街道を歩く

旧街道を中心に歩く旅日記。歩行距離は、2021年11月以降は活動量計の表示にしたがっています。

若狭街道(途中~朽木)

2016年11月27日 13時39分29秒 | 街道を歩く
昨日、若狭街道を途中から朽木まで歩きました。

京阪出町柳駅から京都バスで途中停留所へ向かう前に、鴨川(賀茂川)を渡る手前にある「鯖街道口 従是洛中」とある石碑に寄っておく。



途中停留所でバスを降りる。



前回の到達地点に戻りスタート。



国道367号線に合流して曲がりくねった道を登る。



国道を外れて花折(はなおれ)峠道に入る。



花折峠道より国道を臨む。



花折峠。



峠をすぎてしばらくしたところにある崩落した道路。



峠道から国道に戻る。



途中から朽木にかけての沿道では、屋根の上部に家紋などを描いた合掌造りの民家をよく見かけました。
茅葺きの上にトタンをかぶせたり瓦に葺き替えられていることが多く、茅葺きの屋根は見かけませんでした。



国道を外れて、牛の鼻トンネルの入り口付近で国道の下をくぐる。



国道をくぐった直後の道は修復中のため通行止めになっていました。



坂下トンネルの入り口付近で再び国道の下をくぐる。



雲光山常光院。寺院なので、民家なら家紋などが入る場所に卍が描かれています。



葛川(かつらがわ)中村町にある「よのみの木」。エノキのことをこの地域では「よのみ」と呼ぶそうで、樹齢は推定約300年。
367号線改築工事の際に、近くにある中村橋付近からこの場所に移植されました。



葛川坊村町にある地主神社。隣にある明王院の鎮守社で、859年相応(そうおう)和尚の創立と伝えられる。



葛川明王院。地主神社と同年に相応が開基。天台回峰行者の修験道場です。



葛川貫井町にある二之宮神社。この集落で最も古い神社だそうです。



大津市から高島市へ入ります。



堀場製作所朽木研修センター。



安曇川を渡る。



朽木岩瀬にある志子淵(しこぶち)神社。安曇川流域で信仰されている「しこぶち神」を祀る神社の1つ。
かつて安曇川で木材輸送などのために筏流しが盛んだった頃、その安全を見守っていた神様が「しこぶちさん」でした。
しこぶち神を祀る神社は安曇川流域の高島市・大津市・左京区久多地区に7社点在し、「七シコブチ」と総称されます。



道の駅くつき新本陣がある「学校前」交差点。今回はここまでとしました。



交差点に接する朽木学校前停留所から江若バスでJR安曇川駅へ向かいます。



安曇川駅より帰宅。

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山陰街道(亀岡~園部)

2016年11月23日 20時47分08秒 | 街道を歩く
山陰街道を亀岡から園部まで歩きました。

JR亀岡駅からスタート地点へ。今日は福知山マラソン開催のため京都駅から臨時快速が出ており、それに乗りました。



前回到達地点よりスタート。



スタート地点のすぐ近くにある子安地蔵尊の石碑。安産祈願のため子安地蔵に参詣する人が通ったことからこの辺りは「産寧坂」と呼ばれ、
それが転じて「三年坂」と呼ばれるようになりました。



亀山藩の銀の取引所である「銀札会所」跡地。現在は歯科医院です。



石門(せきもん)心学の開祖である石田梅岩(1685-1744)の生誕地。
石門心学とは一種の道徳で、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」
という立場をとったため、商人の支持を集めました。



伊達神社。『延喜式』にも記述のある古社ですが、1747年の大堰川(桂川)の氾濫により流失し、記録類も失われました。
現在の本殿には「寛政元酉年再建」と刻銘されているため、1789年の造営と思われます。



JRの前川橋梁に並行する橋で犬飼川を渡る。



街道から参道がある大井神社。JR並河駅の近くにあります。今日は正午より新嘗祭が行われるとの看板が立っていました。
祭神である月読命(つくよみのみこと)らが亀の背に乗って松尾大社より大堰川(桂川)を北上したが、保津の急流で進めなくなったので、
鯉に乗り換えてこの地に上陸して鎮座したという伝承があるため、氏子は鯉を食べず、鯉のぼりもあげない風習が続いています。



亀岡市立千代川小学校の校門にある旧亀山城内新御殿門。丹波亀山城内三の丸にあった新御殿から移築したものです。



千代川小学校からしばらく歩いたところにある、「右 あたごみち」などと刻まれた道標。



しばらく山陰本線(嵯峨野線)と並走する。



国道9号線に合流して南丹市に入ります。



桂川沿いを歩く。



鳥羽宿に入ります。鳥羽宿は宝永年間(1704~11年)の大堰川(桂川)の氾濫により山陰街道が付け替えられてできた宿場です。
最盛期には旅籠を含めて70軒の店がありましたが、1899年の京都鉄道(現在の嵯峨野線部分)の開通により寂れました。
写真は吉富ノ庄(旧吉富小学校)。去年3月廃校となり、現在はイベントスペースとして使われているようです。



鳥羽宿にて、犬矢来のある家屋。



京都縦貫道・八木西IC付近にて、京都縦貫道をくぐる。



いったん9号線に合流したあと、JR園部駅付近で再び9号線から分かれる。



今日は園部駅近くのこの交差点までとしました。



園部駅より帰宅。

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若狭街道(出町柳~途中)

2016年11月20日 20時24分29秒 | 街道を歩く
日本海側から京都へ鯖などの海産物を運ぶルートだったことから「鯖街道」とも呼ばれる若狭街道を出町柳から途中まで歩きました。

京阪出町柳駅を降りてしばらく北西へ歩き、河原町通沿いにあるこの地点からスタート。



歩き始めてすぐのところにある、「出町の弁天さん」と呼ばれ本尊が弁財天のお寺・妙音堂。



賀茂川と高野川が合流して鴨川となる鴨川デルタより、今出川通に架かる賀茂大橋を臨む。



京阪・叡山電鉄出町柳駅。高野川沿いを歩きます。



カナート洛北。



北山通より高野川を臨む。



「花園橋」交差点で高野川沿いに進み、叡山電鉄のガードをくぐる。



高野川沿いを走る府道367号線を進む。



上高野にある、藤原種継暗殺事件に連座して配流される途中に憤死した早良親王(750?-785)を祀る崇道神社。



八瀬にある九頭竜大社。祭神は九頭竜弁財天大神(くずりゅうべんざいてんおおがみ)です。



沿道より高野川を臨む。



大原にある土井しば漬け本舗の本店。



大原にある道標。「みぎハ大原途中□/ひだりハ京みち」とあります。



男ひとり、京都大原三千院。入り口にて。



さらに大原を北上。日蓮宗の大黒山北寺(だいこくさんきたでら)。



途中トンネルの手前で大津市に入ります。若狭街道はトンネルに入らず、府道367号線の脇の道(左)を進みます。



途中着。今日はここまでとしました。



近くにある旧途中郵便局。



途中から堅田まで歩きました。伊香立途中にある還来(もどろき)神社。祭神は、桓武天皇の皇妃・藤原旅子です。



JR堅田駅より帰宅。

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紀州街道(石津川~鶴原)

2016年11月05日 19時54分57秒 | 街道を歩く
紀州街道を石津川から泉佐野市鶴原まで歩きました。

南海石津川駅からスタート地点へ向かう前に、駅から歩いて行ける距離にある堺西年金事務所に立ち寄る。



前回到達地点よりスタート。



石津太(いわつた)神社の鳥居。日本最古の戎社を称しています。
かつてはこの辺りは浜辺で、主祭神であるヒルコ(蛭子命)がこの地に漂着したということになっています。



石津川を渡る。



南朝方の公家であり武将でもあった北畠顕家(1318-38)最期の地。「石津の戦い」で高師直に敗れ、戦死しました。



浜寺公園の松。万葉時代から白砂青松の地として詠われており、現在も松5000本を超える松林があります。



阪堺電軌浜寺駅前停留場。



高石市に入ります。高石神社。神社の説明看板では「たかしのじんじゃ」、高石市の説明看板では「たかいしじんじゃ」となっています。
この近辺が高師浜(たかしのはま)なので、「たかし」という音が先にあって、「高石」の文字が当てられたあと
「たかいし」とも読むようになったのではないかと思われます。高師浜も、『万葉集』などに詠われた名所です。



高石神社からしばらく歩いたところにある、店の軒先にぶら下がった提灯。



堺泉北有料道路をくぐる。



泉大津市に入ります。地蔵堂と供養塔、名号碑で構成される助松村境石造物群(泉大津ふるさと文化遺産)。



大津神社。左端に見えるのは桃をかたどったもので、「陰陽五行厄除桃方位盤」というものです。
桃は陰陽道で魔除け厄除けの果実とされているそうです。



大津神社からしばらく歩いたところにある商店街。商店街に定休日があるというのも珍しいですが、
定休日が日曜日というのもまた珍しいのではないかと思います。



大津川の手前にある、毛布を製造するニシダシンの工場。国産毛布の98%は泉大津市とその近隣で生産されているそうです。



大津川を渡る。



忠岡町を過ぎて岸和田市に入ります。弥栄(やえい)神社。境内に3台分のだんじり小屋があります。



並松町にあるレンガのモニュメント。×マークはセントアンドリュークロスを表しており、×マークが入っているのはこのレンガを製造した
岸和田煉瓦(後に岸煉)を創業した元岸和田藩士・山岡尹方(ただかた、1840-1915)がクリスチャンであったためです。
岸和田煉瓦の製造したレンガは琵琶湖疏水や同志社大学などにも使われています。



並松町にあるだんじり小屋。



岸和田市中心部に入ります。旧岸和田貯蓄銀行(1921年竣工)。後に岸和田中央会館となり、現在は地元の商業協同組合の事務所。



旧四十三銀行岸和田支店(1920年竣工)。現在も金融機関として営業しており、ほぼ建築当時のまま利用されています。



岸和田城の城下町に入ります。岸和田市役所近くにある道標。



真宗大谷派の円成寺(えんじょうじ)。城下町において町家と一体となった景観を構成しています。



紀州街道本町一里塚跡。紀州街道においては、高麗橋を起点として一里ごとに塚が築造されていたとのこと。



地蔵堂としては日本最大級の建物である蛸地蔵天性寺(てんしょうじ)。
蛸絵馬を奉納し、タコを食べるのを我慢する蛸断ち祈願をする人がいるそうです。



泉佐野市に入り、第二阪和国道の「鶴原南」「大藪池」交差点近くにあるこの交差点で熊野街道に合流します。
ここを紀州街道のゴールとしました。街道全体で63919歩、グーグルマップによれば36.3kmでした。



南海井原里駅より帰宅。



紀州街道の歩行ルートです。


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山陰街道(丹波口~亀岡)

2016年11月03日 22時21分40秒 | 街道を歩く
50回目の街道歩きです。山陰街道を丹波口から亀岡まで歩きました。

JR丹波口駅から約700m南下した七条通と千本通が交差する山陰本線ガード付近からスタート。
ゴールは、西国街道と合流する小郡となります。



七条通を西に進みます。新千本通をすぎてすぐのところにある松尾神社朱雀御旅所。



七条通をさらに西進。葛野大路通を過ぎてから南西に曲がり、天神川通を渡る。
越えたところにあるのは、かつては日本電産本社だった日本電産リード本社。



天神川を過ぎると、七条通はさらに大きく左にカーブしながら南下します。その途中にある愛宕山常夜燈と旧家の風情がある家。



七条通は桂大橋の手前で八条通に合流します。桂大橋より、桂川を北方向に臨む。



桂離宮を過ぎてしばらくしたところにある桂地蔵(地蔵寺)。京都六地蔵巡りの霊場。
都の安泰を祈るために、洛内に通じる6街道の入り口の1つにあたる桂に平清盛が1157年に創建したと伝えられます。



本願寺西山別院。元は800年頃に最澄が創建した「久遠寺」という寺でしたが荒廃し、鎌倉時代以降は本願寺となりました。



西山別院を過ぎてすぐに桂駅付近の踏切を渡る。



物集女街道のゴールだった「樫原」交差点。左手に見える「蔵之助」というパスタ屋の隣に年貢米の保管倉庫だった郷倉(ごうぐら)が残っています。



左に見える石碑は樫原札の辻三士殉難の地にあります。禁門の変で長州方に属していた3人の兵士が小浜藩兵に討たれた場所です。
今回は右側の舗装された道を通りましたが、石碑の後方にある山道がより古い山陰街道のようでした。



江戸時代には交通の要衝として本陣や旅宿があった樫原で9号線を横切ったあと、パチンコ屋の駐車場の中にある坂道を登っていきます。



大枝中山にある三ノ宮神社の脇の道を進んだところにある淳和天皇御母陵(贈皇太后旅子宇波多陵)。宇波多(うわた)とは大枝の古名です。
淳和天皇の母であり、桓武天皇の夫人である藤原旅子(ふじわらのたびこ、759-788)の陵墓です。



大枝塚原にある児子(ちご)神社。聖徳太子の幼児の像が祀られていることが由来とされています。



児子神社の入り口にあるクスノキ。「区民誇りの木」という説明がついています。
今年で西京区発足40年になり私も足かけ40年住んでいますが、初めて知りました。



桂坂の入り口を過ぎてしばらくしたところにある、丹波街道のスタート地点だった「山陰街道沓掛」交差点。



沓掛町の氏神である大枝神社。氏神である高美計(たかみけ)神はこの地の先住民である大枝氏の祭祀神と言われています。



桓武天皇御母御陵(光仁天皇夫人贈太皇太后天高知日之姫尊<あまたかしらすひのひめのみこと>大枝陵)。
光仁天皇の夫人であり桓武天皇の母である高野新笠(たかののにいがさ、720頃-790)の陵墓です。



9号線に合流してすぐに京都霊園の私道に入り、この分かれ道でチェーンで塞がれている右側の道を進みます。



舗道がここで終わり、左手の山道を進みます。



山道を登る。



老ノ坂峠と思われる場所。明智光秀が丹波亀山城から本能寺へ向かう際に通った峠です。



老ノ坂峠を越えたところにある首塚大明神。源頼光らが征伐した酒呑童子の首を京都へ持ち帰る途中、老ノ坂で持ち上がらなくなったので、
この場所に首を埋めて首塚をつくったという伝説があります。



「従是東山城國」とある石碑。今回は西に進んでいるので丹波国へ入ることになります。



新老ノ坂トンネルを出てすぐの京都縦貫道の上り線と下り線に挟まれた道を進む。



老ノ坂峠を過ぎて9号線を横切り、府道402号線に入ります。府道沿いにある王子神社(篠町王子)。
鎌倉時代に熊野信仰によって熊野若一王寺(くまのじゃくいちおうじ)を勧請しこの辺りを「王子」と呼ぶようになったとのこと。



402号線沿いに常夜燈がある篠村八幡宮。1333年、足利尊氏はここで戦勝祈願して六波羅探題を滅ぼし、結果として鎌倉幕府は滅亡しました。
さらに1336年、後醍醐天皇と決別後に一度は後醍醐方に破れ、ここで敗残兵を集めて再起を祈願し、湊川の合戦で勝利して室町幕府を開くことになりました。
これらの史実により、境内全域が「足利尊氏旗揚げの地」として亀岡市の史跡に指定されています。



亀岡市中心部に入ります。亀岡祭山鉾の1つ「羽衣山」が収納されている蔵。
三保の松原に舞い降りた天女の伝説を題材とする謡曲『羽衣』に由来するものです。



亀山城の城下町にあった本陣跡。現在は病院と介護施設になっています。



亀岡駅が近くなってきたので、今日はここまでとしました。



JR亀岡駅より帰宅。

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