教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

勝手に生徒から集金、野球観戦…高校教諭

2010年10月16日 22時44分52秒 | 受験・学校

『大阪府守口市の私立大阪電気通信大学高等学校www.dentsu.ed.jp) で、30歳代の元男性教諭が2006年10月までの2年半、学校に無断で生徒から教材費などとして計126万円を集め、甲子園での野球観戦や飲食代などに使っていたことがわかった。 元教諭は「母親に給料を管理され、小遣い以外に自由に使える金が欲しかった」と説明しているという。
 元教諭は07年6月の問題発覚直前に辞職し、全額返済しているが、同校は保護者が指摘した今月まで府への報告を怠っていた。
 同校によると、元教諭は04年4月~06年10月、担任クラスの生徒ら106人から教材費やアルバム代などとして5000円~1万円を徴収したが、教材やアルバムは渡していなかったという。 07年6月に卒業生からの指摘で同校は問題を把握したという。 元教諭は顧問だったサッカー部の生徒から集めた金を巡るトラブルで同年4月に退職しており、同校が説明を求めたところ、事実関係を認めたという。
 元教諭は熱心な阪神ファンで、金券ショップで高額な観戦チケットを購入し、甲子園に通っていたという。読売新聞 10月16日(土)15時47分配信

学級担任として、無断で生徒から教材費などとして計126万円を集め、熱心な阪神ファンで、金券ショップで高額な観戦チケットを購入し、甲子園に通っていたのは、教育者として本当に良くないと思います。担任の先生を信頼して生徒は教材費やアルバム代を出したと思います。生徒や保護者の信頼を裏切ったと思います。『母親に給料を管理され、小遣い以外に自由に使える金が欲しかった 』と説明していると言っていますが。しっかりし過ぎたした教育ママゴンの強いお母さんが、30歳代の元男性教諭の教職人生を駄目にしたとも言えます。日本は小さい時から幼児教育で、しっかりした気丈で賢い教育ママゴンに男の子、女の子も育てられて過度な干渉と過保護に育てられ、自分で何でも判断も行動も出来ない駄目な人間に成長している大人が多い現代の日本のなのかも分かりません。女性上位で教育ママゴンが大多数を占めるの日本で、子供の人生を台無しにしたしっかりし過ぎた教育ママゴンの結末です。人の振り見て我が振り直せの諺通り、笑うに笑えない悲しいような学校内での先生の金銭不正事件です。子供離れがいつまでも出来ないしっかりした気丈なお母さん、今の日本家庭ではどこにでも有るような話と思います。

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長い目でサポートを」=ノーベル賞鈴木さん、文科相

2010年10月16日 20時17分36秒 | 学問
『 ノーベル化学賞の受賞が決まった北海道大の鈴木章名誉教授(80)が14日、高木義明文部科学相らを表敬訪問した。鈴木さんは「教育やサイエンスはすぐに成果が出るものではない。国全体が、長い目で経済的、精神的なサポートを行うようお願いします」と要請した。  鈴木さんは面談の中で「資源のない日本は、付加価値のある産業でしか生きる道はない。研究が1、2年で成果が出ないから予算を切るというのは、してほしくない」と要請。高木文科相は「今後とも頑張る」と答えたという。』2010年10月14日(木)15:03  時事通信
科学研究費補助金や大学への交付金が削減されれば、科学技術開発や研究は、日本では出来なくなります。直ぐに研究業績や成果の出ない長期に渡る共同研究や基礎研究を地道にする研究者は理系と文系を問わず居なくなり、頭脳の海外流出が進むと思います。将来的に日本の損失になり国益を損なうことになります。資源の無い日本は、科学技術創造立国のならないと科学技術研究と開発の厳しい世界各国の国際競争に負け、生き残って行けないと思います。これからの日本の科学技術の発展と優れた研究者養成を見据えたマクロの視点が必要です。日本では、昔から学者は貧乏生活と言われています。 国が教育や研究費を十分出さないことに由来しているのではないでしょうか。

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文芸賞の受賞取り消し ネットから「作品モチーフ」いただいていた

2010年10月16日 17時14分44秒 | 社会・経済
『 公募の新人文学賞「第47回文芸賞」(河出書房新社www.kawade.co.jp/np/event.)河出書房新社主催)で受賞作に決まっていた作品が、インターネット上のサイトからモチーフを借用していたことが理由で受賞を取り消されていたことが15日、分かった。また、新鋭の詩人に贈られる「第19回『詩と思想』新人賞」でも、ネット上の掲載作を模倣した作品の受賞取り消しが決まった。 山田詠美さん、綿矢りささんら人気作家を輩出してきた老舗の文学賞で、受賞取り消し騒動が巻き起こった。 受賞作は現在発売中の「文芸」冬号で発表の予定だったが、同誌は「該当作なし」と発表。選考経過として「受賞作が決定したが、内容の一部にオリジナリティーの見地から疑問が生じた。応募者に確認したところ、モチーフの重要な部分をインターネットサイトに負っていることが分かり、選考委員との審議の結果、受賞を取り消した」との趣旨の文を同誌編集部名義で掲載した。高木れい子編集長は「テーマに深くかかわるアイデアを依拠するのは、作家の態度、姿勢として問題だと考えました」としている。 同社では応募2012作から最終候補に残った3作品の著者について、事前に著作権についてのヒアリングを行っており、その時点では受賞取り消しになった著者も「大丈夫です」と答えていたという。その後の8月23日に選考会が行われ、同作の受賞が一時決定した。しかし選考委員から「モチーフは面白いが、なぜ膨らませて展開しないのか」「モチーフの描写が足りないのはおかしいのではないか」という意見が挙がったという。そこで、約1週間後に高木編集長らが本人から聞き込みをしたところ、著者がインターネットサイトから借用した事実を明かしたという。 同社は、一般応募者であることや、作為的ではなく反省している点などから著者名、年齢、性別、職業、作品名とモチーフの具体性などは公表しない方針だ。 文芸賞は1962年設立の純文学賞で、芥川賞への登竜門としても知られている。現在の選考委員は作家の角田光代、高橋源一郎、田中康夫の各氏、文芸評論家の斎藤美奈子さんの4人。受賞作なしは67年以来43年ぶりとなった。』スポーツ報知 10月16日(土)8時0分配信
 公募の新人文学賞「第47回文芸賞」河出書房新社主催)で受賞作に決まっていた作品が、インターネット上のサイトからモチーフ、 物語の構成要素となる事象、出来事などを借用していたことが理由で受賞を取り消されていたとは、インターネット時代のならではの出来事でしょうか。現在の選考委員は作家の角田光代、高橋源一郎、田中康夫の各氏も文芸評論家の斎藤美奈子さんの4人の皆さんもインターネットを利用し、良く見ておられ読まれていると言うことですね。各出版社は、情報を得るためにアンテナを貼り巡らせて、インターネット上の文芸作品やプログを良く見て、読まれていると言うのが今の時代のようです。作家の独自性とユニークさを求められる文芸作品ですが、最終的には物書きとしてモラルと良心の問題ですね。インターネット上のサイトからモチーフを借用していたと言うことを文章から見抜かれた高木れい子編集長の眼力も相当なものと思いますが。長年の経験でしょうか。有名作家も各出版社の編集長も編集に携わっている方々は皆インターネットを日常的に見られ、文芸作品の題材になるようなサイトのモチーフは良く読まれていると言う現実では無いでしょうか。

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逮捕の先生、同じ学校に復職…動揺広がる

2010年10月16日 15時13分12秒 | 受験・学校
 『傷害事件で逮捕され停職処分を受けた横浜市立中学校の40歳代の男性教諭が今月、事件前と同じ学校に復職していたことがわかった。 市教委は、学校間の人事異動は原則4月1日で、停職処分明けに他校に異動させることは「前例がない」としているが、同校の生徒や保護者らからは疑問視する声も出ている。 「病気で休職中だった先生が復職します」 同校は今月4日、保護者あてに男性教諭が復職したことを知らせる文書を配った。事件については触れていなかった。
 教諭は、1年生のクラスの副担任だったが、昨年7月から病気のため休職していた。同9月28日、同市旭区の国道16号を乗用車で走行中、別の乗用車の男性会社員とトラブルになり、頭突きをして軽傷を負わせたとして、旭署に傷害容疑で現行犯逮捕された。 起訴猶予処分となったが、市教委は同11月、停職2か月の懲戒処分とした。 教諭は停職期間を終えた後も休職を続け、今月3日付で2年生のクラスの副担任として復職した。事件は報道されており、保護者からは同校に復職を心配する問い合わせが寄せられた。だが、男性校長は「(教諭は)社会的責任を果たし、時間もたっている。事件に触れなかったのは、生徒の動揺も考慮した」としている。 同校の生徒によると、教諭は「授業が面白い」「普段は優しい」といった評判もあるが、復帰をいやがっている生徒もいるという。 ある保護者は「別の学校に復職させるべきで、動揺している」としている。 』10月16日(土)13時38分読売新聞
最近動揺と言う言葉が保護者の間でも良く使われているようですが。
現実には、泰然自若として動揺しては良くないことも有ります。
横浜市教育委員会も傷害事件で逮捕され停職処分を受けた男性教諭の事件を保護者も生徒も皆知っている訳ですから、この先生の為にも心機一転で出直しと言うことも考えて、他校に転勤が1番良い方法では有りませんか。横浜市教育委員会には、学校間の人事異動は原則として4月1日で、停職処分明けに他校に異動させることは「前例がない」としていますが、おかしな納得の行かない慣例が有る横浜市教育委員会と思います。保護者の声や意見を聞き入れて、生徒の事を考えるのが横浜市教育委員会の学校管理者として責任と思います。前例に囚われず前例が無くても保護者や生徒の為にも人事異動の処分をすべきです。教育現場での生徒への教育上の影響も大きいと言うことを考えるべきです。教育委員会として慣例や規則に基づかずに人事異動で、けじめを付けるべきでは有りませんか。学校教育中で、けじめをはっきり付けないと日本の学校は、良くなりません。

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富士山南側の永久凍土が消滅…温暖化で

2010年10月16日 14時29分51秒 | 社会・経済

『 富士山の南斜面から地表近くの永久凍土が消滅したとみられることが、静岡大の増沢武弘教授(植物生態学)らの調査でわかった。
 16~17日に開かれる富士学会で発表する。 静岡大学www.shizuoka.ac.jp国立極地研究所(藤井理行所長 www.nipr.ac.jp/outline/index.html )は共同で1976年から、南斜面の標高2500メートル以上の約100か所で測定した地中温度を分析し、永久凍土の分布状況を推測している。 増沢教授によると、地下約50センチで永久凍土が存在する下限は、76年に3200メートル付近だった。98年は3300メートル付近に上昇し、2008~10年の調査で初めて下限が確認できなかった。 気象庁によると、富士山頂の年平均気温は、76年が氷点下7・2度で、09年が氷点下5・9度に上昇している。また、標高2500メートル付近が生育上限とされていたイネ科のイワノガリヤスが山頂付近で自生しているのが確認されたという。 増沢教授は「(南斜面からの永久凍土消滅は)地球温暖化の影響以外に考えられない。富士山の植生が大きく変化する可能性がある」と話している。 』最終更新:10月16日(土)3時3分読売新聞

日本人の心と山の象徴、富士山、日本の山と言えば日本一高い富士山の山の異変です。富士山の南斜面から地表近くの永久凍土が消滅したとみられることが静岡大学増沢武弘教授(植物生態学)らの調査で分かりました。やはり地球温暖化の影響で富士山の自然環境が破壊されたとしか言いようが有りません。地球温暖化の影響は今の日本には出ていないと言う専門家の主張も有り、富士山の永久凍土の消滅を見る限り地球温暖化による富士山への自然生態系の影響と思われます。地球温暖化が進めば富士山の山頂に雪の積もらない富士山の姿となる時代も来るのではないでしょうか。日本の自然の財産、富士山の自然を保護する為に今後とも静岡大学と国立極地研究所は共同で調査を進めて下さい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富士山

富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、静岡県富士宮市裾野市富士市御殿場市駿東郡小山町)と山梨県富士吉田市南都留郡鳴沢村)に跨る活火山

標高3,776m。日本最高峰剣ヶ峰[1]であるとともに、日本三名山三霊山)、日本百名山日本の地質百選のひとつでもある。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。1952年(昭和27年)に特別名勝に指定された。

概要

山梨県側(河口湖から)
静岡県側(富士宮市から)
国際宇宙ステーションから見た富士山(2001年5月27日 アメリカ航空宇宙局

富士山の優美な風貌は、国内のみならず海外でも日本象徴として広く知られている。芙蓉峰富嶽(富岳)などとも呼ばれる。古来より歌枕として著名である。

古来より霊峰といわれ、富士山を開いたのは、平安末期の1149年久安5年)山頂に一切経を埋納した富士上人と称された末代であると伝えられている(『本朝世紀』)。

江戸時代後期の1800年寛政12年)まで富士山は女人禁制であった。富士山の登山は歴史上で最古の富士登山道である村山口から大きく発展した。外国人として初めて富士山の登頂をなし得た人物として、1860年ラザフォード・オールコックの登山とされている。

富士山麓周辺には観光名所が多くある。また、登山道は、富士宮口、須走口、吉田口、御殿場口などがある。

山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく[2]ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分類される。

地質学上の富士山

地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。

現在の富士山の山体の形成は、大きく四段階に分かれる。

  1. 先小御岳
  2. 小御岳
  3. 古富士
  4. 新富士

この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。

古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあったと考えられている。

2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現れとされている。[3]

富士山の噴火

詳細は「富士山の噴火史」を参照

最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。

新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。

延暦19年 - 21年(800年 - 802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。

宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述のとおり富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。

噴火に関する記録

噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表わした描写がある。

宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。

白糸の滝(静岡県)

伏流水

富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。

溶岩洞窟

富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。

その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。

生態系

富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。

中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。

富士山の森林限界付近のカラマツ林
(富士山北西斜面、奥庭 2009年5月)

富士山頂

山頂の構造として、富士山の噴火部である「大内院」があり、それを囲むようにして八神峰がある。八神峰の1つに3776mの剣ヶ峰がある。

大内院の構造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130mとある。[4]

宝永山

宝永山と宝永噴火口

宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらは間近で見ることができ、そのための登山コースも整備されている。

詳細は「宝永山」を参照

防災対策

  • 火山噴火予知連絡会気象庁) - 富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法など
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<宮本前駐中国大使>国の外交ふにゃふにゃ…漁船衝突で苦言

2010年10月16日 12時09分07秒 | 国際・政治

Photo
尖閣諸島付近の中国漁船衝突事件をめぐる日中両国の対応(写真:産経新聞)

<宮本前駐中国大使>国の外交ふにゃふにゃ…漁船衝突で苦言

 『今年7月に離任した宮本雄二・前駐中国大使が15日、東京都内の日本記者クラブで講演した。宮本氏は尖閣諸島沖・漁船衝突事件での日本政府の一連の対応について「国家は1本の背骨が入っていないとダメだ。ふにゃふにゃした国が外交をやっても、その外交はふにゃふにゃになる」と指摘。その上で「日本では国論が一致しない。(外交官は)国内でエネルギーの7割を使い果たし、3割の力で外に出ていく。国民のコンセンサスを背景にやらせていただければ、納得してもらえる外交がやれる」と述べ、脅威論が高まる中国への対応に関し、国内全体での方向性の一致が不可欠との考えを示した。中国の国家像は「極めて多面的で複合的であり、正確に把握するのは並大抵でない」と強調した。』毎日新聞 10月15日(金)21時48分配信
沖縄沖尖閣諸島の領海を侵犯した中国漁船が、海上警備に当たっていた日本の巡視船に当て逃げし、追跡した二隻の巡視艇に体当たりをし、損害を与えられた。日本の巡視艇の海上保安官には怪我人が出ず良かったですが。国内法を遵守して起用するのは当たり前で国家としての常識です。人の良い争いを好まない穏やかな日本人だから余計に不法行為を働いた中国漁船の船長になめられたのかも分かりません。これが中国側の警備艇や平成18年7月に竹島周辺海域で韓国が海洋調査を強行した事件で、韓国側が調査船に同行させていた海洋警察庁の警備艇に、日本の海上保安庁巡視船に対して当時の盧泰愚大統領が射撃を許可していたことが9日、分かった。射撃許可は日本政府にも伝わっており、日韓で銃撃戦となる可能性があったようだと言うことも教訓として考えるべきです。
、ロシアの警備艇でも中国の漁船が体当たりしてきたら、領海侵犯と正当防衛発砲するのでは有りませんか。今までや日本の漁船が発砲されて怪我人が出たり、犠牲者が出ているでは有りませんか。自国の国境や領海侵犯に対する日本とは違厳格な厳しい対応を取り、国民に国境と領土を守る意識を常日頃から植えつけているのでは有りませんか。今回の事は、物の常識です。領海を侵犯し巡視艇二隻に損害を与えた中国漁船側が悪いのです。海のルールを守らない不法行為者、アウトローを野放して、今後不審船や武装した工作船が、海上警備の任務に付いている海上保安庁の巡視船や巡視艇に体当たりや発砲してくる恐れも有ります。海上保安官の安全に任務遂行と命を守る為に危機管理対策の法的整備が必要では無いでしょうか。人を殴っておいて、殴られたものが悪いと言う論理よりは重たい領海侵犯と海上保安庁警備艇への体当たり事件と言えます。どちらが正しくて、悪いかはビデオを公開したら事実が分かると思います。日本の海上保安庁保安官には手落ちは無いでは有りませんか。今後危険を伴う海上任務を責任を持って、海上保安庁側は遂行出来ないと思いますが。
チャータした飛行機で視察するより民主党の代議士が、海上保安庁保安官に代わり巡視艇に乗り沖縄沖尖閣諸島の海上警備の任務に日夜付いたらどうですか。
今回の日本政府の対応、結局は日本側が悪者扱いされたのでは国民も黙っていないと思います。 仙谷由人官房長官も人権派の法律知識に長けた弁護士出身、有名な国際政治学者高坂正尭氏の弟子の同じく弁護士出身の前原誠司外務大臣です。
国内法、日本の法律を遵守するのが、国務大臣の使命と責務では有りませんか。
日本の国益と今後の日本の外交交渉や外交活動を阻害するような筋を通さない腰抜け政府の姿勢と外交手腕の無さを中国側に総て見抜かれたことが災いし、中国政府から損害賠償を請求されたり、レアアースの輸出を拒否され、日本国債もまで売却されて制裁措置を受けている今日本が、蓮舫行政刷新大臣の発言通り政府のベスト対応の結果と果たして言えるでしょう。スパコンは2位じゃいけませんか、資源の無い日本が、生き残る道の科学技術の開発と発展を妨げるよう日本国の大臣として、日本人に成り切っていないと日本を愛する日本人からの厳しい批判の有る中、ファッションリーダーや華麗なスタイリストとしては優れていても、日本人の政治家として心の中に憂国の情は無く、日本の将来のことをまつたく考えてないと言わざるを得ません。仕分けを過大評価し。派手なパフオマンスの演技に酔いしれる日本人のお人よしの視聴者やマスコミの今の報道姿勢にも総て問題が有ります。今後日本は、中国外交でも飴と鞭とに持て遊ばれ、『覆水に盆に返らず』の諺通、剣道でも最初の立会いが雌雄を決し、震えてしまい中国政府に気迫負けした日本の首脳は、もう取り返しが付きません。日本の科学技術立国としての地位もまんまと蹴落とされるシナリオにも乗せられたのでは有りませんか。世間で言う後で気がつくてんかんやまとでは困ります。
日本の武士道の精神を忘れています。真の愛国心無き、どちらに頭や顔が向いているか分からない今の政治経験なき亡国大臣様に日本丸を沈没させられ潰されないように良識有る目で国民は見抜く必要が有ります。故田中角栄総理大臣の秘書の亡くなった元新聞記者の早坂茂三氏は、有る週刊誌に現菅直人現総理大臣は、「男か女か分からない人物」と評していました。政治の責任転嫁を皆国民の責任にされたら溜まりませんね。コンニャクのような政府首脳では、国民は泣きを見ます。
沖縄沖尖閣諸島の事件で、菅政権の幕引きが早まったのではないでしょうか。参議院選挙に敗北した内閣は長続きはしないことは、歴史的に証明されるかも分かりませんね。
今回の沖縄沖尖閣諸島での中国漁船体当たり事件は、偏狭なナショナリズム 、国家主義の復活だと進歩派のジャーナリスト、journalistや民主党の元財務大臣は言いますが。あんたどこの国人ですかと問いたくなります。戦後65年の今の平和な日本で、平和ボケしていたのは世界中の国々では日本だけで、日本の真の国益、国家主権の侵害とは何か、日本の領土問題に先送りで触れず逃げ回る政府や日本人としての誇りと自覚、民族自決権の大切さが忘れられ国民1人1人が、お隣の友好国、二千年の歴史有る大国、中国をお手本として真剣に学習し、考え直す良い機会が与えられた今回の沖縄沖尖閣諸島での中国漁船体当たり事件と思います。宮本前駐中国大使の言われるように日本の外交も日本の科学技術もふにゃふにゃにされないよう国民は見守る必要が有ります。菅直人内閣は、奇兵隊と名付けられました。霞ヶ関の新鮮組みにならずに高杉晋作の顕彰碑に書かれているように「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」 とある。これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉のように政治的手腕を発揮して欲しいと思います。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高杉晋作
Shinsaku Takasugi.jpg
高杉晋作
通称:東行
生年:天保10年8月20日1839年9月27日
生地:長門国
没年:慶応3年4月14日1867年5月17日
(満27歳没)
没地:長門国 下関
活動:尊攘派
藩:長州藩
所属:奇兵隊
廟:靖国神社

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日 (1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、日本武士長州藩士)。幕末長州藩尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩倒幕に方向付けた。春風通称は晋作、東一、和助。暢夫東行東洋一狂生

変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。正四位1891年(明治24年)4月8日)。

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生涯

誕生

長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる。

10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚する。

留学

文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国上海へ渡航、が欧米の植民地となりつつある実情や、1854年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。

尊王攘夷運動

長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京師(京都市)において勤皇破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。

文久2年(1862年)、高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵寺島忠三郎有吉熊次郎赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎[1]が相談した。しかし久坂が土佐の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主山内容堂を通して長州藩世子毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った [要出典]

この過程で、高杉は頼りになるのは長州の志士だけだ [要出典]とする長州ナショナリズム [要出典]を形成し、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。また、幕府の罪人として処刑された松陰の遺骨を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する [要出典]。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。

下関戦争と奇兵隊創設

文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。

京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである8月18日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得する [要出典]が容れられず [要出典]、脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島は戦死、久坂玄瑞は自害する。

8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところを深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、ずっと後年の伊藤の回想に依拠しているため、真実か否かは不明である -->

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