記事を読めば、(自分とのベクトルの一致度を基準として)そのブロガーの
大体の傾向は自分なりに把握できる。
所詮、全ての情報収集・蓄積・分析行為は自分が基準でしかないから、
こちらの能力が低いと相手の本意は理解できないし、読み違いもある、
そういう一致度のズレを自覚していれば、そこで得られるものも含めて。
以前は「本」「映画」「アニメ」「音楽」がメインのチェックポイント。
最近、「アート」や「エリア」等行動範囲も入れるようになってきた。
関心項目が近いと、考え方も近い・・・というのは大間違いで(いい意味で)
より深い視点に多く出会える。
社会派の記事の場合はちょっと難しい。
情報量と情報収集行為の範囲・過去情報の蓄積量によって
かなり見方が変わってくるから。
前述の項目も、もちろん情報格差はあるんだけど
たとえば押井作品を見たその時にその人が感じた「感想」は、
蓄積情報量に関係なくその人独自のリアル情報であり、
それぞれに新しい発見があってそれがとっても興味深い。
「なるほど、この人はそういう見方・感じ方をしたのか」とか
「そういう視点があったのか」とか。
で、自分の体験記憶を後から広げることができる。
こうした追体験・再体験効果は、私のような情報比較と再構築好きにとっては
ネットの大きな効能・恩恵の1つだと思う。
(以前から口コミやマスコミの情報でそういう体験はできてはいましたが
ネットは鮮度と幅が圧倒的に違います。)
社会派の記事に関しては、事件性が高いものが多く
その見極め次第で、社会的な処罰が下されるわけだから
それを見るメジャーのブレが許されない。
そういうことなのだろう。
私の記事も含めて、ブログにあふれる多くの事件記事が
新聞やTVニュース、巨大掲示板関連の速報をニュースソースに
しており、結果、ソース元のベクトルの影響を少なからず受けてしまう。
ソースを鵜呑みにする記事もあれば、自分流の蓄積情報でひも解いた記事もある。
自分の方が少しでも情報量が多いと、その正誤に関わらず、
少しだけ見方は広がる気がする。私の好物の多角的視点。
その上位に、多角的視点を取りまとめた自我な視点が位置するように思う。
つまりは分析視点。
で、私見ですが、最近は、より個人的な主観情報に触れられる
前述の「本」「映画」「アニメ」「音楽」「アート」「エリア」記事より、
こうした社会派記事への反応のほうが、その人のモノの見方のある側面を
強く反映させている気がしてきました。
そういうことへの関心をログ化する思考ベクトル含め。
要するに、同じラインのうえに並べやすいのかな、と。
◆
「本」か「社会派記事」かの分類はあくまで自分の指標であり
他者にとっては、このブロガーはこういう指標で考える傾向が強い
というメジャーの1つにすぎない。
多角的な視点は常にカウンターをもたらすので
こうしたメジャーそのものも、
強い再構成力がないと求心性を失い、ランダムな目盛りの寄せ集めにすぎなくなってしまう。
そこに「私」はいるのか、いないのか。
こういう考えのどこまでが自発発想で、主観で
どこからが他者影響で、客観なのか、考え出すとそれもまたキリがない。
それを分けることに意味があるのかどうかもよくわからないままに。
すべての活動は他者との歯車の噛みあわせの中で
決められていく部分もあるように感じる。
ただ、考え続けている瞬間の『私』は連続的に存在する。
だから私は考え続ける。そして懐かしい「ここ」に戻ってくる。
Cogito ergo sum.
大体の傾向は自分なりに把握できる。
所詮、全ての情報収集・蓄積・分析行為は自分が基準でしかないから、
こちらの能力が低いと相手の本意は理解できないし、読み違いもある、
そういう一致度のズレを自覚していれば、そこで得られるものも含めて。
以前は「本」「映画」「アニメ」「音楽」がメインのチェックポイント。
最近、「アート」や「エリア」等行動範囲も入れるようになってきた。
関心項目が近いと、考え方も近い・・・というのは大間違いで(いい意味で)
より深い視点に多く出会える。
社会派の記事の場合はちょっと難しい。
情報量と情報収集行為の範囲・過去情報の蓄積量によって
かなり見方が変わってくるから。
前述の項目も、もちろん情報格差はあるんだけど
たとえば押井作品を見たその時にその人が感じた「感想」は、
蓄積情報量に関係なくその人独自のリアル情報であり、
それぞれに新しい発見があってそれがとっても興味深い。
「なるほど、この人はそういう見方・感じ方をしたのか」とか
「そういう視点があったのか」とか。
で、自分の体験記憶を後から広げることができる。
こうした追体験・再体験効果は、私のような情報比較と再構築好きにとっては
ネットの大きな効能・恩恵の1つだと思う。
(以前から口コミやマスコミの情報でそういう体験はできてはいましたが
ネットは鮮度と幅が圧倒的に違います。)
社会派の記事に関しては、事件性が高いものが多く
その見極め次第で、社会的な処罰が下されるわけだから
それを見るメジャーのブレが許されない。
そういうことなのだろう。
私の記事も含めて、ブログにあふれる多くの事件記事が
新聞やTVニュース、巨大掲示板関連の速報をニュースソースに
しており、結果、ソース元のベクトルの影響を少なからず受けてしまう。
ソースを鵜呑みにする記事もあれば、自分流の蓄積情報でひも解いた記事もある。
自分の方が少しでも情報量が多いと、その正誤に関わらず、
少しだけ見方は広がる気がする。私の好物の多角的視点。
その上位に、多角的視点を取りまとめた自我な視点が位置するように思う。
つまりは分析視点。
で、私見ですが、最近は、より個人的な主観情報に触れられる
前述の「本」「映画」「アニメ」「音楽」「アート」「エリア」記事より、
こうした社会派記事への反応のほうが、その人のモノの見方のある側面を
強く反映させている気がしてきました。
そういうことへの関心をログ化する思考ベクトル含め。
要するに、同じラインのうえに並べやすいのかな、と。
◆
「本」か「社会派記事」かの分類はあくまで自分の指標であり
他者にとっては、このブロガーはこういう指標で考える傾向が強い
というメジャーの1つにすぎない。
多角的な視点は常にカウンターをもたらすので
こうしたメジャーそのものも、
強い再構成力がないと求心性を失い、ランダムな目盛りの寄せ集めにすぎなくなってしまう。
そこに「私」はいるのか、いないのか。
こういう考えのどこまでが自発発想で、主観で
どこからが他者影響で、客観なのか、考え出すとそれもまたキリがない。
それを分けることに意味があるのかどうかもよくわからないままに。
すべての活動は他者との歯車の噛みあわせの中で
決められていく部分もあるように感じる。
ただ、考え続けている瞬間の『私』は連続的に存在する。
だから私は考え続ける。そして懐かしい「ここ」に戻ってくる。
Cogito ergo sum.