狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

敵基地攻撃能力の保持

2006-07-12 19:04:49 | 普天間移設

額賀防衛長官は、敵基地攻撃能力の保持を検討すべきだとの意向を表明した。

安倍官房長官も同様の認識を示した。

日本を狙っていることが確実であれば、ミサイルの基地を攻撃し、脅威を除く必要がある、との考え方からだ。

今朝(12日)の琉球新報と沖縄タイムスは案の定揃い踏みでこれに猛反発。

ミサイルの迎撃にも反対の両紙だから当然だとは思うが、あまりにもお粗末な作文をまとめて一刀両断だ!

先ず国の防衛は憲法で認められている。

したがって
憲法と整合する。

憲法制定当時と現在とではメカニックの進化が天と地の差がある。
誰がその当時、現在のIT革命を予測できたか。

兵器の進化も例外ではない。

当然・戦争・戦術も様変わりしている。

したがって座して死を選ぶより、
②「先制攻撃」も専守防衛の一種。

③「先制攻撃の能力を有する事」と「先制攻撃をする事」を故意にか無知によってか混同して騒ぐ人々のボケぶりには毎度の事ながらあきれる。

能力があって初めて抑止力になることは判っているはずなのに。

議論をしただけで幻覚、幻聴、幻臭に怯える人々がいる。

国の防衛を議論しただけで「軍靴の音が聞こえたり⇒幻聴」、「いつか来た道が見えたり⇒幻覚」、「きな臭いニオイがしたり⇒幻臭」の症状が出た人は耳鼻咽喉科又は心療内科をたずねる事をお勧めする。

                    ◇

「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」

「誘導弾等の基地をたたくことは法理的には自衛の範囲に含まれ、可能」

今から半世紀前の昭和31年、時の首相・鳩山一郎は誘導弾攻撃など急迫不正の侵害に対し、必要最小限度で、としながらもこのような見解を首相答弁で示していた。

これは他に手段がないと認められるなら、基地をたたくことは法理的には自衛権の範囲に含まれるという意味だ。

額賀防衛庁長官は北朝鮮の弾道ミサイル連続発射に関し、「国民を守るために必要なら、独立国家として限定的な攻撃能力を持つことは当然だ」と述べたが、これは額賀長官の独自の考えではない。 

半世紀前の政府見解を繰り返したに過ぎない。

兵器の目まぐるしい進化が戦争戦術を変えていったことは、軍事専門家でなくとも判る。

日露戦争の頃の制海権の争奪戦から朝鮮戦争時の制空権の争奪戦、そしてミサイル開発。

半世紀前の「先制攻撃」答弁の4年前に朝鮮戦争が終結(休戦)している。

朝鮮戦争のときは史上初めてのジェット機同士の空中戦が行われている。

北朝鮮にはソ連の援助があり、最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15が投入され、アメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のF-84やF-80との間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。

当初はMiG-15が国連軍の戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84に対しても有利に戦いを進めた。 その後アメリカが新型戦闘機を投入して制空権を奪う。

その当時は最新兵器の開発はより高性能能のジェット戦闘機であり、ミサイル戦争は考えられていなかった。

そのような社会状況で、昭和31年の「誘導弾(ミサイル)に関する政府答弁」も三年後には次のように修正される。

このような事態は今日においては現実の問題として起こりがたい」として、伊能繁次郎防衛庁長官が、他国に攻撃的な脅威を与える兵器を持たないと表明したからだ。

日本はこのあと、「専守防衛」の立場をとり、敵基地などへの攻撃能力は米軍に依存してきた。

半世紀前は「起こりがたい」とされたことが、北朝鮮のミサイル乱射で今、現実味を帯びている。

北朝鮮は核開発を公言し、ノドン・テポドンで日本を恫喝し、挙句の果てに「破局的結果」にまで言及している。

日本へのミサイル攻撃に対し、発射基地を攻撃するのは、憲法が認める自衛権の発動である。

航続距離の長い戦闘爆撃機や射程の長いミサイルなど、どんな装備が必要なのか、検討を怠っていては国民の安全は守れない。

実際に攻撃するのと能力を持つのとは違う。

この点を沖縄の二紙は故意に混同してお粗末な平和憲法論をご披露に及ぶ。

能力がなければ、「座して自滅を待つ」ことになる。

いつまでも「権利はあるが能力は未整備」のままでいいはずはない。

安全保障環境の変化に対応した議論を深めるべきだ。

半世紀前の「安全保障論」は平和ボケによって封印されてきたが、今北朝鮮の脅威に直面して改めて国の安全保障、・・いや、国防を真剣に考えるチャンスが来たようだ。

                    ◇

◆琉球新報 社説

敵基地攻撃・「専守防衛」との整合性は

 北朝鮮のミサイル連続発射をめぐる問題はますますきな臭くなり、緊張感が高まっている。国連安保理の動きとは別に、額賀福志郎防衛庁長官、麻生太郎外務大臣が敵基地攻撃能力を備えることについて、相次いで言及した。
 これは北朝鮮脅威論に便乗した防衛強化論だ。
 国連安保理で、国際社会の結束で北朝鮮の“暴走”を止めようと外交交渉しているさなかに、「目には目を」「歯には歯を」では、まとまる話もまとまらないのではと、懸念する。
 敵基地攻撃といえば、アメリカがアフガニスタン、イラクへ先制の攻撃を浴びせ、戦争に突入したのが想起される。両国では多くの兵士、国民が犠牲になり、出口の見えない戦闘がまだ続いている。先制攻撃が問題の解決に結び付かないことを示している。それどころか事態を悪化させている。
 敵基地攻撃は、日本の防衛原則である専守防衛との整合性が問われ、周辺諸国を刺激し、逆に安全保障情勢に影響を与えるのは必至だ。憲法にも触れる恐れのある大きな問題だ。
 この敵地攻撃能力についての議論は何も今に始まったものではない。2004年には、防衛庁の「防衛力の在り方検討会議」が今後の防衛力整備に向けてまとめた最終報告で、他国の弾道ミサイル発射基地などを攻撃する「対地攻撃能力」保有の必要性を明記、地対地ミサイル導入など具体的な装備構想を盛り込んだ。
 その構想を防衛庁長官、外相が北朝鮮ミサイル脅威を背景に、再び提起したことになる。
 額賀長官は、憲法の範囲内で可能な装備と限定して、麻生外相は自衛権行使の範囲内でと、断りながらも必要性を強調した。
 これまで政府は、敵基地攻撃能力保有は憲法上可能としながらも、日本への発射準備が明確な場合の対応について、「打撃力は米国が行使するとガイドライン(日米防衛協力のための指針)でも定められており、抑止力は確保されている」と強調してきた。
 北朝鮮のミサイル脅威に敵基地攻撃能力保有の軍事力でしか対応できないのだろうか。日本としては、まずは韓国、中国など近隣諸国と連帯して北朝鮮に働き掛け、そして連携して国際社会に訴えていくのが筋だと思う。
 ところが韓国、中国とは小泉外交のつまずきで、首脳会談さえ開けない状況にあり、連携できる状況にはない。これまでの国連論議では、中国、韓国とも日本とは対応が異なる。
 いわば小泉外交のツケが、国連の舞台で見解の相違として示され、敵基地攻撃能力論争を巻き起こしたともいえるだろう。

 

(7/11 9:43)

沖縄タイムス


社説(2006年7月11日朝刊)

[敵基地攻撃能力]

攻める自衛隊にするのか

 額賀福志郎防衛庁長官が北朝鮮のミサイル連続発射に関連して、北朝鮮のミサイル発射基地などへの攻撃可能な装備を憲法の範囲内で検討すべきとの考えを示した。
 麻生太郎外相も「(核が)ミサイルにくっついて日本に向けられているのであれば、被害を受けるまで何もしないわけにはいかない」とNHKの報道番組で述べている。

 発言が理解できないわけではない。ただ現職閣僚が、相手の挑発に乗って国の根幹である「専守防衛」という平和憲法の理念にかかわる重要な問題を軽々に発言していいものか。

 額賀長官、麻生外相の言う「敵基地攻撃能力」の装備は憲法の範囲内でと断っているものの、日本を守るための自衛隊から敵基地を「攻める自衛隊」へと脱皮を促す発言と言える。

 憲法第九条は「交戦権の放棄」をうたっており、両閣僚の言う「自衛権の範囲」とは大きな矛盾をはらむ。

 政府はいま、米国などとともに北朝鮮の行為を国連安全保障理事会に諮り、制裁決議を求めようとしている。

 であれば“売り言葉に買い言葉”のような短絡的反応はやめ、あくまでも国連や六カ国協議における国際ルールの枠内で日朝問題の解決を目指すべきだろう。

 小泉純一郎首相が戦後の歴代首相の中で初めて訪朝したのは二〇〇二年九月。二度目は〇四年五月のことだ。

 電撃的な首相訪朝だったが、暗礁に乗り上げたままであった国交正常化交渉に道筋を開いた意義は大きい。

 ただ、日本側が求める拉致問題の解決について誠意ある対応はまだない。また今回の長距離弾道ミサイル「テポドン2号」などの発射が「平壌宣言」に違反しているのも確かだ。

 しかし、だからといって日朝間に横たわる諸問題協議の基礎となる平壌宣言を白紙に戻してはならず、将来的にも交渉の足場として生かすことが重要なのは言うまでもない。

 懸念されるのは、ミサイルの脅威で国内世論が防衛強化に傾きつつあることだ。しかも額賀長官が言うように敵基地攻撃能力を持った場合、それが中国やロシアを刺激し、ひいては北東アジアでの軍拡競争を招く恐れがある。

 政府の取り組みが中国、ロシアなど国際社会の協力を得て北朝鮮の瀬戸際外交に歯止めをかけることであれば、逆効果であり元も子もなくなろう。

 北朝鮮の愚行に対し毅然と対応するのは当然だが、挑発に乗っては相手の思う壺にはまるだけだ。新たな軍拡競争の扉を開けてはならず、今こそ冷静な判断が求められる時だと言えよう。

                  

                  *

産経抄  平成18(2006)年7月12日[水]

 「武士の武の字は、戈(ほこ)を止(とど)むるとやら書くそうでござりまする」。歌舞伎の名作『義経千本桜』の二段目「渡海屋・大物浦」で、船宿の主人渡海屋銀平が、踏み込んできた北条方の追っ手に切った啖呵(たんか)である。
 ▼武士の刀は人を切るものにあらず、争いを防ぐための道具だというのだ。古典芸能通のNHKアナウンサー、葛西聖司さんは、なるほど抑止力だと指摘する(『ことばの切っ先』)。

 ▼そのたとえでいえば、北朝鮮によるミサイル発射を目の当たりにしたというのに、現在の日本の腰には、竹光(たけみつ)しかない。今後、ミサイル防衛システムの配備を急いだとしても、飛来するミサイルをすべて撃ち落とすことは、実際は不可能ではないか。

 ▼だから政府が、発射前に敵のミサイル基地をたたく敵地攻撃についての検討を始めたのは、きわめて当然である。迎撃と攻撃力の2つを組み合わせて初めて抑止力となる。フジテレビが行った世論調査では、北朝鮮のミサイルに脅威を感じる人は73%に達した。これに対して韓国政府のコメントは、「日本のように騒ぐ理由はない」だった。

 ▼もはや盧武鉉政権が何を言おうと驚かないが、国内でも北朝鮮の脅威はない、といまだに主張する人たちがいる。まして敵地攻撃などもってのほかという声もあろう。けっこう、大いに議論すればいい。

 ▼銀平、実は平知盛は、宿敵義経に最後の戦いを挑んで敗れる。「昨日の仇(あだ)は今日の味方。アラ、心安やうれしやなあ」。こんなセリフとともに入水する知盛にもはや恨みはない。葛西さんは「平安を願う魂は不滅だ」という反戦メッセージが込められた戯曲だという。その通りであろうが、抑止力がなければ平和が保てないのが、残念ながら、日本の現実なのだ。

 

 


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