【眼光紙背】コンニャクゼリーと安全安心
コンニャクゼリーを問題視する人たちは、「何かを食べる」ということが、決してゼロリスクではないという現実を完全に無視してしまっている。
餅やご飯といった、私たちが普段当たり前に口にするもので窒息事故が起きる。それが現実である以上は、そのリスクを私たちは当然のように受け入れなければならない。
自動車事故があるからといって、外に行かないということができないように、私たちはリスクがあると知りながらも、食べ物を食べずにはいられないのだ。そうしたなかで、不慮の事故が起きて、人が死ぬことがある。それは人間の命が有限である以上、避けられない現実である。
そうした現実を「子供が口にするものは、ゼロリスクであるべきだ」という議論は、あっさりと無視してしまう。
大切な命が1つ失われた、という事実は非常に重いものですし、
起ってはならない事故ですが、個人的には、この記事の主旨に同感します。
(野田聖子消費者行政担当相のパフォーマンス云々は別として。)
もちろん、できれば低リスクにこしたことはないとは思いますし、
この記事の、いろいろな問題は「マイノリティー排除」が発端だというトーン
&メーカー保護トーンには全面的には同意しかねる部分もありますが・・・
以前記事にもしていますし、ある方のブログでコメントもさせていただきましたが
私は2-3歳の時に、ノー●ルの黒飴をのどに詰め、窒息しかかったことがあります。
多分、あとから親に情報補正されているとは思いますが
たしか外から家に大声をあげて駆け込んだ時に起った事件で
その時、居間でTVを見ていた母が慌てて飛んできたこと、
さかさまにされてどんどん叩かれたこと(←これってかえって危ないらしい;
それでも取れず、近所の小児科に母親におんぶされて駆け込んだこと・・・
ものすごく苦しく怖かったことをけっこう鮮明に記憶しています。
その後数年は、飴は必ず母親が噛み砕いて小さな形状にしてからしか
食べさせてくれなかったと思います。
なにより、私自身、黒飴はトラウマになりましたし、
かなり長い間、すべての飴がダメでした。
で、今なお、キャンディーは小さめのものを選ぶ傾向にありますし
少しでも「あ、大きいな」と思ったら早めに噛み砕きます。
我が家の飴対策は上記のように行われましたが、子ども時代って、
早く遊びたくて慌てて食べる&ついほうばっちゃうことが
多いうえ、ロクにかまずに飲み込もうとするので、
記事にもあげられている、のどをつめる筆頭のおもちだけでなく
牛肉、うどん、ゆでたまご・・・
そういうごくごく普通に食卓にあがるものでも
のどをつまらせることはあると思います(てか、私は詰まらせました;)
こうしたマイナス体験って、リスクの予測と回避含めて
多くは親自身の体験と学習と自己責任、に落とし込まれる(べき)
&生活の(知恵的体験)情報として
親から子どもへ伝えられ蓄積されていく(べき)ものなんじゃないのかな、と。
熱いものはヤケドするかもしれない
火は引火するかもしれない
カッターや包丁は指を切るかもしれない
食器は割れるかもしれない
腐ったものを食べるとお腹を壊すだけで済まないかもしれない
池は落ちるかもしれないし、海やプールは溺れるかもしれない
・・・
危険なものを全ての人間の生活から完全に排除することはできない。
だからこそこどもには「危険」と同時に「気をつける」ということを
教えていかなければならない。
まだ理解・判断できない幼少期はそれは親の役目である。
手をかける、気をつける、目を離さない、
=日々の中でのそうした配慮の積み重ねこそが
「しつけ」であり「学び」なのだとも思うわけで(・・・えらそうなことはいえませんが;;)。
それが保護者としての大人の役割の基本なのでは?
そういう当然のことを、今一度押さえなければならない時代なのかな、と
考えさせられる事件です。
形は国が決める? こんにゃくゼリー 自民、議員立法へ 消費者行政迷走(産経新聞) - goo ニュース
コンニャクゼリーを問題視する人たちは、「何かを食べる」ということが、決してゼロリスクではないという現実を完全に無視してしまっている。
餅やご飯といった、私たちが普段当たり前に口にするもので窒息事故が起きる。それが現実である以上は、そのリスクを私たちは当然のように受け入れなければならない。
自動車事故があるからといって、外に行かないということができないように、私たちはリスクがあると知りながらも、食べ物を食べずにはいられないのだ。そうしたなかで、不慮の事故が起きて、人が死ぬことがある。それは人間の命が有限である以上、避けられない現実である。
そうした現実を「子供が口にするものは、ゼロリスクであるべきだ」という議論は、あっさりと無視してしまう。
大切な命が1つ失われた、という事実は非常に重いものですし、
起ってはならない事故ですが、個人的には、この記事の主旨に同感します。
(野田聖子消費者行政担当相のパフォーマンス云々は別として。)
もちろん、できれば低リスクにこしたことはないとは思いますし、
この記事の、いろいろな問題は「マイノリティー排除」が発端だというトーン
&メーカー保護トーンには全面的には同意しかねる部分もありますが・・・
以前記事にもしていますし、ある方のブログでコメントもさせていただきましたが
私は2-3歳の時に、ノー●ルの黒飴をのどに詰め、窒息しかかったことがあります。
多分、あとから親に情報補正されているとは思いますが
たしか外から家に大声をあげて駆け込んだ時に起った事件で
その時、居間でTVを見ていた母が慌てて飛んできたこと、
さかさまにされてどんどん叩かれたこと(←これってかえって危ないらしい;
それでも取れず、近所の小児科に母親におんぶされて駆け込んだこと・・・
ものすごく苦しく怖かったことをけっこう鮮明に記憶しています。
その後数年は、飴は必ず母親が噛み砕いて小さな形状にしてからしか
食べさせてくれなかったと思います。
なにより、私自身、黒飴はトラウマになりましたし、
かなり長い間、すべての飴がダメでした。
で、今なお、キャンディーは小さめのものを選ぶ傾向にありますし
少しでも「あ、大きいな」と思ったら早めに噛み砕きます。
我が家の飴対策は上記のように行われましたが、子ども時代って、
早く遊びたくて慌てて食べる&ついほうばっちゃうことが
多いうえ、ロクにかまずに飲み込もうとするので、
記事にもあげられている、のどをつめる筆頭のおもちだけでなく
牛肉、うどん、ゆでたまご・・・
そういうごくごく普通に食卓にあがるものでも
のどをつまらせることはあると思います(てか、私は詰まらせました;)
こうしたマイナス体験って、リスクの予測と回避含めて
多くは親自身の体験と学習と自己責任、に落とし込まれる(べき)
&生活の(知恵的体験)情報として
親から子どもへ伝えられ蓄積されていく(べき)ものなんじゃないのかな、と。
熱いものはヤケドするかもしれない
火は引火するかもしれない
カッターや包丁は指を切るかもしれない
食器は割れるかもしれない
腐ったものを食べるとお腹を壊すだけで済まないかもしれない
池は落ちるかもしれないし、海やプールは溺れるかもしれない
・・・
危険なものを全ての人間の生活から完全に排除することはできない。
だからこそこどもには「危険」と同時に「気をつける」ということを
教えていかなければならない。
まだ理解・判断できない幼少期はそれは親の役目である。
手をかける、気をつける、目を離さない、
=日々の中でのそうした配慮の積み重ねこそが
「しつけ」であり「学び」なのだとも思うわけで(・・・えらそうなことはいえませんが;;)。
それが保護者としての大人の役割の基本なのでは?
そういう当然のことを、今一度押さえなければならない時代なのかな、と
考えさせられる事件です。
形は国が決める? こんにゃくゼリー 自民、議員立法へ 消費者行政迷走(産経新聞) - goo ニュース