夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

あなたの鼓動、 華

2005年12月16日 14時32分15秒 |  あなたの鼓動、華
木や花が好きなので、そちらに関したことも書くだろうって、「あなたの鼓動、 華」というカテゴリーを立てている。
華は判るけど、あなたの鼓動っていうのはなにって聞かれたので、ご説明まで;



DATE: 12/16/2005 03:39:05

家の下の家、その家は前を小さな道とクリークが通り、長さが40間、高さ一メートルほどの石垣に囲まれていた。石垣の上部がその家の庭のレベルになっていて、ちょうど中ほどに2間ほどの階段がL型に母屋へと向かっている。母屋の右奥は木々に囲まれてあまり見えないけど離れがあった。左はお蔵になっている。

家人もいたはずだが、私は誰も見たことがないし、声も聞いたことがなかったと思う。

他人の家だったけど、その庭の道路側の部分は私の遊び場の一つだった。

入り口の階段の側に大きな椎の木があった。
恐らく子供3人が手を結んでも回りきれないような大きな幹。
そして2メートルくらいのところで3っつに枝分かれをしていた。

近くに同じ年頃の子供がいなかったのだろうか、いや多分いたのだろうと思うけど、子供の頃に他の子供たちと遊んだ記憶が殆どない。

夏の頃の私のお気に入りの場所はこの椎の木。
ごつごつした木の幹は、子供の私でも手足をかけるところがたくさんあり。枝別れしたところまで簡単に登れた。
そこへ腰を下ろし、1時間でも、2時間でも過ごすのが私のお気に入りの時間の過ごし方だった。
見晴らしがいい訳ではもなんでもないのだけど。ただ静かな、夏のひと時を木に抱かれてすごしていた。
当時の小学生の定番だった白い開襟シャツの袖元から涼しい風が胸のほうへ抜けていく感じが好きだった。
白い細かな土が夏の日を照り返し、じりじりと肌を焼き、土ぼこりが身体にまとわりつく、そんな土地だったけど、木の葉っぱの下は何時も清涼な空間を提供してくれた。

木に抱かれて耳をつけると、ごんごんとかごおごおといったような低い音が絶えずしていて、その木の鼓動を聞いていると、いつの間にか眠っていた。

遠い、静かな、静かな夏の一日。

片手のピアニスト

2005年12月16日 08時49分43秒 | 芸術・文化
仕事をしていたときには、毎朝その日にやるべきことをリストしてプリントアウトすると項目だけを書き出しても10ページを超えていた。
そのうちからどうしてもやらなければならないことを絞り込み、こなしていくのだけど、本来は会って話すべき事も、電話やメールで済ませてしまう。
毎朝、仕事を減らさなければ、雑な仕事しかできないって反省するのだけど、その日のうちにまた面白そうな話や、いい作家の作品に触れたりすると、なんとかやって見ましょうってことになり、また項目が増えていく。
そんな日々を送ってきて、さて「毎日が日曜日」、たくさん自分の時間があり、会社に縛られず好きな仕事ができるだろうって思っていると、意外や意外、結構忙しい。
引越しなどがあった事もあるけど、定年後に企画していた仕事の多くを問題ができて止めてしまった割には、毎日朝から何かをしている。途中時間が空いたときに入れる掃除などの日常の些事がこなせないほど。
何にも書かれていない空白のスケジュール帳を見ながら、何でこんなに時間がないのか不思議で仕方がない。

仕事をしているときには、机の上の書類の山を見ながら、やりたい、やらなければって強い意志があれば、乗り越えられるって自分に言い聞かせてきたけど。その意思が希薄になってきて、さまざまなことが時間がかかるのだろうか。それとも今まで雑にこなしてきたことは、本当はこのようテンポでやるべきだったのだろうか、、、考えてもわからない。

普通の意味での全力を尽くすってことでは自分なりに精一杯やってきたと思っている。でも私の協力を必要としながら私が取り上げなかった作家や作品などは、その何十倍にもなるのだと何時も心に痛みを感じていた。

目がかすんできた画家、音が聞こえなくなってきた音楽家。でもこれらはまだ普通の努力だと思う。晩年、目が悪くなった画家はたくさんいる。難聴になった音楽家もたくさんいる。でも彼らはそれを努力で克服してきた。

でも身体が麻痺して動けなくなってから、あるいは手がなくなる、使えなくなるといった普通では考えられなくなるような状況でも復活してくる人々もいる。
世の中には超人的な努力をする人々もたくさんいるのだと思う。

例えば舘野泉。脳溢血で麻痺、やっと片手の演奏ができるまでに回復し、片手での演奏会を開いている。知っている人に演奏会のリハーサル中にピアノの蓋で手をつぶしたピアニストがいた、その人のその後を知っているので彼の努力にはとても感動する。
私の友人にも芸大を将来を嘱望されながらでて、やはり脳溢血で全身麻痺になり、10年以上のリハビリの結果、少しづつ声を取り戻し、身体の機能を取り戻し、そして演奏会をもてるようになったフルーティストもいる。
確かに現在の演奏にはハンディキャップがあるのかもしれない。
でも挫折の中で、身体的な障害を乗り越え、克服してきた彼らの努力、そして周りの人々の努力が彼らの音の中には現実に存在し、聴衆を魅了する。

私が舘野泉のピアノを最初に聴いて、凄いと思ったとき、私は彼が片手でしか弾けないピアニストであることを知らなかった。
障害を克服してきたことを知っていて感動したのではなく、彼の音楽へ対する純粋な傾倒、思い入れを感じたのだと思う。

演奏家にとっての音、美術作家にとっての色や形などは単なる作家のメッセージ、内面性を表現する道具だと言い切る作家もたくさんいる。もちろんどんなアーティストであっても技術が一番と言い切る人はいないし、当然なことだと思う。でもそれならそれらのアーティストに、自分の人生、自分の心、そして人を見る目、そういったものにどれだけ真摯に取り組んでいるのだろうって聞きたい。それがなくて、あるいはそれが幼稚なものでしかなくて、内面性を表してもどうにもならないのではってね。
内面性重視、それは結構。なら技術よりも、もっと自分を高める作業が必要。そうでなければ薄っぺらい貴方の内面なぞ見たくもないよって思うのだけど。

でも今の自分などは身体の障害などではなく、単に白い目で見られる社会に入りたくないというような些細な好き嫌いで仕事を放り出している。人に言うのは簡単なのですよね。

頑張らなきゃ。
頑張れる?
頑張れるかな~
???
普通の人間だものね。