ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

南北朝時代の城跡に今年も彼岸花が咲いた

2017-10-02 08:04:52 | 日記






茨城県龍ヶ崎市には南北朝時代の攻防の歴史を語る史跡として「馴馬城跡」が茨城県指定史跡となっています。
だがこの史跡は残念ながら主郭跡が消滅しており、今では雑木林の中に空堀と土橋と言われる遺構だけがわず
かに面影を残すのみです。
そのため、この地に立っても往時に思いを馳せることは難しいのですが、今年も土橋を支える側面に彼岸花が
咲きました。私はこの時期になると散歩道として好んでここを通ります。お気に入りなのは土橋の側面に明る
い陽ざしを浴びて咲く、真っ赤なヒガンバナを見下ろしながら歩いていきますと、突然に城の入り口に繋がる
空堀状遺構と言われる、雑木林で覆われて一日中薄暗い細長い道に吸い込まれていくところです。この明と暗
の極端な変化は楽しめます。
今回、ここを歩きながら「そう言えば南北朝時代のことって知らないな」との思いがよぎりました。この時代
のことはなぜか最近のテレビや小説では話題になりませんね。日本の歴史の中ではそんなに影の薄い時代だっ
たのでしょうか?

<南北朝時代とは>

日本史の中では「鎌倉~室町~南北朝~応仁の乱~戦国」辺りの時代を中世史というのが一般的だと思います。
鎌倉時代の終わり頃(1246年)、天皇家は持明院統・大覚寺統という二つの系統に別れ、跡目争いを始めまし
た。大覚寺統の御醍醐天皇は皇位の保持と政治力奪回のため、鎌倉幕府打倒で挙兵します。
一度は敗れ幽閉された後醍醐天皇ですが、再度挙兵する機会を得ます。鎌倉幕府は足利尊氏に出動を命じます
が、尊氏は裏切って御醍醐天皇側について鎌倉幕府を倒してしまいます。戦いに勝利した尊氏は京都の室町に
室町幕府を開きます。
しかしながら、ここで御醍醐天皇との間に仲たがいが生じ、尊氏はなんと持明院統の光明天皇を即位させ、こ
ちらを正式な天皇だと言い張りました。
奈良の吉野に逃げた後醍醐天皇を南朝、そして尊氏の立てた京都の光明天皇を北朝といい、日本中の武士がそ
のどちらかに分かれて争いを続けました。
話はそこで終わりません。今度は室町幕府を掌握していた尊氏とその弟直義との間で争いが始まり,尊氏がこ
ともあろうに後醍醐没後の南朝後村上天皇を担ぎ出したことから南朝は再び息を吹き返します。
その南朝は後村上天皇が,これまた、あろうことか尊氏に反旗を翻し南朝の完全な回復をはかろうと画策しま
したが、結局は孫の足利義満の時代に抑えられ、ここに北朝を正式な朝廷とする形で南北朝が和解することに
なるのです。この南北朝の混乱はなんやかんやで約60年間続きました。これが南北朝時代です。
室町幕府は南北朝の並立を終息させた3代義満の時代が最も安定しました。義満は金閣寺を建立し、北山文化
を育みました。しかしながら、6代義教の時代になってその専制政治に多くの守護が危機感を抱き、その中の
一人赤松満祐に暗殺されてしまいます(嘉吉の乱)。
逆賊の赤松を追討する者もなく,ここに足利将軍の権威は失墜し、跡目相続から応仁の乱が勃発、その後戦国
時代に突入して、織田信長に追放された15代将軍義昭で室町幕府は終焉します。
義昭の時代まで室町幕府は約230年続きました。鎌倉幕府が約140年、徳川幕府が約260年ですから、室町幕
府の時代も長かったのです。 

<南北朝時代の城とは>

日本で戦いのための城が築かれるようになったのは、国内情勢が不安定になってきた平安時代後半からと言
われます。南北朝時代には後醍醐天皇側の南朝勢力が鎌倉幕府に対抗するために山城を築城していきます。
現在の大阪府にある楠木正成の「千早城」と「赤坂城」などが南北朝時代の遺構です。
当時の古代山城は急峻な山を利用し防御力の高い要塞としました。山が険しければ険しいほど防御力は増しま
すが、普段の生活の利便性は落ちていきます。時勢が落ち着いていくと、築城地の高度を下げていき平山城や
平城に変化していきます。

<龍ケ崎市にある馴馬城とはどんな城?>

歴史資料館のパンフレットによるとお城があったのは1300年代の頃の話で、現在はかつての姿をうかがい知
ることはできません。
馴馬城は、基本的には舌状台地の先端を掘切で区切るという当時の城の作り方をしていること。3ヵ所の曲輪
(くるわ)、虎口(こぐち)・空堀・土橋があることが記載されていました。現状は中心部が破壊されている
こともあって、一つ一つの遺構も明瞭ではありませんが、現存する部分を見るかぎり、南北朝の姿を留めてい
るといえると記載されています。
馴馬城は南北朝時代のかなり早い時期から南朝方の拠点として存在しており、城主は不明ですが小田氏(つく
ば市)東条氏(稲敷市)らと同じく南朝方の武士でした。この城は足利方により二度ほど攻略されていること
が分かっているそうです。ということは一度負けた南朝方が、再起して再びここに陣取ったが、再び敗れたと
いうことです。
そんなことがありましたが、その後の龍ケ崎の地ではこうした血なまぐさい戦場の舞台にはなっていないとの
ことです。

1. 曲輪:兵士を待機させたり、武器を備えて置く削平地のこと。多くの場合、土塁や、塀などで周囲を囲み、
      中の様子が分からなくなっています。郭ともいう。
2. 虎口:城郭や陣営などの最も要所にある出入り口。攻撃が集中するため、簡単には突破されないように
      小さな出入り口となっている。小口ともいう。
3. 空堀:水を引き込んでいない堀。中世の城の堀は大半が空堀でした。
4. 土橋:堀を横断する通路として設けられる土の堤。

<夏草や つわものどもが 夢のあと (松尾芭蕉)>

ここ数年、手入れが行き届かないため、ヒガンバナは雑草の中に埋もれており、昔の土橋の側面の美しさが
消えているのが残念ですが、それでも私の住む町にも「つわものどもが 夢のあと」の戦場がここにあったの
だということを再認識できたことは収穫でした。
こうして頭が整理された状態で、昨日ここを散歩していたら、何のためにここが茨城県指定史跡に指定されて
いるのか、理解に苦しむ保存環境であることに気が付きました。馴馬城跡がある場所はとても皮肉なことです
が、龍ケ崎市歴史民俗資料館の隣接地にあります。ここの駐車場に案内板があって、そこから城跡に行けるの
です。
歴史を大切にしている資料館の学芸員さんたちに言いたいです。小学生が遠足に来たくなる場所、大人たちが
この遺構に目を向けて歴史ツアーなどで行きたくなるような魅力的な場所にして頂けないでしょうかね。


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