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夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

終戦になっても親が迎えにこない  *ボクの見た戦中戦後(19)

2014年01月27日 | ボクの見た戦中戦後

  戦争は終わった。疎開していたクラスの何人かは親が迎えに来て、都会へ帰っていった。

しかし、ボクの親は迎えにこなかった。祖母が北海道へ出かけた。あとで知ったことだが、父母に秋田へ転居するようにと説得に行ったとのことである。

食糧の不足していた時代である。母は秋田に来る前に栄養失調のせいか気を失い、倒れたそうである。当時撮った父の写真はガラガラに痩せていたのを姉は見たという。

北海道では親子8人の食糧を確保するのは難しかったせいかも知れないが、父母は秋田へ転居することにしたらしい。

母は11月の初めに2歳の妹とまだ赤ちゃんの弟を連れ、貨物船で津軽海峡を渡ってきた。父が秋田へ来たのは翌年の1月であった。親子8人が揃ったのは半年ぶりであった。

 

ボクは父母がいない間、さびしく思ったことが2度あった。

一つは、近所におもちゃ売りが来たときである。子供たちが母親からおもちゃを買ってもらっている様子を見て羨ましくなった。メンコやコマなどではなかったかと思うが、祖母にねだったら叱られて買ってもらえなかった。それどころか次々と小言を言われ、ボクは悲しく寂しい思いをこらえていたのだ。そのときは親が恋しかった。

2度目はボクがパンツをはいていない事を、親戚の子に言いふらされたときである。

北海道にいたときは、寝床に入る前に、必ず下着や上着をきちんと畳んで枕元に置いていた。夜中に空襲警報のサイレンがなると飛び起きて、急いで身支度をして防空壕へ飛びこんでいたのだ。空襲のときは下着を着る暇もなく、半ズボンや上着だけで避難したことがあったのかも知れない。

疎開した日も飛び起きて急いで身支度をしたのだろうか、パンツをはかずに半ズボンをはいたままだったのだ。あの疎開のどさくさで、母親も下着のチェックが出来なかったのだろう。

ボクは母親が秋田へ来る3か月余り、パンツなしで洗濯をしない半ズボンで過ごしたのだ。ベルト代りに結んでいた布ひもの折り目には、びっしりと虱(シラミ)が並んでいた。

母が秋田へ到着する時刻を待っていたとき、突然、祖母に床屋へ行くように言われた。ぼうぼうに伸ばしたままだった頭を母に見せないようにしたのだろう。床屋から帰ったときには母は家に着いていた。姉は駅へ母を迎えに行くことができたが、ボクは間に合わなかった。

 

 親戚の家には祖母と叔母と2人の従姉妹の4人が住んでいた。叔父はこの年の4月に亡くなっていたのだ。

そして、一つの屋根の下でボクの家族8人と、叔母の家族4人が暮らすことになった。


砕氷船亜庭丸で疎開  *ボクの見た戦中戦後(18)

2014年01月19日 | ボクの見た戦中戦後

 

昭和20年7月末の夜、ボク(7歳)は父と姉(11歳)妹(3歳)の4人で青函連絡船に乗り、疎開しようとしていた。灯火管制で埠頭は真っ暗であった。乗船を待つ建物の中で船員が高い所に上がり、メガホンで何か叫んでいる影が闇のなかに見えた。子供の「オカアサン、オカアサン」と泣き叫ぶ声と「ココデスヨ、ココデスヨ」と母親の声。混雑のため母子は離ればなれになってしまったが、だれも手助け出来ない。ボクは父から離れたら、あの子のようになってしまうと、父の洋服にぎっしりとしがみついていた。父は妹を背負っていた。

実は退職後に調べて分かったことだが、連絡船12隻は米機の爆撃で全滅していたのだ。それで、稚内樺太間の連絡船、亜庭丸を臨時の連絡船とし、二日で青森函館間を往復していたのだ。亜庭丸は砕氷船の機能をもった貨客船であった。

8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、死者352人という被害がありながらも秘密にされ、国民には知らされていなかった。新聞では「被害状況は目下調査中なるも極めて軽微の見込みなり」と報道されたにすぎない。(朝日新聞縮冊版参考)

ボクの父は当時、函館鉄道管理局に勤務していたから、国鉄管理下の連絡船の状況については細かに知る立場にあったはずだが、子供たちには知らせていなかった。他の乗客はこのことを全く知らずに港へきたのだろう。前日から出航を待ち続けた人もいたことだろう。

亜庭丸出航の時刻に合わせて、父は夜になってから子供たちを連れて港へ来たのだ。暗闇の中を歩いて船室へ入った。船室は畳を敷いてあるだけである。ここで大勢の人たちが雑魚寝をするのだ。ボクは疲れたのかすぐ眠ってしまったようだ。翌朝、青森へ着いた。デッキへ出ると、上の方の船室(1等船室・2等船室)から兵隊が出てきた。兵隊が降りてから、一般客が船を降りた。

そして、青森駅前で恐ろしい光景を目にした。駅前には半分焼けた家が一軒ぽつんとあるだけで、一面焼け野原なのだ。半焼した家の前で男が一人、ぼんやりと立っているだけで、他に人影は一人も見えなかった。

秋田行きの汽車に乗った。超満員である。線路沿いの田んぼの稲の中に、丸い穴がところどころにあった。大人たちは「焼夷弾だ。焼夷弾のあとだ」と騒ぎ出した。汽車の窓からは点々と続く焼夷弾の穴が見えた。

父は子供たちを秋田の親戚へあずけた。ボクのすぐ下の妹(5歳)は6月に疎開していたから、子供4人が親戚の家で暮らすことになり、北海道には父母と末の妹(2歳)と弟(5か月)の4人が住むことになった。たぶん、函館の街も空襲で全滅する恐れがあったから、子供4人だけでも助かればと思い、疎開させたのだろう。

父は再び亜庭丸で函館へ向かった。この船も数日後の8月10日、青森湾で米機の攻撃を受け、沈没した。今もなお沈んだままになっている。

 

《青函連絡船が攻撃され沈没していく様子》

(アメリカ軍が撮影した動画です 1945 Strafing Japanese Ships 

 ⇓ ⇓ ⇓

 https://www.youtube.com/watch?v=yg2TxeoHNqk

 

 

《青森空襲》

⇓ ⇓ ⇓

http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/2014-05-11.html

 

 


手榴弾を拾った  *ボクの見た戦中戦後(17)

2014年01月15日 | ボクの見た戦中戦後

昭和20年、ボクが国民学校(現在の小学校)2年生になったとき、担任の先生が手榴弾を見せてくれた。

手榴弾は野球ボールほどの大きさで縦横に筋が入っている黒い鉄の塊りに見えた。

敵が上陸してきた所があるので、子供たちも敵兵へ手榴弾を投げて戦っているということであった。

たぶん沖縄のことだろうが、2年生のボクたちには地理的なことや、戦場の様子などは知るよしもなかった。

学校へ行く途中に、軍隊が訓練をしている広場があった。

そこは蒸気機関車の石炭の燃えカスを捨てて平らにならされ、野球場ぐらいの広さがあった。

ボクたちは学校の帰りに、ここを通り抜けながら軍事訓練を見ていた。

ある朝、ボクたちは広場に手榴弾が落ちているのを見つけた。

先生が見せてくれた黒い鉄ではなく、白っぽい色をした陶器のようであった。

蓋を外すと中から白い粉が出てきた。

友達はそれを半分ほど地面にまき散らした。

その日の授業が終わるとボクは急いで帰り、手榴弾を拾ってズボンのポケットに入れた。

先生から教わったようにボクたちも手榴弾で戦わなければならないときが来ると感じていたためかも知れない。

手榴弾はずっしりと重かった。

重い手榴弾は歩くにつれ負担になってきた。

そして、一人の兵隊にばったり出会ったとき、ポケットの中を検査されたらどうしようかと不安になった。

兵隊が通り過ぎたあとにボクは手榴弾をそっとドブに捨てた。

 

先日このことを思い出して、あの手榴弾は陶製だから練習用の模擬手榴弾ではないかと考えた。

それで、手榴弾についてネットで調べ、記憶にあるものと似ている陶製の手榴弾をみつけた。

敗戦の色が濃くなり金属が手に入らなくなったとき、鉄の代わりに陶製の手榴弾を造ったとの記述を見つけた。

陶製の手榴弾を造ったが、鉄製に比べ殺傷力は弱かったそうである。当然のことではないか。

ボクが拾った手榴弾は本物か練習用なのかについて検討してみた。その結果、信管を外した本物であることが分かった。

信管が外されていなかったら、あの朝、ボクたちは吹き飛ばされていたであろう。

 

大日本帝国は家庭の鍋釜をも供出させて武器を造ってきた。

それでも金属が不足すると、「土」で手榴弾を造って戦争を続けたのか。

数知れぬ国民を犠牲にして。 

 

ボクが拾ったものに似ている陶製の手榴弾(右側)

 URL元

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BC%8F%E9%99%B6%E8%A3%BD%E6%89%8B%E6%A6%B4%E5%BC%BE


ギョメイギョジで鼻をすすった  *ボクの見た戦中戦後(16)

2014年01月11日 | ボクの見た戦中戦後

講堂のステージの奥には壁が二重になっているような構造の所があり、中央の引き戸を左右に開けると御真影と呼ばれていた天皇皇后両陛下の写真を飾る所があった。

ここへ両陛下の写真を飾る日は四大節のときである。

四大節とは四方節(1/1)、紀元節(2/11)、天長節(4/29)、明治節(11/3)であり特別の祝日であった。

この日に奉安殿から講堂へ御真影を移すのである。

校長先生がステージの演台前に立つと、別の先生が黒いお盆を目よりも高く上げながら静かに演台へ歩み寄って行く。

校長先生はお盆から巻物を受け取り、その結び紐をほどいた。そして巻物を厳かな声で読み上げていく。

教育勅語である。

「チンオモウニワガコウソコウソウクニヲ----」

生徒たちは最敬礼をして聞くことになっているのだ。1年生のボクには何を言われているか分からなかった。

最後の言葉は「ギョメイギョジ」である。

この言葉を聞くまでは身動きは禁じられていた。頭を下げ続けていると、鼻汁が垂れてくるが、巻物の朗読が終わるまでは音を立ててはいけないのだ。

だから鼻汁が垂れてきても微動だにせずに堪えなければならないのだ。

最後の「ギョメイギョジ」になると、ほっとして、あちこちから鼻をすする音が聞こえてくるのだ。

当時5年生の姉は教育勅語を暗証していたが、1年生のボクには出だしと最後の「ギョメイギョジ」しか覚えていない。

 

戦争は負けた。

空襲におびえることはなくなった。

防空頭巾と救急袋を肩から下げて登下校していたが、その必要もなくなった。

敗戦の翌年か、教育勅語の朗読は廃止された。

奉安殿が倒されて馬車でどこかへ運ばれて行く様子をボクは見ていた。

講堂の両陛下の写真を掲げていた所の扉を開けても、先生に叱られることはなかった。

子供が隠れる程の奥行きのこの神聖な場所は子供たちの格好のかくれんぼの場所に変わった。

「チンオモウニ」も遊びとなった。

「チン」で犬が後ろ脚で立ち前足を揃えて立つ真似をする。

「オモウ」は両腕を交差して胸に当てる。

「ワガコウソコウソウ」は人差し指で自分を指してから片手を上げて天井を指すのだ。

こんな遊びが流行った。

もし戦時中だったら、非国民として先生にビンタをされたであろう。また、親も特高に連れて行かれたであろう。

 


戦中戦後の朝礼で  *ボクの見た戦中戦後(15)

2013年12月22日 | ボクの見た戦中戦後

戦時中、毎日の朝礼のときに宮城遥拝(きゅうじょうようはい)があった。

「宮城遥拝」と号令がかかると、講堂の斜め右前に身体を向け、キヲツケをした。

「皇居へ向かって最敬礼」で頭を深く下げるのだ。

校長先生のお話が始まる。

校長先生のお話は、何を話しているのか1年生のボクには理解できないが、「天皇陛下」という言葉がでると、「キヲツケの姿勢」をとらなければならないのだ。

キヲツケの後、また、「天皇陛下」という言葉がでれば、さらに姿勢を正さなければならない。

だからボクはほんの少し姿勢を崩して、次の「天皇陛下」に備えるよう身構えていた。

担任の先生から「兵隊さんはキヲツケのときに、顔に蜂が止まっても、身体を動かさない」と教わっていたから、ボクたちは朝礼のときに良い姿勢をとるように気を付けていたのだ。

 

戦争に負けた。  朝礼の様子が変わった。

宮城遥拝はなくなった。

「天皇陛下」という言葉も聞かなくなった。

だから、キヲツケをしようと身構えることもなくなった。

校長先生は姿勢を崩す子供を壇上から怒鳴った。

「だから日本は負けたのだ」と。

敗戦の翌年になっても校長先生は何かにつけ、子供たちを叱るときに、「だから日本は負けたのだ」を繰り返した。

子供たちも喧嘩で相手を非難するときに「だから日本は負けたのだ」と言うようになった。

校長先生は「日本は米粒みたいに小さい国」だと卑下した。

「アメリカの子供たちは自分の家の自動車を磨いて、こずかいを貰っている。それなのにお前たちは------」というのだ。

3年生のボクにはこの比喩が分からない。

ただ、ボクの家にも自動車があれば、洗車してこずかいを貰えるのにと思うだけであった。

ボクは世界で一番偉い人は天皇陛下であると信じていた。

だが、それより偉い人がいることを周りの大人たちの話から知るようになった。

マッカーサーというアメリカ人だ。

大人たちは今度は何かにつけ「マッカーサーの命令だ」「マッカーサーの命令だ」と言うようになった。

 マッカーサー元帥

 


浮浪児と軽蔑された戦災孤児  *ボクの見た戦中戦後(14)

2013年12月15日 | ボクの見た戦中戦後

昭和22年、ボクが小学4年生のときである。

家の前の道路で遊んでいると、見慣れない子が近寄ってきた。

ボクと同じ年ごろの子供である。

そこへ大人たちがやってきて、その子を捕まえて駅へ連れていった。

駅の宿直室に入れられ、大人たちに押さえつけられた子どもは、泣き叫びながら足をバタバタして暴れた。

大人たちは手に負えなくなったのか解放した。

すると、その子は線路伝いに南の方へ歩いていった。

その先には川があり、鉄橋がかかっている。

鉄橋を渡るのは危険だ。

大人たちの話によれば浮浪児とのことである。

村の商家へ夜中に訪ねてきたので、泊まらせたとのことだが、朝になったら、いなくなったので探していたとのことだ。

昭和25年の頃の新聞に、浮浪児が五重塔の二階へ竹竿を掛けて登っていく写真が掲載されたのを見た。

上野の五重塔をねぐらにしている浮浪児との記事であった。

この五重塔は現在、動物園の敷地内にあるが、当時は動物園の外にあった。

少年雑誌には浮浪児たちが大人に雇われて靴磨きをしたり、盗みを働かされている小説が載っていた。

また、ラジオでは浮浪児を扱った連続放送劇、「鐘の鳴る丘」が放送されていた。

だから、ボクは浮浪児について、少しは理解していた。

昭和25年の頃、ボクは父と一緒に秋田から夜行列車で上野駅へ行った。

駅の地下道には、戦災で家を失ったと思われる人々であふれていた。

地下道に寝ているのだ。

東京の街の中で浮浪児たちにも出会った。

ボクは函館で空襲に遭っていたから、あの戦争で、もしかしたらボクも浮浪児になっていたのかもしれないと、不安な気持ちになっていた。

あの子たちは、その後どうなったのだろうかと思う時がある。

最近、ボクは浮浪児たちの実態をネットで検索をしてショックを受けた。

*当時9歳の女の子の証言によれば、浮浪児狩りでトラックに載せられ、遠い山奥へゴミのように捨てられたというのだ。

米軍機の空襲(空爆)で家を焼かれ、親きょうだいと死に別れ、そしてまた、日本国からゴミ扱いにされて捨てられたのだ。

*バラ線で囲まれた収容所に連れて行かれた浮浪児が見たものは、廊下に放置された子供たちの遺体であった。

いつか自分もこうなる運命と悟り、脱走して生き延びたという。

*施設に収容されて、殴る蹴るの暴行をうけ、海底から遺骨を引き揚げる作業をさせられるなど、酷い生活を強いられた浮浪児たち。

*親戚に引き取られても、学校へ通わせてもらえず、労作業をさせられたり、心理的虐待を受けたりして、逃げ出す子供たちもいた。

 

戦災で親を亡くし、幼いながらも必死で生きようとしている子供たちを、

世間は浮浪児という蔑視的な名でよんでいた。

- - - - -  幼い命を救うことに努力をしないで - - - - -

 

施設に収容するのは保護ではなく、「狩りこみ」とか「浮浪児狩り」と呼ばれた。

 - - - - - 野犬狩りと同じ扱いではないか。- - - - -

 

《 リンク 》

ボクの見た戦中戦後

http://blog.goo.ne.jp/suketsune/c/50ec25a89de726ff074b8a7101a6833f

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%88%A6%E5%BE%8C&ei=UTF-8&fr=ush


いま明かされる戦災孤児の実像

http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/--650a.html

浮浪児になった子の証言

http://www16.plala.or.jp/senso-koji/4-furoujisyougen.html

浮浪児狩り

http://www16.plala.or.jp/senso-koji/furouji.html

- - -  本の紹介 - - -

浮浪児1945~戦争が生んだ子供たち~

http://www.shinchosha.co.jp/book/305455/



 


爆撃から奉安殿を守るこどもたち  *ボクの見た戦中戦後(13)

2013年12月08日 | ボクの見た戦中戦後

校門を入ると左手にコンクリートの小さな建物があった。

奉安殿というもので、天皇・皇后の写真と教育勅語の巻物が収められてあった。

登校時と下校時には最敬礼をするしきたりだった。

校庭の端の方にはクラスごとの防空壕があった。

防空壕といっても、ただ長方形の穴が掘られてあるだけであり、敵機からは丸見えである。

 

学校で空襲(空爆)に備えての避難訓練が行われたときのことである。

空襲を知らせる半鐘が連打されたので、ボクたちは防空頭巾をかぶり、防空壕へ飛び込んだ。

少したってから、ボクは防空壕から外の様子を覗いてみた。

すると、数人の上級生が避難せずに奉安殿を取り囲んでいるのだ。

6年生の姉は、あの子たちは敵の爆弾や銃弾から、奉安殿を身をもって守る特別な生徒であるとのことだ。

初等科6年生と高等科1・2年生(現在の小学6年生と中学1・2年生)の中から成績優秀な者が選ばれているという。

名誉な役目なので、学級の子供たちから羨ましがられているとのことだ。

 

天皇・皇后の写真は御真影と呼ばれていた。御真影は教育勅語の巻物と共に、学校では最も大切な物とされていた。

あの戦争当時、子供たちは御真影を守るために、敵機が飛ぶさなか、避難せずに命を犠牲にしてまで、奉安殿を取り囲んで守れと教育されていたのか。

 今日は12月8日か。真珠湾奇襲の日!! 

奉安殿の写真
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%A5%89%E5%AE%89%E6%AE%BF

 


豚の遺骨はいつかえる  *ボクの見た戦中戦後(12)

2013年10月27日 | ボクの見た戦中戦後

戦時中に流行った「湖畔の宿」の替え歌です。

 

♪ きのう生れた豚の子が 蜂に刺されて名誉の戦死

   豚の遺骨はいつかえる 4月8日の朝かえる

   豚のかあさん悲しかろ

 ♪ きのう生れた蜂の子が 豚に踏まれて名誉の戦死

   蜂の遺骨はいつかえる 4月8日の朝かえる

   蜂のかあさん悲しかろ

 ♪ きのう生れた蛸の子が 弾に当たって名誉の戦死

   蛸の遺骨はいつかえる 骨がないからかえれない

   蛸のかあさん悲しかろ

 

高峰三枝子の湖畔の宿は戦時中、軟弱な歌としてレコードが発売禁止になった。

しかし、誰が作ったのか「豚の遺骨」として替え歌が歌われていた。

機銃掃射におびえた函館でも、疎開先の秋田でも子供たちが歌っていたのだから、全国的に広まっていたと思う。

子供たちは蜂に刺されて死んだ豚の歌を面白がって歌っていたが、これには裏があるのではないか。

カムフラージュした厭戦歌だろう。

赤紙一枚で激戦地に送り込まれ、若くして命を失った兵士たち。

遺体はジャングルの中に放置され、海中に沈み、親の元にかえされなかったのだ。

名誉の戦死とされながらも、遺骨がかえされないことを皮肉って歌ったものだろう。

若い兵士を豚・蜂・蛸に置き換えて戦争を風刺した歌に違いない。

子供たちは無邪気に歌っていたが、特高も厭戦歌と気が付いたであろう。 

作詞者がみつかれば、非国民として監獄送りになるところだ。

もちろん、作詞者は不詳である。

 

12月8日は開戦の日、4月8日はお釈迦様の誕生日で花祭りである。

同じ8日でも、遺骨がかえってほしい日は4月である。

 

高峰美枝子の「湖畔のやど」

 


こんな女に誰がした  *ボクの見た戦中戦後(11)

2013年09月27日 | ボクの見た戦中戦後

 進駐軍が悪いことをしても新聞に載らないと父が母に話していた。 小学生のボクには、どんな悪いことなのか想像がつかなかったが、後にその実態を知るようになった。 婦女への暴行である。 

 敗戦直後に日本政府は進駐軍相手に慰安施設を作り、新聞広告で慰安婦の募集をしていた。 この進駐軍相手の娼婦をパンパンと呼んでいた。

 どこの基地のことか忘れたが、アメリカの基地が出来たときに、パンパンが農家の一部屋を借りて住み、進駐軍相手に商売を始めたとのことであった。 間借りといっても、当時の農家はふすまや障子で仕切られているだけであり、雨戸を開けていれば家の中は丸見えである。

 日中、パンパンが進駐軍相手に行う行為を、小学生たちが隣の部屋や外から覗き見し、その様子を作文に書いていたという。 ボクは高校を卒業した頃、このことに関する記事を雑誌で読んで衝撃を受けた。

 パンパンは軽蔑のまなざしで見られ、バスに乗っても他の乗客から、降りろ、と怒鳴られることさえあるということも知った。

 昭和26・7年の頃のことである。 近所の娘の姿が見えなくなった。 家の者は娘がどこにいるのか他人へ知らせなかった。 村には娘が売られたのではないかと噂がたった。 

 あの頃、駅前のラジオ屋では流行歌のレコードをかけ、外付けのスピーカーで流していた。 ボクは歌詞を全部知ることはなかったが、繰り返し歌われるフレーズだけは覚えていた。

 “こんな女に誰がした”

   星の流れに

 


傷痍軍人  *ボクの見た戦中戦後(10)

2013年09月24日 | ボクの見た戦中戦後

  街角で、白衣姿に戦闘帽を被った傷痍軍人が2・3人で立っている様子をよく見かけた。 戦争で手足を失った姿を見せながら、道行く人たちから金銭を貰っていた。 「我々はあの恐ろしい戦争で-------」と戦争の悲惨さをメガホンで叫び、ときにはアコーデオンを弾きながら軍歌などを歌っていた。

 また、汽車の中で車両を渡り歩き、乗客から寄付を募っていた。

 昭和33年ごろの年末、ボクは上野発青森行き夜行急行列車に乗った。 列車は郷里へ帰る人々で超満員であり、秋田駅近くまで通路に立たなければならなかった。 向かい合わせの4人座席の人々は、互いに都会での仕事や郷里の話などをして、なかなか寝付けない様子だった。 

 ボクが立っているすぐそばの座席に、白衣に戦闘帽と一見して傷痍軍人と分かる人がいた。 彼はうとうとしながら、独り言を言い出した。 「オレのことを偽物呼ばわりする者がいる。 オレは傷痍軍人だ。 偽物ではない」と。  彼は偽物と言われ、単なる乞食と思われ、傷ついていたのであろうか。

 ボクの村にも片足を失った元軍人がいた。 彼は座ったまま下駄を作ったり、ポンせんべいを焼いて生計を立てていた。 


夜な夜な亡霊が二つ  *僕が見た戦中戦後(9)

2013年09月14日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(9)

夜な夜な亡霊が二つ*

 同級生の兄が復員してきた。 どこで戦ってきたのかは聞かなかったが、敗走しているときに、怪我か病気で動けなくなった戦友を置き去りにしてきたらしい。

 その兄の所へ、夜な夜な亡霊が二つ現れるという。

 寝ている枕もとで、亡霊は兄の名を呼んで起こし、

ヨクモ~オレヲ~オイテイッタナ~

と、凄みをきかせるということだ。

 同級生の兄はおそらく南方の島々に出兵されていたのではないだろうか。

 軍の幹部は本土防衛のためにと、島々の兵隊たちを釘づけにしていた。 食料も弾薬さえも送らない状態だった。 援軍を送ることも、救助にも向かわなかった。 捨石にされたのだ。

 残された兵隊たちは、なにを食べて生き延びようとしたのだろうか。 飢えに苦しみ、病気に苦しみ、敵の砲撃でジャングルを逃げまどい、多くの兵が死亡したであろう。

 置き去りに去れた者も、生き残った者も悲惨だ。

 


戦災者たちのバラック  *ボクの見た戦中戦後(8)

2013年09月11日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(8)

 ☆戦災者たちのバラック

 戦後5・6年ほど経った頃、父に連れられて、東京、横浜近辺の旅をした。 上野公園には戦災者たちのバラックが並んでいた。 割烹着を着た婦人が室内を箒で掃いている姿が印象に残った。 その後のニュース映画で、役所の人たちがバラックを強制的に取り壊しているのに対して、住民たちが抵抗している場面を見た。 アメリカに爆撃されて家を失い、日本の役人からも住まいを追い出された人達は、どこへ行ったのだろうか。

 ☆浮浪児

 上野駅の地下道には、戦災で家を失ったであろう人々が寝ていた。 女性もいた。 戦災孤児たちは「浮浪児」と軽蔑的名称で呼ばれていた。 街中でその浮浪児たちに出会った。 もしかしたら、ボクもこうなっていたかも知れないと恐ろしい思いをした。

 ☆横須賀・横浜

 横須賀の港にはアメリカの軍艦が並んでいた。 横浜の港では日本人の労働者が働いていた。 横浜の街を歩いているのは、ほとんどがアメリカ兵だった。 厚化粧をした日本女性が、アメリカ兵と抱き合っている姿をみた。 中学生のボクには、元敵兵と抱き合っていることが理解出来なかった。 街ではアメリカ兵相手に少年が新聞を売り、少女は花を売っていた。

 ☆日本人入ルベカラズ

 横浜の街で、鉄条網に囲まれた敷地の道路側に、戦車が何台も並んでいた。 看板には 「日本人入ルベカラズ」と書かれていた。 入り口には銃を持った兵隊が立っていた。 


バンザイで送られ、帰りは冷たく   *ボクの見た戦中戦後(7)

2013年08月29日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(7)

*村の若者が出征するというので駅前広場に大勢の人が集まった。

大人たちも子供たちもバンザイ!! バンザイ!!と叫んで見送った。

*英霊が帰って来るというので村人たちは駅へ迎えに出た。

遺骨が入っているとされる木箱を白い布で包み、首から下げた子供が母親と汽車から降りてきた。

そして、道の両側に並んだ人々の間を黙々と歩いて行った。

戦争は終わった。

*激戦地から復員兵が帰ってきた。

駅へ誰も迎えに出なかった。

*満州からボクたちの学校へ先生が復帰してきた。

放課後、先生は誰もいない所で、軍歌・日本陸軍の一節を替え歌にして歌っているのをボクは聞いた。

「歓呼の声にダマサレテ、今ぞ出で立つ父母の国」


新型爆弾~はだしのゲン  *ボクの見た戦中戦後(6)

2013年08月24日 | ボクの見た戦中戦後

 ボクの見た戦中戦後(6)

爆撃機B29が飛来するようになった。

爆弾が落ちると爆風で目玉が飛び出し、鼻や耳もちぎれる。

だから、空襲になったら、目鼻耳を押さえて地面に伏せろと教わった。

両手の人差し指と中指と薬指で目を覆い、小指で鼻を、親指で耳を押さえるのだ。

学校で、この伏せの練習をした。

ボクの母親は爆弾で手足がちぎれたら、どうしようかと心配していた。

どこかへ新型爆弾という、恐ろしい爆弾が落ちた話を聞いた。

原子爆弾のことだ。

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動画 はだしのゲン 

 http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E3%81%AF%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%B3

 


巡査に米を取り上げられた  *ボクの見た戦中戦後(5)

2013年08月19日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(5)

馬鹿な戦争は敗戦として終わった。

もう空襲の心配はなくなった。安心して眠れるようになった。

(1)お寺に疎開していた東京の国民学校の生徒たちは引き上げて行った。

疎開児童を引率していた先生が、汽車に乗ろうとしたとき巡査が来て、先生の荷物を検査した。米が見つけられた。村の人から分けて貰ったわずかな米を巡査は容赦なく取り上げて行った。子供たちの目の前で!!

 (2)お爺さんが駅の方から走ってきた。その後を巡査が警棒を振り上げて追いかけてきた。ボクの家の前で、お爺さんは土下座をして、「隣町の娘の所へ持っていく米だ。許してくれ」と、泣き叫んでいた。

(3)駅へ行くバスが来た。駅の停留所の5~60メートル手前で二人の巡査がバスを止めた。そして、乗客の荷物を調べ始めた。

小学4年生ぐらいの子供の荷物から米が出てきた。巡査が米を取り上げると、男の子は泣きながら巡査の後について行った。

戦後、全国的に食糧難で餓死者、栄養失調者が続出した。知名人のなかでは、配給米だけで生活をしていた東京地方裁判所の山口良忠判事や東京高校の亀尾栄四朗教授が餓死した。

巡査が取り上げた米は、どこに行ったのだろうか?

巡査もわずかな配給米では、餓死していたはずだ。