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メモ:14:30 大
中学生の頃、「琉球の歴史」(仲原善忠著?)と題する副読本で沖縄の歴史を学んだ。 というより、先生の「話」を聞かされた。 勿論副読本の内容が何であったか全く記憶に無い。
「沖縄の自由民権運動の父」として謝花昇の名を、偶々同じ名前だった謝花先生にしつこく叩き込まれた。
謝花先生の語る「謝花昇物語」は、正義の男・謝花昇に対し、権力をかさに謝花を弾圧する悪の権化・奈良原繁県知事との戦いであり、時代劇の主人公が敵役の悪代官に立ち向かう構図であった。
ウチナ-ンチュの謝花昇がヤマトゥーンチュの奈良原知事に立ち向かう姿は、現在辺野古移設で菅官房長官と対決している翁長知事を連想させる。
半世紀以上も前に学校で習った沖縄の歴史の断片は「本土側権力者に立ち向かう弾圧される沖縄側」というパターンであり、本土側の悪役の象徴が鹿児島県出身の奈良原繫県知事という印象であった。
結局謝花昇は奈良原繁の激しい弾圧に苦しみ狂死したと教わった。
では、奈良原の謝花に対する弾圧は狂死させるほど苛烈なものだったのか。
また奈良原は、それほどの悪党だったのか。
その後、奈良原の伝記などを読むと奈良原の沖縄に対する意外な一面が顔を覗かせ、奈良原に対する認識を改めざるを得なくなった。
奈良原が知事として赴任した当時の沖縄は電話も通じなければ、飛行機も無い時代。 普通の県知事だったら、沖縄に赴任したことを「島流し」と考え、出来るだけ早く赴任地の変更を望むもの。
2年くらいで早々に任期を終えた知事もいたと聞く。 だが沖縄の教育の遅れに気がついた奈良原は、小学校の建設や沖縄の行政改革などに意欲を燃やし、結局12年間の長期に渡って沖縄県知事を務めることになる。
奈良原が伝え聞くような悪党で沖縄弾圧のみの悪代官なら、12年間も「島流し」の知事職に甘んじるはずは無い。
「本土人vs沖縄人の対決」という構図で、沖縄の歴史を学んだ者には、謝花のような有能な人物を東京に遊学させた恩人は一体誰か、という疑問に突き当たる。 当時の沖縄は寺小屋など一般庶民の教育の場も無く、おそらく当時の沖縄は全国一識字率の低い県だったと想像できる。
そんな教育後進県の沖縄で誰が謝花昇ら有能な若者に東京進学の機会をあたえたのか。
先ず当時の沖縄の歴史について述べた一般的記述を引用しよう。
旧慣諸制度の改革を求める沖縄民衆運動が盛り上がると、県当局も改革を実行に移さざるを得なくなりました。
そのような時期に知事に就任した奈良原繁(ならはらしげる)は、まず王府の指導下で農民が管理、利用した共有山林である杣山(そまやま)の開墾を許し、貧窮士族の救済策としました。この開墾計画をおし進めたのが、農民出身で第一回県費留学生の謝花昇(じゃはなのぼる)でした。
この政策に対し農民のあいだからは、山林伐採による自然破壊や資材不足を恐れて不満の声が上がりましたが、謝花は「耕地にしてもさしつかえない場所であれば、貧しい士族を救うためには必要である」と、農民を説得する立場をとりました。
しかし、実際におこなわれた開墾策は下級士族の救済とは名ばかりで、有力士族や本土の商人、高級役人に優先的に払い下げられました。このような沖縄人(ウチナーンチュ)差別をともなった奈良原施政に強い不信感を抱いた謝花は、県庁を辞職し、政治結社「沖縄倶楽部」を組織して奈良原施政を攻撃しました。また同時に、自治権・参政権獲得運動を展開して専制政治の変革をはかりました。
奈良原県政をしぶとく攻撃する沖縄倶楽部に対し、奈良原をはじめ旧支配層は権力を持って弾圧しました。その結果、沖縄倶楽部は消滅し、職と財産を失った謝花は1898(明治31)年、不遇のうちにこの世を去ってしまいました。
☆
謝花は「不遇のうちにこの世を去った」と記述されているが実際は狂死したらしい。 だが狂死の原因が奈良原の弾圧のせいではなく、謝花自身が持つ精神的弱さが、狂死の原因と見るべきだろう。
奈良原が沖縄の教育に人一倍熱心であり、そのため沖縄での知事在任が10年以上長期に及んだのは歴史的事実であり、見方によっては奈良原こそ近代沖縄の教育普及の恩人と評価する向きもある。
ただ、その政策達成の過程で謝花らと意見の対立があり、「権力を盾にした弾圧」と表現することは現在の沖縄2紙でも見られる「沖縄vs政府対決」の構図である。
ここで謝花ら当時の有能な若者を東京に進学させた恩人を知る上で興味深い歴史的資料を琉球新報が掲載しているので、引用する。
上杉茂憲(もちのり)は、明治14年から約2年間、第2代沖縄県令として在職した。東北米沢藩第13代藩主であったが、廃藩置県後、イギリス留学を経て38歳で沖縄県令となる。
茂憲は赴任以前に、沖縄は支配層の既得権によって、多くの県民が困窮していることを知った。着任後すぐに、自ら本島と先島をつぶさに視察した。そして、県民の窮乏を救うには地租改正と勧業が重要として、直ちに県治改革案を政府に上申した。
当時、沖縄県は日清両属問題が残り、政府は旧士族層の既得権を認める旧慣温存政策を取っていた。茂憲はそこを改革しようとした。政府は上申書に対し、深く審議するが、最終的には受け入れなかった。
茂憲は、教育学制と人材育成にも注力する。第1回県費留学生として謝花昇ら5人を東京へ派遣した。彼らは帰郷後、政財界、新聞、農業、自由民権運動などで活躍した。また、茂憲は離任する時に多額の教育資金を寄付した。なぜ、茂憲はこれほどまでに沖縄に尽くそうとしたのか。
茂憲の先祖に江戸時代屈指の名君と知られる第9代藩主上杉鷹山(ようざん)がいる。鷹山は、破綻寸前の米沢藩を藩組改革、人材育成、産業振興をもって見事に立ち直らせた。以後、米沢藩では、鷹山の教えは絶対となる。
茂憲は沖縄赴任時に、「鷹山公の愛民精神をもって県治に当たる」と決意し、それを敢然と実行しようとした。しかし、時代は茂憲の理念を受け止めず、結果的に上申書が茂憲の任期を縮めることになった。
私は、鷹山の書を多く読んだが、茂憲のことは後々に知り、己を恥じた。
歴史に「if」はないが、もし、茂憲の改革が進められていたなら、沖縄は早くに開明的な社会を築いたかもしれないと思うと残念である。今回でコラム終了です。読者各位に感謝します。
(桑江修、沖縄県工業連合会専務理事)
ちなみに廃藩置県後、各県に中央から派遣されて県令が知事の役目を果たし、その後知事と名称は変わるが中央政府からエリートが派遣され、現在のように選挙で選ばれるのは戦後になってからである。
事実は小説より奇なりといわれるが、謝花ら沖縄の若者に東京進学の機会を与えたのは第二代沖縄県令・上杉茂憲であり、その沖縄県令があの上杉鷹山の末裔であることに、浅学の筆者は驚かされた。
だが奇なる事実に驚かされたのは、これだけではなかった。
「敵に塩を送る」の故事で有名な上杉謙信が上杉茂憲・沖縄県令の先祖だというのだ。
あの川中島の戦いの上杉謙信のことである。
つづく