夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

墨塗り教科書  *ボクの見た戦中戦後(26)

2014年05月17日 | ボクの見た戦中戦後

国民学校の2年生になったとき、先生が1年生で使った教科書を学校へ寄付するようにと言われた。 ボクは3歳年下の妹にあげたいので学校へ寄付したくありませんと先生に告げた。 先生は寄付しない人には2年生の教科書を渡すことが出来ないとお話ししたので、やむを得ず教科書を提出した。
戦争で物資が不足し、教科書を印刷することが困難になっていたのだ。 思い起こしてみると、あのころはノートさえ満足に買うことができなかったから、ボクは新聞の余白に文字の練習をしていた。

北海道の学校から秋田の学校へ疎開したとき、教科書を持っていない子がいることに気が付いた。 学校へ配布された教科書が少なかったのか、当時は有償だった教科書を買うことが出来ない子どもたちがいたのかも知れない。 そのため、二人並びの机で国語の本を二人で手に持って読んでいた。 

戦争に敗れて、マッカーサーとか進駐軍の命令という言葉を耳にするようになってからのことである。 先生の指示で国語や音楽などの教科書へ墨を塗り始めた。 途中で教頭先生が墨塗りの様子を見に来られて、受け持ちの先生へ墨塗りを追加するように指示していったようだった。 墨塗り箇所は全国統一ではなく学校へ任せられていたのだろうか。 

墨塗りをした部分は軍国主義的な文章や民衆主義に反する箇所であったろうが、2年生のボクたちには理解することができるはずはなかった。 読み物が満足に手に入らなかった時代であったせいか、ボクは墨塗りで残った活字を家で繰り返し読んでいたようである。 そして今、墨塗りされなかった一部を思い出すことができた。 それは天女の羽衣の物語である。 ボクはその物語の中でたいそう気にいった文章を口ずさんでいたから、今でも思い出せるのだろう。 三保の松原で漁師が羽衣を拾ったとき、天女が現れて舞を見せるから羽衣を返してくれと頼むが、漁師は羽衣を返すと舞わずに天へ帰るだろうと疑い、返そうとしない。 すると天女は「天人はウソというものを知りません」という。 漁師はこれを聞き、恥じて謝るのだ。 ボクは羽衣の歌とともに天人の言葉を暗唱していた。 このとき、ボクは天人のようにウソをつかないようにしようと心に決めたように思う。 

 ♪白い浜辺の 松原に 波が寄せたり 返したり

 あまの羽衣 ひらひらと 天女の舞の美しさ

 いつかかすみに つつまれて 空にほんのり 富士の山♪

こんなによく記憶しているのは、墨が塗られて教材が少なくなったので、残ったところを先生が熱を込めて教えてくださったためか、読み物がなかったから教科書を繰り返し読んでいたせいかも知れない。 ボクは羽衣の歌を歌いながら天女が舞う姿を想像していたのだ。 

敗戦で学校の様子が変わった。 朝礼での宮城遥拝はなくなった。 奉安殿に最敬礼することもなくなり、教育勅語の奉読もなくなった。 軍国主義の教育から民主主義の教育に変わり、墨塗りの教科書で学校の先生たちは、子供たちの教育に戸惑ったことであろう。

敗戦後30年余り経った1976年、ボクは羽衣伝説の三保の松原へ旅をした。

 

【墨塗り教科書参考URL】

https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A2%A8%E3%81%AC%E3%82%8A%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8&hl=ja&rlz=1T4TSJH_jaJP555JP555&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=wk51U57HEIKIuASjxoKIAQ&ved=0CAYQ_AUoAQ&biw=1336&bih=556

 

 

 



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8 コメント

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小学校の頃 (kawaiihukutyan)
2014-05-16 15:04:00
すけつねさんはよく覚えておられますね。毎日の平凡な出来事は忘れても戦争のように特別な事は子供心にも覚えているんですね。18年生まれの私は幸せにも戦争は経験していません。戦争は絶対するべきではありませんね。
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すけつねさんへ (みっく・じゃが)
2014-05-16 23:22:28
すけつねさんのブログで戦中戦後のお話を読むにつけ、
戦争というものの実態を垣間見ることができます。
戦地に行った人以外にも大きな影響を及ぼしていることが分かります。
私は戦後の生まれで、親からは食糧事情を聴くのみで、
このような話を聞く機会がありませんでした。
私たちは、戦争というものがどういうものなのか、
もっと知らねばなりません。
これからもよろしくお願いいたします。
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今日もありがとうございます (MOTOMMZ)
2014-05-18 21:34:55
すけつねさんのお話を読ませて頂くにつけ戦争の愚かさを感じます

戦争の犠牲になって死んでいった方たちの事も忘れてならない事ですが
すけつねさんの様に今の人たちに少しでも戦争の悲惨さを後の人たちに残す事も大事な事と思います
私も戦中人間としてすけつねさんのお話を聞くたびに怒りを感じ伝えて行かねばと思います

本当にすけつねさんのお話には驚くばかりです、今後とも残して行って頂きたく思います
今日もありがとうございました
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ずれた基準 (夏雪草)
2014-05-19 01:30:04
こんばんは。
黒塗りの教科書のこと、
両親からも聞かされました。
読むところが少なくなったそうですね。

この頃の教育って何だったのでしょうね?
本来の教育ではありませんでしたね。
大切なことを教えなければいけないのに、
恐ろしい話です。
戦争って、生死のことだけでなく怖いものです。
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皆さまへ (すけつね)
2014-05-20 13:49:35
たくさんのコメントありがとうございました。
戦争体験で多少トラウマになっておりますが、皆様からのコメントに励まされております。
そして、また、あの時代のことを記録に残そうとという気持ちが湧いてきます。
何の罪の意識もなく、人が人を殺すことを子供のころから教育(洗脳)されていたように思います。
怖ろしいことです。
再び戦争を起こすことのないように働きかけていかなければならないと考えます。
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お問い合わせ (中西茂)
2014-08-15 15:13:13
突然ですが、すけつね様。読売新聞東京本社の中西と申します。現在、「昭和時代」という長期の連載にかかわっております。ブログの墨塗り教科書のコラムを興味深く拝読しました。お話をうかがえるとありがたいのですが、いかがでしょうか。
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中西茂さま (すけつね)
2014-08-16 08:48:41
私のつたないブログをご覧いただき、ありがとうございます。
私は昭和20年7月に函館空襲を体験しました。
秘密にされ新聞に載りませんでしたが、青函連絡船12隻は全滅しました。
7月30日、秋田へ疎開し、墨塗り教科書の体験は9月のことと思います。
翌年3年生の教科書は新聞紙のような紙を自分で折り畳み、切り取って糸で閉じたものでした。
中西様へ協力させていただくこと、光栄に存じます。
具体的にどのようなことにお応えしたらよろしいでしょうか?
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ありがとうございます (中西 茂)
2014-08-17 22:36:08
ここでのやりとりですと、すべてオープンなので、できれば普通のメールでやりとりするか、お電話でお話するか、したいと思います。ご都合がつくようなら、おじゃますることも検討いたします。03(3242)1111で調査研究本部の中西あてに、どういう連絡方法がご都合がよろしいか、会社に伝言いただけないかと思います(明日から出張に出てしまうためです。ここに携帯電話を記すわけにもいかないと思いまして)。
ちなみに「羽衣」のお話は墨塗りをされた昭和20年度の話なのでしょうか。21年度の折りたたみ教科書のほうには、項目があるようですが(いま調べている最中です)
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