街道を歩く

旧街道を中心に歩く旅日記。歩行距離は、2021年11月以降は活動量計の表示にしたがっています。

熊野街道(海南~湯浅)

2016年12月30日 10時02分00秒 | 街道を歩く
昨日、熊野街道を海南から湯浅まで歩きました。

JR海南駅から前回ゴール地点へ戻りスタート直後にある菩提房(ぼだいぼう)王子跡。
王子というのは熊野詣でをする人々の遙拝所または休憩所ですが、この王子は早いうちに失われたようです。



熊野古道と近世の熊野街道の合流点にある熊野一の鳥居跡。熊野古道と近世の熊野街道はルートが異なり、
この歩き旅では古道の方を歩いていて「熊野古道紀伊路」と呼称する方が正確なようですが、紀伊田辺までは「熊野街道」で統一します。



一の鳥居跡の近くにある祓戸(はらえど)王子跡。



鈴木姓のルーツとされる藤白の鈴木氏が住んでいた鈴木屋敷。
平安末期に上皇や法王の熊野詣でが盛んになった頃、 熊野の鈴木氏がこの地に移り住み案内役を務めたとのこと。



藤白王子跡である藤白神社の中にある藤白王子権現本堂。



孝徳天皇の皇子である有馬皇子(ありまのみこ、640-658)の墓。658年、中大兄皇子に騙されて謀反の疑いを掛けられた有馬皇子は、
白浜に行幸中の斉明天皇に謀反について釈明したあと、帰り道にこの墓のある藤白坂で中大兄皇子に絞殺されました。



藤白坂において距離を示すために設置された丁石地蔵。1丁(約109m)置きに17基の地蔵が設置されています。



藤白坂より、和歌山マリーナシティ、関電海南発電所、新日鉄住金和歌山製鉄所などを臨む。



道を阻むように置かれた硯石。硯石の近くに「筆捨松」があり、これは平安初期の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が
筆を松の根元に投げ捨てたという伝承に基づくもの。硯石は、この伝承にちなんで紀州徳川家初代藩主・頼宣(1602-71)が設置したもの。



この日一つ目の峠である藤白峠を越えてすぐのところにある地蔵峰寺本堂。室町中期の建立とされ、禅宗様式の建築技法によるもの。



藤白峠を下りたところにある橘本(きつもと)神社。神社内に所坂王子跡があります。



神社にある橘の木。祭神である田道間守(たじまもり)命が垂仁天皇の命を受けて常世(とこよ)の国(海外のこと)から
橘の木を持ち帰り、これがミカンの原種になったという伝説があります。



一壺(いちつぼ)王子がある山路王子神社。土俵があり、子供の健康を祈願して行う「泣き相撲」が秋に行われます。



二つ目の峠である拝の峠(はいのと)に向かう蕪坂(かぶらざか)を登る。



拝の峠を過ぎてしばらくしたところから紀伊水道を臨む。



海南市から有田市に入る。



さらに少し下ったところにある蕪坂王子跡。



弘法大師が爪で阿弥陀と地蔵を線刻したという伝承がある爪かき地蔵。



蕪坂を下って最初の王子である山口王子跡。ここで休憩中に、同じように街道を歩いている人に出会いミカンをもらいました。
街道沿いのミカン農家からもらったクズミカンとのことでしたが、甘くておいしいミカンでした。



JR紀伊宮原駅付近で踏切を渡ったあと、有田川を渡る。



糸我(いとが)稲荷神社。伏見稲荷よりも早く祀られた最古の稲荷神社という伝説があります。



糸我稲荷神社の近くにある道標。「すぐ熊の道」などと刻まれています(この「すぐ」は「まっすぐ」の意味)。



現在は糸我稲荷神社に合祀されている糸我王子跡。



三つ目の峠である糸我峠をすぎた直後、有田郡湯浅町を臨む。



街道沿いのミカン畑ではモノラック(荷物などを運ぶ簡易なモノレール)をよく見かけました。



湯浅町にある全国湯浅姓交流・親睦会本部。



同じく湯浅町にある、1838年建立の「すぐ熊野道」などと刻まれた道標。



JR湯浅駅近くの交差点。今回はここまでとしました。



湯浅駅より帰宅。

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熊野街道(布施屋~海南)

2016年12月28日 18時40分12秒 | 街道を歩く
熊野街道を布施屋から海南まで歩きました。

JR布施屋駅から前回のゴール地点まで戻りスタート。



歩き始めてしばらくしたところにある川端王子跡。地元の人が建てた小さな祠があります。



沿道より田園風景。



国指定重要文化財の旧中筋家住宅。大庄屋だった家で、1851年建設。



石碑のみが残る和佐王子跡。あずまやが建っているのでここで少し休憩。



矢田峠を登る。山道ですが、舗装された階段があります。



矢田峠を下る。



現在は平尾自治会館となっている平緒王子跡。



和歌山電鐵貴志川線(吉礼~伊太祈曽駅間)の踏切を渡る。



和歌山市内最後の王子社となる奈久智王子跡。



阪和道をくぐる。



武内神社。武内宿禰産湯の井戸があります。武内宿禰は第12代景行天皇から第16代仁徳天皇に仕えたとされる伝説上の人物で、
ここにある井戸が武内宿禰産湯の井戸であると1731年に考証されました。



阪和道に並行するように走る街道を南下します。



海南市に入ってすぐのところにある四つ石地蔵。



松坂王子跡。現在は祠のみがあります。



かつて、ここから海が見えたという汐見峠。今は見えません。



街道から少し東へ歩いたところにある春日神社。



春日神社の境内にある松代王子跡。ここも、祠のみがあります。



JR海南駅に近い「大野中」交差点。今日はここまでとしました。



海南駅より帰宅。

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西国街道(香登~岡山)

2016年12月25日 19時44分54秒 | 街道を歩く
昨日、西国街道を香登から岡山まで歩きました。

JR岡山駅からスタート地点へ向かう。銅像は旧制第六高校のバンカラ学生で、谷口淳一京都教育大学教授(2000年当時)による作品。



JR香登駅で下車。前日のゴール地点へ戻り、スタート。



備前市坂根分庁舎。上下水道を管轄する部署があります。



分庁舎を過ぎて新幹線の高架をくぐった直後に国道2号線に合流し、瀬戸内市に入ります。
2号線に入ってすぐのところにあるおさふねサービスエリア。
レストラン内にNゲージのジオラマがあり、本物とNゲージの新幹線を見ながら食事ができる店です。



備前大橋で吉井川を渡る。



橋のバルコニーには、備前焼作家・高原敏氏による備前焼陶板が埋め込まれています。



橋を渡ると岡山市に入ります。



しばらく川沿いの2号線を歩いたあと、「一日市」交差点で国道を外れ、旧道へ入ります。
国道を分かれた直後にある常夜燈。「文政四辛巳八月廿五日」と刻まれています。
文政4年は1821年です。年月日が明記されている常夜燈はあまり見たことがありません(大抵は年月まで)。



上道(じょうとう)に入ります。山陽本線を踏切で渡ったあと、国道250号線と山陽本線に挟まれた湿地を臨む。



上道を進む。



藤井にある総社八幡宮。入り口にある藤井宿の案内板によると、宇喜多秀家(1572-1655)による山陽道(西国街道)の付け替えにより
この辺りが宿駅となり、岡山城下町に最も近い宿場町であったことから旅籠などが整備されたいへん賑わったとのこと。



総社八幡宮より藤井の町並みを臨む。



総社八幡宮からしばらく歩いたところにある素戔鳴(すさのお)神社。神社の右手にある道は「新往来」と言います。
尊王攘夷派の志士や浪士の往来に神経を尖らせていた備前藩は、1864年の第一次長州征伐(幕長戦争)の際に、
諸藩の藩士が岡山城下を通過するのを避けるため、街道を北側に迂回するルートをつくりました。
その迂回ルートがこの新往来です。元治元年(1864年)7月25日より供用開始。



JR東岡山駅近くにある長岡郵便局の脇に立つ道標。「長岡駅 西大寺観音道」「岡山玉島 神戸大坂京道」と刻まれています。



しばらく国道250号線に並行するように進み、原尾島橋で百間川を渡る。
原尾島橋ができる前は少し下流に小橋があり、これが西国街道でしたが今はないので少し上流へ移動します。



橋を渡り対岸へ移動。百間川は、岡山城の脇を通り天然の堀となっている旭川の氾濫を避けるために池田光政が築造したもの。



堤防を下りて、再び街道を歩く。



街道沿いにある岡山東年金事務所。



年金事務所からしばらく歩いたところにある惣門跡の看板。
1573年、宇喜多直家(1529-82)が岡山城下町の入り口として惣門番所を設けた跡とのことです。



岡電中納言停留場。物理的なホームはなく、枠標示のみがあります(緑の部分)。ここからしばらく西へ進みます。



中橋で旭川を渡り、岡山県庁を臨む。



京橋のたもとにある迷い子しるべ石。迷子を探す人、見つけた人の連絡場所として使われたそうです。



橋を渡ったあともさらに西進し、西大寺町商店街に入ります。



アーケード街の中で右折して北進します。アーケード街は、西大寺町商店街も含め、岡山表町商店街と総称されます。



アーケードを抜けて岡電城下停留場のあるところに出たあと、桃太郎大通りを西進する。



柳川筋の一本左の道を北進したところにある金刀比羅神社。西国大名が参勤交代で江戸へ向かう際に拝礼して通過したとのこと。
宇喜多直家の岡山入城(1573年)によって創建され、藩主が池田家に移ってから歴代の崇敬厚かった神社です。



後楽園通りで左折し、西川を渡る。



新幹線と山陽本線をくぐる手前の交差点。今回はここまでとしました。



岡山駅西口バスセンター。



バスセンターより、京阪京都交通の高速バス「京都エクスプレス」で帰宅。

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西国街道(三石~香登)

2016年12月25日 14時36分38秒 | 街道を歩く
一昨日、西国街道を三石から香登(かがと)まで歩きました。

JR三石駅から前回到達点へ向かいます。



山陽道の道標があるこの地点からスタート。



三石は耐火レンガの生産地で、沿道にはレンガ工場がいくつかありました。



三石明(みついしみょう)神社。懐妊中の神功皇后が立ち寄ったという伝説があり、子宝に恵まれたい夫婦が参詣するとのこと。



真言宗の日光山光明寺。西国行幸の際に明治天皇の宿泊所になったことがあり、「明治天皇三石行在所」という石碑が建っています。



レンガ造りのトンネルで山陽本線をくぐる。



トンネルを抜けた国道2号線に合流。



国道沿いの三石弟坂にある清水地蔵。ここから湧き出る清水が旅人の喉を潤したそうです。しばらく上り坂を進みます。



坂を下り、備前IC付近で山陽自動車道をくぐる手前にも地蔵が2基建っています。



祠と道標。道標には「閑谷神社」「従是丗壱丁十四間」と刻まれています。閑谷神社は閑谷学校の中にあります。
閑谷学校は、岡山藩主池田光政(1609-82)が1673年に開設した日本最古の庶民学校で、道標から約4km北方にあります。



備前片上駅近くにある天神宮。



天神宮を過ぎると国道を歩道橋で渡ります。すぐに、赤穂線を踏切で渡る。



法鏡寺。直木賞作家・藤原審爾(ふじわらしんじ、1921-84)の住居跡とのこと。



旧片上宿にある宇佐八幡宮。狛犬は備前焼で、左手にも吽形の狛犬が建っています。



片上脇本陣跡。かつて「アルファビゼン」という店があったようですが、閉業しています。



片上と伊部(いんべ)を結ぶ葛坂(くずさか)。
画家の司馬江漢(1747-1818)が、日記に「この路せばき小路にして激しく往来……」と書いているとのこと。



葛坂峠お夏茶屋跡。井原西鶴(1642-93)の『好色五人女』に登場するお夏の茶屋があった場所です。
お夏は天性の美貌で知られ、その評判で店は随分はやったとのこと。



葛坂峠を越えたあと、片上トンネルを抜けた国道の脇から合流し、すぐに国道を離れる。



備前焼の町・伊部を進みます。街道沿いには、しばらく備前焼の店や工房が続きます。



伊部にある天津(あまつ)神社。この神社の狛犬も備前焼です。



旧東京駅の赤レンガを製造した品川ファインセラミックス本社。三石から伊部にかけては、焼き物の企業が目立ちます。



大ケ池(おおがいけ)の中を進む山陽新幹線。



大ケ池の縁を進む。



境内に香登一里塚がある大内(おおち)神社。本殿は1703年(元禄16年)建築で、神社自体はそれ以前から存在していたようです。



香登にある石長姫(いわながひめ)神社。手前の常夜燈は、石の自然な形を生かしたものになっています。
今回は、この神社付近までとしました。



JR香登駅より、宿泊先の岡山へ向かいます。



岡山でこのマンションを訪れました。1998年2月28日に掃除のために伺って以来となります。

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若狭街道(上中~小浜)

2016年12月18日 06時03分41秒 | 街道を歩く
昨日、若狭街道を上中から小浜まで歩きました。

JR上中駅よりスタート地点へ向かいます。



上中駅から少し南下したところにあるこの地点よりスタート。



715年に紀ノ国より勧請されて創建された熊野神社。
祭神の櫛御気命(くしみけのみこと)は「水の神」「田の神」であり、農耕守護の信仰があります。



若狭町井ノ口にある町立三宅小学校。



6世紀初めにつくられた十善の森古墳。全長68mの前方後円墳で、後円部と前方部にそれぞれ異なる形態の横穴式石室があります。



旧道より国道27号線を臨む。



北へ向かい、小浜線を越える。



北川を渡る。



南へ向かい、再び小浜線を越える。



松並木のある道を進む。



6世紀中頃につくられた下船塚古墳。全長85mで、若狭の王墓としては最後の前方後円墳です。



小浜市に入ります。松永小学校発祥の地。1873年、この栄松寺を借りて松永地区の公立小学校・啓心校が発足しました。



国道27号線を臨みつつ遠敷(おにゅう)川を渡る。



遠敷地区にある、721年創建の若狭姫神社。安産・育児の神徳があるとのこと。
安産の神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、育児の神は豊玉姫の妹・玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。



舞鶴若狭道を小浜IC付近でくぐる。



南川を湯岡橋で渡る。



小浜駅付近で小浜線を踏切で渡る。



テレビ小説『ちりとてちん』のロケが行われたいづみ町商店街に入ります。



商店街のアーケードの床にある「さば街道 起点」とある碑。



碑の少し手前に「おいでやす鯖街道 ここが起点」とある看板がつり下がっていたので、ここをゴールとしました。
1歩60cm換算でもグーグルマップでも12.8kmでした。
若狭街道全体としては、1歩60cm換算で80.0km、グーグルマップでは76.8kmでした。



「ここが起点」の看板のある位置にある鯖街道資料館。
「小浜ではよく『京は遠ても十八里』と呼ばれ、その『遠ても』と言う言葉には『京が近い』と言う思いが込められています」とのこと。



先週立ち寄った出町商店街の陶板にも「京は遠ても十八里」が書かれていました。



JR小浜駅へ向かう途中にある小浜市役所。



杉田玄白の銅像がある杉田玄白記念公立小浜病院。杉田玄白は牛込矢来の小浜藩邸で生まれ、幼少期を小浜で過ごしました。



小浜駅より帰宅。



おみやげに買った鯖寿司。



帰りに、阪神百貨店で開催中の司馬遼太郎展に立ち寄りました。
街道歩きの行き帰りでは『街道をゆく』シリーズを読んでいることが多いです。
右上は昨日読んでいた「本所深川散歩、神田界隈」の巻。



若狭街道のルート。

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加茂街道

2016年12月09日 22時39分17秒 | 街道を歩く
加茂街道を葵橋西詰から十三石橋西詰まで歩きました。
また、去年12月9日に西国街道を歩き始めてから1年たったのを機に、ブログのタイトルを改めました。

加茂街道を歩く前に、スタート地点の近くにある出町商店街に寄りました。



商店街の石畳に埋め込まれた鯖街道の陶板。



奥に見えるファミリーマートが、若狭街道(鯖街道)のスタート地点でした。



鴨川(賀茂川)西岸の堤防上を走る加茂街道のスタート地点である葵橋西詰。



街道を北上します。鞍馬街道のスタート地点である出雲路橋西詰付近より。夏に鞍馬寺まで歩きましたが、ゴールは小浜であることを最近知りました。



北大路橋西詰を通過。



松並木が続きます。



北山大橋の近くにはまだ紅葉が残っていました。



上賀茂橋を過ぎた加茂川中学校のあたりでは、並木が道路の中央に植わっている箇所があります。



1591年より、外敵の襲来に備えて川または堀の近くに豊臣秀吉が築いた御土居の跡。これによって、洛中と洛外が分かれました。
江戸時代になると、堤防として使われていた物以外は無用となり壊されたため、現在は北辺を中心に一部が残存しています。



上賀茂神社近くの御薗橋西詰。御薗橋は拡幅工事中で、4年後には現在の倍以上の道幅になります。



志久呂橋西詰。ここから道幅が狭くなり、ここまで西岸を走っていた府道38号線は東岸へ移ります。



北山から鴨川へ流れ出る土砂を抑制するために1941年に完成した砂防ダム、柊野堰堤(ひいらぎのえんてい)。



柊野堰堤近くの広場にあるあずまや。



東岸の京都産業大学グラウンドを臨む。



府道38号線が西岸に戻り合流。



十三石橋西詰で、雲ヶ畑へ向かう府道61号線と市原へ向かう38号線に分かれます。ここをゴールとしました。
11073歩、1歩60cm換算で6.6km、グーグルマップでは7.0kmでした。



叡電市原駅より帰宅。駅へ向かう途中にあった川島テキスタイルスクール。うろ覚えですが、納品でここに来たことがあるような気がします。



今回のルート。

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若狭街道(朽木~上中)

2016年12月04日 12時51分21秒 | 街道を歩く
昨日、若狭街道を朽木から上中まで歩きました。

JR安曇川駅から江若バスで朽木へ向かいます。



朽木学校前停留所。写っているのは乗ったのとは別のバスです。



「学校前」交差点よりスタート。



朽木宿に入ります。丸八百貨店。元は個人商店でしたが、閉店して現在は観光案内所になっています。



城下町でもある朽木宿の街並み。



「えべっさん」と呼ばれ、朽木市庭(いちば)の守り神として崇敬されている蛭子神社。



ヴォーリズ設計とされる旧朽木郵便局舎。1938年建築。ポストは現役です。



織田信長の休憩地であった「圓満堂(えんまんどう)」跡地。
1570年の朝倉義景討伐に失敗して逃れてきた信長を地元領主・朽木元綱がもてなした建物がありました。



朽木宿を離れて国道367号線を進みます。367号線沿いにある信長の隠れ岩。
朝倉攻め失敗により、朽木越えで敦賀から京へ撤退していることを知った朽木元綱が信長を迎えようとしましたが、
甲冑姿の元綱に驚いた信長が松永久秀らに元綱の真意を確認させている間隠れていた岩です。



両側に高島市立朽木中学校学校林がある道を登る。伐採した1700本のスギは小中学校の体育館づくりに活用されているとのこと。



峠が朽木と今津の境目になっています。



しばらく下っていったところにある、宝昌寺の六地蔵。



今津・小浜・朽木の結節点となる今津町保坂。かつては関が置かれ、戦国時代は関の権益をめぐって争奪戦が展開された地でした。



保坂から北上して水坂峠を越える。



水坂トンネルを越えたあとの国道303号線に合流する。



303号線沿いにある八幡神社。



国道と旧道(左側)の間の斜面にある八幡神社の参道のような階段を降りて、旧道を進む。



303号線に合流して、消雪のための路面散水施設設置工事中の道を進む。



寒風(さむかぜ)トンネル。街道はトンネル左手にある道ですが、廃道であり立ち入らないようにとの看板があります。



少し立ち入ってみたところ、道路が崩落していました。あきらめてトンネルを進みます。



高島市今津から福井県若狭町に入ります。このあたりから熊川(くまがわ)宿に入ります。



道の駅若狭熊川宿にある鯖街道ミュージアム。小浜市と若狭町が「日本遺産」として申請した「御食国(みけつくに)若狭と鯖街道」が、
文化庁に去年認定されたことなど、鯖街道に関する地理と歴史がパネルを中心に展示されています。



熊川陣屋跡と熊川宿の街並み。



熊川地区の氏神である白石神社。毎年5月3日にある祭礼では祇園祭を模した見送幕を掛けた山車が巡行するとのこと。



熊川宿をすぎると国道を外れて田畑の続く道を進みます。



若狭町三宅地区の産土神である信主神社。



今回はJR上中駅近くの交差点までとしました。駅の反対方向に新道が建設中です。



JR上中駅より帰宅。敦賀から京都まで、街道歩きの行き帰りでは初めて特急(サンダーバード)に乗りました。
今回で、街道を歩き始めて1019.5kmとなり(1歩60cmとして。65cmは長すぎたため変更)、1000kmを超えました。

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