
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんの年金が始まって、山に芝刈りに行きました。
おばあさんは家で、去り状を書いて出て行きました。
水鳥の鴨の棲む池の下樋(したび)なみ
いぶせき君を 今日見つるかも
万葉集
読み人知らず
「漢詩を長崎弁で読む」風に書いていけば、
鴨ん棲んじょる池に排水路が無かごと、あんたば想う気持ちを流し去る排水路がなかったけん、忘れることができんやったとたい。
ばってん、今日あんたに逢うことができた、、、、
鴨の池に排水路がなくても、鴨には羽も足もあるさ。
いまや、要らない人、役に立たない物はさっさとリサイクルして、記憶からも消してしまい、次を見つけるのが雄雄しい、あるいはポジティブな生き方ってもてはやされるのでしょうね。
でも、なんで要らない人や役に立たない物を自分のそばに置いたんだろう、その辺のことをよくよく考えておかないと、いつまでたっても同じ失敗をするのじゃないかな。
けっして、一生失敗にこだわり続けるのが美しいとは思わないけど、、、
ん? 何言ってるか分からない?
まあまあ、いいじゃないですか。独り言。