「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「防災教育のあるべき姿と地震津波防災DIG・土砂災害対策DIG」(その4)

2015-10-02 23:58:30 | 防災教育
後期金曜日は2限に「災害医療システム」、3、4限続けて「防災実習」という3コマ。

防災実習は2年生15名が履修中なれど、3年生向けの災害医療システムはわずか1人。
後者については、曜日の設定に問題があるのかもしれない、と、
来年度は変更を考えてみるべきかも、と思っている。

ともあれ、10月に入り、ようやく講義にも調子が出てきた、というところ。
それぞれの科目については、追々、述べていきたい、と思っている。

それはそれとして。

引き続き、防災教育のあるべき姿についての拙稿を提示し、関係各位の参考に供したいと思う。
大きな方向性としては、多分これで間違いない、と思っている。
文章になるまでずいぶん時間がかかってしまったが、言いたいことはこういうことだったのだな、と、
自分なりの手応えと共に提示出来ていることが嬉しい。
ただ……。世間的な共感を得られるかどうか、そこは分からないのだが……。

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防災教育の体系性(その1):時間軸と空間軸という「2つの軸」
(2)「時代の宿命」と「残された時間をどう活かすか」という発想

時間の観点から防災教育を考える時、より重要なことは、
21世紀前半の「時代の宿命」を理解させなくてはならないことである。

前述の通り、今日の子どもたちは、
概ね20年以降に日本社会を襲う巨大災害が起こる日には社会の中核世代になっている。
超広域の災害への対応と、社会経済的なものを含む被害からの復旧復興を担ってもらわなくてはならない。
と同時に、この世代は、
残された時間の活かし方次第で巨大災害の被害量を大きく減らせる可能性を持つ世代でもある。

筆者が危惧しているのは、この「残された時間をどう活かすか」という発想(あるいは動機づけ)が、
現在形中心・対応中心の防災教育では原理的に出てこない点にある。
避難訓練を月1回20年行ったところで、本質的なところで被害を減らすことは出来ない。
何せ、家やまちは避難出来ないのだから。
(余談だが、避難を教えられた子どもたちが大人になった時、誰が避難者を支援するというのだろう……。)

時代特有の事情としては、降雨パターンの変化も落とせない。
2014年8月の広島市土砂災害を例に取るまでもなく、
土砂災害を含む風水害の多発も、もう一つの「時代の宿命」である。
時間雨量100mmを超えるような降雨は、文字通り、今まで経験したことのない結果をもたらす。
降雨パターンの変化のみならず、温暖化(特に冬季の最低気温の上昇)により、
今まで日本になかった感染症の蔓延も危惧されている。

加えてもう一つ、一般には防災教育の範疇とは思われないだろうが、
「時代の宿命」を考える上で忘れてはならないのが、「格差社会」あるいは「反知性主義」「学びからの逃走」である。
安全で安心な暮らしには一定水準の知力と経済力が不可欠である。
「災害は貧しい者によりつらく」。
この時代に限った話ではないが、安全・安心な暮らしには学びは不可欠である。
ましてや、30代~50代に超広域の巨大災害に見舞われることが約束されている世代である。
「ベストの災害対策は学びである」と言うことすら出来るのだが、
そのことが広く理解されているとは到底思えないのだ……。

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改めて読み返してみて、削りに削ってしまったため、文意が通りにくくなっている箇所に気付く。
遅筆な「旅の坊主」に原因があることは明らか。
ただ、このまま、この議論を深めないで終わることは出来ないことも明らか。
やはり、何とか1冊(出来れば数冊)書いて、で、状況を変えていかなくては、
ということになるのだろうが……。

(10月12日 記す)