GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

カオバン省カオバン市

2016-06-14 21:01:07 | 旅行

ランソン市街からカオバン市街までは北北東に約125㎞。大した距離ではないと出発したところ国道は工事中を含め惨憺たるものでダンプの舞い上げる砂埃に目をつぶりたくなるほど。たぶんこの地の地質が特に細かい粒子を作り出しているようです。交通量は少ないものの子供たちが自転車で通学する姿もありました。山中の悪路で心配なのはタイヤのパンク。午前中なのでそれでも夜よりはまだ救いもありそうですが、その代わり暑さが堪えます。風を切るほどのスピードは出ず、ハンドルを握る手に力が入ります。

     

     

昼飯時になってようやくThat Kheの町に着き、食堂も人が多く安心して食べることができました。しかし、食後は一段と日差しが強くなり、店の人に気遣われてしばし休憩。ランソンの市街ではなかった人々の優しさを感じました。この先も道が悪いのか?と聞くと「そうだ」との返事。やれやれと思いつつ出発し、しばらくすると省境があり、カオバン省に入ると道路状況は一変して良くなっていました。

国道だから省に関係なく整備されるものかと思っていましたが、どうやら実情は異なるようです。風景も変わり田園地帯が多くなりました。今まで見なかった馬の姿が彼方此方にありました。牛や水牛は見知らぬ人間が近付くと、警戒心からかじっと見つめる習性があるのですが、馬はまったく無関心のようで近付いてカメラを向けても後ろを向いてひたすら草を食むだけ。

カオバン市内に入り、まだ陽も高いので何軒かホテルを回って料金を訊ねました。しかし、ランソン市内同様やや高めで40万ドンほど払わないとそれなりの部屋には泊まれそうもありませんでした。空室だらけなのに。仕方なく30万ドンでミニホテルの窓のある部屋に。他に客も居ないのに道路に面したベランダ付の部屋は35万ドンだからということで融通を効かせてはくれません。一階はカフェになっていましたが、一度も客が居たところを見たことはなく、それもその筈、コーヒー一杯2万ドン。

市街の中心部は北から南に流れる川に挟まれた狭い地域で、何処かで川を眺めながらコーヒーでも飲もうと探しましたが、適当な場所は見つからず、橋を渡って郊外の畑を見に行きました。5万人の人口を抱える近郊農業だけにスプリンクラー付で各種野菜が栽培されていまいた。

     


ドンダン要塞があった町

2016-06-11 00:34:11 | 旅行

首都ハノイから一番近い中国国境ゲート「友誼関」があるランソン省のドンダン(Đồng Đăng)。ランソンに一泊した翌朝、出掛けてみました。わずか15㎞ほどの距離です。モンカイやラオカイのような賑やかさを想像していたのですが、余りにも閑散とし、しかも土埃が舞う工事中なので即退散。引き返してドンダンの町に宿を探しに行きました。

中越関係では古くは宋朝の軍が陸路この地を越えてハノイへと迫ったわけですが、ハノイへは現在道路で180㎞足らず。江戸から白河の関よりも近く、ホーチミン市とメコンデルタ諸都市ほどの距離でしかありません。今はハノイ周辺で犯罪を犯した逃亡者が国外脱出を試みる地でもあるようです。戦時には軍事道路となったわけですが、平和時には宗主国中国の使節を迎えるために道々には飾り付けがなされたとか。今回のオバマ大統領訪越時は知りませんが、以前クリントンが退任間近に来越した際は空港かららの沿道に人々が立ち並んでいたのを見た記憶があります。たぶんかつてはもっと派手に出迎えたのでしょう。

しかし、そのような歴史的な遺産を感じさせるものは見当たらず、フランス軍がかつて築いたというドンダン要塞の位置もわかりませんでした。1940年の仏印進駐時と1945年仏印処理時の2回、旧日本軍も中国からこの地を通過しました。1945年の戦闘は激戦だったようで、当時の日本兵の手記なども残されています。「サイゴンに死す-四戦犯死刑囚の遺書」は読んでいませんが、この戦闘時に日本軍が投降したフランス将兵を「キールア洞窟」で虐殺した責任を問われた裁判だったのでしょうか?

     

ドンダンの町は、1945年当時「美しい街」と日本兵が手記に遺したとは思えぬもので、駅前には人影も殆ど見当たらないほどの寂れようでした。外見はしっかりしたホテルと思えたドンダン・ホテルで料金を訊ねると一泊18万ドン(900円)とのこと。その安さに引かれて泊まることにしました。が、やはり安いだけの理由があって、エレベータは長いこと故障中、エアコンとホットシャワーは使えるもののトイレのタンクへの配水がありません。ベランダの鍵は壊れたままで、各部屋のベランダから投げ捨てられたゴミが地面に散乱していました。

「キールア洞窟」が何処にあったのかが気になり、調べてみると少数民族の市が開かれる「Kỳ Lừa市場」や「Kỳ Lừa橋」の名はランソンの町に残っていますが、洞窟は分かりませんでした。観光地になっている洞窟は、Tham Thanh, Nhi Thanh, Chua Tienの三つがあり、二カ所だけ訪れました。鍾乳洞で内部は色付きのライトアップがされているので、暑さ凌ぎにはなるけど・・・と感じるところでした。

     

Tham Thanh洞窟の近くにはカオバンに逃れて明・清朝の庇護の下1677年まで続いた莫朝の城跡があり、地形・地質的に洞窟の数も多いようです。そこでふと思うのですが、この中国による莫氏支持が二つのベトナム政策の始まりだったのではないか・・・と。もっとも当時は鄭・阮の南北対立の時代でしたから三つのベトナムでした。チャンパを含めれば四つの政権。

     

計画性のない旅行のため、ランソンの町やドンダン、またその周辺の田園地帯を何度か行き来しました。ランソンの町では外国人故かぼられることも多く、ガソリンスタンドで1万ドン多く請求された時はついに爆発して店員に喰って掛かりました。換算すれば僅か50円。目くじら立てるほどの金額ではない筈ですが、年令を重ねても寛容さは身に付かないものだと、後になってつくづく思います。

     

白壁が綺麗に見えたので家の前まで行くと、若い男性が「水でも飲んで行け」と家に入れてくれました。この周辺はNung族の人々の村だそうで、入り口には漢字の貼り紙がありました。彼の母親と一歳に満たない子供が一人。奥さんは昨日から200㎞離れた工場に出稼ぎに行っているとのこと。

今回の国会議員選挙でランソン省からの選出定員は6名。結果を見ると、Kinh族2名、Tay族1名、Nung族3名が当選していました。Kinh族の2名はゲアン省とハーティン省の出身で現住所もハノイとハーティン。

 


国境の街モンカイからランソン

2016-06-07 23:03:07 | 旅行

Van DonからCam Pha方面に引き返し、再び北東方向に進んでモンカイ市に至りました。ランソンほど知名度は高くありませんが、その分何処か魅力的なものがあるのかと期待していたわけですが、期待はずれでした。とりあえず国境ゲートまで行ってはみたものの中国人旅行客に中国語で話しかけられただけ。たぶん、国境近くのベトナム人は中国語を話す人が多いからなのでしょう。この街で一晩泊まる気にはなれず、急遽予定を変更してランソンに向かいました。

中国国境に接する省はクアンニン省を含め5省あり、1991年統計を見ると隣接するランソン省は少数民族比率が84%であるのに対し、このクアンニン省だけが極端に低く11%となっています。75年統一後の中越関係の悪化の際に、それまでの中国籍のままベトナムに居住していた少数民族が出国を余儀なくされたということも影響しているようです。

     

 モンカイからは再び同じ道、国道18号を途中まで引き返し、国道18Cを北上しました。静かな田園風景を見てはバイクを止めていたのでランソンに着く前に日が暮れてしまい、少々焦りつつもどうにか市内に入りました。

     

おやつ代わりにキュウリを食べてた男の子。子供の頃、農家の友達の家の土間で味噌を塗って食べたキュウリを思い出しました。

ランソン市街はモンカイよりも小さめで、ホテル探しも容易でした。疲れていたので少々高めの料金でも仕方ないと思い、40万ドンの部屋に一泊することにし、パスポートも預けたのですが、外に居たガードマンが駐輪場所について延々と説教を始めたので気分を害し、再びレセプションに戻ってパスポートを返して貰いました。で、結局他に宿泊客の居ない20万ドンの安ホテルに泊まることに。


ハイズン省からハロン湾

2016-05-23 21:05:24 | 旅行

Chi Linhから東へ80kmほどでハロン湾に着く筈です。ハロン湾はまだ一度も見たことがなく、また見たいと思ったこともありませんでした。今回も中国国境にあるMong Caiまで行く途中に折角だからちょっと寄ってみようという程度のことでした。国道18号線の道路沿いで休憩してコーヒーを飲もうと思って探してもCafeの看板が出て来ません。たぶんありそうだと思う店に寄って注文すると、店の人は「これしかないけど」とネスカフェの「3 in 1」の袋を取り出しました。仕方がないのでそのインスタントコーヒーで我慢することに。店の庭にはサトウキビが植えられ、それを絞ってMia Daを売る店だったようです。それなら仕入れも簡単。必要に応じて切れば良いだけのことで、鮮度が保てます。確か、サトウキビは切ってから時間が経過すると糖度も落ちるのだとか・・・

      

再び走り出し、田圃の空に凧が見えました。自作の凧のようで、見たことのない形でした。

ハロン市街に入り海岸に近づくと、大きなホテルが立ち並んでいました。一目海を見ようとバイクを走らせても道路脇には大きなフェンスが張られ広告しか見えません。延々と続く広告にウンザリしてやっと海が見えたかと思うと、目に入ったのは観覧車とロープウェイ。世界遺産のイメージがガタガタに崩れ落ちました。

     

ガイドブックも持たずに来たので訳も分からないまま、取敢えず橋を渡って西方向に進みました。何処から何処までがハロン湾なのかも知りませんが、東京湾と言っても神奈川県から千葉県に渡るわけですからそれなりの距離があるのかも・・・と。暫く走るとVan Don方向との標識が見え、何処かで聞いたような地名だったのでそちらに向かいました。

      

Van Donの町に入ると制服姿の公安の数も多く混雑していましたが、外国人旅行客の姿もチラホラ。更に進むと港があり、観光客が溢れてました。確か古い時代からの中国との貿易港だったかと。地図を見ると大小さまざまな島があり、此処で積み込んでいる氷は離島に運ぶためのもののようでした。無事ハロン湾の景色を眺められて満足。ミニホテルがたくさんある割には料金、質共に不満が残るものでした。


ハイズン(海陽)省チーリン(志霊)

2016-05-14 23:23:35 | 旅行

稠密な人口のためか紅河デルタの各省都間の距離は短く、ナムディンから何処へ向かうかは迷いました。河口が多いため海岸線に沿って北上する道路はなく、また隣のタイビン省の省都は余りにも近いので、「ベトナム中国関係史」を読んだ時に地理をイメージできなかったハイズン省に向かうことにしました。中国宋朝や元朝との戦闘でも確かChi LinhとかPha Laiの名が出て来ました。中国から陸路Lang Sonを通って来る遠征軍がハノイを陥落させるためには紅河を渡らねばならず、したがって水軍が必要となり、紅河に至るDuong河など6つの河が交わる地点が戦略的要衝となったようです。

     

途中で日本語で書かれた看板を見て、折角なので矢印の方向に道を逸れました。そう言えばチュウダウ陶器の名も何かの本で目にした気がします。ベトナムの手工業品が海外に輸出されるようになった初期の代表的な商品だった・・・とか。工場にはかなり多種多量の陶器が並べられていました。

Chi Linhの町はずれのやや閑散とした地域の閑散としたホテルに一泊することにし、まだ日没までに時間がありそうだったのでシャワーを浴びてからĐền Kiếp Bạcを探しに行きました。地図に載っていてホテルから近そうだったので。行って初めて元との闘いで勝利したチャンフンダオを祀ってある場所だと知りました。

     

敷地の直ぐ近くをThai Binh河が流れていました。河川敷にいた学生に訊くと土手沿いにバイクでなら国道18号にそのまま出られるとのこと。そうと知ってれば入場料も駐輪料金も払わずに済んだのに・・・。国道沿いにあるPhả Lại火力発電所の煙突が見えました。かつてこの地に要塞があったとか・・・宋、元、明、どの戦争時にもハノイまで中国に兵を進められているのでこの地は一度の勝利の前に何度もの敗北を経験したに違いありません。陳朝王族も数多くの王族が元に屈服し、それだけにチャンフンダオこと興道王陳國峻の名声は高まったのでしょう。南シナ海はすべて中国のも、などと言って中国が西沙諸島の軍事基地を建設する状況下にあっては、英雄チャンフンダオの功績も輝きを増すばかりなのかも。

此処からは河を下って白藤江まで行ってみようかとも思いましたが、数々の戦役の知識も乏しく手元に資料もないので諦めました。

 


籾摺り用具

2016-05-10 23:52:53 | 農業・食品

ナムディンでは、海岸近くにある郷土資料館に行って来ました。村の住民がかつて使っていた農具などを持ち寄って出来た資料館だそうです。昨年、越生へ友人の稲収穫を見に行き、その時籾米を少々持ち帰って自分で籾摺りを試みました。すり鉢とスリコギを使っての作業は容易ではなく、電化される以前の時代に人々はどうやって籾摺りをしていたのか疑問に思うことしきり。

弥生時代に稲作が普及した、と歴史の教科書では簡単に触れられる事柄ではありますが、こんな面倒な作業をしなければならない稲作がそう簡単に普及したとは思えなくなって来ました。隣の人が作っているから自分も真似して・・・などということではなく、新しい生産システムが社会組織として革命的に普及する過程だったのだろうと思います。

左がナムディンの資料館にあった籾摺り用杵、右はニントゥアン省ファンランのチャンパ資料館にあったものです。

 

思い出せば、4年前にラオスに行った時に見た農家の庭先で作業していたものと大して変わりません。

 

改めて画像を確認すると、やはり電気の来てない農家でした。

 

日本では江戸時代になって中国から籾摺り臼が伝わり、玄米の状態にすることが可能となったとのこと。杵で脱穀すると籾殻も米も多く破砕されてしまったようです。この籾摺り臼もナムディンとチャンパの資料館に展示されていました。

ベトナムのカオバン省で今回見た中国製電動籾摺り機。籾米を上から投入しほぼ白米の状態で落ちて来ていました。籾殻も粉々。オバサンは二度通してしましたから一度では籾殻を取り切れないようです。数軒ある集落で共同で使っているようでした。


ナムディンに二泊

2016-05-09 23:16:07 | 旅行

ニンビンからナムディンまではわずか32㎞程度。スマホのノキアマップをチラッと見て方向を確認して進みました。ナムディンには97年頃、頼まれて日本の高校生の付き添いで一度来たことがありました。農村の民家を訪れ、トイレに新聞紙を切って置いてあったのを覚えています。かつての日本と同じ文化。ベトナム南部はカンボジアと同じでお尻を水で洗う文化です。その名残は今もホテルのトイレで気付くことがあります。高級ホテルは別なのでしょうけど。

紅河下流デルタ、ナムディンの田圃は広々とし、この地でも起きた1945年の大量餓死が何故だったのだろうか、と改めて考えざるを得ない気になりました。田圃の一区画がやたら広いのは合作社の時代の名残なのでしょうか?そしてやたら教会が多いのも不思議に思います。かつてビエンホアの町の教会の多さにも驚きましたが、それはジュネーブ協定の後北部のキリスト教徒が大量に移住したため、と単純に納得しました。

     

暫くしてからナムディン方向への標識が見えないのに気付き、方向を大きく外れてしまっていました。スマホのMapを見ても現在地に道路がありません。何度か人に訊ね、その都度益々混乱するばかり。改めてノキアMapを見るとナムディンまで190㎞との表示。やっとのことでフェリーで河を渡ればナムディンまで一本道で行けると教えて貰えました。

     

大きな荷物を積み、バイクに裸足で乗るオバサン達の姿を見ると農村部の豊かさがどれほどのものであるのか想像されます。以前見たナムディンの町は人々が彼方此方でバトミントンをしている姿があり、そして泊まるべきホテルも余りなかったような・・・・。ハノイに居た時にナムディン出身のThanhさんという名の学生と知り合い、「ナムディンは何もありません。大きな繊維工場がありましたが倒産しました」と言っていたのを思い出します。町の外観は大きく変わっていました。道路や建物は立派になっても何処か実態が伴っていないスカスカな感じは残ります。人々の活気を感じることはありませんでした。

     

博物館巡りを予定してましたが、生憎の休館。雨が降って海岸を見に行くことも出来ず仕舞い。ハナム省の省都Phu Lyまで鉄道沿いの道路で行ってみました。途中、路上で梅の実が売られているのを見掛けました。小さい品種です。

     

 


胡朝城塞からニンビン

2016-05-08 23:47:06 | 旅行

タインホア省はホーチミン市、ハノイに次ぐ人口を有し、面積も全国で5番目の11,132Km2。漢支配下の時代には九真郡に属し、今の政府の地理区分では北中部に位置します。紅河デルタとは異なる気候や文化がどのようにあるのかが気になったりもします。明からの独立を勝ち得たレロイのラムソン蜂起の地でもあり、とりあえず世界遺産に登録された胡朝城塞を見に行きました。

     

着いて驚いたのは、ゲートがあり入場券を買わねばならないのか、と思ったものの周辺住民の生活道路のようで、「エンジン付きの乗り物で入場禁止」と表示があるものの皆バイクに乗ったまま通過しています。面倒なので私も後に着いてそのまま通過。外壁を登って中を見ると只の田圃が広がっていました。従って周辺は世界遺産の町という雰囲気は何もなく、勿論観光客用のホテルなどもありません。のんびりできる場所なら一泊するつもりでしたが当てが外れ、もう少し西北に向かって山地方向に進むことにしました。

     

ホーチミン道路に出たので、それを暫く北に走ってからニンビン方向に下りました。トラックの通行などもあるとは言え、国道一号線と比べると交通量も少なく、周りが緑に囲まれていて気分は爽快でした。タインホアから北は各省都間の距離が短く、どの方向に走ろうか選択肢が出来ることになりました。

初めて来たニンビンの町は地理を捉えられず、静かな場所の安いホテルを探してみましたが、結局観光地となっている郊外のTam Cocに泊まることに。

     

朝食付きで一泊33万ドン。快適さを考えれば高いとは言えない宿泊料でした。生憎小雨続きで二泊しました。

 


ドンホイ-ヴィン-タインホア

2016-04-27 23:52:31 | 旅行

ベンハイ河を渡り17度線を越えてこれからいよいよ北部ベトナムの世界。などと思っていたのですが、それからもクアンチ省内の土地が続いてました。クアンチまでが南ベトナム、クアンビンからが北ベトナム、というのは思い込みに過ぎず、54年ジュネーブ協定による南北分断は、クアンチ省内を分断する形だったわけです。もっとも54年以前の行政区分がどうであったのかは知りません。

クアンチからクアンビン省の省都ドンホイまでは110kmほど。ホーチミン道路を走っても120㎞程度です。これなら余裕だとばかり海岸沿いをのんびりと走っていたところ、途中で道路がなくなってしまい、仕方なく国道1号に戻りました。昼時になってしまい、道路沿いには「com, bun, pho」の看板が立ち並んではいるものの営業している店は少なく、開いていた一軒の店で麵のbunを注文したところ客は一人も居らず、「bunはないよ、comにしな」と、不機嫌そうに言われ、こちらも気分を害して「・・だったら看板外して置けよ・・」と呟きながら店を出ました。まぁ17度線を越えたのだから仕方ないか・・とドンホイの町まで昼飯は諦めることに。

     

ドンホイに着く前の30~40kmは国道の両側は砂漠状態でお墓の他に建造物が何もありません。道路は新しく舗装されてほぼ直線、交通量の少なく眠気を堪えるのが大変でした。22年ほど前だったかハノイから鉄道で下ってドンホイの駅で下車し、一泊したことがありました。緑色のヘルメット帽を被った男の姿が多く、空は曇りとても観光気分にはなれない町、との印象が残っていました。確かドンハ―の駅で降りるつもりが、当時急行が止まらないということでこのドンホイで降りることになったのかどうか、とにかく予定外に立ち寄った駅でした。

     

駅前の印象も当時とはだいぶ変わっていました。何しろ当時の「地球の歩き方」には「人だかりが出来てしまうのでミニスカート姿などで行かないように」などと書かれていた時代です。洞窟が多く有名なため今は外国からの観光客も多いようで、駅のアナンスも英語でも流されていました。駅前のカフェに座ると駅のフリーwifiも受信できました。

     

街には北爆で崩壊した建物がそのまま遺跡として保存されていました。その前で戦争の記憶のない若い女性が二人、自撮り棒を付けたスマホでポーズを取っていて、その前を通ると流石に恥ずかしそうな表情を見せました。

ドンホイの町も河口に近く、停泊する漁船と新しく建てられたビルが併存しています。しかし、ハーティン以南の北中部沿岸ではこの間、魚の大量死が問題となっており、企業排水の問題と言われながらもまだ原因は明らかにされていません。

     

ドンホイから北上する途中で、田圃の水を抜き、小魚やカニを取っている光景に出会いました。カンボジアの田園風景と異なるのは田圃に子供の姿が少ない点です。ベトナムでは子供に畑や田圃仕事をさせなくなっているみたいです。この日は日曜日。家族ぐるみで「安全な」淡水魚捕り。

ヴィンに着く手前、ハーティンの町に寄って昼飯を食べました。どの省都も同じようにしか見えないのは、そのような画一的な都市計画だからなのでしょう。新幹線の駅が作られた時みたいなものなのかも。Bunを食べると一杯3万ドン。昨日はドンホイで2.5万ドンだったのでやや不機嫌な顔をしてると店主に「日本人」?と聞かれました。いつもは決まって「チナ」?なので不思議に思うと「日本で6年働いていたとのこと」。引き止められて話し込まれてしまいました。ここには日本人観光客と出会うことも滅多になさそうです。日本の演歌を歌って「ちゃんと意味もわかるよ」と解説し始め懐かしがってくれました。

引き止められたお蔭でバイクに掛けておいたサングラスを盗まれ、こちらは有難くはありませんでした。40㎞ほど離れた所に工業団地が出来、その辺は景気が良くなったとか。町中はそうでもないとのことでした。

ゲアン省のヴィンで一泊。ヴィンの空港には二度ほど来た記憶がありますが、二度とも思い出したくないようなことがあったようで、実際よく覚えていません。町は銀行の建物が目立ちました。どの省都も同じですが。北上するに連れて食事やカフェの値段が上がり、その上不味くなるようです。ヴィン大学近くのホテルに泊まり、部屋は必要以上に広く、朝食付きで30万ドンとリーズナブルでしたが、付近に適当な食事の店がなく、チャーハンを食べようとして「com chinh duong chau」を頼むと「ない」と言われ、しかたなく麵の「My Sao」に。すると隣のテーブルではチャーハンを食べていました。メニューを見ると「Com Rang」という文字があり、これが北部では焼き飯を意味するようです。もっとも、炒め麵も不味かったけど、隣のテーブルでは半分以上も残して客は出て行きました。不味いから客が来ない→客が少ないから単価を上げる→高いから客が来ない→儲からないから不機嫌になる・・・負の連鎖にあるような・・・

北中部の省都では何処もゆっくり留まる気にはなれず、タインホアに向かいました。省都に着き、ネットで見付けたホテルを探すもスマホの地図では辿り着きません。今回はグーグルマップもノキアのマップもかなりいい加減。休憩中のタクシー運転手に聞いたりして何とか最後には辿り着きましたが、窓ガラスが外からは緑色に見える建物で、これがどうも泊まりたくないホテルの典型です。周りに食事できそうな店もなかったため引き返し、途中で見掛けたホテルにチェックインしました。しかし、此処もホテルの名刺に経営者の顔写真入りというセンスだし、エレベータを降りた途端、ベットメイクのオバサンに「何号室」?と怒ったように睨み付けられる始末。

そう、だからこの町には来たくなかったのですよ。フエに住んでいた時に、タインホア出身の知り合いが「一人で帰るのが怖いから一緒に途中まで行ってくれ」と頼まれ、夜行列車で朝、タインホアの駅に着いたことがありました。仰る通りに怖い所で、改札を出るか出ない内からバイクタクシーや馬車や自転車タクシーのオジサン、お兄さんが腕を掴んで引っ張るのです。駅前の泥濘道を歩くと朝から怪しげなオネエサンが手招きしているのには「何だこの町は・・」と思わざると得ませんでした。

     

それが、この16年間で外観だけは別世界に変貌を遂げていました。胃袋がだいぶ弱って来たようだし、ここでは堪らずファストフードを探して、コープマートの建物に入りました。今まではロッテアが決まって中にありましたが、ここではフィリピン華僑資本のJollibeeでした。日本ほどではないにしても、(作り笑いでないという意味では日本より良いのかも)不愉快な思いをせずに接客を受け、想定内の味付けと納得できる料金で肩の力を抜くことができました。町の多くの店が閑散とする中、ここでは若い人々がスマホ片手に席を埋めていました。

ついでに店舗で飲料水や食品を買い、レジに並ぶと一人のご婦人が割って入って先に自分のカゴをカウンターに乗せました。かつてホーチミン市で何度も経験した状況です。今までの鬱憤を晴らすかのように、この時とばかり「チョット待ってよオバサン、先に来て並んでいるのは私ですよ」。とやや声を張り上げました。そのオバサンは、「いや、私はちょっとね、ボールペンを借りようと思って」と店員からボールペンを借りて何やら紙に書き込み始めました。

レジで支払を済ますと、近くに居た男性店員に「日本人」?と声を掛けられました。この町でも同じようなことを主張した日本人が居たのでしょうか。


ハイヴァン峠からベンハイ河

2016-04-26 00:10:55 | 旅行

ダナンの町に入る前に国道から逸れてホイアンに寄って海岸沿いに走るつもりが道が分からず仕舞い。新しい道路や橋が増えたように感じました。空港からタクシーで市内に入る気楽さとは反対に、一方通行に戸惑いながらようやく見慣れたバクダン通りにたどり着きました。しかし、目印にしてあったBach Dang Hotelは見当たらず、新しいビルが建てられたり、建設中だったりしていました。住んだことのないベトナムの都市で一番多く回数を訪れたのがダナンの筈です。変容振りに(発展というべきか)戸惑いながらも多少の懐かしさもあり、Pacific Hotelに泊まることにしました。既に顔見知りのスタッフは居ませんでした。最初にダナンに来た時に泊まったホテルで、今回は2度目のリフォームがされていました。旧国有ホテルのためか、それでも時代から取り残された感じは否めず客はかなり少ない様子。1・2割宿泊料を安くすれば稼働率はぐっと向上すると思うのですが。

  

ダナンに戻って日本語センターの校長をしていたDungさんのことを思い出し、スマホのアドレス帳を検索しても見つからなかったので直接職場まで歩くことにしました。スタッフの話では病気で仕事を続けられなくなり辞めたとのこと。電話番号を問い合わせてホテルに戻ってから彼の携帯に掛けてみました。期待していたような明るい声は返って来ず、しきりにベトナム語で問いかけてきます。時折日本語も発しましたが会話はほぼ成立しないまま通話が切れました。脳血管障害で倒れたのか・・・と思える状況に寂しさが募りました。

かつて15年以上前のことだったでしょうか、ダナンに進出した日本企業はダイワ精工、マブチモーターなど3社。それが今や170社ほどになったとか。1999年人口統計時には68万人だったのが今は100万人を超え、増大分の殆どが南北近隣省からの流入とも聞きました。

翌朝、ハイバン峠を越えてフエに向かいました。トンネルが出来て以降閑散とした旧道に強盗が出た、などという古い記事を思い出し気乗りしない峠越えでしたが、「トンネル開通で2時間掛かっていたのが6分に短縮」などとの言われ方は誇張も甚だしく、トラックが故障して道を塞いでいた時でなければ2時間も掛かりません。登り下り各10㎞ほどで計30分ほどしか掛かりませんでした。観光客のバスが頂上の休憩所に停まっている風景は20年前そのままでした。

      

2000年に半年ほどだったか住んだことのあるフエは今更見るところもないし、昼飯だけ食べに寄ろう・・・と地図も確認せずに街に入ってから迷いました。当時ここに来た時はバイクを鉄道に乗せて運びました。まだ誰もヘルメットを被らずにバイクを走らせている時代でした。その中で一人だけヘルメット姿のため目立ってしまったのか即、交通警官に呼び止められ、パスポートとバイクの登録証を携帯していなかったので警察署まで連行されることになったのでした。バイクの免許は取得してなかったのにそれは一言も問われず、しかも後でパスポートと登録証を確認してからは何のお咎めも「コーヒー代」の請求もなく、終始丁寧な扱いを受けました。当時のホーチミン市などの公安と比べかなり清潔感の強さを感じた記憶が残っています。学生と観光客の街。夏休みに学生が帰省すると閑散としていました。道路事情は多少変わったようですが、ホテルが増えた以外にはそう大きな変化はないみたいです。

鄭・阮両氏の「南北に対立して抗争するという約230年にわたる争乱時代」の幕開けは「阮潢が1558年、一族及び志願して従う臣下をつれて海路、広治省の愛子社に至り、本営をおいた」ことに始まるそうなので、その愛子社を探してみました。地図で見ると「Thị trấn Ái Tử」がクアンチの町の東北4㎞ほどの所にあるので多分この辺なのだろうと思います。クアンチの町には古城があり、1809年嘉隆帝の時に建てられたものだそうです。今はラオスへの交通の要衝でもあり省都となったDong Haの方が発展しホテルも増えていますが、この機会にTX.Quang Triに泊まることにしました。バイクでグルグル回りやっと見つけた「Nha Khach Thanh Co」。一泊の値段を聞くと30万ドンと答えるので即踵を返しました。すると追って来て20万ドンの部屋もあると言い、見せて貰うと、とても勘弁な雰囲気の部屋。今からドンハーまで行こうかとも思いましたが空も怪しくなってきたので仕方なく30万ドンの部屋に泊まることに。その日は今回ベトナムに来てから初めての雨となり、しかも雷雨は朝になっても上がりませんでした。

      

クアンチを流れる川もドンハーを流れる川も下流で合流して広い河口となります。17度線を挟んで南側の最前線の町だったため激戦地であったと、何かにつけ読んだ記憶があります。22年ほど前だったか一度米軍基地跡にも足を運んだことがあります。ガイドに不発弾が残ってるからと言われ、後に着いて恐る恐る歩いた記憶があります。当時まだ米軍のワインの箱などの物資の残骸が残っていました。地図で見るとケサン基地よりももっと近かったような気がするのですが・・・

翌朝、雨が上がるまで暫くカフェで時間を潰し、海岸線を北上してドンホイに向かいました。海岸にはリゾート開発を試みて失敗した残骸などもチラホラ。街の至る所にフォトコピー屋が氾濫してたように、中部沿岸地帯は何処もリゾート開発ラッシュの感じ。クアンチからクアンビン間の国道一号線沿いにもCafeやComの看板が立ち並びながらも閉ざされた店が夥しい数ありました。恐らくクアンチの町だけは20年前の風景と変わることろがないのかも知れません。

河口近くのベンハイ河に架かる橋の上にバイクを止め、暫くゆっくりと流れる河を眺めていました。