年1回の母親孝行の旅も終わりが近づいてきた。
今日の更新はドレスデンからチェコのプラハに向かう車中で書いているが、
今宵と明晩プラハに泊まり、明後日早朝に彼の地を発ってフランクフルト経由で日本に、
つまりは日常に戻ることになる。
今朝ベルリンを発ち、途中ドレスデンで下車、8時間ほど旧市街を歩いていた。
昼食は、旧市街地のフラウエン教会脇に1708年からあるという
「クルフュールステンスシャンケ」(と読めばよいのかな?)というカフェで、
この白黒の斑(まだら)模様の教会を見上げながらだった。
そういえば、で、思い出したのが、カート・ヴォネガットの『スローターハウス・ファイブ』。
ストーリーも忘れてしまったが、記憶が違っていなければ、
この本には何度も、ドレスデン空爆の話が出てきたように思う。
黒の石材は、そのドレスデン空爆で焼かれ、廃墟となったフラウエン教会で、もともと使われていた部材。
可能な限り元の部材は元の場所に活かす再建を目指した、とのことで、
ヨーロッパ最大か世界最大か、まぁ、巨大な「ジグソーパズル」が展開されたのだそうな。
それも、東西ドイツ統一後からその「ジグソーパズル」に取り組んだというのだから、
息の長さというか、思いの深さというか、執念というか、頭が下がるのみであった。
手元の『地球の歩き方:ベルリンと北ドイツ』にも、フラウエン教会について以下の記述があった。
18世紀前半に建てられたプロテスタントの境界で、
1945年2月のドレスデン空爆で焼け落ちた。
瓦礫のまま放置されていたが、東西ドイツ統一後に瓦礫をはめこんで修復する再建工事が始まった。
世界最大のパズルといわれた難関工事は2005年に完成。
世界中から、特にドレスデンを空爆した連合軍の国々から多大な寄付が寄せられた。
破壊するのは一瞬、再建は長い年月と膨大な費用を要する。
戦争の愚かさを伝える平和のシンボルとしてフラウエン教会は世界に知られている。(210頁)
ドレスデンは、ザクセン王国の首都だった、とのことだが、現在の人口は約50万人。
これくらいの人口規模の都市は、日本にもそれなりの数が存在する。
では、この、ドレスデン旧市街地の見事さは何に由来するのか。
空爆で廃墟となったドレスデンゆえ、従前とはまったく別物のまちづくりも出来たはずだが、
そうではなく、このフラウエン教会も、ザクセン州立歌劇場(ゼンバーオーバー)も、
もちろんレジデンツ宮殿(ドレスデン城)もツヴィンガーも
(注:ラファエルの「システィーナのマドンナ」があるアルテ・マイスター絵画館や磁器収集室のある建物)
かつての形に再建された、という。
この、旧市街、あるいは教会・宮殿等々の公共建築物群により、
ドレスデンのドレスデンらしさを取り戻すことが出来た、ということ、なのだろう。
そしてその象徴(の一つ)が、斑の教会なのだろう。
(ちなみに、教会に面した広場には、かのマルティン・ルターの像が立っている)。
20年と半年前、エジプトとイスラエルを旅したことがあった。
その時(多分今も)、エルサレムでは、ダビデ王かソロモン王の時代を再現するのだとか何とか言って、
どこぞの金持ちの資金をもらいつつ、街の開発が進んでいた。
極めて違和感があった。
どの時代のエルサレムを再現させようというのか?
それについてのユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒にコンセンサスがある訳がない。
伝説の王の時代がどのようなものであったか、設計図が残っているはずもない。
その時のエルサレムは、金の力で、スポンサーに都合の良いまちへと変えられつつあった。
そこには、関係者が納得した上でのまちづくりはない。
その方向は、今日においても、大きく変わるものとは思われない……。
ドレスデンの復興は、それとは全くことなるものだったのだろう、と思う。
種類は少ないものの、ドレスデン空爆後の写真も絵葉書として売られていた。
過去を忘れず、過去を活かしつつ、現在と未来を生きる。
旧市街という核があればこそ、可能になった話なのだろうか?
それとも、復興に携わった方々の、歴史を尊重しかつ未来に投影するという志の高さが、
このような「らしさ」を可能にしたのだろうか?
思いっきり薄っぺらいドイツの旅ではあったが、このように考えてみる時、
今の日本、さらにこれからの日本の姿を考える上で、
取り組まなくてはならない幾つもの課題をもらったように思う。
なるほど、ドイツを好きになる日本人が多いというのも、納得できる話。
それぞれのまちに「らしさ」があった。
ひるがえって日本を考えるに、ではそれぞれのまちの「らしさ」はどこに?
金太郎飴のように特徴のないまちを作るのが、日本のまちづくりではないだろうに……。
今日の更新はドレスデンからチェコのプラハに向かう車中で書いているが、
今宵と明晩プラハに泊まり、明後日早朝に彼の地を発ってフランクフルト経由で日本に、
つまりは日常に戻ることになる。
今朝ベルリンを発ち、途中ドレスデンで下車、8時間ほど旧市街を歩いていた。
昼食は、旧市街地のフラウエン教会脇に1708年からあるという
「クルフュールステンスシャンケ」(と読めばよいのかな?)というカフェで、
この白黒の斑(まだら)模様の教会を見上げながらだった。
そういえば、で、思い出したのが、カート・ヴォネガットの『スローターハウス・ファイブ』。
ストーリーも忘れてしまったが、記憶が違っていなければ、
この本には何度も、ドレスデン空爆の話が出てきたように思う。
黒の石材は、そのドレスデン空爆で焼かれ、廃墟となったフラウエン教会で、もともと使われていた部材。
可能な限り元の部材は元の場所に活かす再建を目指した、とのことで、
ヨーロッパ最大か世界最大か、まぁ、巨大な「ジグソーパズル」が展開されたのだそうな。
それも、東西ドイツ統一後からその「ジグソーパズル」に取り組んだというのだから、
息の長さというか、思いの深さというか、執念というか、頭が下がるのみであった。
手元の『地球の歩き方:ベルリンと北ドイツ』にも、フラウエン教会について以下の記述があった。
18世紀前半に建てられたプロテスタントの境界で、
1945年2月のドレスデン空爆で焼け落ちた。
瓦礫のまま放置されていたが、東西ドイツ統一後に瓦礫をはめこんで修復する再建工事が始まった。
世界最大のパズルといわれた難関工事は2005年に完成。
世界中から、特にドレスデンを空爆した連合軍の国々から多大な寄付が寄せられた。
破壊するのは一瞬、再建は長い年月と膨大な費用を要する。
戦争の愚かさを伝える平和のシンボルとしてフラウエン教会は世界に知られている。(210頁)
ドレスデンは、ザクセン王国の首都だった、とのことだが、現在の人口は約50万人。
これくらいの人口規模の都市は、日本にもそれなりの数が存在する。
では、この、ドレスデン旧市街地の見事さは何に由来するのか。
空爆で廃墟となったドレスデンゆえ、従前とはまったく別物のまちづくりも出来たはずだが、
そうではなく、このフラウエン教会も、ザクセン州立歌劇場(ゼンバーオーバー)も、
もちろんレジデンツ宮殿(ドレスデン城)もツヴィンガーも
(注:ラファエルの「システィーナのマドンナ」があるアルテ・マイスター絵画館や磁器収集室のある建物)
かつての形に再建された、という。
この、旧市街、あるいは教会・宮殿等々の公共建築物群により、
ドレスデンのドレスデンらしさを取り戻すことが出来た、ということ、なのだろう。
そしてその象徴(の一つ)が、斑の教会なのだろう。
(ちなみに、教会に面した広場には、かのマルティン・ルターの像が立っている)。
20年と半年前、エジプトとイスラエルを旅したことがあった。
その時(多分今も)、エルサレムでは、ダビデ王かソロモン王の時代を再現するのだとか何とか言って、
どこぞの金持ちの資金をもらいつつ、街の開発が進んでいた。
極めて違和感があった。
どの時代のエルサレムを再現させようというのか?
それについてのユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒にコンセンサスがある訳がない。
伝説の王の時代がどのようなものであったか、設計図が残っているはずもない。
その時のエルサレムは、金の力で、スポンサーに都合の良いまちへと変えられつつあった。
そこには、関係者が納得した上でのまちづくりはない。
その方向は、今日においても、大きく変わるものとは思われない……。
ドレスデンの復興は、それとは全くことなるものだったのだろう、と思う。
種類は少ないものの、ドレスデン空爆後の写真も絵葉書として売られていた。
過去を忘れず、過去を活かしつつ、現在と未来を生きる。
旧市街という核があればこそ、可能になった話なのだろうか?
それとも、復興に携わった方々の、歴史を尊重しかつ未来に投影するという志の高さが、
このような「らしさ」を可能にしたのだろうか?
思いっきり薄っぺらいドイツの旅ではあったが、このように考えてみる時、
今の日本、さらにこれからの日本の姿を考える上で、
取り組まなくてはならない幾つもの課題をもらったように思う。
なるほど、ドイツを好きになる日本人が多いというのも、納得できる話。
それぞれのまちに「らしさ」があった。
ひるがえって日本を考えるに、ではそれぞれのまちの「らしさ」はどこに?
金太郎飴のように特徴のないまちを作るのが、日本のまちづくりではないだろうに……。