街道を歩く

旧街道を中心に歩く旅日記。歩行距離は、2021年11月以降は活動量計の表示にしたがっています。

紀州街道(高麗橋~石津川)

2016年10月29日 22時44分46秒 | 街道を歩く
紀州街道を高麗橋から石津川まで歩きました。

中国街道などのスタート地点でもあった高麗橋からスタート。



金融機関が集まる「高麗橋1」交差点から堺筋に入り南下します。



北浜にある登録有形文化財・生駒ビルヂング(旧生駒時計店、1930年竣工)。



船場センタービルに挟まれた堺筋本町にて阪神高速をくぐる。



長堀橋を通過。



日本橋北詰にある贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑。道頓堀を開削した安井道頓と安井道卜(どうぼく)を顕彰する碑です。



日本橋より道頓堀川を臨む。



高島屋東別館と高島屋史料館。



プレイステーションVR購入のための行列が続くでんでんタウン。行列は、堺筋の西にある五階百貨店まで続いていました。



恵美須町にて、J&Pテクノランドと喜多商店跡。
喜多商店は、カエサルの「来た、見た、勝った」をもじった「来た、見た、買うた」のキャッチフレーズで知られていました。



通天閣を臨む「恵比須」交差点で西へ。



阪堺電軌恵美須町駅。



南下してJR新今宮駅をくぐる。



萩之茶屋にある、要塞とも呼ばれる西成警察署。



西成署周辺のドヤ街。



天下茶屋駅前の商店街。



東玉出で南海高野線をくぐるとすぐに、阪堺電軌阪堺線が専用軌道から道路に入ってきます。



阪堺電軌住吉駅前で上町線が合流します。



住吉大社。全国に約2300社ある住吉神社の総本社です。



安立(あんりゅう)町にある「霰(あられ)松原」の石碑。かつてはこのあたりが海岸線で霰松原と呼ばれ、白砂青松の名勝だったそうです。



大和川を渡り、堺市に入ります。



綾野町で阪堺線と合流し、同時に道路が大幅に広がります。



西高野街道や竹内街道の起点となる大小路を過ぎたところにある材木町の安永6年(1777年)の道標。
「左 妙国ち(妙国寺)」「右 住よし 大さか」などと刻まれています。



戎公園(ザビエル公園)。ザビエルをもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡とされる場所に開設されたことから通称がザビエル公園となっています。



ザビエル公園内にある堺鐡砲之碑。戦国時代、堺が火縄銃の国内最大の生産地であったことを記念したもの。



与謝野晶子の生家跡にある歌碑。碑の中央には晶子が好んだといわれるアマリリスと百合の花が配置され、
碑全体の形は旧姓鳳(ほう)にちなんで鳳凰が大きく羽を広げた姿となっています。



西湊町にある、天穂日命(あめのほひのみこと)と菅原道真を祭神とする船待(ふなまち)神社。
神社名は、道真が大宰府に下る途中船を待つ間に神社で松の木を植えたことに由来します。



石津川駅前東本通商店街の入り口。今日はここまでとしました。



南海石津川駅より帰宅。

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柳谷道 歩行ルート

2016年10月16日 22時38分57秒 | 街道を歩く
昨日歩いたルートです。


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柳谷道

2016年10月15日 14時17分35秒 | 街道を歩く
柳谷道を高槻別所から長岡京市・西陣町まで歩きました。

阪急高槻市駅からスタート地点へ向かいます。
途中にある、セブン&アイからH2Oへ譲渡されるJR高槻駅前の西武高槻店。



西国街道上にある、高槻街道のゴール地点でもある高槻の別所からスタート。



名神をくぐる。



名神をくぐる直前にある、「左 やなぎ谷」と刻まれた道標。



新名神と名神・新名神の高槻IC・JCT建設に伴って進む拡幅工事。



高槻IC・JCTの橋桁。



高槻市街(日吉台)を臨む。



沿道で進む新名神の工事。



峠にて。



川久保地区にある諏訪神社。社伝によれば、880年に信州・諏訪神社より分霊を勧請したとのこと。川久保の氏神。



島本町に入ります。大沢地区にある極楽寺より街道を臨む。



極楽寺の近くにある早尾神社。



ベニーカントリー倶楽部の入り口。



直後に長岡京市に入ります。



京都市街を東方向に臨む。



柳谷観音(楊谷寺)。



両脇が竹藪の道を進む。



京都縦貫道をくぐる。



村田製作所・長岡事業所。



丹波街道につながる「西陣町」交差点にてゴール。24395歩、1歩65cmで15.9kmでした。阪急長岡天神駅より帰宅。

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西国街道(相生~三石)

2016年10月09日 06時44分57秒 | 街道を歩く
昨日、西国街道を相生から三石まで歩きました。

JR相生駅前の前回到達地点からスタート。前回(5月)にはまだ建っていなかったラ・ムー相生駅前店は今月下旬に開業します。



山陽本線・山陽新幹線をくぐったあと、山陽自動車道をくぐる。



相生のあじさい神社の異名を持つ若狭野天満神社。



赤穂市に入ります。歩道の狭い国道2号線沿いを歩く。



JR有年駅付近の有年横尾の集落にある有年村道路元標(道路の起点・終点を示す標識)。裏側には「兵庫縣」と刻まれています。



道路元標の近くにある、赤穂市が運行するコミュニティバス「ゆらのすけ」のバス停。愛称は忠臣蔵の大星由良之助に由来します。



2号線に戻り、千種川を渡る。



有年宿があった東有年に入ります。近くにある有年八幡神社のお祭りがあるようです。



この界隈には旧街道の面影を残す民家があります。



有年八幡神社。鳥居は1744年に建てられたもので、「有年の移り変わりを見守ってきた重要な文化財です」と書かれた神社の説明看板がありました。



有年(ありとし)家の長屋門(屋敷の入り口にある、建物が付属する門)。赤穂市指定有形文化財。有年家は、江戸時代には大庄屋を務めた家柄でした。



沿線に並ぶ地蔵など6基。



長谷川を渡る。



坂越(さこし)にある大避(おおさけ)神社。かつては「大闢(だいびゃく)」と書かれていましたが、大闢はダビデの漢訳だそうです。
渡来人である秦河勝(はたのかわかつ)を祀るこの神社は、景教(キリスト教ネストリウス派)の礼拝堂との説があります。



有年峠に入ります。入り口にあるイノシシよけのゲート。「開けたら閉めること」と書いてありますが、
ゲートの内側からカンヌキを戻すのは難しいので、一旦閉めたあとにゲートを乗り越えました。
狩猟期間(11月15日~3月15日)にこの区域に入ると、ハンターに誤射される危険性があるらしいです。



ゲートの左手にある坂折池。



山道の続く峠を登っていきます。



峠を越え、上郡町に入って下っていきます。



峠の出口にあるゲート。このゲートはU字型の針金で固定されていただけなので普通に出ることができました。



峠越え中には一切なかった民家が見えてきました。明治以降は北側の鯰峠に国道2号線が建設され、有年峠は寂れました。
山陽本線は、鯰峠のさらに北側を迂回するように走ります。



中世から近世の集落跡である梨ヶ原宿遺跡の説明看板がある沿線。かつては有年と三石の間の宿として宿屋や茶屋があった地域です。



梨ヶ原にある「明治十八年八月八日 明治天皇駐輦之碑 陸軍大将男爵田中義一書」と刻まれた石碑。
駐輦(ちゅうれん)とは、天皇が車を止めて一時滞在することです。



山陽本線の踏切を渡る。



山陽本線と国道2号線に並行する旧道を進み、船坂峠へ。ここから岡山県備前市に入ります。
「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」などと刻まれた石碑もあります。



峠を越えて再び国道2号線に合流。



三石一里塚跡の石碑があるJR三石駅前に到着。今回はここまでとしました。



JR三石駅より帰宅。

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高野街道(橋本~女人堂)

2016年10月02日 14時06分22秒 | 街道を歩く
昨日、高野街道(不動坂口道)を橋本から高野山の女人堂まで歩きました。

南海橋本駅から前回の到達地点に戻り、スタート。



紀の川の川縁に建つ東家渡場(とうげわたしば)大常夜燈籠。
「橋本」の由来となった橋が1587年に架けられましたが、3年後に流失したため以後は渡し舟で移動するようになりました。
川の北側の渡し場に建てられたのがこの常夜燈です。現在は、奥に見える橋本橋で渡ります。



橋本市清水にある西行法師ゆかりの西行庵。ここには「高野街道六地蔵」と呼ばれる6つの地蔵のうちの1番目が祀られています。



昨日は、橋本市が主催する「黒河道(くろこみち)世界遺産登録祈念・第2回はしもと歴史いきいきウォーク」の開催日でした。
高野街道がイベントのルートに入っているので、方々に矢印が設置されていました。



学文路(かむろ)の民家の玄関先に設置されている、高野山女人堂まであと3里を示す里程石。



里程石のある民家の向かいにあるかむろ大師。ここにあるかむろ地蔵の説明によると、この地域はかつては梅の名所で、
元は「香室」と書いて「かむろ」と読んでいたとのことです。



学文路駅近くの南海高野線踏切を渡り、上り坂に入る。



橋本市を臨む。



橋本市清水から紀の川市竹房を結ぶ紀の川フルーツライン(紀ノ川左岸広域農道)を跨ぐ。



九度山町繁野にある、高野六地蔵の第3の地蔵。



第3の地蔵を過ぎてすぐのところにある「ゆめさきトンネル」を横目に眺めながら先を進みます。



子安地蔵として信仰されている、九度山町河根峠にある第4の地蔵。



第4の地蔵は街道がヘアピンカーブを描く角に立っています。このあたりから急角度の下り坂に入ります。



下り坂が一段落したところにある女人堂まで2里の里程石。奥に見える千石橋(せんごくばし)を渡ると再び上り坂に入ります。



急な上り坂である作水坂を登り切ったところにある、高野町作水の第5の地蔵。



第6の地蔵を過ぎて、さらに山道を進みます。



日本最後の仇討ちである「高野の仇討ち」(1871年)で犠牲になった7人の墓。幕末に殺された赤穂藩の参政(家老)の遺族による仇討ちとのことです。
この事件がきっかけで、1873年に仇討ち禁止令が出されました。



「高野山女人堂江一里」の里程石(左から2番目)。



現在は指定避難所となっている、元白藤小学校。この界隈はかつては宿場町として栄えましたが、
高野山電気鉄道(現南海電鉄)高野線と高野山ケーブルの開通により寂れました。



南海極楽橋駅近くで、高野線と並走し跨ぐ。



極楽橋を渡る。この橋は、高野の聖域と俗界を区切る結界とされています。



極楽橋のたもとにて、極楽橋駅を出て橋本方面へ向かう特急こうや。



街道最後の坂となる不動坂に入ります。極楽橋駅を臨む。



高野山ケーブルの下をくぐる。



不動坂沿いにある清不動堂(きよめのふどうどう)。



参詣客が高野山奥の院に供えるための花を取ったという花折坂。



車道のある道に合流。左の道は、ケーブルカー高野山駅へつながるバス専用道路です。



ゴールである女人堂に到着。1872年までは高野山は女人禁制で、女性が入れるのはここまででした。
高野街道は58891歩、38.3kmでした。
鳥羽街道、京街道(納所~八幡市)、東高野街道を加えた、東寺から高野山を結ぶ広義の高野街道としては17万1724歩、111.6kmでした。
いずれも1歩65cm換算ですが、今回の区間に坂道が多かったため、実際はもう少し短いと思います。



もう少し歩いて金剛峯寺を訪ねました。



高野山の文化財を展示する博物館である高野山霊宝館を見学しました。
1921年開館で、今年で開山1200年となる高野山では新しい部類ですが、現存する日本最古の木造博物館です。
南海鋼索線高野山駅より帰宅。

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