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【一滴】 偶然のような縁を「偶然で済ませない」と決めた対話が、人を救った。

2021年08月20日 | 妙法

【一滴】 偶然のような縁を「偶然で済ませない」と決めた対話が、人を救った。2021年8月20日

“人のために灯をともしてあげれば、自分の前も明るくなる”との御書の一節をかみしめる川瀬芳子さん㊧と、題目の力を感じている斉藤初江さん
“人のために灯をともしてあげれば、自分の前も明るくなる”との御書の一節をかみしめる川瀬芳子さん㊧と、題目の力を感じている斉藤初江さん

 
 今回は、北海道北西部の留萌市から。川瀬芳子さん=支部女性部長=は2019年12月、斉藤初江さん=女性部員=を入会に導きました。それは、「縁」を大事にする人たちがつないだ、対話のリレーのような歩みだったといいます。(記事=金田陽介)
 
 

 
 「創価学会って、どんなところだと感じますか?」
 この取材の終わりごろ、斉藤初江さんに聞いた。
 「そうですね……」
 斉藤さんは少し考えて、語ってくれた。
 「人に声を掛ける団体、だと思います」
 「誰かを見掛けた時、普通なら何となく通り過ぎそうなところでも、学会員の皆さんは一言、声を掛けようとするでしょう?」
 「そうやって、自分から交流をつくろうとする方が多いですよね」
 
 もちろん、声の掛け方やタイミングなどについて、配慮を尽くすことは大前提だろう。その上で、地域の学会員の「ちょっとした声掛け」は、斉藤さんの人生を変えたのだという。
 

斉藤初江さん
斉藤初江さん
まーちゃんの思い

 斉藤さんは“ママ友”の高橋雅恵さんを通じて創価学会のことを知った。斉藤さんの次男と、高橋さんの長男が、小学校の同級生だった。
 
 明るい服装が好きな斉藤さん、はっきりした性格の高橋さんも、「まーちゃん」「はっちゃん」と呼び合う仲になった。二人とも飲食関連の仕事をしていたこともあり、子どもが成長してからも付き合いは続いた。
  
 
 今から約5年半前の冬、斉藤さんは、不慮の事故で次男を亡くした。それから、高橋さんが、何かと自宅を訪ねてくるようになった。自暴自棄になりかけている自分を、気にしてくれていることは伝わってきた。だが斉藤さんはその頃のことを、よく覚えていない。
 
 ある日、自宅に来た高橋さんが、切り出した。
 「来月、創価学会の座談会で、私が体験発表をするから、来てほしいの」
 当時、高橋さんは、子宮がんの進行と闘っていた。自身の真情や闘病の決意を発表するのだという。
 
 斉藤さんは、創価学会に入る気など全くなかった。だが、高橋さんの誘いは、なぜか断れなかった。「自分も大変なのに私に寄り添おうとしてくれている、高橋さんの真心が伝わってきましたから。私も、“ずっと家にいるのも良くないかも”という気持ちがあったんですね」
 

川瀬芳子さん
川瀬芳子さん

 ブロック座談会の当日は大雨が降っていた。会場の個人宅には、20人ほどが集まっていた。
 
 会場の後方に座った斉藤初江さん。座談会の細かい内容は記憶していない。ただ、高橋雅恵さんが自らの病状をありのままに語り、「私は負けません!」と言い切ったまなざしが、脳裏に深く焼き付いた。
 
 
 当時、支部婦人部長だった川瀬芳子さんも、座談会の場にいた。その日を機に、川瀬さんは高橋さんに同行し、斉藤さん宅を訪問するようになった。
 
 2016年の春先、病状が進んだ高橋さんは、留萌から100キロほど離れた、札幌市内の病院で、治療を受けることになる。メンバーや友達と会えない。だが、それならばと、高橋さんは病床から手紙を送り始めた。
 
 「お元気ですか? いつもお題目送っていますヨ♡神田さんは元気かなあ? 藤野さんは地区に慣れたかなあ? 関本のお母さん、元気あまってムリしてないかなあ? 祈っています。病人の私に負けないでくださいヨ!! 私は負けてません。どんな事が次から次へと出てきても負けない!!」(川瀬さん宛ての手紙につづられていた、地区の皆へのメッセージ)
 
 斉藤さんにも、毎月のように手紙が届いた。
 「来週中に一度退院し、留萌へ戻る予定です。帰ったら一緒に勤行しましょうね。連絡します」
 「新聞の体験談、送るから読んでネ♡」(手紙と共に、聖教新聞の切り抜きが同封されていた)
 ある時は「初江さん、一緒にこの信心やろうよ!! 私を信じてついて来て!!」と、率直な思いがそのままつづられていた。
 
 手紙は、高橋さんが治療の手を尽くして闘い抜き、同年9月に人生を全うするまで、届き続けた。
 

高橋さんが送り続けてくれた手紙を、斉藤さんは宝物にしている
高橋さんが送り続けてくれた手紙を、斉藤さんは宝物にしている
芳子さんの生き方

 その後、高橋さんを介してつながっていた川瀬さんと斉藤さんの交流は、数カ月の間が空いた。
 
 川瀬さんは、その間に、祈りながら考えていた。
 「斉藤さんとの出会いを子どもたちがつくってくれたの」――高橋さんはよく語っていた。
 
 その高橋さんが、今度は斉藤さんと自分を引き合わせてくれた。それは、偶然のようで、偶然ではない縁なのだと、感じずにはいられない。偶然では終わらせたくない、とも思った。
 
 「私も、改めて斉藤さんと友達になりたいなと思いました。それに、高橋さんの対話の思いを受け継ぐ、と言ったらおかしいかもしれませんが、そうしたいとも思ったんです」
 
 「どんな友情も、最初は知らない者同士の出会いである」「勇気をもって、挨拶する、会う、語る、縁を結ぶ――この日常の誠実な振る舞いのなかにこそ、わが生命の宇宙を伸びやかに開発しゆく人間革命もあるのだ」(『池田大作全集』第134巻所収)
 
 川瀬さんは、斉藤さんに「久しぶりにお会いしませんか」とメールを送った。
 

留萌市は日本一の“カズノコのまち”として知られ、夕日の名所でもある
留萌市は日本一の“カズノコのまち”として知られ、夕日の名所でもある

 
 そのメールに、斉藤さんは同意の返信をした。
 「私は負けません」――高橋さんが自らの姿で教えてくれた生き方を、川瀬さんもまた同じくしているというのが、何度か会って抱いた印象だった。そういう人と友達になれるのは、うれしいことだと思えた。
 
 二人は、時間を見つけては、一緒に食事に行ったりしながら、交流を深めた。斉藤さんは小売店に勤めており、川瀬さんは看護師である。それぞれに仕事の苦労があり、日常のいろんな思いを話せるのも、ストレス解消になった。
 
 「芳子さん、今日もおつかれさま」
 「初江さん、いま何してますか?」
 仕事が終わった後に、何げないメールやLINEを交わせる相手がいるのは、楽しかった。
 
  
 斉藤さんは、川瀬さんと一緒に、学会の留萌会館で勤行するようにもなった。会館に行くと、居合わせたメンバーがいつも、声を掛けてくれる。
 
 「よく来てくださって」
 「いい天気ですね」
 
 特別な言葉ではない。だが、斉藤さんにとってそうした声掛けは、どこにでも当たり前にあるものではなかった。きっと、この人たちは、私だけではなくて、周囲の誰に対しても、親愛の心を込めた言葉を送っているのだろうと思えた。「声を掛けてくださる人が、会館に行くたび増えていく気もして(笑い)」
 

地区の皆のちょっとした声掛けが、斉藤初江さん(右から2人目)に大きな安心と勇気を送ってきた
地区の皆のちょっとした声掛けが、斉藤初江さん(右から2人目)に大きな安心と勇気を送ってきた
一人じゃない

 いつだったか、川瀬さんが真剣な表情で言ってくれた言葉が、斉藤さんの心に残っていた。
 
 「初江さんは、一人じゃないですよ」
 
 その通りだと思えた。
 高橋さんは、すべてを投げ出しかけていた自分に、誰よりも早く声を掛け、寄り添ってくれた。川瀬さんも、細い「縁」の糸を太くしながら、伴走してくれている。会館で出会う皆の、何げない一言一言にも、二人と同じ真心を感じる。
 
 「一人じゃないですよ」
 それは、ただ言葉だけのものではなかった。皆が、その言葉を、行動をもって示してくれていた。
 
 いつからか、斉藤さんは笑うことが増えている自分に気付いた。もともと好きな、赤や緑の明るい色の洋服を、また着るようになっていた。
  
 
 一緒に信心しませんか、と川瀬さんに言われた時、斉藤さんは、自分にとってそれが自然なことであるように思えた。
 
 何か明確な“決め手”があったわけではない。ただ、皆が、まるでバトンをつなぐように、自分を幸せの方向へ導いてくれていることを感じたのだ。
 
 2019年12月、斉藤さんは、学会員になった。
 

留萌支部の塚田敬子さん
留萌支部の塚田敬子さん
留萌支部の川瀬和枝さん
留萌支部の川瀬和枝さん
留萌支部の関本禮子さん
留萌支部の関本禮子さん
皆さんのように

 直後の、20年2月――。
 コロナ禍のため、全国で対面の会合などを自粛せざるを得なくなった。
 
 だが、冬の厳しい地吹雪の中で鍛えられてきた留萌の組織。メンバーや友人に思うように会いに行けない状況に対しては、経験が豊富である。コロナの状況に応じて、手紙でもメールでも、工夫しながら励ましを広げてきた。
 
 「私は、まだ“見習い”みたいな状態ですが、なかなか学会活動できないのは残念」と斉藤さんは笑う。「でも川瀬さんたちが、私の店に、よく顔を見に来てくれて。自分も、そうやって、人に励ましの言葉を送っていける人になりたいですね」
 
 だが、はっきりと感じている、自分の変化もある。「私は負けません」――少しずつだけど、そう口にできるようになってきた。勝利の生き方を教えてくれた高橋さんや、川瀬さん、地区の皆さんには、まだまだ及ばないけれど。
 

 
 「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)
 創価学会は「声を掛ける団体」「対話の団体」だ。観念や、評論ではない。周囲に励ましの声を掛け、縁を結び広げる。そうした「行動」によって、互いの命に新たな活力を湧きいだしていく。それが、学会活動の実像だ。
 
 偶然のような縁を、偶然のままでは済ませない――世界各地のメンバーが今、その思いで、対話の一歩を踏み出している。
 
 
 

 
一滴――新しい日々の始まり。
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学ぼう 9月の学会史

2021年08月20日 | 妙法

〈学ぼう 9月の学会史 2021〉2021年8月20日

 ◎9・7、9・25 地区講義70周年
  
 1951年(昭和26年)9月、第2代会長の戸田先生の命を受け、池田先生が地区講義を。神奈川・鶴見支部市場地区(7日)、埼玉・志木支部川越地区(25日)で開始され、本年で70周年。
 ※参考資料=小説『新・人間革命』第26巻「奮迅」
  
  
 ◎9・8「原水爆禁止宣言の日」
  
 1957年(昭和32年)9月8日、戸田先生は“核兵器は絶対悪”との思想を全世界に広めゆくことを、遺訓の第一として後継の青年に託した。
 ※参考資料=『人間革命』第12巻「宣言」

左下にある三ツ沢の陸上競技場(神奈川・横浜市)で、戸田先生は原水爆禁止宣言を発表した
左下にある三ツ沢の陸上競技場(神奈川・横浜市)で、戸田先生は原水爆禁止宣言を発表した

 ◎9・8 「日中国交正常化提言」発表の日
  
 1968年(昭和43年)9月8日、第11回学生部総会の席上、池田先生は「日中国交正常化提言」を発表した。
 ※参考資料=『新・人間革命』第13巻「金の橋」
  
  
 ◎9・8 小説『新・人間革命』の新聞連載完結の日
  
 2018年(平成30年)9月8日、『新・人間革命』の新聞連載が完結。新聞の連載回数は、日本一の6469回(全30巻)。

小説「新・人間革命」全30巻(聖教ワイド文庫)
小説「新・人間革命」全30巻(聖教ワイド文庫)

 ◎9・9「女子学生部の日」
  
 1975年(昭和50年)9月9日、池田先生の女子部学生局(当時)の集いへの出席が淵源。
 ※参考資料=『新・人間革命』第22巻「波濤」
  
  
 ◎9・9「北海道の日」
  
 1973年(昭和48年)9月9日、池田先生が出席して行われた第1回北海道青年部総会が淵源。
  
  
 ◎9・12「教学部の日」
  
 1976年(昭和51年)制定。750年前の1271年(文永8年)9月12日、日蓮大聖人が「竜の口の法難」に遭われ、発迹顕本を遂げられたことに由来する。

日蓮大聖人が「竜の口の法難」に遭われ、発迹顕本なされた天地・神奈川の鎌倉に立つSGI教学会館(右下)と江ノ島
日蓮大聖人が「竜の口の法難」に遭われ、発迹顕本なされた天地・神奈川の鎌倉に立つSGI教学会館(右下)と江ノ島

 ◎9・15「ドクター部の日」
  
 1975年(昭和50年)9月15日、池田先生がドクター部の総会に出席。後に「部の日」に。
 ※参考資料=『新・人間革命』第22巻「命宝」
  
  
 ◎9・23「少年少女部結成記念日」
  
 1965年(昭和40年)9月23日、池田先生の提案で結成。
 ※参考資料=『新・人間革命』第9巻「鳳雛」
  
  
 ◎9・26 米ハーバード大学での初講演から30周年
  
 1991年(平成3年)9月26日、ハーバード大学で「ソフト・パワーの時代と哲学」と題して記念講演。本年で30周年。
 ※参考資料=『新・人間革命』第30巻〈下〉「誓願」

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