連休の前後に藤の花で日記を書きました。
その時から取り上げたかったものに葵があります。
でも、きっかけがない。
普通は写真でその花をパチリで、、始まるのですけど、今は多摩川しか行くところがない。葵は見かけないし、、もちろん花もない。さてどうしましょうって考えていましたら、鴎外の鴎荘の日記にいすみ鉄道ファンの方からのコメントがつき、そのブログを見ていましたら、トップの記事が本多忠勝だったんですね。徳川の四天王の一人、「徳川に過ぎたるもの」ってさえ言わしめた人。
そうか、本多忠勝はいすみ市の隣町の大多喜の城主だった人。
つながりがあるジャンってことで、強引に葵の日記を書くことに決めました。
それに仕事中は本多忠勝の生まれた岡崎とはよく仕事をしておりましたのでね。
それにもつながりがある。。。。
それにしても本多忠勝と葵?
本多家の家紋は「立ち葵」なのですよ、、、、
苦しい?
ちょっと強引過ぎるかな~
許されて、、、(お願い)
本題に戻って、
その1
葵って言われると、一番思い出すのはもしかして徳川家の三つ葉葵?
そうなんです。その辺から一番目の問題。
徳川家の三つ葉葵は、現在、植物的に言われるアオイとは違うもの、ウマノスズクサ科のフタバアオイの葉をデザインしたものなんですと。
だって、双葉葵なんて葵が入っているじゃないですかね、、、なんで別なのかな、、ってことは専門家にお任せしましょう。
この双葉葵の紋は、賀茂神社の神紋。賀茂神社の神領が岡崎にありまして、この地方の豪族だった松平家が双葉葵、それから三つ葉葵の紋をこしらえた、、、、のではないかな~って説が有力なのだそうですよ。
徳川が清和源氏の流れを汲むので、葵を使ったという説もあり、白洲正子さんなんかもその説をかいていらっしゃいますけど、、、こちらはどうも影が薄いのかな。
ところで、本多忠勝も譜代ですから当然岡崎出身。本多家の立ち葵の紋も松平や徳川の紋に習ったものなのでしょうし、当時としては立ち葵も、葵も、双葉葵も同じ種類だろうということなんでしょうけど、、、、これまた問題。
現在ではタチアオイはアオイ科に属するんです。
ということは後ほど触れることにして、徳川家が日本の覇権を唱えるようになってくると、この葵の紋は特別なものになり、三つ葉葵以外でも葵を使う家紋を、本家の松平家や、他の大名にも使用しないでくれって言っています。松平家は替え紋を使うことが多いですね、、、それの代表的なのが有名な五三の桐。
それなのに本多家にはずっと使用を認めてきている。本多家が徳川にとってどれだけ別格の扱いを受けていたかの象徴ですね。
ところで徳川本家の葵の紋も御三家や時代によって細かな違いがあったようです。水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」は本家の紋とは違うものなのですね。
ところで、その2 葵。
分類の上から言うと、
徳川紋の葵はウマノスズクサ科のフタバアオイで、現在のアオイ科の植物ではないと書きましたけど、昔の常識と今の植物分類があわないことなんて例は「気になる詩」をご覧になればお分かりになるようにたくさんありますよね。でも、今の常識からしても分類学とは離れているものもあります。
ゼラニュームを葵の仲間と思われている方、、、「ブー」です。
あの葉っぱはどうみても葵の仲間ですけど、、、
あれはテンジクアオイの仲間ですねん。ペラルゴニウムもお仲間というのか親族ですね。
フウロソウ科、テンジクアオイ属。
これも葵ってつくんですけどね~
葵の仲間は アオイ科
フヨウ属に属するものがムクゲ(ブッソウゲ)、フヨウ、ハイビスカス
ワタ属に属するものにワタ(ワタ属)
オクラ(トロロアオイ属)
そして上のタチアオイ(タチアオイ属)
ややこしいですね、、、、
植物の分類、それに古典との噛み合わせ、、、常識との乖離。
昔は、こんな風に面倒くさいものを区別していって、「あい分かった」っていえるのが楽しく、頭の体操に思えたのですけど、今や、、、いつまで経っても、問題は問題のまま、、、それでも昔の癖で、首を突っ込んでは、頭の中が疑問符だらけになって寝られなくなってしまいます。
困ったもんですね、、、、
その3 葵の上
ところで、源氏物語の葵の上。
高貴な生まれながら、後ろ盾もなく、生活力ゼロ。見栄えも、、、あまり、、その、、なんというか、人よりも少し落ちる、、、、
生まれに気を惹かれて正妻にした光源氏をあばら家で延々と待っている。光源氏も彼女のことを忘れてしまっていたけど、ふと彼女のことに気がついて、そのひたむきさにじんとくる、、、、
こちらもまた、今時このような女性が生息しているのかどうか、、、、
いれば博物館物かな、、、、
朱鷺以上の絶滅危惧種かも、、、、
なんていうと、今度の新月は越せないか。。。
大円段、、、、、になるかどうか。。。その4
などなど書きながら、この日記をどう終わらせようかと、さっきから必死なんですよ。それで思い出しました。万葉集に出てくる葵(アフヒ)は冬葵で食用にする葵なんです。写真を見つけましたので冬葵のところをクリックしてみてくださいね。そう、昔は葵を食べていたんですね。っていってもあくまで食用の葵があったということですよ。
ところが古今集や新古今集出てて来る葵(アフヒ)はフタバアオイ。賀茂神社の葵の紋と同じものですね。
こちらの写真は、こんどいすみに行ったときに撮ってまいりましょう。それまでお待ちください。
そして、新古今集の詩
かれにける葵のみこそ悲しけれ
あはれとみずやかもの瑞垣
詠み人しらず
14-1255
これにたいする返歌がこの前に載せられています
いにしへのあふひと人はとがむとも
猶そのかみのけふぞわすれぬ
実方朝臣
14-1254
枯れてしまった葵だけが悲しがっているのでしょうか
あなたは加茂の垣の家で待っている私のことを哀れだとは思ってくださらないのでしょうか、、、、
昔あった人は咎めるかもしれないけど
その昔の日のことは忘れてはいませんよ
いいですね~
私なんか、10分前に食べたご飯のことを忘れている。
「かあさん、まだご飯食べてないよ~」って言って、いつも怒られているんですよ。
でも、私は確信しています。ほんとうは、かあさんが食べさせてくれてないんじゃないかって。でもそれを証明できないのでね~
お腹すいたな~
その時から取り上げたかったものに葵があります。
でも、きっかけがない。
普通は写真でその花をパチリで、、始まるのですけど、今は多摩川しか行くところがない。葵は見かけないし、、もちろん花もない。さてどうしましょうって考えていましたら、鴎外の鴎荘の日記にいすみ鉄道ファンの方からのコメントがつき、そのブログを見ていましたら、トップの記事が本多忠勝だったんですね。徳川の四天王の一人、「徳川に過ぎたるもの」ってさえ言わしめた人。
そうか、本多忠勝はいすみ市の隣町の大多喜の城主だった人。
つながりがあるジャンってことで、強引に葵の日記を書くことに決めました。
それに仕事中は本多忠勝の生まれた岡崎とはよく仕事をしておりましたのでね。
それにもつながりがある。。。。
それにしても本多忠勝と葵?
本多家の家紋は「立ち葵」なのですよ、、、、
苦しい?
ちょっと強引過ぎるかな~
許されて、、、(お願い)
本題に戻って、
その1
葵って言われると、一番思い出すのはもしかして徳川家の三つ葉葵?
そうなんです。その辺から一番目の問題。
徳川家の三つ葉葵は、現在、植物的に言われるアオイとは違うもの、ウマノスズクサ科のフタバアオイの葉をデザインしたものなんですと。
だって、双葉葵なんて葵が入っているじゃないですかね、、、なんで別なのかな、、ってことは専門家にお任せしましょう。
この双葉葵の紋は、賀茂神社の神紋。賀茂神社の神領が岡崎にありまして、この地方の豪族だった松平家が双葉葵、それから三つ葉葵の紋をこしらえた、、、、のではないかな~って説が有力なのだそうですよ。
徳川が清和源氏の流れを汲むので、葵を使ったという説もあり、白洲正子さんなんかもその説をかいていらっしゃいますけど、、、こちらはどうも影が薄いのかな。
ところで、本多忠勝も譜代ですから当然岡崎出身。本多家の立ち葵の紋も松平や徳川の紋に習ったものなのでしょうし、当時としては立ち葵も、葵も、双葉葵も同じ種類だろうということなんでしょうけど、、、、これまた問題。
現在ではタチアオイはアオイ科に属するんです。
ということは後ほど触れることにして、徳川家が日本の覇権を唱えるようになってくると、この葵の紋は特別なものになり、三つ葉葵以外でも葵を使う家紋を、本家の松平家や、他の大名にも使用しないでくれって言っています。松平家は替え紋を使うことが多いですね、、、それの代表的なのが有名な五三の桐。
それなのに本多家にはずっと使用を認めてきている。本多家が徳川にとってどれだけ別格の扱いを受けていたかの象徴ですね。
ところで徳川本家の葵の紋も御三家や時代によって細かな違いがあったようです。水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」は本家の紋とは違うものなのですね。
ところで、その2 葵。
分類の上から言うと、
徳川紋の葵はウマノスズクサ科のフタバアオイで、現在のアオイ科の植物ではないと書きましたけど、昔の常識と今の植物分類があわないことなんて例は「気になる詩」をご覧になればお分かりになるようにたくさんありますよね。でも、今の常識からしても分類学とは離れているものもあります。
ゼラニュームを葵の仲間と思われている方、、、「ブー」です。
あの葉っぱはどうみても葵の仲間ですけど、、、
あれはテンジクアオイの仲間ですねん。ペラルゴニウムもお仲間というのか親族ですね。
フウロソウ科、テンジクアオイ属。
これも葵ってつくんですけどね~
葵の仲間は アオイ科
フヨウ属に属するものがムクゲ(ブッソウゲ)、フヨウ、ハイビスカス
ワタ属に属するものにワタ(ワタ属)
オクラ(トロロアオイ属)
そして上のタチアオイ(タチアオイ属)
ややこしいですね、、、、
植物の分類、それに古典との噛み合わせ、、、常識との乖離。
昔は、こんな風に面倒くさいものを区別していって、「あい分かった」っていえるのが楽しく、頭の体操に思えたのですけど、今や、、、いつまで経っても、問題は問題のまま、、、それでも昔の癖で、首を突っ込んでは、頭の中が疑問符だらけになって寝られなくなってしまいます。
困ったもんですね、、、、
その3 葵の上
ところで、源氏物語の葵の上。
高貴な生まれながら、後ろ盾もなく、生活力ゼロ。見栄えも、、、あまり、、その、、なんというか、人よりも少し落ちる、、、、
生まれに気を惹かれて正妻にした光源氏をあばら家で延々と待っている。光源氏も彼女のことを忘れてしまっていたけど、ふと彼女のことに気がついて、そのひたむきさにじんとくる、、、、
こちらもまた、今時このような女性が生息しているのかどうか、、、、
いれば博物館物かな、、、、
朱鷺以上の絶滅危惧種かも、、、、
なんていうと、今度の新月は越せないか。。。
大円段、、、、、になるかどうか。。。その4
などなど書きながら、この日記をどう終わらせようかと、さっきから必死なんですよ。それで思い出しました。万葉集に出てくる葵(アフヒ)は冬葵で食用にする葵なんです。写真を見つけましたので冬葵のところをクリックしてみてくださいね。そう、昔は葵を食べていたんですね。っていってもあくまで食用の葵があったということですよ。
ところが古今集や新古今集出てて来る葵(アフヒ)はフタバアオイ。賀茂神社の葵の紋と同じものですね。
こちらの写真は、こんどいすみに行ったときに撮ってまいりましょう。それまでお待ちください。
そして、新古今集の詩
かれにける葵のみこそ悲しけれ
あはれとみずやかもの瑞垣
詠み人しらず
14-1255
これにたいする返歌がこの前に載せられています
いにしへのあふひと人はとがむとも
猶そのかみのけふぞわすれぬ
実方朝臣
14-1254
枯れてしまった葵だけが悲しがっているのでしょうか
あなたは加茂の垣の家で待っている私のことを哀れだとは思ってくださらないのでしょうか、、、、
昔あった人は咎めるかもしれないけど
その昔の日のことは忘れてはいませんよ
いいですね~
私なんか、10分前に食べたご飯のことを忘れている。
「かあさん、まだご飯食べてないよ~」って言って、いつも怒られているんですよ。
でも、私は確信しています。ほんとうは、かあさんが食べさせてくれてないんじゃないかって。でもそれを証明できないのでね~
お腹すいたな~
一応、国文出身で卒論は源氏物語でした。
葵上は、源氏の腹違いの兄君、後の朱雀帝の后に、と望まれていましたが父親の左大臣が源氏のことを気に入って嫁がせた年上の正妻。本人は源氏のライバルと思っていたみたいだけどてんで相手になっていないあの頭中将の妹に当たります。
正妻といっても藤壺に恋焦がれていた源氏でしたから当然夫婦仲は気まずいし、源氏もあっちこっちに愛人作っちゃ出歩いて、もててますからね、源氏がお気に入りの義父である左大臣が毎度毎度娘のためにと大歓迎してくれるけれど、よそよそしい正妻の葵上の機嫌をとるつもりもない。源氏はこんなに気を使っているのにと言っているけど、とても気を使っているとは思えないんだな、これが。
挙句に、せっかく息子の夕霧が生まれて“子は鎹”になるかに見えたのに、ひょんなことから源氏最強のこわーーーい六条御息所の恨みを買って生霊に取り殺されてしまうという至極気の毒なお姫様。
ものの哀れ。
源氏物語を学ぶ時そう習います。卒論まで出したけど、どうにも源氏は好きになれないし紫式部も合わないようです(笑)。
私が知っているのは、葵の上くらいでしょうか。
光源氏をとりまくあまたの女性たちのなかでは、何といいましょうか、影の薄い存在ですね。現世では本当に絶滅危惧種並かもしれません。いつの世も大人しいなりに自己主張をしないといけないのでしょうね。
ところで一番最後が一番シリアスな問題ですね。「ボク誰?」にならないようにしてくださいよ。
かあさんは、さっき食べたばかりなのに、ご飯まだ?って何回も聞くのよ、ってこぼしてましたっけ。
大多喜城下には、『葵の会』という地元のおかみさん達の会があります。
いつも明るいお姉さん?が、私達を迎えてくれます。
http://blog.goo.ne.jp/aoi20090302
私の机の後ろには谷崎潤一郎の源氏物語12巻(戦後復刻の初版本)がずらっと並んでおりますけど、、、
全巻通して読んだことは(他の出版社のも含めて)一度もないですね。
うろ覚えで必要な巻をひっくり返して、ああそうか、、、、それだけです。
紫式部が現在生きていて、あの物語を書いたら、おそらくPCの右にはハーレークイーンを何百冊も積み上げて、もっと流麗、かつ筋の整ったものにしたかもしれませんね。(もっとも話の筋が飛んだりするのは、後世の写しを書いた人の責任だったりするかもしれませんけど。並びを読めば、ちゃんと話が通じるものもあるわけだし)
でも、私がそれを読むかといわれれば、たぶん読まないと思います。
私が源氏に惹かれるのは天皇制の下で一番爛熟した時期に、そのど真ん中にいる人によって書き記された王朝人の生活、考え、風習だから、、、それが半分以上の理由なのでしょうか。
つまり、資料ではなく史料としてみていく、価値観の違う世界でどんな考えが受け入れられ、排他されるか。
しかもそれが西欧の神秘主義とは違い、自分の属する文化の中で起こったこと。神秘主義もやりたいなと思っていたことだと何回か書いていますけど、西欧人の「理性的」といわれるものの考えの下には、神秘主義的な影響が残っている、それを理解しないと、彼らの考えは完全には分からないよって思いでした。
武士の世界の台頭など違う価値観に染まり、それがまた変わって行ったこの社会に王朝文化の何が影響し、何が残っているんだろうって思いをはせること、、、、なんとなくそんなことが面白くって、、、、
伊勢物語や、枕草子も、そして万葉や、古今、新古今もそんな風な目でみていることが多いのかもしれません。間に異質な文化を挟んだそのもっと先の遠いものが、実は今でも生きている、変わっていない、、、
変わっていないとしたら、それは日本人のもっと本質的なものかしら、、、
そんなのが面白くって。。。
だいぶ、ボク誰? になっているって、周りの人は言うのですよ。
でも、私はそうは思っていない。
朝ご飯食べたって、おかあちゃんは言うのですけどね、、、、、
だって、お腹がすいているのは本当だし、、、
実は何も書くものがなくなったら、葵で何か書けるかなと思っていたのですけど、唐突に書き始めるわけには行かず、何かきっかけと思いながらこの数日過ごしておりました。
ジャンヌさんのリンクでいすみ鉄道ファンへ飛び、そこの記事で大多喜、、、葵、、、の関連を目にしましたのが発端でした。
よかったよかった。
ありがとうございます。
だから、家康が使うなと言った時も本多家のが古いからと断った、と。
そうですね。
徳川の葵の御紋に関してはけっこういろんな節があるようですね。
異論を差し挟むことができないような環境を幕府が作ってしまったからなのでしょうね。
岡崎でも、いくつかの資料があるようですけど、、、あまり詳しくはないので、それは専門家にお任せしていましょう。