教育カウンセラーの独り言

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サンミュージック波乱の50年 引きずった岡田有希子の死「お父さんの一言に救われた」

2018年11月18日 14時56分17秒 | 芸能ネタ
ミュージック波乱の50年 引きずった岡田有希子の死「お父さんの一言に救われた」



08:40


創業者の故・相澤秀禎さんと二人三脚でサンミュージックプロダクションを設立した元専務、福田時雄名誉顧問 (C)oricon ME inc.

(ORICON NEWS)

 老舗芸能プロダクション「サンミュージックプロダクション」が11月27日、創業50周年を迎える。タレント第1号の森田健作氏をはじめ、都はるみ、松田聖子、岡田有希子、酒井法子、ベッキー…その系譜を辿れば“芸能界の歴史”そのものとも言える。そこで今回、創業者の故・相澤秀禎さんと二人三脚でサンミュージックプロダクションを設立した元専務、福田時雄名誉顧問に、栄光と波乱の50年について聞いた。

■松田聖子は押しかけ上京で“ポスト百恵”に「聖子は自分で運を掴んだ」

――サンミュージックの第1号タレントは森田健作さんだとお聞きしました。

【福田時雄】初めて自分で探してきたタレントが森田健作でした。本人は芸能界に興味がなかったけれど、なんとか説得し、当時人気絶頂だった黛ジュンさんの映画『夕月』の相手役募集に応募させたところ、見事合格。それが1969年の11月25日で、撮影がスタートしたのが2日後の11月27日。その日がサンミュージックの創立記念日なんです。

――その後、森田さんは主演映画、歌手デビューと順調なスタートを切ったわけですね。

【福田時雄】そして、相澤(秀禎)が2人目として連れてきたのが野村将希(デビュー時・野村真樹)。その年の新人賞を取り紅白歌合戦に出場しました。そのころ事務所も手狭になり新宿三光町から四谷4丁目に引っ越したのですが、森田が撮影用のライトが頭に当たって入院、野村も雑誌の取材中に落馬して入院と最悪の出来事が続きました。

――好転するきっかけというのは?

【福田時雄】新宿三光町の事務所は昼間でも電気をつけないと暗いような部屋でしたが、日当たりの良い四谷4丁目に引っ越して、不思議と良くなったんです(笑)。そんなときに現れたのが桜田淳子でした。『スター誕生(スタ誕)』(日本テレビ系)の秋田大会をみて、ぜひこの子だと思い手をあげました。

――『スタ誕』からはたくさんのスターが生まれました。

【福田時雄】森昌子、山口百恵、ピンクレディー、小泉今日子、中森明菜など。うちも桜田淳子をはじめ渋谷哲平、岡田有希子など『スタ誕』から9人入りました。この番組は日テレがバックアップしてくれて歌番組やドラマに出られるというメリットもあったんです。

――80年代のスターと言えば松田聖子さんは外せません。聖子さんとはどんな出会いだったのでしょうか。

【福田時雄】CBSソニーの若松宗雄ディレクターが連れてきたのですが、当初は断るつもりでした。ただ彼女の声を聴いたらとても良い声だったので、来年高校を“卒業”したら東京に出てくるように言ったんです。ただご両親が芸能界入りに反対していたので、僕が福岡まで説得にいき許諾を頂きました。そしたら聖子はなんと高3の夏休みに東京に出てきました。仕方がないので相澤の自宅に下宿させレッスンを開始しましたが、秋には『おだいじに』(日本テレビ系)というドラマに出演しまして、その役名が「松田聖子」なんです。翌年の春、資生堂のCMソング「裸足の季節」で歌手デビューしましたが、そのタイミングで山口百恵さんが引退を発表し、いきなり聖子が“ポスト百恵”と言われて注目されました。

――タイミングも味方したわけですね。

【福田時雄】高校を卒業してから東京に出てきていたら、そんなことはなかったわけで、聖子は自分で運を掴んだんです。さらに聖子が成功したのは、歌声が良いこと、そして負けず嫌いってことですね。ご両親を説得にいったときも、聖子がお盆でお茶を運んできて、そのお盆を胸に抱いたまま廊下に正座して、父親が「うん」と言うまで動かないという強い意志を感じました。

――聖子さんがデビューしたころは、歌番組もたくさんあって、歌謡曲がすごく盛り上がっていました。

【福田時雄】都はるみさんの「大阪しぐれ」がミリオンセラーになりその年のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞したり、牧村三枝子も「みちづれ」が大ヒット、聖子もヒット曲連発。とにかくいい時期でしたね。

■デビューに反対だった岡田有希子の父親「立派に成長させる」と約束した

――聖子さんの後もアイドルがたくさんでました。
【福田時雄】次は早見優ですね。ハワイの明るい太陽の下で育ったなんとも言えない明るさがありました。彼女がデビューした1982年は、花の82年組と言われて、シブがき隊、中森明菜、小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美、三田寛子…たくさんいて大変でした。

――当時は賞レースが盛んでした。

【福田時雄】優もいろんな賞にノミネートされるんですけど、いつも同じ7組が入賞していて。優もそこに入ってたんですけど、横浜音楽祭では落選。それで落胆していると思って焼き肉に連れていったら、優がトイレに行って出てこない。しばらくして目を真っ赤にして出てきて「スピーチさせてください」っていうんですよ。さすがハワイから来ただけあるなと思って聞いたら、「トイレで悔しくて泣いていて、ふと鏡を見たら、自分の顔が醜くて、自分が思いあがってことに気づきました。明日からまた頑張ります!」と言ったんです。17歳でその発言はすごいなと思って、それからはみんなで本当に全国を駆けずり回って頑張りました。

――次が岡田有希子さんですね。

【福田時雄】有希子も『スタ誕』出身です。ここも父親が大反対でいくつか彼女に条件をつけたんです。それを彼女は頑張って全てクリアしたんです。そこで私は「彼女を3年だけ私に預けてください。必ずスターにするとはお約束できませんが、不幸にして売れなくてお返しする時には立派に成長させてお返しします」と、父親にお話をしてお許しを頂きました。

――岡田さんとのエピソードを教えてください。

【福田時雄】北海道にキャンペーンで行ったとき、彼女が雪で転んだんです。でもなかなか起き上がらない。みんながのぞき込むと寝転がったまま「星がきれい」って言ったんです。負けず嫌いですよね(笑)。

――聖子さんも岡田さんも、スターになる人は負けず嫌いなんですね。その後には酒井法子さんが頭角を現しました。

【福田時雄】酒井法子のデビューは1986年。デビュー早々「のりピー語」が大流行し、シングル「夢冒険」が選抜高校野球大会の行進曲になったりしました。一方で、平成になり音楽番組や賞レースが減りはじめ、タレントをどう売り出すか色々考える時になりました。そうしている内にドラマの時代になったんです。清水美沙は朝ドラの『青春家族』(NHK総合)のヒロイン、安達祐実は『家なき子』(日本テレビ系)が大ヒット、そして酒井も『星の金貨』(同)の大ヒットで女優としても認めていただけるようになりました。

■“お笑い”を見出した慧眼「スターはここぞのタイミングを逃さない」

――サンミュージックでは、苦しい時代に、必ず“次の担い手”が現れているように思います。そして次はバラエティ、お笑いの時代ですね。

【福田時雄】最初はゲッツのダンディ坂野だけだったけどね。

――今もダンディさんはCMなどにもたくさん出演されていますね。

【福田時雄】あれで10年以上続けているから凄いね(笑)。今の社長の相澤正久は、アメリカに留学していて、1970年代にはすでにコメディアンが芸能界の中心にいるのを見ていた。だから、日本でもお笑いタレントを育てようということになったんです。その後カンニング竹山、小島よしお、スギちゃん他多くの人気者が出ました。そして、私は新人開発部門で色々なタレントを発掘しようと。そこからベッキー、塚本高史、小野真弓などが出てきました。

――ベッキーさんといえばバラエティというイメージです。

【福田時雄】ベッキーはバラエティが好きでね。頭の回転が速いし本当に勉強しています。

――お話を聞いていると、スターになるタレントさんは、頭が良くて、負けず嫌いというのが共通している気がします。

【福田時雄】今はコメント力など頭の回転が重要ですね。カズレーザーも物知りで大したもんです。竹山はああ見えて努力家で、新聞を読んだり勉強してますよ。あと大事なのは、男でも女でも華があることですね。桜田淳子の秋田予選の映像はすごいですよ。彼女にだけ光が当たっているように見えます。森田健作も彼がいるだけで回りが明るくなります。スターは作ろうと思っても作れません。我々は機会を与えることはできるけど、後は本人次第。すごい素材でも、タイミングが悪いとうまくいかないこともある。淳子や聖子のように「ここぞ」ってところをきっちり掴んだ人は、一気に駆け上りますね。

■芸能界に導くということは、相手の“人生を変えること”

――サンミュージックは50周年を迎えました。今の事務所のスタッフさんやタレントさんたちにどんなことを伝えたいですか。

【福田時雄】相澤(秀禎)が築いたスタッフとタレントの関係性です。

――創業者の相澤秀禎さんは業界内でも人格者として有名でした。

【福田時雄】相澤を悪くいう人はいなかったです。サンミュージックの3人目のタレントは、相澤が佐渡から連れきた中森重樹です。でも、彼はなかなか売れなくて、今は芸能界を引退して自動車のエンジニアをしています。彼が相澤が亡くなる直前病院に見舞いにきたんです。2人きりで喋っていたから重樹に「何を喋ってたんだ?」て聞いたら、相澤は彼に「幸せだったか?」と尋ねたそうです。40年前に佐渡から無理やり連れてきたことを、相澤は死ぬ直前になっても気にしていたと。それに対して重樹は「幸せだからここに来たんだ」って言ったそうです。

――才能を見出して芸能界に導くということは、相手の“人生を変える”ことだという認識が頭にあるんですね。

【福田時雄】そうですね。無理やり誰かの運命を変えることだから、僕も有希子のことはずっとひっかかってるし、あのときは本当に辞めようと思いました。でも、有希子のお父さんがお葬式のときに「有希子早く亡くなったけれど、人生の縮図のように生きたから幸せでした」って一言言ってくれて、それでただただ救われました。今思えば、楽しくて同時につらい仕事だったけどね、芸能界の歴史を作っていくような仕事をやってきたから、それはよかったと思います。』

創業者の故・相澤秀禎さんと二人三脚でサンミュージックプロダクションを設立した元専務、福田時雄名誉顧問のお話、人間味有る芸能人と一緒に歩まれた人生論です。


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解散30年超のおニャン子クラブ なぜ今もファンを魅了する?

2018年11月18日 14時23分24秒 | 芸能ネタ


エンタメ 解散30年超のおニャン子クラブ なぜ今もファンを魅了する?
"おニャン子クラブファイナルコンサート メンバー1人1人が最後の挨拶" を YouTube で見る


解散30年超のおニャン子クラブ なぜ今もファンを魅了する?

07:00



会員番号40番、生稲晃子の水玉ビキニ

(NEWSポストセブン)

 1985年に誕生し、わずか2年半の活動期間で解散した「おニャン子クラブ」。このアイドルグループは、1985年4月から放送された番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)から誕生した。デビューシングル『セーラー服を脱がさないで』のヒットからブレイクし、当時のアイドルシーンを席巻するが、1987年8月の番組終了とともに突如解散する。

 解散から30年以上経つが、解散コンサートが行なわれた9月20日には、毎年有志らの手でイベントが開催されている。今もファンを魅了する理由はどこにあるのか。自身も熱烈なファンだった『モーニング娘。のDNA─おニャン子クラブは2度解散する…』の著者・永田一八氏が分析する。

「少々つまらない言い方かもしれませんが、結局、当時を生きた世代にとっての“青春の象徴”なのだと思います。わずか2年半で解散してしまったことで、“まだまだ”と望む感情が強く、なかなか吹っ切れなかった人が多い。

 平日夕方の番組で、生活に深く入り込んでいたにもかかわらず、自分たちの意に反して急に終わらされてしまった。ファンが、さながらおニャン子クラブの“死”を現実のものとして即座には認識できなかった、あるいは認識したくなかったという要素が、今も執念を生んでいるのだと思います」

※週刊ポスト2018年11月23日号

おニャン子クラブの名前、仮名とカタカナ表記にしたところが、斬新でしたね。

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女優の江波杏子さんが肺気腫のため死去 76歳

2018年11月02日 17時17分18秒 | 芸能ネタ




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江波杏子さん 【報知新聞社】

(スポーツ報知)

『 映画「女賭博師」シリーズの「昇り竜のお銀」などで知られる女優の江波杏子さんが、先月27日に肺気腫(慢性閉塞性肺疾患)の急性増悪のため亡くなったことが2日、分かった。76歳だった。所属事務所が公式サイトで明かした。また報道各社にFAXで発表した。

 公式サイトによると、江波さんは22日までNHKのラジオドラマの収録をしていたが、26日に体調不良を訴え、都内の病院に緊急入院。回復することなく、27日午後9時6分に息を引き取ったという。この日、近親者のみで密葬が営まれた。公表は密葬後にしてほしい、という故人の遺志により、この日の発表となった。

 所属事務所は「肺気腫は長年患っておりましたが、日常生活には差し障りなく女優業に励んでおりました。11月以降から来年にかけて、いくつかのドラマのオファーにもお引き受けすべく、私共スタッフとミーティングも重ねておりました」と説明。江波さんは最近でも2016年10月〜17年3月に放送されたNHK連続テレビ小説「べっぴんさん」にジャズ喫茶の女主人役で出演するなど活躍を続けていた。

 所属事務所は公式サイトのメッセージを「江波杏子は私たちに別れを告げましたが、数々の映画、ドラマの中に生き続けています。皆様のお心の裡、記憶の中にも生き続けてくださることを祈っております」と結んでいる。』

個性的なスッパリした女優さんでしたね。



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急に老けた「顔、激変」落胆の声

2018年10月07日 14時41分33秒 | 芸能ネタ





売れっ子になると芸能人たちはとにかく歯を直していくが、表立って「矯正した」とは言いづらい女優たちの中には、「前の方がよかった…」とファンから残念がられることも。女優の沢尻エリカは、大ブレークしてから八重歯がなくなっている。八重歯を抜くと、『急に老けた』『輪郭が変わった』といった声が上がることが多数あがったと「まいじつ」が報じた。

『顔が激変』!?ブレーク後に歯並びをイジった女優・アイドルたち - まいじつ

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元人気アイドル川越美和さん孤独死 “ライバル”中江有里が無念の思い

2018年05月19日 15時40分10秒 | 芸能ネタ

 

  

 女優・中江有里(43)が1日、TBS系で放送された「爆報!THEフライデー」に出演。90年代に共演し、同世代のライバルでもあった人気アイドル・川越美和(享年35)さんの孤独死について思いを語った。

 川越さんは1988年に歌手デビューし、翌89年には「夢だけ見てる」でレコード大賞新人賞を獲得。89年に放送されたTBS系「時間ですよ・平成元年」の7代目マドンナに16歳で抜擢されるなど、エキゾチックな美少女ぶりで、“ポストゴクミ(後藤久美子)”と言われ、ドラマでも活躍した。中江とは2000年、TBSのドラマ「ダンナ様は18歳」で共演。02年には、姉妹役で映画共演する企画もあったが、この映画が撮影10日前に突然、製作中止になり、再共演は叶わなかった。

 川越さんは07年にひっそりと芸能界を引退。週刊誌の報道によると、04年ごろには借金や酒浸り生活を送り、摂食障害もありガリガリに痩せ、08年4月、人知れず亡くなっていた。死後数日に自宅で孤独死しているのが発見されたのだった。

 中江は川越さんの死について、「どうして…って気持ちもありました。(彼女に)色々ある、っていうのは聞いてたんですよ。事務所辞められた、とか、名前(芸名)を変えられた、とか、その後、また『川越』に戻った、とか…。気にはなっていて…。何か私にできたことはあったんじゃないかな、って…」と無念の思いで唇をかみしめた。

 芸能界について「みんなライバルでもあるし、仲間でもあるし、孤独な世界だし、波もある」と語り、「一緒に仕事をして(川越さんの)人柄も知ってるし、ぜひ川越美和という素晴らしい女優さんがいたことを、知ってもらいたい」とスタジオで川越さんについて話した思いを明かしていた。

 

 

人の一生は、誰にも分かりません。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

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星由里子さん死去 74歳「若大将」シリーズヒロイン、文芸作品など出演

2018年05月18日 14時58分24秒 | 芸能ネタ

 02:55

 

 

死去した星由里子さん

(スポニチアネックス)

 東宝「若大将」シリーズのヒロイン・澄子役など、さわやかなお嬢さんイメージで人気だった女優の星由里子(ほし・ゆりこ、本名清水由里子=しみず・ゆりこ)さんが16日、肺がんのため京都市の病院で死去した。74歳だった。東京都出身。葬儀・告別式は親族のみで営まれる。文芸作品からアクション、怪獣映画まで幅広く活躍した。

 

 古希を過ぎても若々しく、昨年も「大岡越前スペシャル」(NHK・BSプレミアム)や「水戸黄門」(BS―TBS)などテレビ時代劇を中心に活躍していた星さんが静かに逝った。「健全な娯楽を広く大衆に提供すること」という東宝の企業理念を見事に体現した名女優だった。

 

 肺がんと闘病していたという情報はなかった。京都の自宅で家人も「急なことでした」と話し、「葬儀は京都のお寺で営みます」とスポニチ本紙の取材に言葉少なに答えた。

 

 実家は東京・神田の乾物店。5人きょうだいの末っ子として生まれた。58年に東宝が宝塚歌劇団の東京公演にちなんで開催した「ミス・シンデレラ娘」に姉が応募し、当選して芸能界入り。翌59年に「すずかけの散歩道」で銀幕デビューした。60年には浜美枝(74)、田村奈巳(76)とともに「東宝スリーペット」として売り出された。

 

 加山雄三(81)の主演で61年に始まった「若大将」シリーズが代表作になった。全17本のうち、第12作「リオの若大将」(68年)まで、若大将の恋人・澄子を演じた。一方「モスラ対ゴジラ」(64年)や「クレージーだよ奇想天外」(66年)など特撮映画や娯楽作品でもヒロインを務めた。

 

 「若大将」シリーズを卒業した後は日活「忘れるものか」(68年)で石原裕次郎さんと共演。翌69年には東映「日本侠客伝 花と籠」で高倉健さんとも共演を果たしている。90年代以降は舞台「蝉しぐれ」(大阪松竹座)や「北島三郎特別公演」、NHK朝の連続テレビ小説「あぐり」「ほんまもん」、テレビ朝日「科捜研の女 第3シリーズ」「ドクターX〜外科医・大門未知子〜」などに出演。清そな美しさは健在だった。

 

 私生活では3度の結婚を経験。最初は69年に財界人の横井英樹氏の長男とゴールインしたが、性格不一致のために3カ月で離婚。75年に脚本家の花登筐氏と再婚したが、83年に死別。その後、90年に会社役員の清水正裕氏と再々婚し、京都市内のホテルで盛大な披露宴を開いて話題を呼んだ。』

 

歯並びの綺麗な東京生まれらしくさっぱりした感じのよい女優さんでしたね。ごご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 ◆星 由里子(ほし・ゆりこ)1943年(昭18)12月6日生まれ、東京都出身。精華学園女子高校(現東海大市原望洋)卒業。1年後輩に吉永小百合がいた。58年に東宝入りし、「八重歯のシンデレラ」のキャッチフレーズで売り出された。成瀬巳喜男、岡本喜八といった巨匠の映画作品にも幅広く重用された。

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俳優が壮絶人生語る「生後一週間で母を…兄二人と父は事故死、姉は脳腫瘍で…」

2018年04月21日 09時55分39秒 | 芸能ネタ

>小倉一郎 4度目妻とTV出演 33歳で家族全員失う壮絶人生が明らかに/芸能/デイリースポーツ online小倉一郎 4度目妻とTV出演 33歳で家族全員失う壮絶人生が明らかに/芸能/デイリースポーツ online2018/4/20 21:34

俳優が壮絶人生語る「生後一週間で母を…兄二人と父は事故死、姉は脳腫瘍で…」

20日、TBSで放送された「爆報!THEフライデー」に、昨年4度目の結婚をした俳優・小倉一郎(66)が妻・まきさん(61)と出演。結婚、離婚を繰り返した人生を振り返るとともに、4人きょうだいの末っ子として生まれたが、生後1週間の時に母親が亡くなり、幼い頃、4歳上の双子の兄2人は水の事故で死亡、2歳上の姉も脳腫瘍のため18歳の若さで亡くなり、84年、小倉が33歳の時、父親は車にはねられて死亡し、家族を全員失ったという壮絶な生い立ちが明かされた。「デイリースポーツ」が報じている。

 人の人生と言うのは、ほ本当に々ですね。

小倉一郎さん苦労されましたが、苦労を乗り越えられた良いお顔になられています。

お幸せをお祈り申し上げます。

<blockquote><a href="https://youtu.be/_NbE93e8IO4" target="_blank">"島倉千代子 人生いろいろ" を YouTube で見る</a></blockquote>

 

 

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【訃報】はしだのりひこさん死去 フォーク歌手、72歳 「悲しくてやりきれない」「花嫁」などヒット

2017年12月02日 14時15分01秒 | 芸能ネタ

【訃報】はしだのりひこさん死去 フォーク歌手、72歳 「悲しくてやりきれない」「花嫁」などヒット

「帰って来たヨッパライ」記者会見のフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」 左から北山修、はしだのりひこ、加藤和彦=昭和43年2月

(産経新聞)

 「悲しくてやりきれない」などの曲が大ヒットしたフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーだったフォークシンガー、はしだのりひこさんが2日、死去した。72歳だった。

 10年ほど前から体調を崩し、表だった音楽活動などは行っていなかったが、親族の話によると、2日未明に病院で亡くなった。  レコード会社のホームページなどによると、クルセダーズは、京都の大学に通っていた加藤和彦さんやきたやまおさむさんらが結成し、はしださんは昭和42年 に参加。同年のプロデビュー曲「帰って来たヨッパライ」が大ヒットし、オリコンで史上初のミリオンヒットを記録し、「京都フォーク」としてブームとなっ た。

 クルセダーズは翌年に解散したが、その後に結成した別のグループ、クライマックスで出した「花嫁」なども大ヒット。46年のNHK紅白歌合戦にも出場した。

 10年ほど前から闘病生活を送っていたが、今年4月に京都で開かれた音楽イベントには車いすで姿を見せていた。』

 はしだのりひこさんも『帰って来たヨッパライ』の歌詞通り天国に行かれました。

ご冥福をお祈り申し上げます。

"帰って来たヨッパライ" を YouTube 

https://youtu.be/4OfTo0N1ulE

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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真木よう子ツイッターが話題 丁寧すぎる返信の理由「私も貴方様も同じ人間です」

2017年07月09日 18時04分50秒 | 芸能ネタ

真木よう子ツイッターが話題 丁寧すぎる返信の理由「私も貴方様も同じ人間です」

ドラマ「セシルのもくろみ」制作発表に出席した真木よう子

(スポニチアネックス)

 女優の真木よう子(34)が先月末にツイッターでの発信を開始し、個性的な言葉のセンスと一般ユーザーへの丁寧かつ膨大な返信で話題となっている。フォロワーは約10日間で8万人を突破。ファンからは「神対応すぎ」「もっと好きになった」との声が上がっている。

  真木は6月28日にアカウントを開設し、「Twitterとやら、始めました。初めまして。ワタクシ通り名真木よう子」と第一声。「今、リツイートの事を 教わった」「リプって何ですか?」と初心者である様子をうかがわせた。主演を務めるフジテレビの連続ドラマ「セシルのもくろみ」(13日スタート、木曜後 10・00)について、「私扮する宮地奈央の私服は極めてダサい、一周回ってもやっぱりダサい。出オチ感半端ねぇyo,そこのみでいいから観てくれyo, 的な?」とPRするなど独特のセンスで話題となる一方、ファンに快くリプライを送っていることは驚きの声が出ている。
 アニメ「おそ松さ ん」についての質問には「一松推しです」と気軽に答え、七夕の願い事を聞かれると「クライアント様からの契約が切れませぬ様に。笑」と返答。自身の 「bot」アカウントが過去の発言をつぶやくと、「中学生の頃に書いてたポエムを読み返した時の気分。っていったら解りやすいかな?笑」と照れたり、「自 分はそうは、思いません!!!!」と強い調子で否定したりしている。
 7日にはツイッターを始めた理由について「私はこのTwitter を見ている皆様を『いちファン』だとか『一般人』とは、思っていないのです。同様に、皆様にも私の事を『世界の違う人』とか『芸能人』と、とらえて欲しく ないのでした。私も貴方様も同じ人間です。人対人です。だから多くの皆様とコミュニケーションを取れる場が欲しいと思ったのです」と説明。労を惜しまぬ返 信については「私なんかの返信で、少しでも幸せを感じる方が居るのであれば、幾らでも応答致します」と理由を明かしている。
 
 真木よう子ツイッターで、敬語の尊敬語・謙譲語・丁寧語を上手く使い分けているのでしょうね。
ツイッターは、簡潔にまとめるのが大変です。
ツイッターでもメールでも丁寧な返事を貰うとファンもよい感じがすると思います。
インターネット時代の極意です。
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  小林麻央さん死去 34歳 22日夜自宅で 闘病中にブログ続けるも力尽く

2017年06月23日 11時35分41秒 | 芸能ネタ

 

6/23(金) 11:06配信 スポニチアネックス

小林麻央さん死去 34歳 22日夜自宅で 闘病中にブログ続けるも力尽く

小林麻央さん

 歌舞伎俳優、市川海老蔵(39)の妻でフリーアナウンサーの小林麻央(こばやし・まお)さんが22日夜、都内の自宅で死去した。34歳。東京都出身。人気キャスターから梨園の妻へ転身し、成田屋を支えていた14年10月、乳がんの告知を受けて闘病中だった。21日に容態が急変したという。

 

 

【写真】在宅治療することになった小林麻央はにんじんジュースを手に笑顔

 海老蔵は23日午後、公演先の東京・渋谷のシアターコクーンで会見を行う。 海老蔵はこの日朝、ブログを更新。「人生で一番泣いた日です」「お察しください」「なるべくいつも通りに過ごします」などとつづった。 麻央さんは08年12月にキャスターを務めていた日本テレビ「NEWS ZERO」のインタビューで海老蔵と出会い、10年3月に結婚。11年7月に長女麗禾(れいか)ちゃん(5)、13年3月に長男の勸玄(かんげん)くん(4)を出産。幸せな生活を送っていると思われた中、16年6月に海老蔵が会見し、麻央さんが乳がん闘病中であることを発表していた。麻央さんは同9月1日にブログを新設し、闘病の様子や心情、家族への思いをつづり、多くの人々の共感を呼んでいた。』

人間の寿命は、病気と寿命は別だと良くい言われていますが、神様のみぞ知る世界です。ご御冥福を心からお祈り申し上げます。

 

 

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野際陽子さん13日に亡くなる、81歳

2017年06月15日 22時19分37秒 | 芸能ネタ

 

野際陽子さん13日に亡くなる、81歳

野際陽子さん 【報知新聞社】

(スポーツ報知)

 「キイハンター」「ずっとあなたが好きだった」など多くのテレビドラマで活躍した女優の野際陽子さんが13日に死去したことが15日、分かった。 81歳だった。関係者によると通夜、葬儀は終了したという。現在放送中のテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの郷」(月〜金曜・後12時30分)にレギュラー出 演しており、突然の訃報に周囲も驚いている。

 昨年4月に一部週刊誌で、2014年に肺がんを患い治療し、15年に再発し腫瘍の摘出手術を 受けたことが報じられた。所属事務所は「野際は健康問題を含め、個人的な事柄につきまして公にコメントすることは遠慮させていただきたい」と回答。「今ま でもいくつかの病を経験してはおりますが、元気で明るく過ごしております」とコメントしていた。また、今年3月16日に行われた「やすらぎの郷」制作発表 は、メインキャストの中で野際さんだけが欠席していた。

 野際さんは富山県富山市生まれ。3歳から東京・杉並で育ち、立教大卒業後の58年 には、合格率0・3%の狭き門を突破してNHKにアナウンサーとして入局した。60年から同局「おはようみなさん」の司会などで活躍したが、62年に NHKを退職。同年、広告代理店で3か月勤めた後、フリーアナとしてTBS系「女性専科」の司会を務めた。

 63年にTBS系「悲(ひ)の 器」で女優デビュー。大学時代に劇団に所属していたこともあって、以後は女優として活躍していく。66年にはあこがれだったフランスのソルボンヌ大学に留 学し仏文学を学んだ。帰国後の68年、TBS系「キイハンター」で女優復帰したが、同番組は5年間放送され、最盛期には視聴率30%を超えるなど大ヒッ ト。野際さんの代表作となった。

 73年には「キイハンター」で共演した千葉真一(78)と結婚。75年に長女で女優の真瀬樹里(42)を出産したが、94年、米に活動拠点を移そうとした千葉に対し「アメリカには行けない」と希望し離婚した。

  92年のTBS系「ずっとあなたが好きだった」で息子を溺愛する姑役のイメージが定着。安定感のある演技を見せ多くのドラマに出演した。NHKのアナウン サー時代から交流のある女優の黒柳徹子(83)と公私ともに交流が深く、テレビ朝日系「徹子の部屋」には女性ゲスト最多の21回出演していた。』

最期まで、肺癌と闘われたのは肝っ玉のあるおフランス仕込の知性溢れる女優さんでした。

心からご冥福をお祈り申し上げます。 

<blockquote><a href="https://youtu.be/PG-9UTf7jdA" target="_blank">"野際陽子 『非情のライセンス』 (cover)" を YouTube で見る</a></blockquote>

 

 

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吉永小百合おにぎり特訓 自宅で1カ月150個握る

2017年05月20日 23時27分54秒 | 芸能ネタ

 5月17日 05:13サンスポ

 

 女優、吉永小百合(72)が東京都内で主演映画「北の桜守」(滝田洋二郎監督、来年3月公開)の春ロケをスタートした。通算120本目の出演作で、おにぎりを握るシーンを報道陣に公開。小百合は「150個くらい家で握った」と猛練習の成果に笑顔を見せ、初共演となる息子役の堺雅人(43)と嫁役の篠原涼子(43)からも大絶賛され、「引退後は、おにぎり屋さんもいいかな」とお茶目な“転職宣言”で沸かせた。 東京都内のスタジオに作られた自宅セットで、割烹着姿の小百合が幸せそうに“特製おにぎり”を握った。 「北の桜守」は、終戦直前に故郷の樺太(現ロシア・サハリン)をソ連の侵攻で奪われた主人公の江蓮てつ(小百合)と次男、修二郎(堺)ら親子が激動の時代を懸命に生き抜く感動の物語。2月に北海道・網走市で約1週間の冬ロケを終え、4月30日から佳境となる春ロケが開始。このほど報道陣に公開した撮影では、コンビニエンスストアのはしりとなった日本初のホットドッグストア「ミネソタ24」を開店したアメリカ帰りの修二郎が、てつが握るおにぎりを商品化する妙案を思いつく場面を演じた。 三角形のおにぎりしか握ったことのない小百合は、春ロケ前に服部栄養専門学校の一枚田清行氏(49)から当時の北海道で主流だった太鼓型の握り方を指導され、「150個くらい家で握った」と猛練習。その甲斐あって同氏に「店で出せる」と太鼓判を押され、“母の味”を堪能した共演の堺と篠原も大絶賛。小百合は「みんながおいしいって言ってくれるので、引退後はおにぎり屋さんもいいかな」とゴキゲンで、「優しい気持ちで握ると柔らかくいいものができる気がします」とほほえんだ。 さらに「食べてくれる人がいたら握っていきたい」とつぶやき、劇中同様、“小百合おにぎり”の商品化も夢じゃない! おにぎりだけでなく、小百合の演技を間近で感じた堺は「セリフのない間がどれだけ延びても芝居が成立する」と脱帽。亡き母が小百合ファンだったという篠原も「とてもおきれいで、毛穴がないんです。生まれ変わったら、一日でいいからこうなってみたい」と興奮し、思わず小百合も「ハハハ」と大笑いした。今後は北海道縦断ロケを行い、同作は7月に撮了予定。出演作120本目となる大女優は「なんとか完走したい」と新たに気を引き締めていた。★72歳が!25キロバーベルスクワット今後の北海道ロケでは、道がない山中を走ったり、水温約10度の海に入るなど過酷な撮影が小百合を待ち受ける。冬の極寒ロケでは、雪上で重さ30キロのソリを引いており、「東京へ戻って、腰が重かった。足腰を鍛えないと」と通常の水泳以外に筋トレとウエートトレーニングを開始。「25キロのバーベルを持ってスクワットとかをやっています。(重量挙げの)三宅宏実さんの何十分の一(の重さ)ですけど楽しい」と肉体改造を続け、心身ともにたくましい母を熱演する。」

役作りとは言え、ひたむきに精進される真面目さに若さと美貌の秘訣があると思います。今も根強いサユリストのバックボーンではありませんか。、

最近年齢が行くと顔の劣化した女優も多いです。デジタルカメラが高性能化し解像力が上がったのも一因ではありませんか。亡き母が、言っていましたうりざね顔美人最近少なくなりました。

私も三角おにぎりしか結べませんが、それぞれの家の言い伝えもあると思います。

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<訃報>日下武史さん86歳=俳優、劇団四季の創設メンバー

2017年05月16日 18時30分24秒 | 芸能ネタ

優秀秀日新聞 5/16(火) 17:02配<訃報>日下武史さん86歳=俳優、劇団四季の創設メンバー

日下武史さん

 劇団四季の創設メンバーの一人で中心的存在として活躍した俳優の日下武史(くさか・たけし<本名=孟・たけし>)さんが15日に療養先のスペインで誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。86歳。葬儀は親族のみで営む。後日、お別れの会を開く。【渡瀬恒彦さん、大岡信さん…】今年亡くなった著名人を写真で振り返る慶応大在学中に演劇活動を始め、1953年、同じ仏文科の浅利慶太さんら10人で劇団四季を結成。翌年の旗揚げ公演「アルデール又は聖女」(ジャン・アヌイ作)の伯爵ガストン役で初舞台を踏んだ。「ヴェニスの商人」「エクウス」「この生命誰のもの」「ハムレット」「鹿鳴館」など代表作は多く、的確な役作り、知的な演技で四季の看板俳優として数多くの舞台で存在感を放った。またNHK大河ドラマ「新・平家物語」など、テレビドラマや映画、外国映画の吹き替えでも活躍した。90年度芸術選奨文部大臣賞、96年紫綬褒章、2002年勲四等旭日小綬章など妻は10年に再婚した女優の木村不時子さん。ここ数年、病気のため舞台から遠ざかっていた。』

アンタッチャブル(エリオット・ネス役/ロバート・スタック)の声の吹き替えは、本当にぴったりでお見事でした。思い出に残っています

 

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アラン・ドロンさん引退へ 81歳「もう年を重ねた」

2017年05月11日 21時15分45秒 | 芸能ネタ

 

パアランドロン秀樹2017年5月10日09時56分

 

 映画「太陽が知っている」撮影中のアラン・ドロンさん(左)=1968年撮影、AFP時事 

二枚目俳優の代名詞だったフランスの俳優、アラン・ドロンさん(81)が9日、近く引退すると表明した。AFP通信の取材に対し、最後の映画と舞台の予定を説明したうえで、「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と語ったという。

映画は2018年に公開予定で、パトリス・ルコント監督のもと、ジュリエット・ビノシュと共演。タイトルは未定だが、脚本はほぼ出来上がっており、「自分自身とよく似た役柄だ。私ぐらいの年の、気まぐれで怒りっぽい男が、人生の最後に愛を見つける美しい物語だ」という。この映画の後に、舞台作品に出演して引退するとしている。 過去にも映画界からの引退を口にしたことがあるが、今回は本当に引退する意向だという。 ドロンさんは「太陽がいっぱい」(1960年)でスターの座をつかみ、「サムライ」「パリの灯は遠く」などの作品で知られる。甘いマスクに加え、世に背を向けたニヒルな役柄などで世界のファンを魅了した。日本での人気は絶大で、70歳を超えてから日本のバラエティー番組に出演したこともある。(パリ=青田秀樹)

アランドロンさんは、短気な性格とはとても思えません。引け時と自分で、感じられたののではないでしょうか。

 

 

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地域 アーカイブ 渡瀬恒彦さん死去…72歳、15年から胆のうがんで闘病

2017年03月16日 09時00分49秒 | 芸能ネタ

 

スポニチアネックス 3/16(木) 5:00配信

 

 渡瀬恒彦さん死去…72歳、15年から胆のうがんで闘病

渡瀬恒彦さん

 「事件」「震える舌」「仁義なき戦い」シリーズなどの映画や「十津川警部」「おみやさん」をはじめとする推理ドラマでも活躍した俳優の渡瀬恒彦(本名同じ)さんが14日午後11時18分、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。72歳。島根県出身。2015年から胆のうがんで闘病中だった。葬儀は近親者のみで営む。喪主は妻い保(いほ)さん。兄の渡哲也(75)とはまた違った男の魅力で人気を誇ったスター俳優だった。仕事復帰を信じて頑張った渡瀬さんが静かに息を引き取った。がんとの闘いは一進一退を繰り返し、家族の願いは届かなかった。1月21日に松方弘樹さんが74歳で死去した際には「年齢も近く、東映の撮影所で共に育ってきました。今は言葉が出ません」とコメントを出した。あれからまだ2カ月だった。渡瀬さんは15年夏ごろに体調不良を訴え、検査の結果、胆のうに悪性腫瘍が見つかって都内の大学病院に入院。5カ月間、仕事を入れず、抗がん剤の投与と放射線治療を受けた。効果が出て、少しずつ仕事復帰を果たしたが、完治せず、入退院を繰り返していた。早大法学部を除籍になった後、電通PRセンターに入社。兄の渡は既に日活の青春スターとしてスターの階段を駆け上がっていたが、渡瀬さんは芸能界に全く興味がなかった。そこを口説いたのが東映の岡田茂社長(当時)で、69年に同社と契約を結んだ。70年に石井輝男監督「殺し屋人別帳」でデビュー。「仁義なき戦い」シリーズなど数多くのやくざ映画やアクション作品で実力を養い、78年に出演した深作欣二監督の「赤穂城断絶」と野村芳太郎監督の「事件」の演技でブルーリボン賞助演男優賞などを受賞した。その後も「震える舌」「南極物語」などの話題作で存在感を見せる一方、映画界の斜陽化に伴ってテレビでの活躍も目立つようになった。「十津川警部」(TBS)「おみやさん」などは息の長いシリーズとなった。 私生活では73年に女優の故大原麗子さんと結婚したが78年に離婚。翌79年に新潟県出身のOL、い保さん(69)と再婚し、息子と娘に恵まれた。04年の「十津川警部シリーズ 東北新幹線“はやて”殺人事件」で大原さんと26年ぶりの共演を果たし話題を呼んだ。大原さんが09年8月に62年の生涯を閉じると、同23日に営まれた「お別れの会」には渡瀬さんも参列し、別れを告げていた。 ◆渡瀬 恒彦(わたせ・つねひこ)1944年(昭19)7月28日、島根県生まれ。69年に東映に入社。70年「殺し屋人別帳」でデビュー。主な代表作に映画「赤穂城断絶」「事件」「仁義なき戦い」シリーズ、ドラマ「十津川警部」「北アルプス山岳救助隊」「世直し公務員」「おみやさん」シリーズなど。兄は俳優の渡哲也(75)。


飾らないきざっぽくない落ち着いた話し方をされる俳優さんでした。

若いころは、喧嘩も強かったそうです。

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

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