「若者から若者への手紙 1945←2015」を読んだ。
1945年に若者であった人の戦争体験談が語られる。これに対して現代の若者が手紙を書いた本である。
1945年、私は国民学校2年生だった。戦争を体験したし、青年になった頃、先輩たちから戦場での様子を聞いたことがある。
民間人を木に縛り、銃剣で刺し殺したことや、後ろ手に縛って座らせ、軍刀で首を刎ねた話なども聞いた。
若者から若者への手紙の中から、残酷なことを告白した金子さんの体験談の一部を抜粋し、書き留めたい。
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「結婚して子どもができてからだよ。自分がやったことを、心から悔いたのは」と日中戦争で徴兵された金子さんは語る。
ある日、初年兵が集められた。林の中で、中国人の農民が数人、木に縛りつけられている。逃げ遅れて捕まったんでしょう。私たち初年兵は、十メートルほど離れたところから縦に列を作らされた。古い兵隊が「いいか。号令で走って行って、あの農民を殺せ!」。 刺突訓練という人殺しの訓練なんです。 一番、二番、三番、と走って行って、私は四番目だった。 銃剣を構えて「やぁーっ!」と走った。
ところが人を殺すのは、こんな怖いことはない。 私は子どもの頃は相当悪ガキだったが、そんなものじゃない。相手は目隠しもされずに木に縛りつけられて、すごい目でこっちを睨んでいるからね。力が入らなくて手が滑っちゃう。
私たちは夜中じゅうを攻撃した。 朝がたには掃討を始めて、私と古い兵隊は二人で一軒の家屋に入った。 最初は暗くて何も見えなかったが、目が慣れると奥の方に女の人が一人、四歳ぐらいの男の子を抱いてじっとしているのが見えた。 古い兵隊が「金子、ガキを連れて外に出ろ。おれが終わったら交代するから」。 私は泣く子を連れて表に出た。 女の人の悲鳴が聞こえて、古い兵隊が女の人の髪の毛をつかんで家から出てきた。 抵抗されて怒ってね。 「このアマ、ふざけたやつだ」と、にあった深い井戸の前に連れていった。「金子、おまえ足を持て」。 私たちは一、二の三で女の人を深い井戸の中にぶちこんだ。子どもは母親が井戸の中に入ったもんだから「マーマー」と泣きながら井戸の周りを回って、どこからか台を持ってきてね。よじ登って自分から井戸に飛び込んでしまった。
私は戦犯管理署で自分の罪を認めるようになった。だけどね、本当に自分が中国でとんでもないことをしたとわかったのは、ずっとあと、結婚して子どもたちが生まれてからだね。 娘が病気した時に私、病院に見舞いに行ったんだね。 そしたら娘が私の顔見て、にこーと笑ってね。 ああ、いい笑顔だった。 その時、殺された母親を追って井戸に飛び込んだ、あの子どものことを思い出して、申し訳ないと心から思った。 育っていく子どもたちを見ながら、生活の中で、戦争だけはいかんという私の気持ちも、だんだん固まってきたんだよ。
ばかみたいなもんだよ、兵隊は。 やれって言われれば殺しでもなんでもやんなくちゃなんない。 死ねって言われたら死ななくちゃなんない。 何の権利もないの。 消耗品だよ。 兵隊は人間であって人間じゃないんだよ。
だから私はみんなを不幸にする軍隊なんかいらない、戦争はしちゃいかん、と言い続ける。 銃を持たんでも戦争を防ぐことはできる。 本当は、それが立派な愛国心だと思うよ。
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私は国民学校(小学校)のとき、校庭で兵隊が銃剣で突撃する訓練を見ていた。 背丈ほどの杭を2本、肩幅に立てて、それに縄をまいて、人がたを作る。 銃の先に剣を取り付けた兵隊が、「ヤーッ!」と叫びながら突進し、人がたを突き刺すのだ。 5・6年生の子供たちも、学校の先生から銃剣の代わりに木銃で訓練を受けていた。 戦時中は、わずか10歳の子供たちも、人殺しの訓練を受けていたのだ。
銃剣を向けた先にはだれがいたのか? 機関銃や戦車砲で向かってくる敵兵なのか? 銃剣で倒せた人は無抵抗の民間人ではなかったのか!
「若者から若者への手紙 1945←2015」
2015年7月10日初版発行
聞き書き:室田元美 北川直美
写真:落合百合子
編集:北川直美
発行:ころから
定価:1,800円+税