以下、引用はすべて『司馬遼太郎が考えたこと 12 エッセイ 1983.6~1985.1』(新潮文庫)より。
今年は、作家司馬遼太郎(1923~1996)の生誕100周年です。
その司馬さんの作品に、1983年(昭和58年)6月5日発行の『週刊朝日』増刊号に掲載の「北海道、志の場所」というものがあります。
この作品は口述によるもので、司馬さんが小説『胡蝶の夢』で取り上げた関寛斎(1830~1912)が出てきます。
関寛斎は今の千葉県東金市で農家の子として生まれ、のち佐倉の順天堂で佐藤泰然(1804~1872)から蘭医学を学び銚子で蘭方医として開業。その後、長崎に留学してポンペ(1829~1908)から最新の医学を学び、徳島藩蜂須賀家典医となります。
1902年、72歳で徳島から北海道へ移住し、陸別町の開拓事業に全財産を投入し、1912年に82歳で自殺します。
司馬さんは「北海道は、かれにとって志の場所だったのです」と言います。
また、寛斎の知り合いであった徳冨蘆花(1868~1927)は「いくらでもこの人は出世できたのに、北海道の一老百姓になっているということにロマンを感じた」と言います。
ほかにも、「日本人が持っていたロマンティックなヒューマニズムは、いまは枯骨になっていますけれども、北海道の伝統といえるでしょう」
「北海道には、日本人が志を持ったり理想主義を抱いたりするときの一番いいエッセンスが行ったという時期が、ずいぶん長くつづいた」
という発言が出てきます。
寛斎が北海道へ行った理由として、江戸後期の知識人は蝦夷地に通じていなければ二流であった、幕末になるといよいよそうなった、ということがあると言います。
そして、「そういう伝統がありまして、寛斎が行ったのは志だけなんです」と言います。
開拓時代の北海道はアメリカでいえば西部のようなものだから、内地で食い詰めて北海道へ渡った人もいたでしょう。
一方で、寛斎のように、北海道を志の場所と位置づけて移住した人もいた。
そのような人にとって、北海道は、日本人の志や理想を実現する場所と捉えられていたのだと思います。
また「(北海道は)東京を睥睨してもいいんです。そういうことがなければ、おもしろくない」という発言も出てきますが、これは、司馬さんが生涯大阪に住み続けた事実と無縁ではないだろうと思います。
一方で「(北海道は)本来のんきなところであるべきだと思います。北海道をきれいで生産的で豊かなところにするのには、のんきさとか陽気さとか、つまりオプティミズムみたいなものが必要です。北海道人は本来オプティミストなんです」とも言います。
内地の人間と北海道人の特質を掛け合わせて北海道独自の文化が生まれることを司馬さんは期待していたのではないかな、という気がします。