ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

江戸、明治~昭和初期の「千住宿」歴史探訪

2023-07-17 07:06:25 | 日記

首都圏に住んでいる高校の同級生3人が古稀を迎えたことを契機に始めた史跡と文学碑を巡る街歩き、

今回は奥州街道、水戸街道の分岐点として江戸近郊では最大の宿場である「千住宿」を歩きます。3人

は北千住駅で集合すると、駅前にあるマルイビル10F・足立区立郷土博物館の千住宿復元ミニチュア模

型(1/50縮尺)を囲んで、往時の千住宿の様子を確認して街歩きをスタートです。

 

ヒデ:この模型は第11代家斉の時代(1806年ごろ)を再現している。文化の大火があり、間宮林蔵の

   樺太探検が始まるころだ。当時の千住宿はすでに日光街道と奥州街道の最初の宿場として、江

   戸四宿の一つだったから公家や大名が泊まる本陣もあった。宿場の規模としては荒川(現隅田

   川)に架かる千住大橋の両岸に広がる宿場町で、南北に約3.5Kmもの長さがあり、人口は1万人、

   旅人や商人の賑わいだけでなく、水運の橋戸河岸、千住青物市場などの物流施設、そして岡場

   所、行楽地などの娯楽施設もあり、江戸から遊びに来る人も多かったそうだ。今日は30℃超え

   の炎天下の日になったから、案内状に書いた千住宿の南端にある「小塚原刑場跡」や北端の青

   果市場「やっちゃ場跡」そして松尾芭蕉の「奥の細道・矢立初めの地碑」など、宿場の外れに

   ある史跡は行かないことにする。今回は千住宿の宿だけを歩こうと思う。歴史探訪の質として

   はかなり落ちるけど、熱中症だけは避けたいから了解してほしい。それでは本陣跡の碑からス

   タートしよう。

ノブ:ここが千住宿本陣跡だね。北千住駅の目の前だね。石碑と案内板しかないので、本陣の大きさ

   が全く実感できないな。本陣がないのは残念だな!

ヤス:案内板に本陣は約400坪で、近隣5本宿の総代である秋葉市郎兵衛方が世襲で長く勤めたと書か

   れている。

ヒデ:ここから旧日光街道沿いに千住宿の昔を偲んで歩こう。今は宿場町通りと呼ばれている。先ず

   紹介するのは江戸中期に際物問屋として開業した「千住絵馬屋・吉田家」だ。今も8代目が現

   役で手書きの絵馬を描いている。目の病の願掛けをする「めやみ地蔵」に、ここの絵馬が掛け

   てあるよ。絵馬の特徴は極彩色の泥絵の具で家伝の図柄を描くというもので、特に吉田家は、

   家形の黒い枠のある「小絵馬」を得意としていたから、めやみ地蔵で実物を見よう!

   次は地すき紙問屋の「横山家住宅」だ。江戸時代後期の建造物で、宿場町だった千住の名残り

   を今に伝えている歴史的な建物だよ。地すき紙とは、使い古した紙をすき直した再生紙で、落

   し紙や着物の帯芯などに使われた。この再生紙の地すき紙を仕入れて、浅草紙の品名で日本橋

   で売っていたのだ。見ての通り、間口も奥行きも広く、蔵は4つあった。蔵の1つが現存してい

   て千住歴史プチプラスに移築されギャラリーとして利用されている。この横山家住宅には特徴が

   あって、左側が低くなっているだろう!これは自分を低くして、お客様を仰ぎ見る「おもてなし」

   の商人魂なのだ。そして、柱には幕末に上野戦争に敗れた彰義隊士が付けた刀傷が残されている。

   かなりの豪商で時代の流れを体感してきたのがわかるね。

ノブ:絵馬屋さんという商売が今も続いていることに驚くね。でも、祈願やお礼に絵馬を掛ける習慣は

   今も健在だから、必要とされる商売なんだね。

ヤス:地すき紙は、鼻紙や落とし紙などにも使われ、庶民の日常生活に欠かせないものであったから、

   江戸時代の川柳などにもよく出てくる。私は浅草紙と言われた方がピンとくるよ。

ヒデ:残念ながら時代を懐古できる建物はこの二つしかないんだ。これからは神社仏閣が多くなる。先

   ず紹介するのは江戸初期創建の「長円寺」だ。ご本尊は木造の薬師如来像。横山家からここまで

   は参道で敷石がしてあり、両脇にカラタチが植えられ、カラタチ寺とも呼ばれたそうだ。境内に

   は「四国四十八か所巡り」、「魚籃観音」そして、目病の方が奉納した吉田屋の千住絵馬が見ら

   れる「めやみ地蔵」がある。四十八ヶ所を巡礼してから吉田屋の千住絵馬を見ておこう。

ノブ:この巡礼の石碑群は明治元年に造られたそうだから、かなり古いものだね。

ヤス:これが千住絵馬だね。特に「めめ」と描かれた絵馬が面白い。「向かい目絵馬」というそうだね。

   目の病を「めめ」の絵馬で願掛けするということだね。

ヒデ:次は操業250年の名倉医院。「骨つぎ名倉」として、江戸中期、田沼意次の時代に開院している。

   江戸のみならず関東一円から一日300人~500人も患者を診たそうだ。時間のかかる重症患者のた

   めに、周辺には旅館があったそうだよ。すごいのは荒川の改修工事では名倉医院を避けるために、

   荒川の流れが曲げられたとも言われていることだ。医院の中には往時の建物も一部現存している

   けど、今日は中に入ることはできない。ここから塀越しに屋根を見て想像してね。

ノブ:長屋門は、徳川家の鷹狩時の休息所となった際に建て替えられたもので、重厚な門構えからは格

   式の高さがうかがえると書かれている。

ヤス:千住宿の中では最も有名な場所だったんじゃないのかな。

ヒデ:千住で一番古い寺がこの「安養院」だ。鎌倉時代の創建で、江戸時代には徳川将軍が鷹狩の際に

   休憩場所として利用していた。境内には、「カンカン地蔵」と呼ばれる地蔵があって、石で叩く

   と「カンカン」と音がすることからその名がついている。現在はかなりすり減っているけど、皆

   も体の悪い部分をカンカンやってください。並んでいるのは仲良し地蔵さんです。

ノブ:こりゃ!すり減ってるどころじゃないよ、えぐられているじゃないか。

ヤス:それだけ多くの人にカンカンされてきたということだね。

ヒデ:次は北千住を代表する高層ビル「学びピア21」だ。千住のお化け煙突と同じ高さがある。中に芭

   蕉像があるから紹介する。この芭蕉像は伊賀上野の俳聖殿とここの2体が作られたけど、向こうは

   年1回だけの公開なんだ。ここならいつでも見られる。奥の細道の出立の地だから、千住宿と芭蕉

   は切り離せないね。

ノブ:芭蕉は崇拝していた西行の、500回忌に当たる日に、門人の河合曾良と共に『奥の細道』の旅へと

   出発したんだと記憶している。

ヤス:芭蕉は最終的に600里(2400km)、日数にしておよそ150日間をかけて全行程をまわった。奥の細道

   は日本文学における紀行文の代表作だね。

ヒデ:ここは「千住本氷川神社」だ。1691年創建だが、明治43年(1910年)に荒川放水路建設のために

   移転してきた。境内には、千寿七福神の「大黒天」や、足立区ラジオ体操発祥の碑がある。毎年

   9月には例大祭が行われ、お神輿が練り歩くよ。

ノブ:千住七福神巡りは平成になって設定されたと書かれている。新しい七福神巡りだね。

ヤス:よく見て!千住じゃないよ、千寿七福神だよ。新しいからこだわりがあるんだね。

ヒデ:ここは「勝専寺」別名(赤門寺)だ。山門は江戸末期の建立で、本堂はインドのお寺を模して

   明治39年建立したコンクリート造・レンガ張り建築が特徴だ。本尊は阿弥陀如来。千住の名前

   の由来となった千手観音立像が祀られている。ここは閻魔大王座像が祀られ、毎年1月・7月

   の15日と16日に閻魔開きという行事があって縁日もが開かれている。そして除夜の鐘も鳴

   らしているよ。

ノブ:「閻魔さまに舌引っこ抜かれるよ!」子供のころに聞いたフレーズを思い出したな。

ヤス:写真があるけど、閻魔様の縁日は今もすごい賑わいだね。

ヒデ:ここが「不動院・慈眼寺」。江戸時代から隣り合わせだそうです。広い境内には緑が多く清々

   しい雰囲気が印象的だ。境内にはりっぱな「包丁塚」、「南北消防組記念碑」、千住宿旅籠屋

   一同が建立した遊女たちの「無縁塔」がある。関東最大級の岡場所だったから、悲しい話は尽

   きないね。旅籠や遊女たちの名前が書かれている。    

ノブ:千住宿は、日本橋から9km弱の場所だから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距

   離だったのだろうね。この寺は当時の「投げ込み寺」だったのがわかる。千住宿を語るとき、

   ここは外せない供養塔だね。

ヤス:包丁塚は大きくてりっぱだね。それだけ当時の魚料理人は魚に対する想いが深いんだな。これ

   は今の時代も変わっていないね。

ヒデ:この広場は「千住宿問屋場及び貫目改所跡」です。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に、人足

   と馬を提供することを義務づけられていた。問屋場とは、その人馬の手配をする場所。そして

   貫目改所とは荷物の重量を測り、次の草加宿までの運賃を決めるところです。どうやら並んで

   建っていたようだよ。

ノブ:貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までないそうだから、重い荷物を制限内と認めてもらえる

   よう、賄賂が飛び交ったのだろうね。

ヤス:賄賂は形が変わっても、今もって変わっていないだろうな。

ヒデ:ここは千住掃部宿跡です。千住宿の中で最も新しく開発された町で、掃部堤という堤防に沿っ

   て家並みができ、今でいうと高級住宅地の富裕層が集まっていたそうだ。

   次は「源長寺」です。本尊は阿弥陀如来。境内に千寿七福神の「寿老人」、「子育延命地蔵尊」

   が祀られ、「女行者心静法尼碑」がある。

ノブ:説明版に、三遊亭円朝が咽喉を痛めて声が出なくなったのを、大山阿夫利女行者心静法尼の法

   力によって全快したと書かれている。

ヤス:他にも石仏がとても多い寺だね。

ヒデ:千住仲町に来ました。ここに富士山を主題とした葛飾北斎の富岳三十六景の絵がある。千住近

   辺を題材に3つ描かれている内の1つだ。ここにある「隅田川関屋の里」はこの場所で描かれた

   といわれている。

ノブ:富岳三十六景とは、葛飾北斎が富士山を中心に描いた版画集で、人気が高かったために十図が

   追加されたんだよ。追加された十図は「裏不二」と呼ばれている。

ヤス:その中で千住宿近辺から3つも描かれていることはすごいね。

ヒデ:氷川神社(仲町氷川神社)に来ました。千寿七福神の「弁財天」を祀る神社。実は千住には氷川

   神社が5つもあるんだ。調べてみたら都内23区には約60社、この内この足立区には20社もあった。

   そして、どれもがその地の氏神様なっているね。新しい発見だったよ。

ノブ:関谷天満宮も祀られているね。どこの氷川神社も秋の例大祭は賑やかだから、ここも同じだろうね。

ヤス:今の境内は、広くはないが木々が良く繁り、落ち着いた空気感をたたえているね。

ヒデ:最後は「金蔵寺」だ。本尊は地蔵菩薩だったが、今は閻魔大王を本尊とする寺院だよ。ここでも、

   勝専寺と同じ月日に「地獄の鏡開き」という行事がある。境内には「天保の大飢饉の餓死者」の供

   養塔、そして、「千住宿遊女たち」の供養塔があって、ここも「投げ込み寺」だったことがわかる

   ね。千住宿には、本陣・脇本陣のほかに55軒の旅籠屋があり、そのうち、食亮旅籠(遊女屋)が

   36軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女

   は無縁仏同様に葬られた。その霊を慰めるための供養塔なんだね。

ノブ:近くに2つも閻魔大王が祀られているのが珍しいね。そして、両寺共に同じ月日に縁日や鏡開きの

   行事をしている。千住宿のころから賑やかだったのだろう。

ヤス:足立区のHPに千住七不思議という話がある。落語の題材にもなっているよ。話とは、「日光街道

   沿いのそば屋に毎日そばを食べに来る女の人がいて、「あのきれいな娘はどこの人?」と不思議に

   思ったそば屋があとをつけてみると娘は閻魔堂の中へ…。」それから、ここの閻魔様は「蕎麦閻魔」

   と呼ばれるそうだ。閻魔様に願いごとをかなえてもらったお礼には、お蕎麦をお供えするようにな

   ったという話が残されているよ。

ヤス:閻魔大王が娘に化けたということだね。

ヒデ:今日の案内はこれでお終いだ。歴史散歩としてはもっと深堀りをした内容にしたかったけど、こ

   の暑さでは仕方ない。今日を振り返ると神社仏閣が多かったな。それだけ、ここには神社仏閣以

   外には古いものが残されていないということだ。歴史散歩は終わるけど、北千住駅前の住宅地に

   は下町風情のあるユニークな一画があるから紹介してから散会としよう。キーワードは「路地」

   だよ。

ノブ:確かに宿場町通り以外は広い道がなかった。神社仏閣巡りも決して広い道ではなかったよね。千

   住宿と関係があるのかな。

ヤス:これから歩くのは住宅地と言ったね。千住宿と現在の住宅地は結び付かないね。

ヒデ:歩きながら説明しよう。この路地に入って行く。下町風情たっぷりな住宅地があるんだ。千住宿

   というのは街道に面した部分には家・店・人が密集していたけど、その裏に回ると一面は田んぼ

   だった。近世になってここに人が移り住むようになったとき、田んぼをつぶして宅地化したんだ。

   その区画割で田んぼのあぜ道が利用されているんだ。だから、この路地はあぜ道。だから路地が

   終わると又路地の繰り返しだ。あぜ道だから歩道は車がすれ違えない狭さで、くねくねしていて

   真っすぐな道がない。一区画が田んぼの広さだから小さい。当然、そこに家を建てれば庭の持て

   る家は建てられない。庭がないから、植木鉢の花だけで飾り立てられた家並みが密集している。

   これがここの特徴だよ。

ノブ:こうして歩いていると本当に路地又路地で、狭い土地に庭のない家が並んでいるね。ブロック塀

   の上や下に植木鉢が並んでいる。確かにユニークな町並みだ。

ヤス:目の前に4階建ての家が見えた。宅地に4階建ては見たことないな。ここでは許可されたんだね。

ヒデ:この路地にある名所を紹介する。一つは「喫茶 蔵」だ。北千住にある老舗のカフェで、約100

   年前の大正時代に建てられた質屋の蔵をリノベーションして作られた店で、東京メトロのCMで

   も話題になった。次は「仲町の家」。昭和初期の日本家屋で、美しい日本家屋と、緑あふれる庭

   が広がる情緒深い空間だよ。千住の文化サロンとして、さまざまな文化活動や交流の場になって

   いる。もう一つは、この橘井堂医院跡だ。陸軍軍医で明治の文豪・森鴎外の父が開業した医院だ。

   鴎外が父親とともに医療活動を行っていた場所だよ。森鴎外は東京大学医学部を卒業した後、千

   住に住み、この医院で父親とともに診察していたんだ。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に

   描かれている。森鴎外はドイツ留学からの帰国後もしばらくここで働いていたそうだ。

ノブ:鴎外はここで結婚して、文京区千駄木に移り住んだんだ。そこが現在、森鴎外記念館になってい

   るね。

ヤス:だけど、よくこんな路地裏を案内できる知識を持っているね。

ヒデ:実は千住をこよなく愛する「千住文化普及会」のガイドさんに、ここを案内してもらったんだ。

   今日話したことはその時に教えてもらったものさ。

ノブ・ヤス:納得!我々のためにガイドさんと下見をしていたんだね。ありがとうよ!

 

現在の北千住の街は老舗酒場や昼から開いている居酒屋なども多く、今でも吞兵衛には嬉しい町です。

そんな北千住も最近では大学誘致で、あっという間に3校ができて若者が多くなりました。機会があ

れば、北千住の街歩きにきてくださいね。

 

3人組は次回、どこの古道で歴史散歩をするのでしょうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 茨城味自慢:豊富な海藻で育... | トップ | 茨城味自慢:味はサザエ、食... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事