ベンハイ河を渡り17度線を越えてこれからいよいよ北部ベトナムの世界。などと思っていたのですが、それからもクアンチ省内の土地が続いてました。クアンチまでが南ベトナム、クアンビンからが北ベトナム、というのは思い込みに過ぎず、54年ジュネーブ協定による南北分断は、クアンチ省内を分断する形だったわけです。もっとも54年以前の行政区分がどうであったのかは知りません。
クアンチからクアンビン省の省都ドンホイまでは110kmほど。ホーチミン道路を走っても120㎞程度です。これなら余裕だとばかり海岸沿いをのんびりと走っていたところ、途中で道路がなくなってしまい、仕方なく国道1号に戻りました。昼時になってしまい、道路沿いには「com, bun, pho」の看板が立ち並んではいるものの営業している店は少なく、開いていた一軒の店で麵のbunを注文したところ客は一人も居らず、「bunはないよ、comにしな」と、不機嫌そうに言われ、こちらも気分を害して「・・だったら看板外して置けよ・・」と呟きながら店を出ました。まぁ17度線を越えたのだから仕方ないか・・とドンホイの町まで昼飯は諦めることに。
ドンホイに着く前の30~40kmは国道の両側は砂漠状態でお墓の他に建造物が何もありません。道路は新しく舗装されてほぼ直線、交通量の少なく眠気を堪えるのが大変でした。22年ほど前だったかハノイから鉄道で下ってドンホイの駅で下車し、一泊したことがありました。緑色のヘルメット帽を被った男の姿が多く、空は曇りとても観光気分にはなれない町、との印象が残っていました。確かドンハ―の駅で降りるつもりが、当時急行が止まらないということでこのドンホイで降りることになったのかどうか、とにかく予定外に立ち寄った駅でした。
駅前の印象も当時とはだいぶ変わっていました。何しろ当時の「地球の歩き方」には「人だかりが出来てしまうのでミニスカート姿などで行かないように」などと書かれていた時代です。洞窟が多く有名なため今は外国からの観光客も多いようで、駅のアナンスも英語でも流されていました。駅前のカフェに座ると駅のフリーwifiも受信できました。
街には北爆で崩壊した建物がそのまま遺跡として保存されていました。その前で戦争の記憶のない若い女性が二人、自撮り棒を付けたスマホでポーズを取っていて、その前を通ると流石に恥ずかしそうな表情を見せました。
ドンホイの町も河口に近く、停泊する漁船と新しく建てられたビルが併存しています。しかし、ハーティン以南の北中部沿岸ではこの間、魚の大量死が問題となっており、企業排水の問題と言われながらもまだ原因は明らかにされていません。
ドンホイから北上する途中で、田圃の水を抜き、小魚やカニを取っている光景に出会いました。カンボジアの田園風景と異なるのは田圃に子供の姿が少ない点です。ベトナムでは子供に畑や田圃仕事をさせなくなっているみたいです。この日は日曜日。家族ぐるみで「安全な」淡水魚捕り。
ヴィンに着く手前、ハーティンの町に寄って昼飯を食べました。どの省都も同じようにしか見えないのは、そのような画一的な都市計画だからなのでしょう。新幹線の駅が作られた時みたいなものなのかも。Bunを食べると一杯3万ドン。昨日はドンホイで2.5万ドンだったのでやや不機嫌な顔をしてると店主に「日本人」?と聞かれました。いつもは決まって「チナ」?なので不思議に思うと「日本で6年働いていたとのこと」。引き止められて話し込まれてしまいました。ここには日本人観光客と出会うことも滅多になさそうです。日本の演歌を歌って「ちゃんと意味もわかるよ」と解説し始め懐かしがってくれました。
引き止められたお蔭でバイクに掛けておいたサングラスを盗まれ、こちらは有難くはありませんでした。40㎞ほど離れた所に工業団地が出来、その辺は景気が良くなったとか。町中はそうでもないとのことでした。
ゲアン省のヴィンで一泊。ヴィンの空港には二度ほど来た記憶がありますが、二度とも思い出したくないようなことがあったようで、実際よく覚えていません。町は銀行の建物が目立ちました。どの省都も同じですが。北上するに連れて食事やカフェの値段が上がり、その上不味くなるようです。ヴィン大学近くのホテルに泊まり、部屋は必要以上に広く、朝食付きで30万ドンとリーズナブルでしたが、付近に適当な食事の店がなく、チャーハンを食べようとして「com chinh duong chau」を頼むと「ない」と言われ、しかたなく麵の「My Sao」に。すると隣のテーブルではチャーハンを食べていました。メニューを見ると「Com Rang」という文字があり、これが北部では焼き飯を意味するようです。もっとも、炒め麵も不味かったけど、隣のテーブルでは半分以上も残して客は出て行きました。不味いから客が来ない→客が少ないから単価を上げる→高いから客が来ない→儲からないから不機嫌になる・・・負の連鎖にあるような・・・
北中部の省都では何処もゆっくり留まる気にはなれず、タインホアに向かいました。省都に着き、ネットで見付けたホテルを探すもスマホの地図では辿り着きません。今回はグーグルマップもノキアのマップもかなりいい加減。休憩中のタクシー運転手に聞いたりして何とか最後には辿り着きましたが、窓ガラスが外からは緑色に見える建物で、これがどうも泊まりたくないホテルの典型です。周りに食事できそうな店もなかったため引き返し、途中で見掛けたホテルにチェックインしました。しかし、此処もホテルの名刺に経営者の顔写真入りというセンスだし、エレベータを降りた途端、ベットメイクのオバサンに「何号室」?と怒ったように睨み付けられる始末。
そう、だからこの町には来たくなかったのですよ。フエに住んでいた時に、タインホア出身の知り合いが「一人で帰るのが怖いから一緒に途中まで行ってくれ」と頼まれ、夜行列車で朝、タインホアの駅に着いたことがありました。仰る通りに怖い所で、改札を出るか出ない内からバイクタクシーや馬車や自転車タクシーのオジサン、お兄さんが腕を掴んで引っ張るのです。駅前の泥濘道を歩くと朝から怪しげなオネエサンが手招きしているのには「何だこの町は・・」と思わざると得ませんでした。
それが、この16年間で外観だけは別世界に変貌を遂げていました。胃袋がだいぶ弱って来たようだし、ここでは堪らずファストフードを探して、コープマートの建物に入りました。今まではロッテアが決まって中にありましたが、ここではフィリピン華僑資本のJollibeeでした。日本ほどではないにしても、(作り笑いでないという意味では日本より良いのかも)不愉快な思いをせずに接客を受け、想定内の味付けと納得できる料金で肩の力を抜くことができました。町の多くの店が閑散とする中、ここでは若い人々がスマホ片手に席を埋めていました。
ついでに店舗で飲料水や食品を買い、レジに並ぶと一人のご婦人が割って入って先に自分のカゴをカウンターに乗せました。かつてホーチミン市で何度も経験した状況です。今までの鬱憤を晴らすかのように、この時とばかり「チョット待ってよオバサン、先に来て並んでいるのは私ですよ」。とやや声を張り上げました。そのオバサンは、「いや、私はちょっとね、ボールペンを借りようと思って」と店員からボールペンを借りて何やら紙に書き込み始めました。
レジで支払を済ますと、近くに居た男性店員に「日本人」?と声を掛けられました。この町でも同じようなことを主張した日本人が居たのでしょうか。