夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

若者から若者への手紙(1) 戦争で人は鬼畜となる

2015年10月14日 | 戦争とは何か?

 

「若者から若者への手紙 1945←2015」を読んだ。

 1945年に若者であった人の戦争体験談が語られる。これに対して現代の若者が手紙を書いた本である。

 

 1945年、私は国民学校2年生だった。戦争を体験したし、青年になった頃、先輩たちから戦場での様子を聞いたことがある。

 民間人を木に縛り、銃剣で刺し殺したことや、後ろ手に縛って座らせ、軍刀で首を刎ねた話なども聞いた。

 若者から若者への手紙の中から、残酷なことを告白した金子さんの体験談の一部を抜粋し、書き留めたい。

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 「結婚して子どもができてからだよ。自分がやったことを、心から悔いたのは」と日中戦争で徴兵された金子さんは語る。

 ある日、初年兵が集められた。林の中で、中国人の農民が数人、木に縛りつけられている。逃げ遅れて捕まったんでしょう。私たち初年兵は、十メートルほど離れたところから縦に列を作らされた。古い兵隊が「いいか。号令で走って行って、あの農民を殺せ!」。 刺突訓練という人殺しの訓練なんです。 一番、二番、三番、と走って行って、私は四番目だった。 銃剣を構えて「やぁーっ!」と走った。

 ところが人を殺すのは、こんな怖いことはない。 私は子どもの頃は相当悪ガキだったが、そんなものじゃない。相手は目隠しもされずに木に縛りつけられて、すごい目でこっちを睨んでいるからね。力が入らなくて手が滑っちゃう。 

 私たちは夜中じゅうを攻撃した。 朝がたには掃討を始めて、私と古い兵隊は二人で一軒の家屋に入った。 最初は暗くて何も見えなかったが、目が慣れると奥の方に女の人が一人、四歳ぐらいの男の子を抱いてじっとしているのが見えた。 古い兵隊が「金子、ガキを連れて外に出ろ。おれが終わったら交代するから」。 私は泣く子を連れて表に出た。 女の人の悲鳴が聞こえて、古い兵隊が女の人の髪の毛をつかんで家から出てきた。 抵抗されて怒ってね。 「このアマ、ふざけたやつだ」と、にあった深い井戸の前に連れていった。「金子、おまえ足を持て」。 私たちは一、二の三で女の人を深い井戸の中にぶちこんだ。子どもは母親が井戸の中に入ったもんだから「マーマー」と泣きながら井戸の周りを回って、どこからか台を持ってきてね。よじ登って自分から井戸に飛び込んでしまった。

 私は戦犯管理署で自分の罪を認めるようになった。だけどね、本当に自分が中国でとんでもないことをしたとわかったのは、ずっとあと、結婚して子どもたちが生まれてからだね。 娘が病気した時に私、病院に見舞いに行ったんだね。 そしたら娘が私の顔見て、にこーと笑ってね。 ああ、いい笑顔だった。 その時、殺された母親を追って井戸に飛び込んだ、あの子どものことを思い出して、申し訳ないと心から思った。 育っていく子どもたちを見ながら、生活の中で、戦争だけはいかんという私の気持ちも、だんだん固まってきたんだよ。

 ばかみたいなもんだよ、兵隊は。 やれって言われれば殺しでもなんでもやんなくちゃなんない。 死ねって言われたら死ななくちゃなんない。 何の権利もないの。 消耗品だよ。 兵隊は人間であって人間じゃないんだよ。

 だから私はみんなを不幸にする軍隊なんかいらない、戦争はしちゃいかん、と言い続ける。 銃を持たんでも戦争を防ぐことはできる。 本当は、それが立派な愛国心だと思うよ。

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 私は国民学校(小学校)のとき、校庭で兵隊が銃剣で突撃する訓練を見ていた。 背丈ほどの杭を2本、肩幅に立てて、それに縄をまいて、人がたを作る。 銃の先に剣を取り付けた兵隊が、「ヤーッ!」と叫びながら突進し、人がたを突き刺すのだ。 5・6年生の子供たちも、学校の先生から銃剣の代わりに木銃で訓練を受けていた。 戦時中は、わずか10歳の子供たちも、人殺しの訓練を受けていたのだ。 

 銃剣を向けた先にはだれがいたのか? 機関銃や戦車砲で向かってくる敵兵なのか? 銃剣で倒せた人は無抵抗の民間人ではなかったのか!

 

 リンク:若者から若者への手紙(2)

 

「若者から若者への手紙 1945←2015」

    2015年7月10日初版発行

    聞き書き:室田元美 北川直美 

    写真:落合百合子

    編集:北川直美

    発行:ころから

    定価:1,800円+税

 


風間杜夫ひとり芝居 「正義の味方」 を 観た

2015年10月03日 | 戦争とは何か?

 栃木県総合文化センターで、風間杜夫のひとり芝居、「正義の味方」を観た。

 (ちらしを借用)

舞台は「大正湯」という下町の銭湯の脱衣所。

中央に番台、左右に男湯、女湯の入り口。

大正8年生まれの老人、大角卯三郎が番台にあがる。

ある日、東京大学の女子学生が95年間の人生を取材に来る。

卯三郎は波乱に満ちた生涯を語り始めた。

 

 この芝居の中で特に印象に残った場面を思い出して書いてみた。

     (記憶によるものなので正確に表現できないが)

兵役から帰ってきた昭和18年、卯三郎には恋人ができた。

結婚式を挙げようとした時、またも召集される。

帰還したら、一緒に暮らすことを夢見て、フイリッピンの戦場へ出て行く。

 卯三郎は米軍機の機銃掃射で、ふとももを撃たれたが、一命をとりとめた。

敗戦後、帰国してみたら、戦死したことになっており、婚約者は別の男に嫁いで、すでに女の子が生まれていた。

卯三郎は過酷な戦場の思い出を話し始める。

*「戦友の九割は死んだ」

*「餓えで苦しんだ。 人を煮て食おうと思ったこともある」

 

婚約者が嫁いでいたことに落胆した卯三郎だったが、戦後の復興に精を出す。

会社を立ち上げて成功したが、バブルで倒産。

そして、「大正湯」のオーナーになる。

95歳になったが今も銭湯で働く。

 

 女子学生の質問に応えて、卯三郎は叫んだ。

*「戦場は地獄だ。 援軍はこない。 敵は人だけじゃない。 餓えと病気だ」

*「将校は、『貴様ら、生きて帰れると思っているのか』 と、突撃の命令を出した。

  みんな死んでしまった」

  http://www.tomproject.com/works/seigi/index.html

 


映画:日本のいちばん長い日

2015年08月15日 | 戦争とは何か?

 2015-08-14

 映画「日本のいちばん長い日」を観た。

 映画館の看板に書かれていた文字を紹介する。

 

1945年8月15日終戦

日本の未来を信じ、戦争終結のために命をかけた男たちの感動の物語

国民は苦しんでいる  もう十分待った

国民を想い平和を追求する昭和天皇

↓↓↓

 https://youtu.be/KAvsx0Hruws

 

 


宇都宮空襲展

2015年07月26日 | 戦争とは何か?

宇都宮市のオリオン通りで、「宇都宮空襲展」が開かれていた。

会場の入り口に、戦闘機グラマンの模型があった。

私は函館空襲でグラマンの機銃掃射で恐ろしい目にあっている。

だから、この模型を見たとき、恐怖体験が思い出された。

 

爆撃機B29の模型は天井から吊り下げられてあった。

B29は3月10日の東京大空襲で、下町を焼夷弾で焼きつくした爆撃機だ。

 空襲の遺物が展示されてあった。

焼夷弾や機銃の弾丸、焼夷弾が貫通した天井板、機銃掃射の弾で穴の空いた柱。

 

空襲の火炎のため、溶けて一かたまりになった大量の釘。

火炎で変形した羽釜、火災ですすけたヤカンなどだ。

恐ろしいほど、焼夷弾の威力が感じ取られた。

 

 

昭和20年7月12日の深夜、宇都宮空襲。

宇都宮市の中心部である、JR宇都宮駅から、東武宇都宮駅の間が、焼け野原になったのだ。

アメリカの爆撃機、B29は真夜中に焼夷弾の雨を降らせたのだ。

115機で襲い、約10万個の焼夷弾を投下したそうだ。

火の海と化した街から、逃げ場を失った人々は川へ飛び込んだ。

しかし、その川の中でも衣類に火がついたと聞く。

死者620人、負傷者の数はどれほどか。

家を焼かれた人の数は、約4万8千人という。(47,976人)

学校の校庭には累々と死体が集められた。

街は一瞬にして地獄と化したのだ。

 

宇都宮空襲の絵画を見る。

闇の中で、空から襲うB29。

焼夷弾による火災から逃げまどう人々。

橋の上から川へ飛び込む人々。

恐怖に脅える人々。

 

赤子を抱えた人はどうしたろうか。

無事、親子で逃げられただろうか。

人々の気持ちを想像してみる。

 

  

        リンク ⇒ 宇都宮市の空襲

 

2015-07-22