「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「防災教育のあるべき姿と地震津波防災DIG・土砂災害対策DIG」(その6)

2015-10-04 23:51:57 | 防災教育
この日は昼前から小田原へ。

東海道線鴨宮駅から車で10分ほどの場所にある小田原市の施設「生きがいふれあいセンター:いそしぎ」にて、
11月15日(日)に実施予定の小田原市立泉中学校でのDIGに当たっての、
テーブルリーダー役となって下さる方々向けの、プレセミナーを行った。

地震・津波防災DIG実施のポイントは幾つかあるが、やはり、

①「全国どこでも震度6強の地震はあり得る」との認識の下、震度6強の揺れをイメージさせる、
 (併せて、この揺れがおさまったら何をなすべきか、to be doneリストを作らせる)
②地域の地震による被害量を見積もらせる
(旧耐震基準時代に建てられた木造家屋は、震度6強の揺れに耐えられない物が多い)
③被害を出さないまちへ、どこをどう変えていくかを考えさせる

この辺りは落とせないところ。

ついでに言えば、静岡以西の太平洋沿岸地域であれば、南海トラフ沿いの巨大地震の話も落とせない。
(そういえば、この日はなぜか、この話をしなかったような記憶が……。なぜ???)
(小田原に故郷を持つ「将来の大人」とて、この巨大災害の社会経済的影響からは免れないのに……。)

プレセミナー終了後、小田原青年会議所OBのIさんらと一献する機会をいただき、
いろいろと議論することが出来た。
それにしても、JCの現役組は一回り以上年下になっているとは……。
いつの間にか、年を食ってしまったなぁ、と、思わない訳にはいかない。

この日も原稿書き(正確に言えば「寝かした」原稿の推敲というか、文字数減らしというか)のため、
品川駅近くのホテルに「自主的カンヅメ」となるべく東海道線快速で移動。車中も原稿「削り」。
その甲斐もあり、かなりシャープなものにはなったように思っている。
以下に示すのは、総論部分の最後に、防災教育の段階について述べた部分。
個人的には、この体系性というアイディアを得ることが出来て、一つ前進できた、と思っている。


*****

防災教育の体系性(その2):防災教育の4つの段階

ここまで述べてきた時間軸と空間軸という2つの軸は、
「現在×未来」や「自分・家族×まち・くに」など単純に二分化すべきものではなく、
また本質的に出来るものでもあるまい。
ではあるが、あえてそうすることで、
発達段階に応じた防災教育の4つの目標レベルを示すことが可能となる。

(1)小学生段階:自分を守れるようになること

小学生段階での防災教育の目標は「自分の身の安全を自分一人でも守れるようになる」ということで必要にして十分であろう。
「現在形×自分」である。
可能ならば家族も守れるように、と言いたいところだが、低学年には難しい課題であろう。
ちなみに、本来であればこの段階の基本は「大人の指示に従うこと」である。
しかし、大人が適時的確な指示を出せるかについては、
東日本大震災における石巻市立大川小学校の悲劇という実例がある以上、
当てにしてよいのか?と言わざるを得まい。
特に避難については、大人に対して「避難しましょう!」と
自発的積極的に言えるようになることも重要な要素となる。

(2)中学生段階:周囲の人も守れるようになること

中学生段階となれば、もちろん学年にもよるが、肉体的には大人との差が小さくなる。
それゆえ自覚させなくてはならないことは「君たちは無力な幼子ではない」ということである。
小学生段階で達成すべき「その場で自分(可能であれば家族も)を守る行動をとれるようになろう」に加え、
自分と家族以外の周囲の人に対しても支援の手を差し伸べられるようになろう、というのが、
この段階での目標である。
「現在形×まち」である。
具体的には、互助(共助)として知られている災害対応一般(初期消火・救出・応急救護など)は
大人と同様体験してもらうことが目標となろう。

(3)高校生段階:自分の未来を守れるようになること

小中学生段階の防災教育のあるべき姿は、従来からの防災教育論議と大きく異なるものではない。
発達段階からしても、現在形の防災教育、あるいは対応の防災教育が現実的であろうと筆者も考えている。
だが、高校生段階以降は大きく異ならざるを得ない。
繰り返しになるが、今日の子どもたちが生きる「時代の宿命」は、
働き盛りの30代から50代のある日、「先進国日本の最後の日」とも言われる超広域の巨大災害に見舞われ、
否応なしに巻き込まれる、というものである。
「未来形×自分」、
つまりは最低限、自分(と家族)の未来を守れる者になってもらわなくてはなくては、何より本人が困る。
この意味で、高校以降の防災教育は、本質的にキャリア教育としての側面を持つ。
また「人生最大の買い物」は安全な立地に求めよという観点では、消費者教育としての側面も持つ。

(4)大学生段階:地域の未来を守る担い手となること

実社会に船出する最終の準備段階での防災教育が、避難経路の確認や、自己目的化してしまった防災マップ作りのレベルでは、さすがに情けないだろう。
繰り返しになるが、防災は予防・対応・復旧復興の三本柱からなり、特に「予防に勝る防災なし」である。
「時代の宿命」をも考える時、曲がりなりにも高等教育を終えた者であるならば、
立地と構造の見直しによりまちの未来を守ることの担い手となってもらわなくては、
日本の将来はおぼつかない。「未来形×まち」の防災教育が問われている所以である。
「防災まちづくり・くにづくり教育」は、子どもたちの発達段階からしても大学教育のプログラムが相応しかろう。
もちろん、都市計画や土地利用規制、地理学、工学、財政・税制や地方行政といった幅広い分野について、
教養課程レベルの学びは求められる。
安全性追求と利便性追求の衝突にどう折り合いをつけるかについても、大学生であれば多少は考えられるであろう。
だが、それらの学びもさることながら、現状のまち・くのかたちのどこがどう間違っているのか、
またそれらを変えるための方法論はどのようなものか、
といった根本的な問題意識を持たせることがより重要であろう。
そして、そのような問題意識を抱きつつその後の社会人生活を送る者が増えていけば、
約四半世紀後の「その日」を意識しつつまち・くにのかたちを変えていくことも、
次第に可能性あるものになっていくことだろう。
基本的な考え方は「重要施設の高台移転により安全な高台が便利な高台となれば、
多少時間はかかろうが、いずれはそこがまちの中心となる」であり、
これをどう実現させるかの方法論を巡る議論ことが中心テーマになるはずである。

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(10月13日 記す)

「防災教育のあるべき姿と地震津波防災DIG・土砂災害対策DIG」(その5)

2015-10-03 23:50:51 | 防災教育
この日は予定のない週末で、メールソフトも確認したが(返信も含め)一通のメールを出していなかった。
という訳で、根を詰めた原稿を仕上げた後の、文字通り「寝かせる」時間だった。
原稿のみならず、筆者も終日ベッドの中で、テンションを下げていた、というところ。
好調不調の振れ幅は小さいほうが良いとは聞くが、「旅の坊主」は、やはり、
締め切り効果で何とかつじつまを合わせるタイプの人間、ということ、らしい。

ここ数回分の更新でお披露目をしている防災教育についての拙稿は、
この日(10月3日)の完全オフの後、すっきりした頭で削り直した版のもの。
それゆえ、この時点でのものではないが、引き続き、ご参考まで、ということで、提示させていただく。

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防災教育の体系性(その1):時間軸と空間軸という「2つの軸」
(3)防災教育における「空間の概念」:問われるべきは「この国のかたち」

防災教育における空間の概念は、時間の概念に比べれば、より容易に理解してもらえるだろう。
「避難することが防災ではなく、避難しないで済むまちを作ることが防災」である。
全体状況を俯瞰的に見て現状と問題点を把握し、重要施設の立地の見直しを手始めに、
自然の摂理にかなった土地利用ができているまちへとその姿を変えていくこと、
そのような発想を持ちその担い手となれ、という意識付けである。

地域を俯瞰的に見ることが出来るかどうかを考えるならば、小中学生にはいささか荷が重かろう。
しかし、高等教育レベルでは当然に求められる。
現状分析の防災マップ作りは小中学生レベルでも出来る。
しかし、防災教育における空間軸の議論は、そこを出発点としつつも、
あるべきまちのかたちを追求し、かつその姿へと変化させていく担い手を育てるという意味で、
もう少し高いレベルのものである。

*****

大学生向け防災教育でも、防災マップ作りを行っている事例があることは百も承知。
しかし、仮にも高等教育を受けているならば、そして、南海トラフ地震の周期性を考えるならば、
発災までの時間をどう活かすかという問題意識は必須のはず。
首都直下については発生する日付はわからない、つまりは間に合わない可能性があることは百も承知の上で、
それでも、基本的な発想は「このまちをどうすればより安全なまちに変えることができるか」であり、
何ら変わるものではない。
ただ、グランドデザインの描き方がド下手だ、ということについては、
知力が追い付いていない、ということの表れではないか、と考えると、
学の世界に生きる者の端くれとしては、己が果たすべき役割を本当に果たしているのか、
そのことを考えさせられてしまうところではある……。
(まぁ、それゆえの、拙稿の披露ではあるのですが……。)

(10月13日 記す)

「防災教育のあるべき姿と地震津波防災DIG・土砂災害対策DIG」(その4)

2015-10-02 23:58:30 | 防災教育
後期金曜日は2限に「災害医療システム」、3、4限続けて「防災実習」という3コマ。

防災実習は2年生15名が履修中なれど、3年生向けの災害医療システムはわずか1人。
後者については、曜日の設定に問題があるのかもしれない、と、
来年度は変更を考えてみるべきかも、と思っている。

ともあれ、10月に入り、ようやく講義にも調子が出てきた、というところ。
それぞれの科目については、追々、述べていきたい、と思っている。

それはそれとして。

引き続き、防災教育のあるべき姿についての拙稿を提示し、関係各位の参考に供したいと思う。
大きな方向性としては、多分これで間違いない、と思っている。
文章になるまでずいぶん時間がかかってしまったが、言いたいことはこういうことだったのだな、と、
自分なりの手応えと共に提示出来ていることが嬉しい。
ただ……。世間的な共感を得られるかどうか、そこは分からないのだが……。

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防災教育の体系性(その1):時間軸と空間軸という「2つの軸」
(2)「時代の宿命」と「残された時間をどう活かすか」という発想

時間の観点から防災教育を考える時、より重要なことは、
21世紀前半の「時代の宿命」を理解させなくてはならないことである。

前述の通り、今日の子どもたちは、
概ね20年以降に日本社会を襲う巨大災害が起こる日には社会の中核世代になっている。
超広域の災害への対応と、社会経済的なものを含む被害からの復旧復興を担ってもらわなくてはならない。
と同時に、この世代は、
残された時間の活かし方次第で巨大災害の被害量を大きく減らせる可能性を持つ世代でもある。

筆者が危惧しているのは、この「残された時間をどう活かすか」という発想(あるいは動機づけ)が、
現在形中心・対応中心の防災教育では原理的に出てこない点にある。
避難訓練を月1回20年行ったところで、本質的なところで被害を減らすことは出来ない。
何せ、家やまちは避難出来ないのだから。
(余談だが、避難を教えられた子どもたちが大人になった時、誰が避難者を支援するというのだろう……。)

時代特有の事情としては、降雨パターンの変化も落とせない。
2014年8月の広島市土砂災害を例に取るまでもなく、
土砂災害を含む風水害の多発も、もう一つの「時代の宿命」である。
時間雨量100mmを超えるような降雨は、文字通り、今まで経験したことのない結果をもたらす。
降雨パターンの変化のみならず、温暖化(特に冬季の最低気温の上昇)により、
今まで日本になかった感染症の蔓延も危惧されている。

加えてもう一つ、一般には防災教育の範疇とは思われないだろうが、
「時代の宿命」を考える上で忘れてはならないのが、「格差社会」あるいは「反知性主義」「学びからの逃走」である。
安全で安心な暮らしには一定水準の知力と経済力が不可欠である。
「災害は貧しい者によりつらく」。
この時代に限った話ではないが、安全・安心な暮らしには学びは不可欠である。
ましてや、30代~50代に超広域の巨大災害に見舞われることが約束されている世代である。
「ベストの災害対策は学びである」と言うことすら出来るのだが、
そのことが広く理解されているとは到底思えないのだ……。

*****

改めて読み返してみて、削りに削ってしまったため、文意が通りにくくなっている箇所に気付く。
遅筆な「旅の坊主」に原因があることは明らか。
ただ、このまま、この議論を深めないで終わることは出来ないことも明らか。
やはり、何とか1冊(出来れば数冊)書いて、で、状況を変えていかなくては、
ということになるのだろうが……。

(10月12日 記す)

「防災教育のあるべき姿と地震津波防災DIG・土砂災害対策DIG」(その3)

2015-10-01 23:48:15 | 防災教育
この日から今年度も下半期に入った訳だが、そんな「区切り感」は一切なかったように記憶している。

ただ、懸案だった「防災教育のあるべき姿と地震津波防災DIG・土砂災害対策DIG」の原稿について、
前日の9月30日に大きな山を越えることが出来、少しホッとして回りを見渡せるようになったか、
そんな1日だったと記憶している。

この日は午前中、静岡赤十字病院の副院長兼看護部長の武田惠子先生を訪問、
来年2月6日(土)に企画中の連続公開講座「防災」について主旨説明と出演のお願いをした。

「災害看護と大学」のテーマの下、
武田先生と、過日も常総市の現地調査に同行いただいた東京医科大学看護学科の山達枝先生、
ご両所にご登壇いただき、基調講演を2本行った後、「旅の坊主」がコーディネーターとなっての鼎談を行う予定。
近くなったら、改めて拙ブログなりfacebookで告知したいと思っているが、
読者各位が手帳なりスケジューラーなりに書き込んでいただけたならば嬉しく思う。

この日の本ゼミから、基礎本としてゼミ生の共通認識を作ろうではないか、というので、
矢部宏治文・須田慎太郎写真の『戦争をしない国:明仁天皇メッセージ』(小学館)を読み始めたのだが、
まぁ、それについては追々ブログでも書いていくことにしよう。

9月29日分、30日分と、拙稿の防災教育論についての引用を続けたところ。
もう少しお付き合い願うことにしよう。

総論部分では、防災教育の体系性についても考え方をまとめてみた。
かつて断片的には述べているものであるが、改めて整理することで、論旨はよりシャープになったように思っている。

*****

防災教育の体系性(その1):時間軸と空間軸という「2つの軸」

(1)「未来形の防災教育」
時間の観点から防災教育のあるべき姿を冠上げる時、まず問いたいのは、
「10年経てば大人になり20年経てば親になる」という、
成長し未来ある者としての「将来の大人」への教育はどうあるべきか、という問題意識である。

「揺れたら机の下にもぐりなさい」といった「今起こったらどうするか」の災害対応を教える防災教育はわかりやすく、実践事例も多い。
筆者はこれを「現在形の防災教育」と呼んでいる。

ただ、長い人生の安全と安心を獲得するには、
例えば「人生最大の買い物」である自宅購入にあたっては災害リスクの少ない場所を見抜く目とそれを購う経済力が不可欠であるように、
筆者は「将来のための防災教育」すなわち「未来形の防災教育」も必要だ、と訴えてきている。

出前講座において筆者は以下のようなメッセージを発している、と言えば、理解してもらえるだろうか。

今は、個人・家族としても、まちとしても、安全ではないかもしれない。
でも、将来は、安全な環境を勝ち取ってもらいたい。
そのためにはまず、安全な環境とそうでない環境を見抜く目を養ってもらいたい。
次いで、そのような環境を購えるだけの経済力を身に着けてもらいたいと思う。
さらには社会に対して、より安全なまちへと作り変えていくことを働きかけるような、
そのような者になってもらいたい。

*****

日記は、溜めてしまうと大変だ、ということを、改めて感じているところ。
掟破りのバックデータで格好をつけている「みっともない状態」から、
三連休中に脱することは出来なかったが、何とか今週中には脱却しなければ、であるな。

(10月12日 記す)