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夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

弁当泥棒  *ボクの見た戦中戦後(4)

2013年08月15日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(4)

小学2年生の夏だった。暑い日だった。

ボクは駅へ遊びに出かけた。

すると、駅前で大人たちが直立して頭を垂れ、ラジオ放送を聴いていた。

異様な雰囲気なので遊べずに家へ帰った。

あの日は昭和20年8月15日水曜日。

 

戦争は終わった。

しかし、子供たちにも苦難は続いた。

食糧難だ。

弁当を持ってこない子。

粗末な弁当を見られるのが嫌で、隠しながら食べる子。

そして、弁当泥棒。

また、人家へ忍び込んで、ご飯をお櫃ごと盗んで逃げる子供。

誰もがひもじい思いをしていた。

「ひもじい」 今は死語。

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僕の見た戦中戦後(23)戦中戦後の食糧事情

http://blog.goo.ne.jp/suketsune/e/983bb92b63ff65ac40c34cedfb75c59b


カミカゼの攻撃を受けた 元・米軍兵士に出会った   *ボクの見た戦中戦後(3)

2013年07月26日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(3)

神風の攻撃を受けた元・米軍兵士に出会った

 

戦時中、ボクは函館に住んでいた。

1943年の夏、毎日のように日の丸の飛行機が何機も上空を飛び回っていた。戦闘に備えて、操縦の訓練をしていたのだろうか。

突然エンジン音が聞こえなくなり、急降下してきたが、再び音がして急上昇して行った。故障したがすぐ立ち直ったのだろう。

翌年になると、飛行する機体の数は少なくなった。

1945年になると、日本の飛行機はほとんど見ることがなかった。

当時、小学2年生だったボクは上級生から、日本の飛行機はいざという時に飛び立つのだと教わっていた。

しかし、米軍の偵察機が飛んできても、迎撃に飛び立った話を聞いたことはなかった。

函館空襲で連絡船が全滅したときも、迎え撃つ飛行機は全く無かった。

室蘭が艦砲射撃される砲音が、80km離れた函館まで聞こえていたが、飛行機は1機も出撃しなかった。

2年前に飛び回っていたたくさんの飛行機はどこに消えたのだろうか?

 

ボクは中学生のとき、アメリカ軍が撮影した写真集をみて驚いた。

小さな日の丸の飛行機が巨大な軍艦に体当たりして行くけれど、火災を起こすだけで沈没はしない。

砲撃を受けて墜落して行くたくさんの特攻隊機。

若い命が次々と消えていったのだ。

ボクはこの時、初めて特攻隊のことを知った。

 

終戦から60年ほどたってから、ボクはアメリカの空港での老人から、 “日本人か? 日本のどこから来たのか?” と英語で問いかけられた。

老人は“私は日本へ行ったことがある。1945年、沖縄へ行った”と。

沖縄で戦った元・兵士なのだろう。

英語をよく話せないボクは KAMIKAZE と言ってみた。

すると、彼は急に黙り込んでしまった。

神風特攻隊の恐怖を思い出したのだろうか。

米兵は次々と自爆してくる KAMIKAZE を “クレージー” といいながらも、恐れていたのだろう。

 

 JAPAN WAR KAMIKAZE

 


竹槍で敵兵を突き刺せ!!  *ボクの見た戦中戦後(2)

2013年07月19日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(2)

竹槍で敵兵を突き刺せ!!

戦国時代の話ではない。

70年前の日本のことだ。

 現在、石川啄木の像がある函館の浜には大きな砂山があった。

子供のときの感覚であるが、住宅の2階か3階位の高さだったような気がする。

今は平地に造成され、住宅地となっている。

 

1943年、ボクが5歳のときだ。

砂山へ登ると航空母艦が見えた。

空には日の丸の飛行機が飛び交っていた。

道路では銃剣を持った兵隊たちが訓練をしていた。

夕方になると、隣組の婦人たちが竹槍で突撃の訓練を受けていた。

海から上陸してくる敵兵を突き刺す訓練とのことだ。

 

ある日、母は昼間と言うのに蚊帳を吊って子供たちを中に入れ、決して外に出ないようにと言いつけた。

母は防空頭巾をかぶり、モンペ姿になり、箒とバケツを持って部屋の隅に立っていた。

そこへ開いていた玄関に4・5人の男たちが現れた。

そして、“ 焼夷弾落下 ” と叫んで、亀の子たわしを部屋に投げ入れた。

母は、焼夷弾に見立てたたわしを箒で叩き、バケツで水を掛けるしぐさをした。

空襲で焼夷弾が落とされた時の消火訓練なのだそうだ。

 

夜、父が勤めから帰ってきて、母からその日の訓練の話を聞くと“馬鹿馬鹿しい”とあざけ笑っていたと、戦後になってから、当時4年生の姉から教わった。

父の言葉に母は、誰かに聞かれたら大変なことになるので、大きな声で言わないでと、父を戒めていたそうだ。

もし、他人の耳に入れば “ 非国民 ” とののしられ、憲兵に連れて行かれる恐れがあったからだ。

 

竹槍で、機関銃で攻撃してくる米軍に立ち向かうなど、出来るはずがない。

でたたいて、バケツの水を一つ掛けるだけで、雨あられのように降ってくる焼夷弾の炎を消すことが出来ない事は、誰だって分かっていたのではないか?

ただ、口にすることが出来なかったのではないか?

 《竹槍の画像》 

http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%AB%B9%E6%A7%8D%E6%88%A6%E4%BA%89#mode%3Ddetail%26index%3D6%26st%3D0


花火で米軍機を撃ち落とせ !! 函館空襲 *ボクの見た戦中戦後(1)

2013年07月15日 | ボクの見た戦中戦後

ボクの見た戦中戦後(1)

函館空襲 青函連絡船全滅 

★昭和20年7月14日(土)

海のかなたから、カラスの群れのように飛んできた米軍機は、函館の街を爆弾と機銃掃射で襲った。

そして、逃げ惑う青函連絡船に大量の爆弾を投下した。

連絡船は8隻沈没、2隻炎上座礁、2隻損傷で全滅。(内15日1隻)

海へ飛び込んだ人々を機銃掃射が襲った。

何故、溺れかかっている者を銃撃するのか!!

戦争は人権を重んじる国の兵士達をも悪魔にするのだ!!

近所に住んでいた船長も、沈没していく船から海へ飛び込んだところを、太ももを撃たれて亡くなった。

夫の遺体が担架で運ばれてきたとき、奥さんは大声で泣き叫んでいた。

当時、小学2年生のボクは、担架にしみ込んだ流血を洗い流しているところを見たり、奥さんの泣き叫ぶ声などにかなりのショックを受けた。

 ★昭和20年7月15日(日)

防空壕から外の様子をうかがっていた父を、グラマンの機銃が狙った。

弾はそれて、隣家の屋根瓦が弾け飛んだ。

父は敵機を撃った高射砲弾が炸裂して、破片が屋根に落ちたと、子どもたちに話した。幼い僕は父親の話を信じ込んでいた。

子どもたちを心配させないようにと、父は高射砲弾の破片としたのだろう。

★退職後に函館空襲を調べて驚いた。

函館山には高射砲が無かったというのだ。

しかし、ボクは確かに函館山から撃っていた高射砲の砲撃音を聞いていた。

大人たちは、日本軍の反撃で青森方面に逃げて行く敵機を撃っている高射砲の音だと話していた。

それでは、あの音はいったい何だったのか?

 ★浅利政俊編著「教えてください、函館空襲を」によれば、軍では函館山の要塞に花火師達を集めて、5寸玉花火で米軍機を撃ち落とせと命令したそうである。

★空襲に脅えながら、防空壕で聞いていた、敵機を撃つ高射砲の砲撃音と知らされていたあの音は、花火であったとは--------

《 撃沈される青函連絡船 》 

 アメリカの記録映画です

 

青函連絡船への攻撃と思われます