
すべすべした厚手の紙に、扁平気味の手書きの楷書で書かれた、賞状のようなしっかりとした印刷物。インクは紺色だったか。今、ネットで画像検索しても、当時と同一と思われるものばかりで、少なくとも40年不変なことになる。

それとセットで、ヒゲの西洋人男性のサイン入りのモノクロ印刷の顔も掲示された。赤十字創設者のアンリー・デュナン。※「アンリ・デュナン」と表記されることもあるが、日本赤十字社では「アンリー」と伸ばしている。その誕生日が世界赤十字デー。
岩手県支部の資料に、やはり昔と同じと思われる画像が載っていて、「アンリー・デュナンの肖像画(写真)」とされている。絵なのか写真なのかどっち?

●高学年の国語
秋田市が採択している光村図書の国語の教科書では、高学年の国語の教科書にアンリー・デュナンの伝記が載っていた。
6年生かと思っていたが、同社ホームページ「教科書クロニクル」によれば、5年生の下巻「大地」に「赤十字の創立者 ―アンリー=デュナン」のタイトルで掲載。現在のホームページでは「アンリー」表記。しかし、当時の教科書では「アンリ」表記で、登録式で聞くアンリーとは違うじゃないかと思ったような気がする。
この授業で赤十字についてよく知ることができ、1年生の頃から登録式で聞いていた話の理解が深まった。

1977年度版が初出で、1983年度版(1985年度まで使用)までは上巻「銀河」のほうに掲載。我々が使った1986年度版から下巻に移って、次の1989年度版(1991年度まで使用)が最後。
作者・筆者名は出ておらず、光村図書編集部によるオリジナルのようで、許可を得て日赤が指導用教材として転載している事例がある。となると、他の教科書会社を使っていた地域・学校の子は知らずに終わったのだろう。
思い出は以上。


日本赤十字社 秋田県支部「令和四年度 事業概要」によれば、2022年度末の秋田県内でJRCに登録されているのは、215校・園、3万2221人。
学校名も載っていて、ざっと見ると大仙・仙北エリアで登録が多い。秋田市内では、市立小学校7校で、母校の名はない。
7校には、大規模校も小規模校もある。過去の事業概要と比較すると、この数年の間に若干の入れ替わり、すなわち新たに登録された学校と、登録をやめてしまった学校が一部ある。学校ごとの方針転換か。
冒頭の通り、登録されているはずの学校でも、(年度は違って2024年度だが)行事予定に登録式はない。登録式をする余裕がなくなったのか。
その他、中学校は秋田市立秋田南と県立秋田南高校中等部のみ。あとは幼・保・こども園、高校(県立私立ともあるが、秋田南高校高等部はなし)、特別支援学校。

僕は当時から、“幽霊登録”、“名ばかり登録”だったことになるが、青少年でもなくなった今こそ、少しは人のために何かしようかな。しんしんを強健にして。
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水銀体温計

2024-02-03 23:11:50 | 昔のこと
A型インフルエンザにかかってしまった。
せき、鼻水などのほか、熱は39度手前まで上がったものの、それほど苦しくはなかった。食欲が落ちなかったのも幸い。
でも、別の疾患で治療中。相談したところ受診するよう指示され、タミフルが処方された。発熱2日目から服用して、その日の夜には(タミフルのおかげかは分からないが)ほぼ平熱に。4日目時点では、だるいようなふらつくような感覚が、若干残っている。
感染経路は同居家族で間違いない。こちらがいくら用心しても、狭い家の中に、しかも衛生観念が低い者(こっちは病気だから配慮してと言っているのに)がいては、どうしようもない。

さて、今は医療用語では「バイタルサイン(の1項目)」と呼ばれるそうだが、体調把握の指標の1つである体温。その計測に使う体温計の話。
新型コロナウイルス感染症以降、非接触式の体温計が広まった(医療機器として認証されていない、温度計のこともあるけれど)。これは、お店とか医療機器の玄関先とか、以前は体温を測らなかった場面で使われることが多いだろう。
昔から体温を測っていた、家庭や医療機関の中では、脇の下にはさむ(舌下やお尻でもできるようだけど)体温計が一般的。

ところで、これってご存知ですか?
細長い物体。この状態ではフタ付きケースに入っています
中身を出すと、
棒状のガラスの中に目盛り
ご存知ないかたは温度計? と思ってしまうかな。広い意味では正解。
正体は「体温計」。
体温計といえば電子体温計を指すようになった今の感覚では「昔の体温計」。正確もしくは誤解のないように表記すれば「水銀体温計」である。
「アナログ体温計」でも通じそうだが、Googleでダブルクォーテーションで囲って検索すると、水銀体温計約36万件に対して約5080件と多くない。電子体温計をデジタル体温計ともあまり言わないと思うし、体温計に関してはアナログ/デジタルとは表現しないのかな。

壁掛け寒暖計や理科実験用の棒状温度計は、ガラスの中にアルコールが入っていて、温度変化に応じて上下する。
水銀体温計では、水銀が入っているわけだが、温度(体温)が上がったらその位置で止まって、自然に下がることはないのが、寒暖計との大きな違い。
電源不要のメリットはあるが、ガラスだし、中の水銀は有毒なので、割れた時には危険。最近は、不要な水銀体温計類の回収も積極的に行われている。

我が家では水銀体温計がまだある。ほんとうは回収に出すべきなのかもしれないが。長年使い続けているのが1本(写真下)、最近発掘されたのが1本(写真上)。
電子体温計では、メーカーや機種によって、本体形状はさまざま。電池サイズや表示部を大きくしたい意図もあるのだろう。
水銀体温計は、三角柱など一部違うものもあったが、大部分はメーカーが違っても同じ(ような)形だった。この2本のように、円柱を押しつぶして平べったくしたような。どちらも目盛りは35、6、37、8、9、40、1、42と表記され、「37」だけ赤文字(下のは経年で退色)。
2本はメーカーが異なる。目盛りの色やサイズが異なるのはすぐ分かる。並べて比較してみるとサイズや、ガラスのカーブによる形状、それらによる触り心地も、微妙に違った。

目盛りは厚紙もしくはプラスチック板のようなものに印刷されて封入され、その前に水銀の管が配置されている。では、その裏側はどうなっているか。
裏面
検温には必要ない内容(電子体温計でも同じだけど)。
上は「TOSHIBA 東芝体温計A」と、メーカー、機種が表示されている。当時は「体温計」=水銀体温計だったことを示す名称だ。
下は「開業十周年記念」として秋田市内の医院の名(親戚宅のかかりつけ医)。その後に「柏木」とメーカー名らしきもの。
どちらにも右側に「C」とあるのは何かの義務付けられた表示だろうか(摂氏のC?)。下はさらに右に「人」みたいなマークも。

メーカーや製造時期について。
下の「柏木」は、明治時代に日本で初めて国産体温計を製造販売し、戦前は独占状態だったという同名メーカーが存在した。そこは1959年に製造をやめたとの情報があった。
だけど、この体温計はそれよりは新しい。体温計をくれた医院(代替わりして今も存在)は1967年開院だそうなので、1977年頃に製造されたことになる。医療機関がノベルティに使うくらいだから、信頼の置けるメーカーなのだと思うが、国産初の柏木との関係は不明。
現在、柏木という体温計メーカーはなさそう。

上の東芝は、もちろんあの東芝。
何でも作る東芝だけど、体温計まで作るとはと驚かれるかもしれないが、そういえばと感じられるかもしれない。かつては「サザエさん」などでテレビCMが流れていたので。
東芝体温計は箱や取扱説明書(兼 記録表)も残っている。
薄いダンボール箱
「特納用」とあり、健康保険組合が加入者に配布や販売するための製品だったようだ。
製造年などは記されていないが、説明書の活字に写研・ナールが使われているし、雰囲気としては昭和50~60年代かなという気がする。

箱には、企業名の表示があった。製造元なのか販売元なのか。
東芝硝子株式会社
東芝本体(東京芝浦電気→東芝)ではなく関連会社。大井川の河口、静岡県榛原郡吉田町に本社があるらしい。

調べると、東芝硝子は1999年に旭硝子(AGC)グループへ吸収。現在は「AGCテクノグラス」となって、本社は引き続き吉田町。体温計を製造している気配はないが、電子、工学、理化学分野のガラス製品を作っている。※東芝の体温計については、この記事後半も参照。

説明書には、現代のそれのように「各部の名称」の説明はないが、文面から読み取れるものとして、
・水銀槽:脇や舌下にはさむ測定部分であり、水銀が貯まっている部分。
・水銀糸:水銀が動いて体温を示す部分(うまく表現できない)。
・留点:水銀槽と目盛り左端の間にある、水銀が戻らないようにするための仕掛け。管が細くなっているようだ。


新型コロナ流行前は、平常時に体温を測る習慣がなく、流行後は、新たに購入した電子体温計をもっぱら使っていたので、水銀体温計はご無沙汰。インフルエンザ療養中の検温の一環として、久々に使ってみることにした。
水銀体温計は5分で、おおむね正確に測定できると記憶していた。東芝の説明書にも「わきの下での検温時間は、ほぼ5分間です。」とあった。
なお、同時に使用した電子体温計は、予測式ではなく実測式で、温度上昇が緩やかになればブザーが鳴り、10分間測定することで正確な値が出ることになっている。

3本を同時にはさむのは無理があるので、連続して1本ずつ、それぞれ5分間測定してみた。電子体温計では、ブザーが鳴った時と10分後の値も計測。
結果。電子体温計は10分経過時。水銀体温計は反射で見づらいですが
見事に3本とも、ほぼ36.4℃!
電子体温計は、2分05秒でブザーが鳴って36.3℃、5分経過時でも36.3℃だった。

自分の平熱は、長年36.5℃だと思っていた。また、少し前に、医療機関用のオムロン製予測式電子体温計で複数回検温した時は、いつも36℃台後半だった。
それらより少し低いのは、タミフルのせいなのか、外気温や室温のせいなのか、よく分からないけれど、3本がそろってそう言うのならそうなのでしょう。

久々に水銀体温計を使った感想。
1.パリンとやっちゃいそうで怖い
電子体温計と比べると、細く、ツルツルしているし、ガラス&水銀だから取扱い注意という意識もあって、少々緊張した。

2.値が読みづらい
自分の目が老眼になったとかではなく。壁掛け寒暖計と同じような感覚かと思っていたが、水銀の線がはっきり見える角度が狭くて、本体を微妙に回転させて、ベストな位置を探すのに苦労した。
どちらも、目盛りに対して真正面ではよく見えず、東芝はやや下、柏木はやや上からが判読しやすかった。


↑掲載した写真は、目盛りに対して左右方向にズレた位置から撮影しているため、正確な値として読み取れない状態です。目盛りの見やすさ(見にくさ)を示す写真です。

水銀体温計の目盛りは、黒いような銀色のような線がくっきりと出ていたと記憶していた。だけど今回の2本は、いちばんはっきり読み取れる位置でも、薄いグレーのようなもので、くっきりとは言えなかった。昔からこうだったっけ?

本体の長さがほぼ同じ2本を比べた時、東芝体温計のほうが目盛りが長く、目盛りの(範囲は両者同じなので)間隔が広い。また、水銀の管の、水銀が達していない部分が黄色い。判読しやすいような配慮がされているようだ(がそれほどでもなかった)。
東芝には、さらに見やすい体温計があった。テレビCMされていたのがそれで、「東芝ネオブルー」。水銀が青く見えて、読み取りやすさを売りにした製品であった。
ネットからは「ネオブルーA」という製品があったことが分かる。我が家にある「東芝体温計A」と同時期の品なのか? 「ネオブルーC」という記載も見られるが、それは今回の2本にもあったような「C」表記をいっしょに読んでしまっている可能性もある(ネオブルーBはなさそうだし)。ネオブルーでは目盛りの背景は黄色ではなく、無着色だったそうだ。

3.使用後が疲れる!
電子体温計は電源を切るか、放っておいてもオートパワーオフされるが、値が保持される水銀体温計ではそうはいかない。水銀体温計を知らない人はどうすればいいか、想像もできないかもしれない。

体温計を「振る」ことで、水銀が下がるのです。
記憶では、体温計を5本の指で握り、肘から先を上から下へ、けっこう力を入れて5回くらい振り下ろさないといけなかった。握りつぶしたり落としたり、周りの壁や机にぶつけたりして壊さないよう注意するのも重要。測定前には、下がっていることを確認することも大事。

久々に振ってみたら、柏木はそんな感じだったが、東芝が手ごわかった。
柏木より落ちかたが鈍く、いくら振っても35.9℃より下がらず、あきらめた(測定前もそうでした)。説明書には、使用後は35℃以下まで振り下げ、使用前は35℃になっていることを確認するように書かれていたけれど無理。

説明書では「水銀の簡単な振り下げ方法」が絵入りで紹介されている。
容器(ケース)に体温計をしまって、「ヒモの両端を指先にかけ、よりをかけて強く両方へ引き、回転させると遠心力で水銀は下がります。」。

そうそう。この説明書を見ていないと思われる人からも、そうやって下げることができると聞いたことがあったので、それなりに知られた方法だったのだろうか。これはこれで面倒そうだけど…


電子体温計が水銀体温計に取って代わったのはいつ頃だったのか。オムロンとテルモの公式サイトを見てみた。
オムロンは、1972年に医療機関向けとして電子体温計を発売しているが、最初の携帯電話みたいな大きな本体が別にあるタイプ。1980年に現在と見た目があまり変わらない、家庭用1号機を発売。1983年には小型化して、現在に続く「けんおんくん」となった。
テルモでは、「1983年11月病院向けに、1984年2月家庭向けに、日本で初めての「平衡温予測方式」の電子体温計を発売」し、「約1分で予測検温できるものとして市場に広く受け入れられました。」としている。

僕も、1980年代後半=昭和末=バブル期が交代時期だったと記憶している。
1980年代半ば頃に電子体温計なるものが存在するのをテレビか何かで知った。画期的な新商品というとらえかただったと思う。
行きつけだった小児科医院では、遅くとも1983年頃までは水銀体温計だったのが、1988年にはテルモ製の電子体温計(HOSPITAL USEとあったので医療用)に代わっていたか。
我が家でも、同じ頃に電子体温計をもらって、使い始めた。それも残っている。電池が切れているけれど。
下がそれ。日焼けしています
本体が厚く(太く)、表示部が小さいものの、現行とそんなに違和感はない。見づらいが、これもTOSHIBAロゴがある。
裏面表示
水銀体温計にはなかった、昔からの「東芝傘マーク(参考記事)」も記される。
「EMT-1」という機種。1というからには、電子体温計初代機種なのだろうか? 「株式会社東芝」とともに「製造 東芝硝子株式会社」も記され、水銀から電子へ製造が引き継がれていた。

上記の通り、東芝硝子を継承したAGCでは体温計は作っていなそう。
東芝としては、2000年11月の情報として「EMT-7」という製品が存在した(その時点で製造終了済みの可能性も)。
さらに婦人用体温計「HT-201」というのが2016年時点で株式会社東芝から発売されていた。その他ライフサイエンス事業を一括して、同年5月31日をもってTDK株式会社へ譲渡されている。2024年時点では、HT-301がTDKから出ている。

このEMT-1がいまいち。予測式だったのだと思うが、誰が測っても平熱が35℃台と表示され、こんなモン信用ならんと、水銀体温計に戻ってしまい、それが今も残っているのだった。だから、その数年後に接した医療機関の電子体温計が、信頼性の高そうな値を表示するのには驚いた。

ちなみに、東芝同様何でも作るパナソニック(旧・松下電器産業)グループでは、体温計を製造していた(いる)とは見聞きしたことがない。
調べると、現在はなさそうだが、かつては松下電工(現・パナソニック電工)から、ナショナル(National)ブランドの体温計が発売されていた。一般的な電子体温計(EW237P)と女性用が「はいなんど」、耳で測る「ミミタッチ」もあり、型番はいずれも「EW」で始まる。EW237Pは2003年頃の製品のようだ。【4日補足・松下グループで水銀体温計を作っていたという情報は見当たらなかった。】


若い人たちは黒電話のダイヤルの使いかたを知らないそうだ。現在の普及率を踏まえて考えれば当然。水銀体温計も同じことだと予想される。
以前、OHPの話題で、OHPを知る/知らない世代の境目は、昭和生まれ/平成生まれと重なるのではないかと予測していた。
体温計の場合は、遅くまで水銀体温計が残っていた家庭もあるだろうから、OHPほどはっきりとは分かれないと考えられる。昭和末生まれでも知らない人がいるかもしれないし、平成生まれで知っている人もいそう。
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「わたしたちの秋田市」

2023-12-02 22:39:49 | 昔のこと
小学校3・4年生(中学年)の社会科では、1年生から社会科があった昔も、生活科ができて3年生からになった現在も、自分たちが住む市や県を題材にして学習を進める。
全国で全員に無償配布される検定教科書では、地域ごとのフォローができないため、別に「副読本」が作られ、配布されることが多い。教育分野において「副読本」とは、検定教科書に対する補助的な教材全般を指すようだが、小学校中学年社会科(および一部では中学校も)向けのものを、特に「地域副読本」と称するそうで、Wikipediaにその項もある。
各地の社会科教育研究会や教育委員会が執筆・発行する。制作支援を商売にする出版社もある。

地域副読本の書名は、自治体名そのものズバリや、「のびゆく○○(自治体名)」も見られるが、圧倒的に多いのが「わたしたちの○○(自治体名)」。
秋田市でも「わたしたちの秋田市」。

自治体によっては、ホームページで閲覧できたり、市民向けに販売するところがあるが、秋田市ではやってなさそう(現行版は「非売品」扱いのようだ)。秋田市立各図書館と秋田県立図書館では、過去のものも含めて収蔵されている(貸出はできないものもあり)。
蔵書検索してみると、秋田市立図書館では、1960(昭和35)年版と、1981(昭和56)年版以降のほぼすべてを所蔵。県立図書館は、市立で抜けている1965~1976年をちらほらと持っている。※未所蔵の年の中には、そもそも発行されなかった年(=前年度版をそのまま配布)があるのかもしれない。

「わたしたちの秋田市」には、少なくとも60年以上の歴史があるのだった。
神奈川県相模原市の「さがみはら ―3・4年生 社会科副読本―(現在の書名)」は、1962(昭和37)年に初版本を作ったとのことで、全国的にそんな感じなのだろうか。

図書館のデータベースでは、いずれの年も基本的に著者は「秋田市教育委員会/編」、出版者は「秋田市教育委員会」。
ただ、初期は異なり、1960年版は「秋田市社会科教育研究会/編」、出版者は県立図書館では市教委だが、市立図書館では「教育書籍」というところ。1965年版は「秋田市社会科教育研究会/編 」、「秋田協同書籍」。
この記事で少し触れたが、秋田協同書籍は現存する教科書の取次供給所の1つ。「秋田県教育図書株式会社」は、現存するか不明だが、協同書籍と関連がある企業のようで、かつては取次供給所の上位の特約供給所だったようだ。

本のサイズは、1960年から1990(平成2)年までが21cmだから、A5判?
(1991年は図書館になく)1992年以降は26cm。これはAB判とかワイド判というサイズだろうか。おそらく、それぞれの時代で主流の教科書の判型に合わせているのだろう。
小学校の社会科の教科書は、現在は左綴じ・横書きだが、昭和末期は右綴じ・縦書きだった(中学校はすでに横書き)。「わたしたちの秋田市」もそれに合わせて、縦書きから横書きに変わっているようだ。

ページ数は、1960年が72、1976年が80、1985年が90、1990年が104、1992年が97、2023年が117。
文字のサイズ、図表や写真が増えたであろうことを踏まえると、掲載総量としては減っているかも。


Wikipediaには、地域副読本の使用義務はないから、未使用の学校も存在するとある。
僕が小学校3年生だった1985年度は、「わたしたちの秋田市」をかなり使った。検定教科書(当時の秋田市は「中教出版」を採択。関連記事。)のほうはあまり使わなかった。4年生では、「わたしたちの~」はほぼ使わなかったはず。

どこかに保管してあるはずだが、すぐには出てこない(図書館に行けば見られるけど)。
表紙は、白地に黄緑色(秋田市の色・若草色?)の細かい縦縞模様が入ったような感じで、横書きの手書き風明朝体で「わたしたちの秋田市」と書かれていたような記憶がある。
中身は、県内他地域との比較として、豪雪地帯の山内村(現・横手市山内)と温暖な象潟町(現・にかほ市象潟町)が取り上げられたり、郷土の偉人として防風林【3日訂正】防砂林植樹を行った栗田定之丞が掲載されたりしていた。社会科見学・市内めぐりの事前・事後学習にも使ったはず。


それから40年近く。合併、市街地空洞化、少子高齢化・人口減少などを経験した、わたしたちの秋田市。人口は1989年に30万人を越えたが、2002年から減少(2005年の河辺・雄和合併後も)に転じ、先日、ついに30万人を割った。
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道徳のフィンガーボウル

2023-11-06 21:07:12 | 昔のこと
2023年10月20日の臨時国会開会式で、新たに就任した額賀福志郎 衆院議長が所作を誤ったことが話題になった。
演壇から議場に向かって「式辞」を読み上げた後、後方に座る天皇陛下へ振り返って一礼後、そのまま降壇するべきところ、階段を上がって天皇陛下の元へ歩み寄り、式辞の原稿を手渡してしまった。陛下は、若干困惑の表情を浮かべた後、立ち上がってほほえんで両手で受け取られた。
卒業式の答辞じゃあるまいし。まして今回のは「原稿」。見た感じ、賞状のような厚手で大きめの一枚紙を、軽く丸めて筒状にした状態。それを渡されても困る。議長が初めてで緊張したと釈明して、それはそうなのだろうけど、衆議院議員を13期もやっていて、知らなかったわけはないでしょう。

あと、演壇後方、階段左右には、4~5人ずつ、何者か知らないけど立っている(議長も式辞以外はその右側で待機するようだ)。その人たちだって、所作は知っているだろうから、階段を上がりかけた議長に「そっちじゃない。こっちへ戻って!」と声をかけて、やめさせることもできたのでは、と思った。
天皇陛下としては、そんなもんいらんと追い返すわけにもいかず、受け取るしかなかったとお察し申し上げる。後で議長が宮内庁長官へ謝罪し、「陛下は気にしていない」旨が伝えられ、まあ一件落着。


この一件を知って、「フィンガーボウル」を思い出した。フィンガーボウルが出てくる、とあるお話。
ある国で、女王主催の晩餐会(食事会? 宴会?)が開かれた。その招待客の1人が、汚れた指先を洗うための水が入った容器「フィンガーボウル」の水を、知らなかったのか緊張したためか誤って飲んでしまった。それを見た女王は、本来の用途を知っているのに、フィンガーボウルの水をためらいなく飲み干した。
そんな内容だっと記憶する。
おそらく小学校4年生=1986年度の道徳の教科書に載っていて、授業で取り上げられた。
「フィンガーボウル」の名と用途を初めて知るとともに、女王が行ったことが果たして正しいと言えるのか、引っかかるような気持ちになったので、40年近く経った今でも記憶に残っている。

当時は道徳が正規の教科扱い(現在は「特別の教科」)ではなく、教科書も検定・無償給与(先日の記事)ではない、副読本のような扱い。秋田市立学校では、学校ごとに教科書を選定していたようだ。母校は道徳教育の研究指定校だったため、毎年、違う教科書を買わされており、どの教科書会社だったのかは失念。

このお話をネットで検索してみると、道徳の授業に限らず、大きなってから(おそらくマナー講習やサービス業界の研修等)知ったと思われる人もいて、そこそこ知られた話のようだ。
Wikipediaの「フィンガーボウル」の項でも言及がある。元となる実際のエピソードがあるとされるが、細部が異なって言い伝えられている。主催者はイギリス国王エドワード8世またはヴィクトリア女王で、招待客は外国人というのが多そう。場所を日本にして、陸軍大将主催の会とするバージョンも存在。イギリス版でも、客の出身はアラブだとかアフリカだとか、いくつかあるようで、そのバラツキ具合からすれば作り話っぽい感じもする。
ネット上の個人の思い出話では、客が「(なぜか招待された)一般庶民」とするものや、女王が「エリザベス女王」、さらに「サッチャー首相」だとするものも。それらは、勘違いあるいは、伝言ゲームのように/時には意図的に、作り変えられたのだと思われる。※差異があって語り継がれる伝説っぽいものとして、ベルトクイズQ&Q/クイズタイムショックの話を思い出した。


そして、令和になっても、道徳の教科書に載っていた。ネットには、授業の展開をまとめた学習指導案が、いくつもアップされている。最近は、フィンガーボウルの説明や食事マナーと合わせて、栄養教諭とともに授業することも行われていた。
道徳教科書の掲載内容に限れば、「人権を大切にする道徳教育研究会(https://www.doutoku.info)」ホームページに、信頼性が高い参考になる情報があった。
同研究会によれば、現時点で3社が、いずれも小学校4年生用に掲載している。あかつき教育図書と日本文教出版は「フィンガーボール」、学校図書が「生きた礼ぎ」のタイトル。※「~ボウル」ではなく「~ボール」表記。この記事では一般的と思われる「~ボウル」も用います。
その他、光文書院の3年生用にも「生きたれいぎ」が掲載されているようだ。「礼」は3年生で習う漢字であるため、3年生向けはまだ「れいぎ」表記なのだと思う。過去も含めて、他社・他学年にも載っていた可能性がある。

出典については、
「“吉沢久子作「生きた礼儀と死んだ作法」”のあらすじである。 この作品が収められているのは、「美しい日々のために:少女の生活設計」(吉沢久子著、三十書房、1953年) 」。
吉沢久子は2019年に101歳で亡くなった、評論家・随筆家。
1965年に当時の文部省が出版した「小学校道徳の指導資料 第2集 第4学年」に「資料 読み物「生きたれいぎ」 」というのがあるらしく、それがこれだとすれば、原典出版直後から、およそ60年に渡って、道徳教育で使われてきたことになる。
教科書会社が違っても、同じ「あらすじ」が掲載されるが不思議だが、文部省が示した資料からの転載ということなのか。

研究会によれば教科書での終わりかたは2パターン存在。
「作法通りに女王がフィンガーポールで指を洗ったなら、その客はどんな思いをしたことか。・・・(ここまでの内容は各社共通) そのあと【日本文教出版】と【学校図書】では、「お客はあとで自分の間違いを知ったとき、女王のとった態度をありがたく思ったことでしょう。」と続き、女王の行動を「生きた礼儀」の手本として評価している。これでは女王のやり方が唯一の正解であるかのように教えることになり、めざす「考える道徳」になっていない。一方【廣済堂あかつき】は女王の行動の評価までは記載せず、考える余地をつくっている。 」。

僕が習ったのはどっちだったか。言われてみれば「生きた礼儀」という言葉におぼえがあるような。「~ありがたく思ったことでしょう。」のくだりがあったような。


フィンガーボールは、学習指導要領における「礼儀」、「礼儀の大切さを知り,誰に対しても真心をもって接すること」をねらいとした教材。
たしかに、女王のやりかたも、客を思いやった行動の1つではある。間違った客は、事実を知った時、女王の対応に感謝はするだろうけれど、そのほかに、女王は確実に自分の過ちを認識していて、そのことで女王に気を遣わせてしまったことを同時に知ることになる。自責の念というか申し訳ない気持ちが生じてしまわないだろうか。さらに、間違いに気付くのが遅れれば、次にフィンガーボウルに接した時は、また飲んでしまいかねない。
自分が間違った客の立場ならば、見て見ぬふりで淡々と手を洗ってくれたほうがいい。「自分の間違った行為を、ひょっとしたら女王は見て(気付いて)いなかったかもしれない」という、“淡い期待”も持つことができ、後悔も軽減される。

間違った客と女王以外の、他の客の立場になってみても、主催者が水を飲んでしまっては、自分はどうすれば…と葛藤することになるだろう。
可能ならば、客が飲みかけた時点で小声で「飲むんじゃないですよ」と止め、できないなら、見て見ぬふりで淡々と手を洗うのがいちばんではないだろうか。

つまるところ、相手を思いやった行動を、その場に応じて臨機応変にすればいいのだけれど、その行動は1つだけが正解ではないだろうし、相手の受け取りかたも1つではない。
37年前は、漠然とした引っかかりが残った程度だったが、今、37年ぶりに思い返してみたら、小学生にも大人にも難しい問題だと感じている。


ところで、お嬢様育ちの芸人(一時期、NHKディレクター)たかまつなな には、牛丼屋に初めて入って、水の入ったコップをフィンガーボウルと勘違いして、指を洗ったという、今回の話と真逆のネタがあるらしい。でも、いくらお嬢様でも、牛丼屋のコップはコップだと思うのでは… そもそも牛丼屋で指先はあまり汚れないだろうし… ネタだから作り話でもいいけれど。
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昭和63年度 教科書一覧

2023-10-16 19:46:55 | 昔のこと
教科書採択に関連して、物持ち良く保存していたものから。
おそらく1988(昭和63)年春、小学校6年生になった時、学校で配られた紙。B5判より小さい紙で、(校内の印刷機などでなく)ちゃんと印刷されたもの。
「教科書のお知らせとご注意事項」
新学期のほか、上下巻に分かれた国語のような秋(今でいう後期開始時)に配本がある場合はその時にも、教科書とともに渡されていた。他の年度版は行方不明だが、少なくとも小学校時代はこのスタイルだった記憶があるが、中学校ではどうだったか。

メインは中ほどの「教科書照合一覧表」。自分の学年に応じた教科書を、もれなくもらったかチェックする用途。記された数字は、その「定価」。※当時は消費税導入前。導入後も、教科書は非課税。
無償配布なのに定価を教えるのがおもしろい(紛失時等は有償販売になるので、定価設定は必要)。これだけ費用がかかって、税金が使われているということを分からせる意図があったのかもしれない。「あなた(お子さま)がお使いになる教科書は、国から無償で給与されます。」の文もあり、当時の僕はそう感じた。今は、市の広報紙などで、それ自体の単価を表示することがある(広報あきた10月6日号は1部25.245円)が、それと同じように。

本文は、きれいな活字で印刷されている。
しかし、「秋田市・河辺郡内公立(小学校)」や、教科書の出版社名と価格は、今では懐かしい、ドットの粗いコンピューターの文字。【2025年8月22日補足・価格の数字部分は、バーコードの下の数字、運転免許証の番号などで今も使われる「OCR-B」フォント。】
だから、県内他地域や県外と文面や枠は共通で、採択に応じて照合一覧表だけ差し替えているのかもと思ったが、いちばん下の「教科書取扱店」は秋田市内の店だけが、きれいな文字で印刷されている。右下には「秋9051」という秋田を意味しそうな記号も。広告部分も、また別の印字なのかもしれないけれど。

「教科書取扱店」。本文において、紛失や汚損時に「下記の教科書取扱店(教科用図書取次供給所)でお求めください。」とある。
「秋田協同書籍」は電話番号なしで名称のみやや大きく記され、その下に「参考書の取り扱いは」として、秋田市内4つの書店。4書店でも教科書本体も購入できたはずだが、分かりにくい書きかた。
「かねこ書店」は土崎港中央一丁目。2010年前後まで営業していたようで、Googleマップストリートビューでは2012~2015年時点では、売物件で看板は残っていた。2018年以降は、宅配寿司が入居。
「三光堂書店」は、大昔は大町にあって、山王大通り(竿燈大通り)建設時に、中央通りの中通一丁目へ移転。今のエリアなかいち住居棟付近にあったそうだが、なかいち着工のだいぶ前にやめているはず。
「三浦書店」は、広小路はじめ秋田市内に複数店舗があったが、2000年頃に廃業(関連記事)。
4書店中、2023年時点で残るのは、加賀谷書店のみ。その電話番号は、2012年で閉店した広小路の本店を掲載。閉店してまだ11年しか経っていないのか。
後に、保戸野の文具店「のてや」も教科用図書取次供給所になったようだが、閉店したため、現在は協同書籍と加賀谷書店。


教科書照合一覧表。

「外国語(英語)」や当時は教科ではなかった「道徳」は、見る影もない。「生活」もまだ始まっていないが、1年生の欄を見ると、理科は配られているものの、社会がない。生活科導入を踏まえて、カリキュラムを多少変えていたのだろうか。あと「保健」は、検定教科書がなかったのか。

採択された出版社。
2024年度の秋田市の採択と異なるのは、社会(中教出版→東京書籍)、理科(大日本図書→東京書籍)、図工(開隆堂→日本文教出版)と、意外に少ない。【16日注記・ここでは1988年度と2024年度の単純な比較です。その途中のどこかで、一度変更されて再度戻るなど、採択が変更された可能性はあります。】
大日本図書の「たのしい理科」は楽しかったけどな。一覧表を見ると、1冊当たりのコストはいちばん高い。※国語などは上下巻に分かれているので、通年ではそちらが高いことになる。

中教出版は現存しない。1993年に、社会と生活の版権を日本文教出版に譲渡して、後に解散。
当時の社会科教科書は、太い横縞(色は学年で異なる)を背景にイラストをちりばめた表紙で、「国民生活と生産 5上」「国土と人間 5下」のようなタイトルが付いていた。タイトルは光村図書の国語もそう(一上 かざぐるま、四上 かがやき等)だけど、こちらのほうが直接的。
なお、小学校の社会科の教科書は、現在は左綴じ・横書きだが、当時は右綴じ・縦書きだった。中学校は当時から横書き。


「教科書のお知らせとご注意事項」は、裏面もある。
いかにも昭和テイスト
「よい本を選びましょう!」とあり、課題図書でも載っているのかと思いきや、問題集・ドリルや教科書ガイドの宣伝。「定価一らん表」まで出ている。
商売っ気があると言えばそうだけど、無償配布の教科書一覧の裏で、“虎の巻”の告知までするとは。


ところで、全国的に小学校3年生には、その市町村のことに限定した教科書に準ずる本が配られ、社会科で使われることが多い。「地域副読本」などと呼ばれるもの(自治体によって有償無償は違うようだ)で、検定教科書ではないので、この紙には出ていない。
秋田市では「わたしたちの秋田市」という書名なのだが、それについてまた後日
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勇気一つを友にして

2023-10-09 22:42:21 | 昔のこと
NHK「みんなのうた」の2023年10月・11月の再放送曲。
明るく楽しい「メゲメゲルンバ」とセットで放送されるのが、「勇気一つを友にして」。
おそらく昭和40~60年代(平成初期も?)生まれの人はご存知の歌だと思うが、好きではない人も多いと思う。僕は大嫌いである。暗いし、言っていることがおかしいし。

作詞:片岡輝、作曲:越部信義、歌:山田美也子、アニメーション:毛利厚。
作詞者は「未来少年コナン」の主題歌や「グリーングリーン」も手がけた詩人、作曲者は「おかあさんといっしょ」や「サザエさん」のBGMでおなじみ。越部作品としては断トツに暗い曲だろう。
歌い出し部分に、「キハーダ」もしくは「ヴィブラスラップ(ビブラスラップ)」という打楽器による「カーッ」の音が入るのが、ちょっとおもしろい。「与作(1978年)」の「ヘイヘイホー」の合いの手や、ハンバーグ師匠が持っているが、当時はまだどちらもなかった。当時の越部先生なりのお考えがあったのだろうけど、今となってはなんか場違い。【2024年7月13日追記・余談だが1973年の八代亜紀「なみだ恋」にも、カーッが多用されていて、今となっては場違いに聞こえてしまう。】
あと、アニメーションも、色と動きが少なくてなんだか怖い。

みんなのうたでの初回放送は1975年10・11月。
みんなのうた向けの書き下ろし作品なのか、先に発表済みの作品を起用したのか(今は書き下ろしが原則だが、当時のみんなのうたで両パターンあったようだ)は不明。Wikipediaによれば、1979年には教育芸術社の小学校6年生の音楽の教科書に掲載されていたとのこと。みんなのうた放送により、広く知られるようになったのかもしれない。

歌詞の内容は、昔、ギリシャのイカロス(イーカロス、イカルス)が、鳥の羽根をロウで固めた翼を着けて空を飛んだ。すると、太陽の熱でロウが溶けて翼が壊れ、イカロスは墜ちて命を失った。だけど、僕らはそんなイカロスの鉄の勇気を受け継いで、強く生きていく。というもの。

歌詞だけでは、イカロスがどういう理由で空を飛ぼうとしたのかが分からない。鳥人間コンテストのように、純粋に飛びたくて飛んだのだと思っていた。それを「鉄の勇気」と褒め称えるべきか…
出典となったギリシャ神話を紐解く(Wikipediaですが)と、少し状況が変わる。
イカロスは、父・ダイダロスとともに、迷宮(塔)に幽閉されていたのだった。自由を求めて飛び立ち、落命してしまったのなら、「勇気」とも言えなくはないか…
いや、そうでもなかった。
翼は父と共同で作ったもので、事前に父から「ロウが溶けるから太陽に近づくな」と注意を受けていたのに、飛び立った後、いわゆる“調子こいて”太陽へ向かっていったのだった(父のほうは翼で脱出に成功したらしい)。
ということは、制限速度をオーバーして自動車事故を起こしたり、閉山中の富士山のゲートをくぐって登山して救助を求めたりする人たちみたいなもんじゃないか。それを「勇気」とし、それを受け継いで生きたくない。

慣用句的な「イカロスの翼」としては、人間が生み出した技術への過信を戒める意味合い。
でも、上記を知れば、技術とか過信以前に、人から言われた重要なことを守れない、バカでしかない。


僕がみんなのうたで初めて本作を見たのは、1980年代半ば頃の再放送。しかしそれ以前に、歌は知っていて、すでに嫌いになっていた。
秋田市立学校(当時は+河辺郡2町立)の音楽の教科書は、教育芸術社を採択していて(現在も)、上記の通り当時はこの曲が6年生用に載っていた。
毎年秋には、学年ごとに学習の成果を発表する学校行事がある。母校の場合、1984年度までは「学芸発表会(学芸会)」、1985年度から「学習発表会」の名称。
その6年生の出し物では、最後に「勇気一つを友にして」を合唱するのが恒例になっていて、毎年聞かされていたから。みんなのうた版を初めて見た時は、アレンジとアニメでさらに嫌いになった。

毎年聞かされて嫌になった上、自分が6年生になったら歌わされるのだとさらに嫌になっていた。
しかし、我々が6年になった時は歌わなかった。
学年主任でもあった学級担任の先生が、これまでのマンネリを打ち破り、新しい歌を歌うことにしたような話をされたのを覚えている。比較的若い先生が多かった学年で、音楽専攻の先生がいたこともあっただろう。
代わりに教育芸術社の中学校の教科書掲載の「明日という大空(作詞:平野祐香里、作曲:橋本祥路=秋田県出身、教育芸術社役員)」を歌った。平常の授業も含めて、「勇気一つを友にして」はほぼ歌わなかったのではないだろうか。※関連して音楽の教科書の話題


教育芸術社ホームページによれば、現行の教科書には「勇気一つを友にして」はどの学年でも掲載されていない。その他ネットを見ると、2000年代半ばくらいではまだ掲載されていたような感じ。
また、現在の6年生の教科書には、「明日という大空」が中学校から移動していた。昭和末の我が母校の先生たちは、先見性があったようだ。
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メゲメゲルンバ

2023-10-08 20:12:59 | 昔のこと
NHK「みんなのうた」の2023年10月・11月の再放送曲。※昨年時点では、NHKプラスでの見逃し配信はされていなかったはずだが、現在はされるようになった。
「メゲメゲルンバ(メゲメゲ・ルンバ)」がついに放送。

初回放送は1981年10・11月。
Wikipediaでは、今回のテレビでの再放送は、1982年以来35年ぶりとか書いてあるけれど、違うと思う。1980年代後半にも再放送されているはず。僕は初回放送とその翌年の記憶はなく、1980年代後半の再放送枠でこの歌を知って、好きになったから。
また、ステレオ音声に聞き覚えもあったので、21世紀に入ってからも、1回限りなどで放送されているかもしれない。※みんなのうたは1981年度新作からステレオ音声。

作詞:藤田詩織、作曲:古田喜昭、編曲:松井忠重、歌:詩織、アニメーション:倉橋達治。
作詞者が歌っているのかな。
作曲者は、1980年代に、みんなのうたのほか、アイドルやアニメの歌を多く作っている。作詞もしたり、テレビ朝日「パーマン」のエンディング「パーマンはそこにいる」は歌唱も。

歌詞も、曲も、歌い方も、アニメーションも、どれも楽しい。
テンポよく、ちょっとスリリングな展開でもあり、いちおうハッピーエンド。子どもの(大人でも?)歌はこうでなくちゃ。ただ、後述のように、今、歌詞をかみしめてみると、考えさせられるものもなくはない。
再放送の少なさのせいか、明るすぎる曲調のせい(トラウマ曲として記憶に残る人などいまい)か、当時子どもだった世代でも知らない・覚えていない人が多いと思われるが、みんなのうたの名曲の1つとしていい。
なお、ヒット曲「コーヒールンバ」にどことなく通じる点もあるけれど、約20年の時差があり、曲調などはだいぶ違うと思う。

久々に見たアニメーションは、全体にくっきりしていて、色鮮やかに感じた。
この年代の再放送曲では、基本的に保存映像をそのまま放送しているのか、フイルムの質感やノイズがあるのに、本作はそれが少ないように見えた。デジタルリマスターしたのか?【8日追記・でもノイズも残っていて、一般的なデジタルリマスター後の映像ともまた違う感じがする。】

名曲メゲメゲルンバには、“汚点”があった。
歌詞の字幕に間違いが3か所もあったのだ。
みんなのうたに限らず、昔のテレビの字幕は現在ほど容易に訂正はできなかったはずで、手書きで修正される場合もあった。本作は間違いに気付けなかったのか、気付いたけれど、もう手直しできない状態だったのか。1980年代の再放送では未修正で、うち1つは、子どもの頃に気付いていた。

今回の再放送。
「事件を次々解決してたよ」は、
「次々 解決」

「シェイアップした」は、
「シェイプアップした」

「昔ばなしする」は、
「昔ばなしする」
すべて修正されていた。

1983年の「オナカの大きな王子さま(岸部シロー版)」では、「(空飛ぶ)じゅうたん」が「じゅたん」と誤植されていたが、2000年代以降の再放送では修正されていた。
そちらは、元の字幕にボカシのようなものをかけ、異なるフォント(名称不明)で「じゅうたん」を上書きしていた。背景のアニメが白っぽいので目立たなかった。

ところが本作では、修正後も、オリジナルのモリサワ「テレビ太ゴシック体BT1」のまま。BT1はデジタルフォント化はされていない。
「シェイプアップ~」のフレーズは、字幕全体が若干傾いている(昔はたまにあった)のだが、傾いたまま修正されている。
ボカシなどなく、背景のアニメは色も動きもあるのに、ボカシ、にじみ、ゆがみのような不自然さはない。間違いがなかったかのよう。

リマスターついでに【8日追記・リマスターではなく、誤字部分に限定した】誤植修正を行って、これが現在のデジタル画像処理技術の威力ということなのだろうか。
「次々 解決」は、他の箇所には見られない、全角1文字分の空白ができているので、「に」を消したのか?
「プ」は、後の「プ」から切り貼りしたのか?
「昔ばなし」は、「を」を消して、右へ移動したのか?(文字の大きさや線の太さが若干違う気もする)

初回放送の雰囲気そのままに、汚点がなくなって良かった。


ところで、「メゲメゲ」って?
曲中では、歌詞には出てこず、「メゲメゲメゲルンバ」の合いの手が入るのみ。
主人公は、2度、ピンチに陥り、どちらもいちおう立ち直る。メゲないということだろうか。

主人公は、誰にも乗れない空飛ぶじゅうたんを乗りこなすスーパーヒーローだったのが、空飛ぶじゅうたんが一般に普及したことで「ただの人」になり、それを受け入れる。
空飛ぶじゅうたんを、ワープロ、パソコン、インターネットに置き換えて、我々世代に当てはめてみれば、なんだか身につまされるものがある。【11月2日追記・新美南吉「おぢいさんのランプ」とちょっと通ずる点がある。】

今回気付いたが、アニメーションでは、一般人が乗る空飛ぶじゅうたんには、自動車と同じハンドルが付いてるのに対し、(元)スーパーヒーローとおまわりさんが乗る空飛ぶじゅうたんには、それがない。
したがって、スーパーヒーローは、標準以上の空飛ぶじゅうたん操縦能力を持っていると考えられる。それを活かす道もあるかもしれないが、「ただの人」を選んだというのも…


ところで、今回の再放送でセットになる曲は「勇気一つを友にして」(勇気一つを→メゲメゲの順)。1975年10・11月初回放送。
メゲメゲルンバとは、初回放送月が一致するのと、歌い出しが「昔ギリシャの」「昔ペルシャに」であることくらい【9日追記・それに「主人公が空を飛ぶ」こと】が共通点。こちらは嫌いな曲である。続く

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