街道を歩く

旧街道を中心に歩く旅日記。歩行距離は、2021年11月以降は活動量計の表示にしたがっています。

西国街道(香登~岡山)

2016年12月25日 19時44分54秒 | 街道を歩く
昨日、西国街道を香登から岡山まで歩きました。

JR岡山駅からスタート地点へ向かう。銅像は旧制第六高校のバンカラ学生で、谷口淳一京都教育大学教授(2000年当時)による作品。



JR香登駅で下車。前日のゴール地点へ戻り、スタート。



備前市坂根分庁舎。上下水道を管轄する部署があります。



分庁舎を過ぎて新幹線の高架をくぐった直後に国道2号線に合流し、瀬戸内市に入ります。
2号線に入ってすぐのところにあるおさふねサービスエリア。
レストラン内にNゲージのジオラマがあり、本物とNゲージの新幹線を見ながら食事ができる店です。



備前大橋で吉井川を渡る。



橋のバルコニーには、備前焼作家・高原敏氏による備前焼陶板が埋め込まれています。



橋を渡ると岡山市に入ります。



しばらく川沿いの2号線を歩いたあと、「一日市」交差点で国道を外れ、旧道へ入ります。
国道を分かれた直後にある常夜燈。「文政四辛巳八月廿五日」と刻まれています。
文政4年は1821年です。年月日が明記されている常夜燈はあまり見たことがありません(大抵は年月まで)。



上道(じょうとう)に入ります。山陽本線を踏切で渡ったあと、国道250号線と山陽本線に挟まれた湿地を臨む。



上道を進む。



藤井にある総社八幡宮。入り口にある藤井宿の案内板によると、宇喜多秀家(1572-1655)による山陽道(西国街道)の付け替えにより
この辺りが宿駅となり、岡山城下町に最も近い宿場町であったことから旅籠などが整備されたいへん賑わったとのこと。



総社八幡宮より藤井の町並みを臨む。



総社八幡宮からしばらく歩いたところにある素戔鳴(すさのお)神社。神社の右手にある道は「新往来」と言います。
尊王攘夷派の志士や浪士の往来に神経を尖らせていた備前藩は、1864年の第一次長州征伐(幕長戦争)の際に、
諸藩の藩士が岡山城下を通過するのを避けるため、街道を北側に迂回するルートをつくりました。
その迂回ルートがこの新往来です。元治元年(1864年)7月25日より供用開始。



JR東岡山駅近くにある長岡郵便局の脇に立つ道標。「長岡駅 西大寺観音道」「岡山玉島 神戸大坂京道」と刻まれています。



しばらく国道250号線に並行するように進み、原尾島橋で百間川を渡る。
原尾島橋ができる前は少し下流に小橋があり、これが西国街道でしたが今はないので少し上流へ移動します。



橋を渡り対岸へ移動。百間川は、岡山城の脇を通り天然の堀となっている旭川の氾濫を避けるために池田光政が築造したもの。



堤防を下りて、再び街道を歩く。



街道沿いにある岡山東年金事務所。



年金事務所からしばらく歩いたところにある惣門跡の看板。
1573年、宇喜多直家(1529-82)が岡山城下町の入り口として惣門番所を設けた跡とのことです。



岡電中納言停留場。物理的なホームはなく、枠標示のみがあります(緑の部分)。ここからしばらく西へ進みます。



中橋で旭川を渡り、岡山県庁を臨む。



京橋のたもとにある迷い子しるべ石。迷子を探す人、見つけた人の連絡場所として使われたそうです。



橋を渡ったあともさらに西進し、西大寺町商店街に入ります。



アーケード街の中で右折して北進します。アーケード街は、西大寺町商店街も含め、岡山表町商店街と総称されます。



アーケードを抜けて岡電城下停留場のあるところに出たあと、桃太郎大通りを西進する。



柳川筋の一本左の道を北進したところにある金刀比羅神社。西国大名が参勤交代で江戸へ向かう際に拝礼して通過したとのこと。
宇喜多直家の岡山入城(1573年)によって創建され、藩主が池田家に移ってから歴代の崇敬厚かった神社です。



後楽園通りで左折し、西川を渡る。



新幹線と山陽本線をくぐる手前の交差点。今回はここまでとしました。



岡山駅西口バスセンター。



バスセンターより、京阪京都交通の高速バス「京都エクスプレス」で帰宅。

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