毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

 勇気の舞 凱歌の行進

2021年08月26日 | 妙法

〈桂冠詩人40周年 勇気の舞 凱歌の行進〉第3回 信越2021年8月26日

03:33

 本年は、「桂冠詩人」の称号が池田先生に贈られてから40周年。連載企画「勇気の舞 凱歌の行進」では、先生がつづった長編詩を紹介します。第3回は、信越の同志に詠んだ「栄光の到達へ 勝利の前進を!」(2003年)です。

軽井沢の長野研修道場から浅間山を望む(2018年8月、池田先生撮影)。1957年8月、池田先生は恩師・戸田先生との最後の夏を軽井沢で過ごし、浅間山の鬼押出しで広布の展望を語り合った
軽井沢の長野研修道場から浅間山を望む(2018年8月、池田先生撮影)。1957年8月、池田先生は恩師・戸田先生との最後の夏を軽井沢で過ごし、浅間山の鬼押出しで広布の展望を語り合った
正義と真実の師子吼を

「鉄は炎打てば
剣となる
賢聖は罵詈して
試みるなるべし」
 
これは
信越で綴られた
佐渡御書の御聖訓である。
 
 ◆◇◆
 
対話の戦人として
そしてまた
言論の闘士として
正義と真実を師子吼し
強烈な感動の炎を放ちゆく
わが勇敢なる
信越の盟友よ!
 
 ◆◇◆
  
忍難弘通の御本仏が
幾万歩を歩まれ
その魂魄を留められた
正義の戦闘は
この信越の
生命の大道にある。
  
君の歩みは
不正なる権力も
傲慢な歴史も
鬼畜の如き中傷も
激しい怒りをもって
踏みつけていく
勇壮なる
黄金の炎の道だ!
  
おお 越後路と
そして信濃路は
万年への源流の道!
ここに
誉れの師弟の道があるのだ。
 
 ◆◇◆
 
それは
決然たる強力な攻勢の道!
さらには
完全勝利への 
不撓不屈の道なのだ。
 
信越の天地で
師弟に生き抜く門下を
大聖人は讃えられた。
「金は大火にも焼けず
大水にも漂わず朽ちず・
鉄は水火共に堪えず・
賢人は金の如く
愚人は鉄の如し・
貴辺 豈 真金に非ずや」
 
わが信越の同志の
真金の信心こそ
広布永遠の鑑と
輝きゆくに違いない。
 
 ◆◇◆
 
おお 
信越!
今日も進歩だ。
今日も勝利だ。
  
おお
信越の同志よ!
自分自身の
誉れある歴史のために
今日も闘争だ。
今日も前進だ。
  
そして
思い出多き
王座の汝自身を
創りゆくのだ!
  

白鳥の渡来地として有名な新潟の瓢湖(ひょうこ)で、池田先生が居合わせた同志に声を掛ける(1983年4月、現・阿賀野市で)
白鳥の渡来地として有名な新潟の瓢湖(ひょうこ)で、池田先生が居合わせた同志に声を掛ける(1983年4月、現・阿賀野市で)
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特別インタビュー アウシュビッツを生き延びた心理学者

2021年08月25日 | 妙法

特別インタビュー アウシュビッツを生き延びた心理学者 エディス・エヴァ・イーガー博士2021年8月25日

  • どんな絶望にも、必ず希望はある
©Jordan Engle
©Jordan Engle

 第2次世界大戦中、ヒトラー率いるナチス・ドイツによるユダヤ人を中心とした迫害(ホロコースト)の犠牲者は、600万人にのぼります。心理学者のエディス・エヴァ・イーガー博士は、死の収容所アウシュビッツから生還した数少ない一人です。93歳の現在も、臨床心理士として、人々の苦悩に寄り添いながら、米カリフォルニア大学サンディエゴ校で教員も務めています。博士の壮絶な実体験から導き出された人生の知恵と、希望を手放さない生き方を語ってもらいました。(取材=サダブラティまや、歌橋智也)

母が残してくれた言葉

 ――イーガー博士が90歳で発刊した『THE CHOICE アウシュヴィッツを生きのびた「もう一人のアンネ・フランク」自伝』は、世界中で反響を呼んでいます。ナチスが祖国ハンガリーを侵略した当時、博士は16歳の少女でした。

 私は、ハンガリーのコシツェという街(現在はスロバキア共和国)に、三姉妹の末っ子として生まれ育ちました。バレリーナとして、また、オリンピック代表候補に選ばれるほどの体操選手として、夢と希望にあふれた青春を送るはずでした。
 しかし、1944年3月、ヨーロッパ全土に勢力を拡大したドイツが、ついにハンガリーを占領。兵士がある日突然、わが家に押し入り、父、母、長姉のマグダと私の4人を捕らえました。バイオリニストとして、首都ブダペストで学んでいた2番目の姉クララだけが、この状況を免れました。
 私たち4人は、その後、何百人もの人であふれかえった家畜運搬用の貨車に詰め込まれました。恐怖と不安に押しつぶされそうな暗闇の中で、母が言い聞かせてくれた言葉は、今でも私を導いてくれます。「私たちは自分の行き先を知らない。これから何が起こるのか知らない。だけど、忘れないで。あなたの心の中にあるものを奪える者などいないことを」

 ――到着した先は、ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所でした。

 入り口の門に掲げられた「働けば自由になれる」とのスローガンを見た父は、喜んで言いました。「恐ろしい場所のはずがない。戦争が終わるまで少し働くだけだ」
 しかし私たちは、生きるか死ぬかの「選別」をされるために、すぐさま男女に分けられました。父の姿を見たのは、それが最後です。母と姉と私は女性と子どもの列に並ばされました。私たちの順番が来た時、姉と私は「右側」へ、母は「左側」へと引き離されました。これが母との別れでした。14歳以下と40歳以上の人たちはガス室に送られたのです。
 この時、指を左右に動かし、人々の運命をもてあそんでいた男が、「死の天使」と呼ばれたナチスの医師であり、将校のヨーゼフ・メンゲレでした。

「働けば自由になれる」とのスローガンが掲げられたアウシュビッツ強制収容所の門 ©Nur Photo/Getty Images
「働けば自由になれる」とのスローガンが掲げられたアウシュビッツ強制収容所の門 ©Nur Photo/Getty Images

 私と姉は他の女の子たちと共に、髪を刈られ、体に合わない囚人服を着せられ、寝床となる粗末なバラックに連れて行かれました。その日の夜のこと。見覚えのある軍服姿の男が、部下を引き連れてバラックに現れました。メンゲレです。
 芸術愛好家だったこの殺人鬼は、夜になるとバラックを回り、自分を楽しませてくれる才能ある囚人を探していたのです。私は周りの人に押し出され、彼の前で踊らされることになりました。
 「小さな踊り子さん、私のために踊っておくれ」。彼の機嫌を損ねたら殺される。この地獄の中で、私は目を閉じ、命懸けで踊りました。ブダペスト・オペラハウスの舞台を想像し、母の言葉を何度も心で繰り返しながら。
 極限の恐怖の中で、私は生涯忘れることのない、ある一つの知恵を見いだしました。なぜそう思うに至ったのか、今振り返っても分かりません。
 それは、メンゲレの方が私よりはるかに惨めであり、捕らわれの身であるということです。彼は自分がしたことをずっと背負って生きなければならない。一方、殴られようが、ガス室に送られようが、私の心は自由だ、と。

両親と姉たちと共に。母親に抱かれている赤ん坊がイーガ―博士 ©Edith Eger
両親と姉たちと共に。母親に抱かれている赤ん坊がイーガ―博士 ©Edith Eger
“明日は自由になれる”

 ――博士は踊り切り、死を免れました。その後、アウシュビッツで半年間の飢えや寒さ、暴力に耐えた博士を待ち受けていたのは、「死の行進」でした。厳しい監視の下、何カ月も各地の収容所を転々とさせられます。

 ある時は、イギリス軍の爆撃を避けるための「人間の囮」として、弾薬を積んだ列車の屋根に乗せられました。またある時は、男性だけの収容所であるオーストリアのマウトハウゼンに連れて行かれました。
 ここは、花こう岩の採掘場で、極めて過酷な労働を強いられる所です。骸骨のように痩せこけた男性たちが、ヒトラーの夢見た新ベルリン建設に使う石材を担いでいました。186段の「死の階段」を昇り切れず、死体となった人々が至るところに山積みになっていました。最終的に到着したのは、同国のグンスキルヒェン収容所です。ようやく米軍が駆け付けた時、私は死体の山から瀕死の状態で救い出されました。
 私が生きることを諦めずにいられたのは、一つは、姉マグダの存在でした。彼女が近くにいれば、ほかには何もいらなかった。私は姉のために生き、姉も私のために生きました。先にあるものが何であれ、共に進むことしか考えられませんでした。
 さらには、私と同じ時にアウシュビッツに送られた恋人エリックの存在です。彼にもう一度会えるなら、どんな希望をかき集めてでも生き延びたかった。彼がアウシュビッツ解放の前日に亡くなったと知るのは、戦後すぐでした。
 そしてもう一つ、私を支えたのは、尽きることのない好奇心です。「死ぬ以外に逃げ道はない」と、どれだけ周りがささやこうが、何が起きるかは最後の瞬間まで決まっていない。「今日を生き延びれば、明日、私は自由になる」。この言葉を頭の中で繰り返していました。

イーガ―博士はオリンピックの体操選手になれるほどの実力があった。写真撮影は恋人のエリック ©Edith Eger
イーガ―博士はオリンピックの体操選手になれるほどの実力があった。写真撮影は恋人のエリック ©Edith Eger
一冊の本との出あい

 ――解放後、博士はハンガリーに帰国。結婚後の49年、戦争の傷痕癒えぬヨーロッパを離れ、一家でアメリカに移住。しかし博士の苦悩は続きました。

 移民として暮らし始めた50年代、私はなまりのない英語を話し、環境に溶け込みたい気持ちでいっぱいでした。アウシュビッツにいたことを知られて、同情などされたくありませんでした。沈黙を守り、過去と自分自身から目をそらすことで、心の痛みやトラウマを必死に隠そうとしていたのです。
 しかしその陰では、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、バスに乗るだけでパニックを起こすこともありました。文字通りの収監が終わって、歳月が流れても、心は全く解放されていなかったのです。

 ――そんな中、ヴィクトール・フランクル氏の著書『夜と霧』に出あいます。精神科医であり、心理学者でもあった氏もまた、アウシュビッツを生き延びました。

 何ページにもわたってメモを取りたくなる一冊に出あったことはありませんか。3人の子どもたちの子育てに余裕ができ、テキサス大学エルパソ校で学部生として学んでいた66年の秋です。ある学生からこの本を手渡されました。読み進めるにつれ、私がずっとひた隠しにしていた感情が見事に表現されていて、身動きできないほどの衝撃を受けました。
 中でも、フランクル博士の次の言葉が、深く心を捉えました。“人間を強制収容所に入れて全てを奪うことはできるが、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えない”
 それから2年後のある日。「ある生還者から別の生還者へ」との手紙が届きました。フランクル博士本人からでした。『夜と霧』を読んだ後、私は自分の過去を語る初めての試みとして、「ヴィクトール・フランクルと私」と題するエッセーを書きました。博士がそれを読んだのです。
 そこから文通が始まり、長年続いた友情を通して、私たちは互いに抱いていた疑問に対する答えを見いだそうとしました。“なぜ生き残ったのか”“人生の目的は何なのか”“自分の苦しみからどんな意味を見いだせるのか”“自分自身と他者を救うにはどうすればいいのか”。博士との対話は、私に使命の種を植えてくれました。

解放後、夫のベーラさんと結婚。長女を出産し、アメリカに渡った ©Edith Eger
解放後、夫のベーラさんと結婚。長女を出産し、アメリカに渡った ©Edith Eger

 ――新たな人生の出発でした。

 アウシュビッツで母と姉と共にメンゲレの前に立ったあの時、彼は母を指さして、「母親か、姉か」と私に尋ねました。その答えがもたらす結果を想像できず、私が「母です」と答えると、メンゲレは母を「左側へ」振り分けました。ガス室の方向でした。
 私が長年、過去を封印してきた理由の一つは、自分を許すことができなかったからです。しかし、フランクル博士のおかげで、沈黙と否定だけが過去への対処法ではないこと、私らしい人生を選択していく責任も、その力も、私の中にあることに気付くことができたのです。
 私にとって、自由をつかむとは、許すとは、失ったもの、かなわなかった過去、心の傷や失望を深く悲しみ、思う存分、吐き出すことです。また、怒りを伴わない自由もありません。過去も現在もあるがままに受け入れ、欠陥ある自分をも抱き締めてあげることです。心にある監獄の煉瓦を一つずつ壊す勇気を奮い起こし、傷を慈しんであげることです。
 もちろん、憎しみを抱いて生きることもできるでしょう。でも私は、ヒトラーやメンゲレと見えない鎖でつながれて、これまで戦ってきた人生とこれからの人生を、めちゃくちゃにされたくはないのです。
 今でもサイレンや大きな音を聞くと寒気がします。過去は消えてはいません。乗り越えてもいません。でも、もう過去には生きていません。私は苦しみましたが、被害者ではないのです。生還者であり、「前進する者」です。

心を解き放つ鍵は、あなたの中に

 ――博士の言葉に希望と勇気をもらいます。


 生きている限り、誰もが何らかの形で被害や迫害を受ける可能性があります。近所のいじめっ子、怒りっぽい上司、差別的な法律、不幸な事件……。しかし、人が本当に被害者になってしまうのは、その出来事を抱え込み、心の監獄に閉じこもることを自分で「選ぶ」ときではないでしょうか。
 私自身の蘇生への長い道のりと、臨床心理士としての経験から実感するのは、世界中どこに行っても苦しみはあるということです。しかし、困難に直面したとき、どう対処し、心に何を描くのかを人は選ぶことができる。仮に全てを奪われても、“諦めるのか”“立ち向かうのか”を選ぶ自由は残されています。最悪の事態から、人間の最良の部分を引き出し、最高のチャンスに変えていくこともできるのです。
 私の物語を聞いてくれた方々にお願いしたいのは、どうか、「彼女に比べれば、私の苦しみなんて大したものではない」と思わないで。苦しみに序列はありません。それよりも「彼女にできたのなら、私にもできる!」と思ってほしいのです。
 どんな絶望にも、HOPE(希望)という美しい4文字は存在します。これを見つけ出すことが、人生で最も大切なことです。後に続く皆さんが、より良い世界に生きられるように、私はこれからも与えられた役目を力の限り果たします。でもその使命は皆さんにもあります。力を合わせれば、私たちはより強くなれるのです。
 起きたことは変えられない。あなたがしたこと、あなたがされたことは変えられない。けれど、今、どう生きるかを選択することはできる。自由への鍵は、あなた自身の中にあるのです。

©Jordan Engle
©Jordan Engle
『THE CHOICE アウシュヴィッツを生きのびた「もう一人のアンネ・フランク」自伝』(パンローリング株式会社、服部由美訳)
『THE CHOICE アウシュヴィッツを生きのびた「もう一人のアンネ・フランク」自伝』(パンローリング株式会社、服部由美訳)

 〈プロフィル〉エディス・エヴァ・イーガー 1927年ハンガリー生まれ。44年、16歳の時に両親と姉と共にアウシュビッツに送られる。戦後、夫と娘と共にヨーロッパを離れ、米国に移住。40代で心理学博士号を取得し、50代から臨床心理士としてのキャリアを開始。93歳の現在もカリフォルニア州ラ・ホーヤで、臨床心理士として多忙な日々を送り、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教員も務めている。90歳で初出版となった本書は、世界35万部を記録している。

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平和を創る信念の対話

2021年08月24日 | 妙法

〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 平和を創る信念の対話2021年8月24日

 西日本を中心に、各地で続発した大雨災害に、心よりお見舞い申し上げます。
 「立正安国論」に示されているように、「暴雨」は古来、「疫病」などと並んで、民衆にとって大きな「難」であります。
 コロナ禍、自然災害……今も打ち続くこの苦難に負けず、民衆一人ひとりが、どう変毒為薬していくか。それを地域、社会、世界という次元から考え、祈り、力を合わせて行動していく。ここに私たちの「立正安国の誓い」があります。
 復旧支援に尽力されている方々に、またコロナ禍の中、医療従事者はじめ命を守るために奮闘されている皆様に、深く感謝します。そして尊き宝友の健康長寿と無事安穏を、ひたぶるに祈っております。
  

誠実に朗らかに希望の哲学を語れ
満開のハスの花。清浄な生命の宝が輝くように(7月、池田先生撮影。都内で)
満開のハスの花。清浄な生命の宝が輝くように(7月、池田先生撮影。都内で)
共戦の旅へ出発

 八月は、世界の不戦への誓いを強め、人類の平和へスクラムを広げゆく月――と言えよう。
 恩師・戸田先生に、十九歳の私が初めてお会いできたのは、一九四七年(昭和二十二年)の八月十四日、三回目の終戦の日の前夜であった。敬愛する長兄の戦死の公報が届き、母が慟哭する姿を見てから約三カ月後のことである。
 信念の獄中闘争を勝ち越えられた平和の民衆指導者から、「正しい人生」の道を示していただき、猛暑の二十四日に入信した。「広宣流布」即「世界平和」の大願を掲げて、師弟共戦の旅に出発したのである。
 入信三年となる一九五〇年(昭和二十五年)の八月二十四日には、先生の事業の最大の苦境の渦中、師弟して生命尊厳の機関紙・聖教新聞の発刊を構想した。
 その二年後の八月十四日夕刻、私は特急「つばめ」で淀川の鉄橋を渡り、広布の新天地を開く決意で大阪へ降り立った。この夜、堺市内で行われた座談会に出席し、強く明るい庶民の集いから“常勝関西”の建設へ、生き生きと勇戦を開始したのである。
 さらに三年後の八月には、師の故郷・北海道の大地で、“夏の陣”さながら広布拡大に先駆した。日々、御書を拝し、「仏法を源泉に偉大な社会を開こう!」と励まし合い、日本一の弘教で戸田先生をお迎えしたのは、入信満八年の八月二十四日であった。
 一年また一年と、原点の八月に師弟の勝利を刻みながら、不退の同志と共に、わが壮年部の戦友と共に、平和と人道への「この道」を歩み通してきたのだ。
 「立正安国論」の結びに記された誓願には、「速に対治を回して早く泰平を致し先ず生前を安じて更に没後を扶けん」(御書三三ページ)とある。
 何があろうが、我らは強盛に妙法を唱え、正義の旗を高く掲げて進む。苦悩する一人に関わり、民衆の幸せと天下の泰平のために戦う。忍耐強く、粘り強く、誠実な対話で、現実社会の安穏への道を開き、自他共に「一生成仏」という永遠の幸福を築いていくのだ。
  

負けない一生を

 戸田先生と私の最初の出会いの翌日は、奇しくも仏教発祥の天地・インド共和国の独立の日であった。
 今年、生誕百六十年を迎えたインドの詩聖タゴールの叫びが改めて胸に迫る。
 「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている」
 これはタゴールが日本で詠んだ一詩である。
 彼は一九一六年(大正五年)、神戸に初来日の第一歩を印すと、大阪、東京へ。横浜には長期滞在し、この夏、今の北区・飛鳥山の渋沢栄一翁の私邸や、茨城の五浦にも足を運んだ。長野の軽井沢で、女子学生らと緑陰懇談も重ねている。
 先月、インドから嬉しい報告が届いた。女子部結成記念日の七月十九日、インドの“華陽姉妹”が五万人に達したというのだ。
 コロナ禍にあっても、「如蓮華在水」の清らかで強靱な生命で、美事な幸の花園を広げてくれている。
 「負けない人は幸福
 恐れない人は幸福
 信つよき人は幸福
 皆さまは幸福の王女なり」――三十年ほど前、インドの女性たちへ、妻と贈った指針である。
 私の妻も、同志たちと常々「負けない一生を」と、心に期してきた。
 九歳で家族と共に信心を始めた妻も、この七月で満八十年となった。牧口先生の手を引いて自宅の座談会へ案内した草創の“未来部”であり、戸田先生のもとで女子部の一期生、そして“ヤング白ゆり世代”としても奮闘してきた。
 インドをはじめ世界の平和の太陽たる女性たちが、一人ももれなく「負けない」一日一日を積み重ね、幸福勝利の人生であれと、妻は題目を送り続けている。
  

我は進む! 師弟誓願の「この道」を
北海天地に師弟共戦の歴史は限りなく(1991年8月24日、札幌市の北海道文化会館で)
北海天地に師弟共戦の歴史は限りなく(1991年8月24日、札幌市の北海道文化会館で)
魔性との大闘争

 戸田先生が一九五七年(昭和三十二年)の九月八日、横浜・三ツ沢の競技場で、「原水爆禁止宣言」を発表された意義は、あまりにも深く大きい。
 その二カ月ほど後、先生は最悪の体調にもかかわらず、広島訪問を断行しようとされた。戦時下の過酷な二年間の投獄、さらに十数年に及ぶ広布の激闘で、身体の憔悴は甚だしかった。
 お体を案じて中止を進言した私を、先生は叱責し、「死んでも俺を広島に行かせてくれ!」と叫ばれた。
 病状悪化で願望は叶わなかったが、なぜ、それほどまで執念を燃やされたのか。先生は、同志が待っているのだと言われた。特に広島平和記念館(当時)では、同志の新出発の集いが予定されていたのである。
 人類で最初に原爆の犠牲となった広島に赴き、民衆の生存の権利を危機に陥らせている魔性の権力の根を絶つのだ、という烈々たる師の気迫に、弟子の私は感涙を抑えられなかった。
 第六天の魔王との「とられじ・うばはん」という絶え間ない法戦に臨んで、「一度もしりぞく心なし」(御書一二二四ページ)と言われた大聖人の大闘争に、我ら創価の師弟は、勇気凜々と連なっていくのである。
     

“黙すあたわず”

 原爆の恐ろしさ残酷さを世界に知らしめた絵画に、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」がある。位里氏は現在の広島市安佐北区の出身、俊夫人は北海道空知管内の秩父別町出身であった。
 敗戦後の占領下、厳しい検閲で、原爆の悲惨な実態が公にされず、語られることがなくなっていく世の中に、「これはいけない」と位里氏は憤怒した。
 「原爆をうやむやにするわけにはいかない、このことは描いて残さなければならない」――その思いが、「原爆の図」の連作に結実していったのだ。
 ともあれ“黙ってはいられない”との、やむにやまれぬ大感情こそ、無関心や臆病や忘却に覆われた社会の中で、真実を救い出す原動力である。
 日蓮大聖人は「言わずんばある可からず」(御書一七ページ)と仰せになられた。
 大聖人が放たれた破邪顕正の師子吼は、七百年の時を超えて、戸田先生が原水爆の奥に潜む魔性の思考を打ち破られた洞察にまで、底深く響き渡っている。
 この恩師の精神を受け継ぐのが、我らの言論戦だ。
 ゆえに「広島原爆の日」にあたる八月六日を、私は小説『新・人間革命』の「起稿の日」とし、“命の限り”と新聞連載を続けた二十五年後のその日を、「脱稿の日」とした。そして恩師が「原水爆禁止宣言」を発表した九月八日、『新・人間革命』の連載を終えたのだ。
 今や、バトンは未来に託された。わが愛弟子であり分身である新時代の“山本伸一たち”が、人生の「人間革命」のドラマを、世界中で壮大に舞い、多彩に綴ってくれている。
 「長崎原爆の日」の九日を中心に、第三十回の節を刻む「青年不戦サミット」がオンラインで行われ、広島、長崎、沖縄の三県をはじめ全国の青年部代表や、男女高等部など未来部の友が、真剣な瞳で参加した。
 不戦と核兵器廃絶への誓いを、後継の青年たち鳳雛たちが、凜然と継承してくれている。これほど頼もしいことはない。
   

邂逅から創造が

 先日、レバノン共和国のアラブ科学出版社から、トインビー博士と私の対談集のアラビア語版が発刊された。博士との対談から明年で五十星霜。これで翻訳出版は三十言語となる。
 博士も、きっと喜んでくださるであろう。陰の労苦を惜しまず、ご尽力いただいた全ての関係の方々に、心から御礼申し上げたい。
 博士は、人格と人格の邂逅からこそ、真に新しい創造が生まれると洞察されていた。ゆえに、創価の私たちに、人類を結び、文明を結ぶ「生への選択」の対話を託してくださったのだ。
 今、身近な地域社会にあっても、広範な地球社会にあっても、感染症や気候変動、分断や対立など山積する課題に、一段と対話を繰り広げて英知を結集し、新たな価値創造の力を発揮していかねばならない。
 地涌の世界市民が先頭に躍り出て、人類の宿命転換への連帯を拡大するのだ。
   

「勇戦」――1956年、池田先生が“大阪の戦い”の中で記した二字を、1983年、再び関西の地で墨痕鮮やかに揮毫した書
「勇戦」――1956年、池田先生が“大阪の戦い”の中で記した二字を、1983年、再び関西の地で墨痕鮮やかに揮毫した書
最も雄弁な言葉

 恩師の膝下で私が戦い始めた若き日、雑記帳に書き留めた民衆詩人ホイットマンの詩の一節がある。
 「人間の肉体は言葉である、千万の言葉である」と。
 口先だけの薄っぺらな言葉ではない。その人の全身から滲み出る勇気と信念、誠実な声、明るい笑顔、そして思いやりにあふれた振る舞いほど雄弁なものはない。その模範こそ、学会の父たち母たちである。
 さあ、それぞれが今いる場所から、自分らしく希望の哲学を語り広げよう!
 「いまだこりず候」(御書一〇五六ページ)という不屈の大情熱をもって、対話の広場に出ていこう!
 愛する若人たちよ、進むのだ。永遠に前へ! 尊き同志よ、朗らかに前へ!
 生命の讃歌、平和の凱歌を、堂々と轟かせながら!

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新・人間革命と私〉

2021年08月23日 | 妙法

新・人間革命と私〉 兵庫・中央神戸総県女性部長 藤本亀代子さん2021年8月23日

〈心に刻む珠玉の言葉〉

 今は、どんなに苦しくとも、必ず幸せになれることを確信してください。いや、必ずなってください。強い心で、強い生命で、見事に再起されるよう祈り待っています。
 <第30巻(下)「誓願」の章>

〈時代背景〉

 1995年(平成7年)1月17日、近畿地方を阪神・淡路大震災が襲う。山本伸一は予定していたハワイへの出発を延期し、即座に救援活動の指示や災害対策本部の設置、被災地に向かう幹部に伝言を託すなどの手を打っていく。同年2月には、関西を訪問。対策会議や追善勤行法要などに出席し、全力で同志に激励を送る。

同志と共に勝利のドラマを

 冒頭の引用は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の直後、被災地に向かう幹部を前に、山本伸一が被災した同志への励ましとして託した言葉です。
 
 「誓願」の章にも描かれている通り、池田先生は発災直後から、さまざまな手を打ってくださいました。当時、私は支部婦人部長を務めていましたが、皆が不安と絶望に覆われている中での励ましは、まさに希望の光そのものでした。先生が無事安穏を強く祈ってくださっていると思うと、勇気が湧きました。
 
 先生は、その後も、同年2月4日に行われた追善勤行法要や、10月に開かれた「21世紀兵庫希望総会」に出席してくださり、折あるごとに兵庫、関西の同志を激励してくださいました。

 特に忘れられないのは、震災から5年後の2000年(同12年)2月の出来事です。
 
 27日には、兵庫で開かれた本部幹部会で、先生は、復興へ走ってきた私たちを「『世界の兵庫』『世界の神戸』の同志」とたたえ、重ねて「この5年間、よくここまで立ち上がりました。本当に見事です!」と呼び掛けてくださいました。
 
 さらに、その2日後の29日には、わが総県内にある長田文化会館を初訪問。“大楠公”のピアノ演奏を披露してくださったのです。
 
 こうした師の真心に“これほどまでに一人一人の幸福と勝利のために心を砕いてくださるのか”と胸が熱くなり、先生の心をわが心として行動しようとの決意が固まりました。
 
 以来、私自身も「すぐに同志のもとへ」をモットーに、一人でも多くの同志が宿命転換の人生を歩んでいけるよう、励ましを送る日々です。
 
 いかなる困難な戦いも絶対に勝つ!――これが中央神戸総県の誉れです。コロナ禍という試練の今こそ、「負けたらあかん」との関西魂を赤々と燃やし、愛する同志と共に立正安国の勝利のドラマをつづってまいります。

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誓いをつなぐ〉 東京・城北地

2021年08月21日 | 妙法

誓いをつなぐ〉 東京・城北地域2021年8月21日

  • 「感激の同志」と凱歌の秋へ
巣鴨の東京戸田記念講堂での「第1回東京総会」に出席した池田先生ご夫妻(2001年4月25日)。牧口先生、戸田先生の肖像が見守るこの講堂で、全国・全世界の広宣流布を開く指揮を執ってきた
巣鴨の東京戸田記念講堂での「第1回東京総会」に出席した池田先生ご夫妻(2001年4月25日)。牧口先生、戸田先生の肖像が見守るこの講堂で、全国・全世界の広宣流布を開く指揮を執ってきた

 創価三代の師弟が世界広布の指揮を執ってきた本陣・東京。池田先生は、その使命と誇りを、折に触れて示してきた。
 
 「万年の創価の勝利を決せんは 本陣・東京の責務なり」
 
 「師弟凱歌の旭日を元初の朝に示さんは 本陣・東京の使命なり」
 
 「東京は、永遠に『広宣流布の本陣』である。本陣として、『立正安国』の大闘争を勝ち抜かねばならない使命と宿命がある。責任があり、名誉がある」
 
 日本と世界の広布の指揮を執りながら、先生は寸暇を惜しんで、本陣の各地をくまなく巡り、「師弟の絆」を結んできた。
 
 東京のあの地この地に、先生との原点を宝として、ひたぶるに立正安国に走る同志がいる。文京、荒川と共に「城北」と呼ばれる北、足立、豊島、板橋もまた同様である。
 
 大東京の北の砦「城北池田記念講堂」の建設が進む北総区。「すばらしき 北区は喜多区と うたわなむ 大東京を 四方に見つめて」との和歌を同志は忘れない。1968年(昭和43年)10月の東十条での座談会、「北区の日」の淵源となった75年(同50年)9月の記念撮影をはじめ、激戦のたびに、先生は励ましを注いできた。
 
 足立総区の原点は、「足立の日」の淵源となった71年(同46年)12月の記念撮影。81年(同56年)10月、先生出席のもと開かれた友好総会での反転攻勢の歴史は、「王者・足立」の広布史に厳然と刻まれる。
 
 創価三代の会長が立正安国の闘争を貫いた有縁の豊島総区。本部幹部会をはじめ重要な会合の舞台となる東京戸田記念講堂に、先生は幾度も足を運んだ。「決めた戦いは 断じて勝つ! これぞ 豊島の伝統なり!」――先生が贈った長編詩を胸に、今再びの凱歌をと、友の決意は固い。
 
 50年前の71年(同46年)10月、板橋は東京各区で行われる池田先生との記念撮影のトップバッターに。後年、先生が贈った“大東京と大関東の錦州城たれ”との指針は、板橋総区の前進の原動力となってきた。

師弟の魂を胸に

 北総区の橋元和子さん(総区女性部総主事)には、池田先生との忘れられない出会いがある。
 
 79年(同54年)6月2日。東京戸田記念講堂の落成を翌日に控え、北区の婦人部長だった橋元さんは北、豊島の同志と準備に当たっていた。先生の会長辞任から1カ月余り。第1次宗門事件の嵐が吹き荒れていた。

橋元和子さん
橋元和子さん

 「戸田先生の魂を打ち込むために来たよ!」――温かくも力強い先生の声が聞こえた。講堂を初訪問した先生は、開館式のために練習をしていた合唱団とオーケストラの友がいる会場へ足を運び、ピアノで「月の沙漠」と“大楠公”を奏でてくれた。
 
 「あの時の光景、一音一音に師弟の魂を注ぎ込むようなピアノ演奏を思い出すたびに胸が熱くなります」
 
 それは、難病のベーチェット病と闘い、2人の子育てに奮闘しながらも、同志を励まし続けていた橋元さんに、勇気の光を届けた太陽の励ましそのものだった。
 
 橋元さんは、同講堂を訪れた先生との懇談に、たびたび同席する機会があった。ある時の「生きるか死ぬか、その時に、“このために生きよう”と思えるのが『希望』だよ」との厳愛の指導が、橋元さんの人生の支えとなった。
 
 「生涯、先生と共に、学会と共に生きようと誓いました。師の心を伝えようと広布に走る中で、病気を克服できたことは、私の信心の原点です
 
 夫や子ども、孫も広布と地域の第一線で活躍。明春に完成予定の城北池田記念講堂を「喜多区」の幸福拡大で飾ろうと、同志と共に奔走している。

王者の誇りで

 “学会3世”の田中広治さん(区男子部長)は生まれも育ちも足立。両親共に同区で青年部時代を過ごし、池田先生との原点を刻んできた。
 
 「幼い頃から、折に触れて先生との出会いの感動を聞かせてくれました。幼心に『王者・足立』に誇りを感じてきました」

田中広治さん
田中広治さん

 田中さん自身が信心の原点を築いたのは大学3年の時。学生部の先輩の「信心の確信をつかむには、学会活動しかない」との励ましをきっかけに折伏に挑戦。
 
 1人、2人と対話するが、なかなか相手は心を開いてくれない。「自分にとって池田先生とは」「学会の素晴らしさとは」――御本尊に向かい自問自答し、友の幸せを真剣に祈る中で、幼なじみに弘教が実った。
 
 その翌年、学生部の代表として、ペルー国立ホルヘ・バサドレ・グロマン大学からの池田先生への名誉博士号授与式に出席した。
 
 席上、先生は呼び掛けた。「戦う人生は美しい。希望に燃え、勇気を燃やして、この一生を戦おう!」
 
 その言葉が、今も胸に響いているという田中さん。以来、広布の第一線で拡大に走り、職場では人材紹介会社で営業企画を担当。学会の薫陶で培った力を発揮し、信頼を広げている。
 
 「『王者』の名にふさわしい人材の拡大と勝利の歴史を、青年の熱と力で開いてまいります!」

不敗の大広布城

 8月は東京の歌「ああ感激の同志あり」が発表された月。78年(同53年)の発表から43年となる。
 
 先生が歌詞に込めた東京への期待は、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章につづられている。
 
 「『感激』は、受け身になり、義務的に信心に取り組んでいたのでは生まれません。率先して行動を起こし、真剣勝負でぶつかっていく、その実践のなかにある」
 
 「皆が“東京は一つである”との自覚で、何かあれば、飛んで行って守り、協力、応援し合っていくことが重要です」「東京は、本来、力を出せば無敵です。だから、『汝の勝利は 確かなり』なんです」
 
 「“大東京”の前進は、わが町、わが地域という“小東京”の勝利のうえにある。私と一緒に、不敗の東京をつくろう! 世界の同志が仰ぎ見る、永遠不滅の、栄光の大広布城を築こうよ!」
 
 学会創立100周年への勝負の10年。その緒戦を勝ち飾った総東京は、連続勝利の「凱歌の秋」へ威風堂々と出発した。その先頭に立つのは、北、足立、豊島、板橋の「感激の同志」たちである。

板橋区と北区の境にある都立浮間公園。季節の花々が咲き誇り、都民の憩いの場となっている
板橋区と北区の境にある都立浮間公園。季節の花々が咲き誇り、都民の憩いの場となっている
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