狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

墓の中の真実 証言の信憑性

2009-09-03 07:01:08 | ★集団自決

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

一昨年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

前稿で紹介した玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、

赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことを再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念したという。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

上記の「役場の兵事主任の新城真順」とは、戦後改姓し「手榴弾軍命説」で有名になる富山眞順氏のことである。

曽野綾子氏が『ある神話の背景』の取材をしたときは、「手榴弾軍命説」は出ていない。 曽野氏は富山氏に取材した記憶はないというが、富山氏は取材を受けたという。

富山氏が当時そんな重要証言(手榴弾軍命説)をしていたのなら当然記憶に残るはずだから、仮に取材していたとしても当時「手榴弾軍命説」の発言はなかったという曽野氏の主張は首肯できる。

「富山証言」(手榴弾による自決命令説)は、曽野氏の取材のおよそ20年後、実に戦後45年を経過して突然降って湧いたように出現した。

戦後も続いていた富山氏と赤松隊員との友好的関係を考えれば、戦後45年して唐突に出現した「手榴弾軍命説」は富山眞順氏一人の考えから出たとは到底考えられない。

やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。

その富山氏も今は既に鬼籍に入られたが、富山氏と親交のあった渡嘉敷村在住の源哲彦氏が、次のように証言している。

当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。」(沖縄タイムス)

それでは、現在巷に流布する「手榴弾軍命説」は真実ではなかったのか。

そして、富山氏が墓の中に持ち込んだ真実とは一体何であったのか。

 

関連:エントリー

真相を墓場まで持ち込んだ二人

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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3 コメント

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読解力 (ヒロシ)
2009-09-03 08:32:19
源さんがタイムスに寄稿していましたね。
源さんは「命令があった」というお立場でありながら
しっかりと証言(寄稿)されていました。

一般的に「集団自決に命令(関与)があった」と思っている方が多い中、

「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」

という発言があった。

問題

當山氏の知っているという真実は何か
A.集団自決は軍の命令で起こった。
B.集団自決に軍の命令は無かった。

芥川賞作家、ノーベル文学賞作家でなくても中学生程度の読解力が有れば當山氏の発言の意味する事がわかるはずです。

学力低下、悲しいですね。今の小学生中学生だけではない訳です。

新聞記者、作家にもなれます。
賞だってとれます。(笑)
でも、大人になってもこれでは恥ずかしいですね。
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Unknown (涼太)
2009-09-04 00:28:13
狼魔人様

ひとつ疑問に思うのですが、曽野綾子さんの取材に対し、古波蔵村長は「軍の命令は必ず私を経由する。それ以外はない。」と答えています。そうするとと被告側が言う様に、手榴弾の配布が軍命。だというなら当然この件も古波蔵村長を経由するはずですが、富山さんの証言には、そんな様子はありません。
また、軍が住民に手榴弾を配布するような、重大なことを、他の村民が知らないのも不自然です。
余談ですが、原告側訴訟準備書面によると、金城武徳氏と金城重明氏は同級生なんですね。
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お笑い軍命説に追加ー耳打ち (狼魔人)
2009-09-04 11:02:15
ヒロシさん

あの「論壇」読みましたか。

「軍命派」の源氏の投稿だけに真実味がありますよね。
富山氏が戦後40数年も経ってあのような「手榴弾軍命論」を言い出したのは、家永裁判の証人となった安仁屋沖国大教授の「沖縄のため」といった説得に負けたのでしょう。

その贖罪意識があったので、富山氏は島の後輩である源氏にあのような「伝言」を残したのですが、それを源氏が勘違いして新聞に投稿したのでしょう。


涼太さん

>軍が住民に手榴弾を配布するような、重大なことを、他の村民が知らないのも不自然です。

仰る通りです。

手榴弾配布を「自決命令」というならなお更のことです。

食料配布だろうが、勤労奉仕だろうが、軍の命令ならそんないい加減なものでは無いはずだし、特に人の命に関わる重大な命令を近くの人は聞いていて、遠くの人は聞いていない、これだけでも「手榴弾軍命説」は破綻しています。

それから、誰かが「耳打ちした」のが軍命だという「耳打ち軍命説」(吉川証言)には不謹慎ながら吹き出してしまいます。

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