goo blog サービス終了のお知らせ 

夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

私は彼の音楽が分からない、

2010年06月25日 16時07分00秒 | 芸術・文化


「私は彼の音楽が分からない
でも、私は老いぼれだ
彼が正しいに違いない」
これはグスタフ マーラーが妻に語ったシェーンベルクの評。
彼はシェーンベルクと激しい音楽論を戦わせて、絶交状態になったりしながらも、死ぬまでシェーンベルクのことを気にしていたという。

でも、作家同士がそのコンセプトを話し出したら、まず絶対に相容れることはないのかもしれない。作家はそのコンセプトを死ぬまで磨きに磨きをかけていくのだから、合致するチャンスはまずないでしょうね。

だから、その問題は個人の問題として、敢えて触れないってのも一つの手なのかもしれない。

上の言葉も、どこか相容れない部分があるのだけど、それ以上に、互いに作品を、そして才能を認めている、認めてもらっているって確信がなければ言えない言葉。

作家同士ならまだしも、私のような部外者であれば、それが素晴らしいと思えば、作家のコンセプトの向かっている方向だけを信じて、それを傷つけないようなマネージメントしかできない。

これは同業、あるいは同じ仕事を目指す若い人に対したときでも同じ。
技術は教えられる、でも、何を取り上げるべきか、どう取り上げるべきか、、、、それはその人の問題であって、いくらキャリアが深かろうとその人にそれを押し付けることはできない。

若い人にその技術だけを教えると言うのは、教えるほうにとっても、かなり精神的にストレスのたまるものだけど、、、、

ねぇ、チビ太。
もう、おいちゃんは目もかすんできたし、よいよいになってきたから、若い人たちの向かう方向もわからなくなってきたんだよ。
目の前に蝶ちょが飛んでいても、ぼけちゃってね~ 関係のない下の花に気をとられていたりして。。。
彼らの才能にめまいを感じるような羨望を感じたとしても、、、
もうおいちゃんは老いぼれたからね~
なにもできない。
ただただ昔の、夢に身を沈めていることしかできないんだよ。



何でこんな話になったかと言うと、アマゾンからのメールが来まして、今年はマーラーの生誕150周年なのだそうで、さまざまな記念盤がでているのですよ。それの宣伝を見ながら、ふ~んって思ったんですね。
それに、今朝は、作家のマイミクさんが、作家同士のコンセプチュアルな話ができないって嘆いておられたのも頭の隅っこにあったりしたんでね。

ところで、弟はマーラーの孫弟子なんですよね。ミュンヘンではヒンデミットの弟子に作曲を習っていた。
面倒くさい音楽を作る? 
とんでもない、おいちゃんの弟だもん。
曲を聴いていて、えらく甘い曲だから、それを言ったら、
「このほうが女の子が喜ぶでしょう」って、、、
流石! 座布団三枚!




もう一つ付け加えると、作家のコンセプトに対しては、それを受け入れるかどうかが最初に自分の中にある。だからそれは大切に生かして生きたいって書いているけど、でもね、作家に対して、くそみそに言うこともあるんですよ。弟の発表会を紹介した日記のときにもかなり厳しい表現があって、削除しようかどうか迷ったりしたんですけど、、、、
どこかでも書いていましたよね。
才能がない人に厳しくしてもかわいそうなだけ。
才能があると思うから、厳しいことも言う。
作家にひどい言葉を浴びせるときにも、貴方の才能、作品は認めているのだから、貴方の作品を紹介しようとしているって前提があるわけね。

コンセプトに対しては、何も言わない。でも才能に気が付かないであたら死なせているような人にはね、けっこう鬼になるんですよね、、、これが。
あれを書きながら、おいちゃんは、まだ死んでも、消え去ってもいないな~なんて思っていたりして。


ところで、この日記の写真。
岬に来ていますので、念願のオリンパスペン E-PL1に、ニコンの70-300のズーム(今、販売されているのではなくって、その前の手振れ防止の付いていないもの)をくっつけたもののテストでした。
使えそうかな~








独りよがりの

2010年06月12日 18時12分19秒 | 芸術・文化


たぶん病気になったような南天の葉っぱ。
なんじゃろうね~
おいちゃんって、けっこうこんな写真を撮って喜んでいる。
もちろん、人様に見せるようなものじゃないので、ブログにはたまにしかでてこないけどね。

おいちゃんは作家さんには独りよがりにならないようになんてよく言ってきたのだそうだけど、自分は「俺はアマチュアだから、自分がよければいいんだ」なんて嘯いている。変なの。

「作家なら、自分が素晴らしいと思うものに全力でまい進するのはあたりまえ、物理的、経済的、その他もろもろの制約はあるだろうけど、その中でどれだけ、自分が素晴らしいと思ったものを再現できるかが勝負なんだよ。
でも、盛り上がるのはいいんだけど、それがたまたま死にそうにお腹が空いていて、だから普通は見向きもしないものが最高のご馳走に見えてしまう、、そんなのじゃなければいいんだけどね~」 なんだそうです。

まあ、おいちゃんのは、自分でもまったくの独りよがりだってことを知っているだけ、善しとしましょう。
そんなもんしか作れないおいちゃんもかわいそうだけど、別にそれで生活していくわけじゃないし、そうでなければ、おいちゃんの写真なんぞ屑にしかならないからね。

 
   みなみな様
                   チビ太 拝


ショパン 練習曲 ポリーニ

2010年03月20日 10時29分05秒 | 芸術・文化
白状するとポリーニの生って、一度しか聴いたことがないんです。
そのときは、シャィーのコンセルトヘボウとの競演だったんですけど、当時の私の仕事場の大社長(なんせ、ウィーンの楽友協会のバルコンには俺の席があるというのが唯一の自慢だったくらいに音楽気違でしたのでね~)から、「なに~ チミはポリーニを聞いてないの」って馬鹿にされたのが発端でした。

そのときの演奏ってあまり記憶にない。たぶんポリーニの弾き方からすれば、シャィーの解釈とは合わないかもしれないなって今になって思うんです。

その後も、ショパンのノクターンなどのCDを買ってみたけど、いまいちピンと来ない。やはり私にはアル様(ルービンシュタインね)しかいないのね~ どっかにアル様ツアーなんぞないかな、、、それともまもなく、あっちゃでお目にかかれるかしらね~ なんて思っておりました。

昨日、ショパンのエチュードの全集を買いたいなってふと思って、誰のにしようかって思ったときに、アル様のはないのですよ。リヒテルの版があって、これはとても気になったんです。これは絶対に買わなきゃ。
でも、ポリーニの演奏を思い出して、エチュードならもしかしてびったりかなって、ワンクリックボタンをポチリ。
今朝の9時にはポリーニのエチュードの音に浸っておりました。
アマゾンって早いですよね。
以前も、大晦日の夜にカメラをポチリしたら、元旦の午前中に配達されちゃったし。田舎とはいえ、いすみは東京郊外ですからね、、、

いや、驚きました。丹精でしかも、ばっちりの弾き方。大向こうを唸らせるような技巧や音の作りも、、、、堪能しました。

ポリーニって私よりも一つ上の人。ミケランジェリの勧めでデビューしてからしばらく隠遁したりした人。アル様もアメリカに渡って、アメリカデビューの後、隠遁してたんですよね。このブログのブックマークにある熊本さんのお好きなグールドも絶頂で、公演活動を一切やめてしまった。
その熊本さんも隠遁しているグールドのところへ押しかけちゃった。
中村紘子さんも「ピアニストという蛮族がいる」なんて自認されているし。
ピアニストって変な人でないとなれないのかな、、、、

なんてことを思いながら、でも、ポリーニの演奏、彼の人となりがよく出ているけど、それ以上にショパンの偉大さっていうのが伝わってくる。この練習曲ってバッハの平均律に触発されて作曲したんだそうですけど、一つの調って一つの色ですよね。作曲家には自分の好みの調(色)があるのだから、当然苦手な色もある。それをまったく感じさせないですべての調の曲を仕上げていくって、、、
しかも、バッハの平均律とはまったく違う世界。もっとも楽器が違うから、それは当たり前といえば当たり前なんでしょうけど、、、、
天才ってすごいやっていまさらながら思います。
練習曲とか、超絶技巧練習曲とか言われるのはほかにもたくさんあるけど、バッハ、ショパン、そしてリストなんですかね、、、、

音が単なる音の連続でなくて、意味のあるものになったときにメロディが生まれて、そのメロディが心を揺さぶるものになったときに、初めて演奏しているっていえるんですよね。そしてそれがその人の演奏の素晴らしさだけど、それ以上に、それを書いた作曲家の気持ちまで伝えてくるというのは、その辺の一流っていわれる人にはできないかもしれない。ほんとうの天才だけにできることなのかな。

ところで、これで満足して練習曲のコレクションはもう終わりかってお聞きですか?
とんでもない、これを聞いて、リヒテル版をむしょうに聞き比べたくなった。


ショパン:12の練習曲 作品10/作品25
ポリーニ(マウリツィオ)
ユニバーサルクラシック

このアイテムの詳細を見る

伝統と革新

2010年01月11日 10時06分59秒 | 芸術・文化
なんて、大げさなタイトルをつける必要はさらさらないのですけど、この前の日記にはなあかりさんがコメントをつけてきてくださいました。
それではなあかりさんの日記へ飛んでみたら、クリスマスのしつらえの日記が最新でした。

クリスマスツリーの紹介のほかに、クリスマスの料理。
そこには日本のお寿司なども盛られていて、イギリスのクリスマス料理とはかなり違うものなのですけど、
写真を拝見していて、イギリスのクリスマスの伝統というものがベースにきちんとあるということがなんとなく伝わってくる。
伝統を重んじるヨーロッパとはいいながら、仕事で回るのは都市が多いし、仕事相手も若い人、特にアーティストで革新的な精神の持ち主(?)との交流が多く、そんな家庭しか知らないので、テレビなどで伝統の中に生活している人たちなんてのが出てきても、「はぁ、、、」って感じしか受けなかったけど、でもヨーロッパの文化の中には伝統が重く息吹いている部分が確かにあるのですね。
それを知らなければヨーロッパは理解できない。

Mixiのお仲間でも、最初のころの人たちはどういうわけか茶道をやられる方が多かったのです。ですから、伝統的なものについての話が飛び交っていましたけど、最近増えてきたいすみ市関連の方々もまた、町の習慣、伝統について、嬉々として話をしておられる。
日本、そしてヨーロッパの都市部の若い人たちの、伝統離れなんてのを見ていると、伝統なんて博物館や資料館の中にしか見られなくなるのじゃないかとさえ思えるようなのだけど、意外にも根強く残っているんですね。
商業的に残されている伝統、文化は別にして、地域に、家庭の中にしっかりと根を下ろしている伝統や、それを守っている人々の気持ちってなんとなく嬉しくって。

去年の暮れには、横浜を閉めましたので、引越しの騒動で、今年のお正月は何も出来ませんでした。
お屠蘇は用意したけど、屠蘇器はどこに行ったか分からなくって、結局発掘できなかった。ちょっと外に出れば椿の葉っぱはいくらでもあるし、こぶも、するめも、もちろん塩もあるから、屠蘇の肴も5分もあれば用意できたのに、しなかった。
師匠に、お節をお願いしたのだけど、二つ三つは自分でも造ろうと思っていたのも無理。
なにより、掃除が出来なかった。
お正月からは風邪っぽくって、結局、今年は雑煮食べなかったし、お餅も食べてない。
ほんとうは、すこしでも、自分なりの、自分のうちのお正月の用意をするべきだったなって、はやくも今年の後悔、第一号ということですわ。

あるべきものがないって気がつくのは、どうも気持ちの収まりが悪くって。
もちろん、その方が簡便って言うのも分かるけど、それに慣れたくないな~

冷や汗タラタラ  コスモス畑の罠

2009年10月31日 11時29分15秒 | 芸術・文化


23日の日記「Naya(長生村) そして、カーニャ(一宮町)を追加しました」で、いすみ市の隣町、長生村と一宮町のレストランの紹介をしました。

その折に、何気なく、コスモス畑の写真をスナップで入れたのです。
こちらは点景のつもりで、何の考えもなくシャッターを切ったのですけど、知人から、「コスモス畑の写真をください」って、コメントを入れられ、ぞっとしました。

この知人、電通系の会社の「ビッグママ」って呼ばれた人。当然、宣材として写真はいやになるほど見てこられたはずなのです。あんな写真がお気に召すわけはない、気の入っていない写真をぽろっとアップしているのをみて、お叱りの意味でのあのタイトルだったのではって、、、、冷や汗たらたら、、、、



「あなたにどんな理由があったとしても、満足のいかない作品、気が乗っていない作品、いやいや作った作品を人目にさらしたら、見た人は、それだけであなたの作品、あなたを評価し、二度とあなたの作品を見ようとはしないかもしれないのだから」っていうのは、私が仕事をしていた時、作家たちに対してよく口にしていた言葉。

いくら、プロではないし、作品を作っているって意識もない写真であったとしても、人に見せるときにはもう少し気合を入れていなきゃね、、、、、

反省、そして大反省。
またまた、眠れぬ夜を過ごしてしもうた。。。。。

勝浦

2009年10月21日 11時21分25秒 | 芸術・文化


今日は酒井法子被告の旦那さんのほうの初公判ですね。法子被告の方は26日だったかな?
政府が、ソフトドラッグよりも、煙草やお酒のほうがもっと悪いって公言しているようなオランダがらみのところにいたので、覚せい剤でなんでこんなに大騒ぎって気もしないでもないけど、日本では厳しいのですよね。日本にいる限り、しかたのないことなんでしょうね。

なんて、あまりこの騒ぎには興味がないのだけど、ただこのカップルの別荘が勝浦にあったんですよね。勝浦っていすみの隣町。燃えた別荘は、勝浦でもいすみよりのところにあったらしいですね。

なんてところから、今日の日記。
なんせ、引き篭もりをしておりますので、話題がないのですよ。。。

この間、いすみに行っていたときに、2冊本を買いました。
一冊が、大沢在昌の「秋に墓標を」
もう一冊が、志水辰夫の「あした蜉蝣の旅」

こんな本が好きかってお尋ねですか?
いや、そうでもないのですけど、いすみの夜って長いのですよ。
テレビも映らないし。
だから、ベッドに入って読む本がどうしても必要なんですね。
近くの古本屋さんで舐めるように本を探していくのですけど、この手の物しかなくって、、、



ところで、「秋に墓標を」読み始めたら、なんとこの舞台は勝浦なんですよ。
勝浦の守谷海岸。別な守谷にはまだ家があったりして、なんとなく因縁ありますな~ということで、、、
大沢在昌、、大きな本も書いていますけど、この方の述べ口って、話の全体よりも、そのなかで、書かれている(あるいは、文字では書かれていないけど)人の気持ちの機微の面白さにあるのかな~なんて思ったり。
この手の本を書いている人のなかではそれが一番よく出てきているのじゃないのかな。なんて、偉そうなことを書くほど、本を読んでいるわけじゃないけど。

それに比べると、もう一冊の「あした蜉蝣の旅」も、昔の廻船の話なのでと思って買ってきたけど、やはり、いろいろと仕事で関係した町が出てくる。港町や、主人公の山荘の周りの風景。両方とも、海と山との差があるけど、設定されている別荘が私のよく知っているところ。



志水辰夫の書き方は、どちらかというと、全体の筋が決まっていて、それに情景を落とし込んでいる。たんなる私の感だけど、この両者まったく違う書き方をする人なのかしらと思えてしまう。

小林秀雄の論評を評して、感情と論理の融合などという人がいる。
でも、それって小説の場合にはもっと自然に融合していなければならないもの。
下から書き上げて、情景や人の感情の機微なんかを書きながら筋を追う、あるいはその逆。いずれにしてもその本の出来がよくなればなるほど、そのことは読者に見えないようにして欲しいのだけど、、、、

作るものってみなそうね、、、
単に感情に任せても、独りよがりで終わってしまうことがほとんど。
だけど、理論だけでは作れないし、、、
温かい心と、クールな目、、、、、これってほんとうは福祉サービスのための標語だったんだけど、、、、言葉を変えればなんにでも当てはまる。
きっと、なんでも同じなんでしょうね~

なんて、、、、
でも、あの二冊。面白かったですよ。かなり。


あ~ぁ、引き篭もると、何を馬鹿なことを書いているのかってことになりますね~




きょう酒井被告夫の初公判=覚せい剤所持、使用-東京地裁(時事通信) - goo ニュース

旗幟を鮮明にする

2009年10月02日 18時18分36秒 | 芸術・文化


このブログのブックマークに私の別なブログ「国際化」へのリンクが貼ってあります。(ごめんなさい、ブックマークのスペースが一杯で削除してました。こちらにリンクを貼っておきます)
ヨーロッパ人やヨーロッパの文化と日本の狭間にたって仕事をしてきて、国と国の差、文化と文化の差ってことがいつでも頭にあったので、いろいろと書き溜めておりました。
何か話をというときには、日本と仕事先の歴史、文化の交流なんてことよりも、むしろ仕事先とは直接には関係がないけどってこの国際化の話にしたいとお願いしたりしていました。
2000年に半年ちょっと続けた地方紙のコラムに書いたものをもとに書き進めようと思って作ったのですけど、いつものごとく、今のところ5分の一程度で放り投げてありますな。。。 
いつ、完成するのか、はてなんとも心もとない話ではあります。

なんせ、この親ブログも、検索をかけて見にこられる方の多くが、釣師海岸(いすみにあるホモのヌーーディストビーチなのでございますよ。ただ、今は台風でアプローチがめためたになっているという噂ですし、本当は釣師海岸ではなくて、その隣の海岸なのですけど、、、、)とか、ラタトゥーユやお節のレシピで来られる方がほとんど。まあ、私の当初の意志とは関係のないところでお役に立っております。
っていうか、アクセスがほとんどない弱小ブログですから、まあ、お役に立つもないものですけど。。。。
「国際化」もほとんどアクセスがない死に態のブログですから、何かを書いても誰も見に来ないでしょうしね、、、、


なんて、ふてくさりながら知人のウエブコラムを見ておりました。
いすみにお家を買い、半分はいすみでお住まいになっていますけど、あとの半分は猛女さながらのご活躍でございます。
今日みたいに半分、死にかけているような雰囲気の時にはこの、非常にポジティブなコラムはとても薬になりますのですよ。はい。

その最近のコラムに、
>>アメリカ人と仕事をする時って、まず最初に必ず政治の質問が来るから、勉強しておいた方がよいわよ。アメリカでなくて、日本の政治の話ね。今の首相がどうだとか。アメリカ人って、本当に皆が政治に関心持ってるから、ここをクリアすると、結構仕事もうまくいくから。/>>
ってな、言葉がございましたですな。
これは別に、アメリカ人とは限らない。
西欧人はさまざまな文化、風土、歴史の中で育ってきて、それがごちゃごちゃになった環境の中で生活しているから、自分のスタンスをはっきりさせることっていうのが、最初に求められることなのですね。自分の考えをきっちりと言う、そして相手の考えをきちんと考える。その背景になる土壌もね。彼らにとっては自分の考えが言えないってことは、何も考えていないってことと同義語なのですよ。
互いのスタンスが分かった上で、どう問題を処理していくのがいいのかってことなのです。

私の場合はあまり政治向きの話はなかったけど、文化とか芸術とかに関してはずいぶんと聞かれましたですね。私の育った環境や文化、そしてそれについての私の考え、その上での相手の評価、、、、、もちろん、相手もいろいろと日本のことを勉強しているので、自分の持っている情報が正しいのかという疑問も、いろんな質問の中に隠れているのですけど。

こうやって、初対面で、これから仕事をしましょうというときに、さまざまな話がある、仕事直接の話よりも、むしろこちらのほうに重点があるような、、、
そして、私の考えがある程度分かったとして、それが彼らの持っているものと違うものであっても、受け入れられるものであれば、
仕事は上手くいくのですね、、、、
ほんと、仕事ではずいぶん喧嘩もしました。でも、そんな相手が一番、頼りになりました。

ところが、昔、若手の学芸員さんたちとのサークルで、私の言っていることに対して、影で、「あの人の言っていること正しいと思うのだけど、あの人がどんな人か分からないから」って口を閉ざしている人がいた。
少なくとも、私の手元にある資料では、海外への留学経験もあり、地方の県立の美術館で学芸員としても活動されてきた方なので、ちょっとがっかりした経験があります。上の人であれば、あまりずけずけと自分の考えを言っちゃ拙いなんて、若い人がどこからこんな似非の人生訓を拾ってくるのでしょうね。

私は、間違いを直すのが自分の給料の範囲、自分の任務だと思っていましたので、上司はもちろん、もっと雲の上の人たちにも面と向かって、間違いですって言い募っておりました。

若いうちはそれでいいのだと思いますし、歳をとってもどこまで、そのやり方、自分の主義、主張を鮮明にできるかってことが歳をとらない秘訣なのでしょうか?
でも、旗幟鮮明に生きるってのは、えらく疲れる生き方でもあるのですけど、、、

なに、お前は歳の割りに、ずいぶんと老けて、丸くなってるよですって?
大きなお世話ですよ。。。。


オペラ座 白鳥の湖

2009年09月12日 16時24分03秒 | 芸術・文化


今日は雨、涼しいというより、もう少しで寒いって感じの天候。
こんな日にはお客さんも雀ぐらいしか来ない。
トップの写真に飾って、あとは、ボクちゃん布団に入って眠ろうかなって思いましたけど、思い直しました。
実はボクちゃん、蒲田バレエ団の広報担当なんだって思いだしましたんですよ。
うちのバレエ団絶対に見てよね。
こんなメンバーもいるし、ここには、他の日記へのリンクも出ているからね。
こんなメンバーもいました。
いや、どこも同じだけど、金がないのよ。秋祭りの余興でもいいからさ~ 使ってよ。

なんてことはさておいて、バレエでも見よう。
お姉ちゃんがいっぱい出てくるからね~ なんてね。
ほんと、小人閑居してなんたらですな~


というわけで、探し出したのがオペラ・ガルニエの白鳥。
なになに、ヌレエフのコレオグラフのエディション。2005年の録画になってますね。(ヌレエフは93年に亡くなっています)
オデットはアニエス・ルテステュ。彼女はパリ生まれで、オペラ座の出身。最初はヌレエフの白鳥でデビュー。その後フォーサイスの現代物などでも好評を博して、その後はノイマイヤーの物でも有名でしたよね。

相手役の皇子様はジョゼ・マルティネズ。この二人、よく息が合ったダンスですよね。世界バレエフェスティバルでもこの二人で白鳥を踊ったのでご覧になった方もあるでしょうね。

さてさて、今日の白鳥。
眠い目をこすりながら、見ていたけど、最初、テンポが遅いのかなって思ったんですよ。よくよく音楽を聞いてみると、確かにテンポは微妙に遅い。でもそれ以上に踊りがゆったりとしているんですね。どの場面(黒鳥のグランフェッテでも)まるで危なさがないんです。(お返しのマルティネズのグランピルエットでは反対方向に回っていましたね~)
これはもちろんこの二人だけでなく、ソリストの踊りでも、コール・ド・バレエでも、全体の踊りが緩やかに感じられる。でも音楽のテンポは心持遅いというだけで、こんなにゆったりとしたテンポではないのです。
全員がゆとりを持って踊れるるだけのきっちりと修練されているのだと気がつきました。
けっして、「あっ」というような見せ場、超絶技巧を見せるのではなくって、超絶技巧もすんなりとこなしてしまっているからなのですね。
でもよく見ると、スジェクラスのおどりでも、凄く上手いのですよ。(それに凄く可愛い子も見つけちゃったりして、、、、)
最近、こんな踊り方をするバレエはなかったので、見ていて気持ちよかったですよ。




Swan Lake (Sub Dts) [DVD] [Import]

Opus Arte

このアイテムの詳細を見る

焦点

2009年09月09日 14時07分21秒 | 芸術・文化


写真に限ったことではないけど、焦点というのは何事にも必要ですね。
撮りたいものに向けてカメラを構える。その撮りたいものをどこにおくのか、中心なのか、それともわざとオフセットするのか。
もちろん、普通の場合にはとりたいものにピントを合わせます。でもほかをどれだけぼかしていくかも、その主題を明確にしていく必要な技術。

主題を浮き上がらせるのは、必ずしもピントだけではないですね、色や形が区別できればそれでもいいのですけど。

私はどうかすると、墨を流したような写真を撮りたがります。だから主題を明確にするって私が言うのはおかしいのかもしれませんけど、これはその主題になるものが私の心にすでに分かっているから、ただの墨流し写真でも私だけには意味があるのです。あくまで個人的な写真。だからこのような写真はPCにアップした段階で、削除してしまいますけど。それでもその墨流し写真でも、主題になるものにはピンとは合っているのです。そうでなければなんの意味もない色の流れだけになってしまいますからね。
ピントがあり、ぶれのない主題、、、、
そのピントやブレもブログ用にリサイズしたものではわからないかもしれません。でも、オリジナルの画面でよくよく見ると微妙にピントがずれていたり、にじみのようなブレが合ったり、、、、
このような写真をリサイズしても、実はどこかが甘いのです。
人間の微小な差を判断する力って実に凄いものがあります。
そんなことをなんどか書いたこともありましたね。

全体にピントが合っている写真というのがあります。でも全体のフレーミングや、色、形などをよく見ると、ほんとうはその何かに収斂するように、撮られているはずなのですね。

それがブログであれ、コンテストであれ、人に見せる写真は自分だけが分かっているものでは駄目、(なんていいながら、自分の作品はあまりにも自分本位のものですけどね~ 私は写真家ではないし、私の技術が及ばないだけの話なんですけど)見る人の目、心が、あなたの思っている主題に自然に流れ込んでくればそれは大成功なのでしょうね。

前にも述べたように、これは写真だけのことではありません。
あなたが作家であれば、作品を考えるときに心のどこかで考えていることでしょうし、私の以前の仕事であれば、展覧会を考えるときに、何の主題で、何を持ってきて、どこまでが目玉を集めて、あとはどのようなものをつけていくのか。
全てが超目玉級で構成、学芸員はそれを望むでしょうけど、お金ばかりがかかって、主題もぼけてしまう。けっして勧められるやり方ではないのですね。
でも、これは人に話をしたり、ごくごく日常の生活の中でも普通にあること。
ちょっと話題を変えて、考えてみれば、あなたもやっていることでしかないのですよ。


後は、その主題が、ほんとうにあなたが表現したかったものか、すべきものなのか、作品を作ったり、アートマネージメントをやったりするときの醍醐味はそこなのでしょう。主題をどう取り上げるか、展開するかなんてことはほんとうはたんなる技術的な問題にしか過ぎませんから。でもこれはあくまであなたの個人的なもの。学問としてのアートマネージメントでは取り上げられない問題ですね。
多少ともその後ろ盾になってくれそうなのが美学なのでしょうけど、これだって本当の意味でのあなたの手助けにはなりません。

ある学校から企画論を教えて欲しいと頼まれました。企画論とアートマネージメント、ある意味、技術的な部分はほとんど同じなのです。でもお断りしました。私のやっていることのベースはアートであり、その学校では美学の講座がなかったのです。たとえ美学が助けにならないとしても、ベースをまるで欠いた環境では無理ですからね。

作品作りに関しては私は門外漢。でもその作品を集めての展覧会なら、、
コンセプトを決め、主題となる主要作品を選び、話の流れを作っていく。
ほんと、この段階が楽しくって、三日やったら足抜けなんかできなくなります。
でも、それが上手くいったとしても、それはそれから何年も続く苦労の発端なのですけど。

私の仕事場はお金も、会場もありませんでしたから、その企画を新聞やテレビに持っていく。そしてスポンサードや会場を見つけてもらう、、、
名義主催料なんてものも払うお金もありませんから、仲間内で、相手の自主企画ということにしてもらうのですね。もちろんそうなれば私は終始黒子。本業の部分で表舞台に立ったことは一度もありません。でも、それでも自分のやりたいものができればいいじゃないですか。

でも、自分の仕事を振り返って、自分は幸運だったし、面白かったって今でも思えます。幸福ですね、、、、


なんて、またまた、常になく昔を振り返りました。
やはり、あのレジデンスのお話が私の気持ちに波を立てたのでしょうか。
それとも、お呼びが近いのでしょうか?

破天荒 大団円、、、、

2009年09月05日 09時25分43秒 | 芸術・文化


先日、マイミクさんの日記で漢字ゲームの「膃肭臍」が読めなかったって嘆いておられた。日本ではオットセイ。でもオリジナルでは膃肭だけでオットセイを表すのではなかったかな? 膃肭でなんとなくオットだけの発音とみて、臍でセイで、オットセイ、、、?(あくまで素人の感じですから、本気にしないで) でも臍はへそ、あるいはへその緒、、膃肭臍は漢方薬なんですよ。
えっ、何に使う? その~、もう私では手遅れだから知らん。

このマイミクさんからは今朝も饕餮(とうてつ、、中国の人面獣ね)なんて言葉が私の日記のコメントの中に普通に飛び出す人だから、学識のある方のお話をフォローするのは頭が痛い。

そういいながら私の最近の日記、大団円、、、、これだって結構間違って覚えられている言葉でしょ。、

私の日記を読んでくださる方には分かっていただいているかもしれないけど、漢詩を長崎弁でとか、気になる詩なんてカテゴリーを作って大和詩なんかを載せている、おまけに仕事が芸術関係の催事をやることだから、伝統とか文化には基本的に文化庁と同じような保存派なんですけどね。

でも、文化の保存って問題ありだとつくづく思います。博物館や美術館などの保存は別にして、っていうのは、あれは死に態での保存だから。
たとえば、日本では雅楽なんて、本国ではとっくに廃れたような伝統が今でも息づいている。オリジナルをきちんと残しておく、それはとても大切なことだと思うけど、その反面、社会の進歩、変革に応じて、変わっていくこともその文化が生き続けるためにまた必要なんですよね。

オリジナルの文化を保存することは難しい。特に言葉はもっと難しい。それは言葉は日常の生活に強く結びついているからなんですよね。
万葉や古今、新古今などの詩にでてくる言葉が専門家以外では廃れてしまったり、意味が変わってしまっているなんてのは、古文を勉強されたときにその意味を調べるとすぐにお分かりだと思うのです。

トップの写真。ササガニ、ササガネ? とっくに廃れた言葉ですね。

それ以上に身近な花の名前や上のオットセイの例みたいに、日本にその言葉が輸入された時点ですでに間違って入ってしまった言葉だってたくさんある。

情緒、病膏肓なんて言葉は意味は変わらなくても、発音が変わる、、、こんな例は山ほどあります。

オリジナルの変えたくない部分、残したい部分、そして時代に合わせて変わっていってもしかたのない部分、その辺の見極めを考えるというのも秋の夜長にはいいトピックかも。それによって日本の文化や、その進展、変容が分かるかもしれないし。

ただ、文化庁あたりではその辺は100も承知のことだと思うのだけど、何を残すべきと考えているのかな~って時々思うこともあるんですよね。




「破天荒」は豪快で大胆?=40代以下、7割超が誤解-文化庁・国語世論調査(時事通信) - goo ニュース