毎日が、始めの一歩!

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SUA卒業式〉 池田先生のメッセージ

2022年05月30日 | 妙法

〈SUA卒業式〉 池田先生のメッセージ2022年5月30日

  • 創価の世界市民の真価を発揮し
  • 使命の舞台から21世紀を晴らせ
「世界人権宣言」の作成に尽くしたブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と会見する池田先生(1993年2月、リオデジャネイロ市内で)
「世界人権宣言」の作成に尽くしたブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と会見する池田先生(1993年2月、リオデジャネイロ市内で)

 一、使命深き18期生の皆さん、また、大学院新教育プログラムの7期生の皆さん、晴れのご卒業、誠におめでとう!
 
 いつにもまして、ご苦労の多い中、勝利の日を共に迎えられたご家族にも、心よりお祝い申し上げます。
 
 人類の宝たる英才たちを支え育んでくださった教職員をはじめ、全ての関係者の方々、誠にありがとうございます!
 
 今この時、まさに試練の時代に旅立つ皆さんへ、私ははなむけとして「創価の世界市民の真価を勇気凜々と発揮せよ」と贈ります。
 
 世界市民にとって普遍の規範というべき「世界人権宣言」――その作成に重要な役割を果たされたブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁の最晩年、私はご一緒に対談集『21世紀の人権を語る』を発刊し、採択までの尊き歴史を留めました。
 
 東西冷戦下の当時、政治情勢、思想・信条の相違などから議論は激しく対立し、紛糾する中で、最も力を注いだことは何であったか――。
 
 それは、「世界の各民族の間に“精神的なつながり”を創り出すこと、すなわち、“精神の世界性”を確立すること」であったといいます。
 
 皆が同じ「人間」という原点に立ち返り、「共通の目標」へ粘り強く語り合う中で、やがて対立を乗り越え、ついに世界人権宣言が採択されたのです。
 
 私には、この奮闘の昇華が、コロナ禍にも負けず、世界から集った友と熱い議論を交わしながら、共に学び抜き、「平和の建設者」として力を磨き上げてきた卒業生の皆さんの青春と、深く重なるように思えてなりません。

差異を超えて「人間尊敬」の道を

 一、本日、来賓としてお迎えしたシリン・エバディ先生は、投獄など命にも及ぶ迫害にも屈せず、人権と人道の信念の闘争を貫いてこられました。
 
 先生は2003年、ノーベル平和賞受賞記念のスピーチで、「世界人権宣言」の精神に触れつつ、“21世紀を暴力から解放する唯一の道は、人種、性別、宗教、国籍、社会的な立場の違いを超えて、全ての人々の人権を理解し、擁護する実践にある”と叫ばれました。
 
 生命尊厳の哲学を体し、価値創造の力を蓄え、人間尊敬の連帯を培ってきた皆さんは、創価の世界市民の真価を、いよいよ賢くたくましく朗らかに発揮し、自らの使命の舞台から21世紀を明るく晴らしていただきたいのです。
 
 かけがえのない皆さん一人一人と、私はこれからも陽光きらめく「平和の池」の畔で語らう思いで、健康幸福と栄光勝利を祈り抜いてまいります。
 
 最後に「君よ、あなたよ、地球民族を照らす“希望の光”と輝け!」と申し上げ、お祝いの言葉とします(大拍手)。

 

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アメリカ創価大学 第18回卒業式2022年5月30日

  • 創立者の池田先生が祝福のメッセージ 地球民族を照らす光源に
1:40アメリカ創価大学の第18回卒業式。ノーベル平和賞受賞者のシリン・エバディ氏が記念講演を行い、「私たちは皆、同じ船に乗っています。人間の運命は互いにつながっています。ゆえに他者の幸福を共に祈り続けていきましょう」と呼び掛けた(同大学の創価芸術センターで)

 【アリソビエホ】アメリカ創価大学(SUA)の第18回卒業式が27日午後(現地時間)、カリフォルニア州オレンジ郡アリソビエホ市の同大学・創価芸術センターで行われた。創立者の池田大作先生は卒業生に祝福のメッセージ(3面に掲載)を贈り、人間尊敬の連帯を培った一人一人が、創価の世界市民の真価を発揮し、地球民族を照らす希望の光にと期待を寄せた。

 また、ノーベル平和賞を受賞したイランの平和活動家であるシリン・エバディ氏が記念講演。式典には、SUAのフィーゼル学長や理事、教職員、卒業生の家族ら約600人が出席し、卒業生の晴れの門出を祝った。

 卒業式の模様はオンラインで全世界に配信された。(2・3面に関連記事。記事=野村啓、写真=宮田孝一)

鮮やかな花を咲かせるジャカランダとSUAのファウンダーズ・ホール
鮮やかな花を咲かせるジャカランダとSUAのファウンダーズ・ホール

 暖かな陽光に包まれた美しいキャンパスでは、至る所にジャカランダの青紫の花々が咲いていた。
 
 “紫の桜”とも称されるジャカランダ。その花言葉は「栄光」。
 
 まさに、栄光の卒業を勝ち取った18期生の姿を映すかのようだ。門出を迎える卒業生の笑顔も、キャンパスのあちらこちらで満開に咲いていた。
 
 18期生の4年間は困難の連続だった。
 
 新型コロナウイルスの感染拡大により、2020年3月から授業はオンラインに。昨年9月から対面授業が再開されたものの、SUAの特色の一つである海外留学を、多くの学生が経験できなくなってしまった。
 
 その中でも卒業生は勉学、クラブ、そして、進路を勝ち取るために挑戦し、この日を迎えた。
 
 ――式典は、午後2時過ぎに始まった。
 
 今回卒業する学部生は、アメリカ、ブラジル、スペイン、ベトナム、中国、エジプトなどの18カ国から集った105人。大学院の研究プログラム「リーダーシップと社会変革のための教育基礎学」では3カ国4人の7期生が修了し、合計109人が使命の大舞台へ雄飛する。

母校からの巣立ちの時を迎えた18期生たち。ある卒業生は、コロナ禍で対面の卒業式を行えなかった16、17期生に思いをはせた。「先輩たちに感謝の連絡をしました。自分のことのように、私の卒業を喜んでくれたことがうれしかった。SUAで刻んだ絆は永遠です」
母校からの巣立ちの時を迎えた18期生たち。ある卒業生は、コロナ禍で対面の卒業式を行えなかった16、17期生に思いをはせた。「先輩たちに感謝の連絡をしました。自分のことのように、私の卒業を喜んでくれたことがうれしかった。SUAで刻んだ絆は永遠です」

 卒業する18期生からは、名門大学院の合格者も多数誕生した。
 
 ネパール出身のパリック・チャリセさんもその一人。彼はオンタリオ工科大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなど六つの名門大学院に合格。ジョンズ・ホプキンス大学の工学系博士課程に進む。リベラルアーツ(一般教養)大学から、修士課程を経ず、名門大学の理系の博士課程に進学することは快挙である。
 
 チャリセさんはSUAの4年間で幅広い分野を学んできた。そうした中で、数理的にさまざまな事象を解き明かすことに興味を抱いたという。
 
 「SUAは、少数精鋭の教育環境も魅力の一つです。学びたいことが定まれば、徹底的に取り組めます。私は心から尊敬できる数学の教授のもとで鍛えてもらい、今回の進路も開けました」
 
 チャリセさんは将来、母国に貢献するため、さらに向学の道を進もうと決意している。
 
 卒業式で最も盛り上がりを見せたのは、式典の中盤、フィーゼル学長が一人一人に学位記を授与した場面だった。受け取る卒業生に、列席者が拍手と声援を送り続ける。
 
 ひときわ大きな喝采が送られたのが、ユカ・ホンボウさん。
 
 彼女はこの1年、学生自治会の委員長として、大学建設に奮闘してきた。
 
 対面授業に臨むため、学生たちが各国から大学に戻った昨年夏以降、新たな大学の伝統を築きたいと、一人一人と向き合い、心を通わせた。
 
 新しい学生祭を企画。コロナ禍でどのような催しを行うのか。どんな意義を込めるのか――あらゆる課題を一つ一つ乗り越えて、本年3月、「ライオンズデー(獅子たちの日)」と名付けた学生祭を開催。「世界市民とは」をテーマに対話するなど、学生同士が絆を結ぶ新たな伝統を築いた。

米カリフォルニア州オレンジ郡アリソビエホ市に立つアメリカ創価大学のキャンパス。科学棟や新学生寮など新たな建物が完成し、学生第一の教育環境が一段と充実する
米カリフォルニア州オレンジ郡アリソビエホ市に立つアメリカ創価大学のキャンパス。科学棟や新学生寮など新たな建物が完成し、学生第一の教育環境が一段と充実する

 卒業式の終盤、卒業生の代表によるあいさつの後、「創立者賞」が発表された。受賞したのは、代表あいさつに立った4人の中の1人、ネパール出身のスビナ・タパリヤさんである。
 
 彼女は「受賞者あいさつ」で、見守り、励まし続けてくれた家族らへの感謝を語った。
 
 父母はその様子を、ネパール・チトワン郡の自宅で午前3時過ぎから、オンライン配信を通じて、じっと見守っていた。式典後、父は語った。
 
 「経済的な理由で、娘をアメリカに送り出すことに、少しためらいがありました。しかし、今では娘の成長の姿をとてもうれしく、誇りに思います。今日という日は、私たち家族の人生の中で最も価値のある、最も幸せな日になりました」

ノーベル平和賞受賞者シリン・エバディ氏が講演

 式典では、アメリカ国歌斉唱、フィーゼル学長の祝辞の後、ムーン学生部長が創立者・池田先生のメッセージを紹介した。
 
 2003年にノーベル平和賞を受賞したイランの平和活動家であるシリン・エバディ氏に「SUA最高栄誉賞」が授与された。氏は記念講演を行い、世界的に民主主義が危機にある今、正義と平和、そして社会に貢献する世界市民にと心からの期待を寄せた。
 
 続いて、卒業生一人一人に、大学院修士号の学位記、学士号の学位記が手渡され、卒業生の代表4人があいさつした。

 最後に、在学生のオーケストラの演奏に合わせて、コーラス隊が身ぶり手ぶりを交えた合唱を披露。卒業生も立ち上がり、皆で喜びを分かち合った。

卒業式のために結成された在学生のオーケストラが勇壮な演奏を披露
卒業式のために結成された在学生のオーケストラが勇壮な演奏を披露
式典後、使命の大空へ高く飛翔しゆく誓いを込めて、角帽を投げ上げる卒業生
式典後、使命の大空へ高く飛翔しゆく誓いを込めて、角帽を投げ上げる卒業生

貴女こそ平和を育む「花の王」 

2022年05月29日 | 妙法

貴女こそ平和を育む「花の王」 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年5月29日

 【写真説明】優雅で気品に満ちた創価世界女性会館(東京・信濃町)。2018年(平成30年)6月、池田大作先生がカメラに収めた。
 同会館は、2000年9月8日に開館した。翌9日、先生が初訪問し、名誉館長の香峯子夫人と共に館内を視察。「女性会館ができて、学会全体が明るくなったようだね。いよいよ『女性の世紀』です」と祝福した。ご夫妻の慈愛に包まれた宝城は「平和の文化」の発信拠点として輝き続ける。
 創価の女性には、6月に大切な記念日がある。4日は「世界池田華陽会の日」、10日は「婦人部結成記念日」。創価の太陽・女性部の大行進がいよいよ勢いを増す。
 

池田先生の言葉

 わが創価の女性たちは、
 一日また一日、
 生き生きと、
 たゆみなく、
 信念の対話を
 積み重ねておられる。
 ここにこそ、
 「平和の世紀」を
 建設しゆく、
 人類の
 最先端の行動がある。
  
 創価の女性たちは、
 いかなる試練にも負けず、
 今いるその場所で、
 皆に勇気と希望を贈る
 「野の花」を、
 凜として
 咲かせ切っておられる。
 この方々こそ、
 永遠に常楽我浄の
 「花の王」と
 仰がれゆくことは
 絶対に間違いない。
  
 皆さまが進めておられる
 広宣流布の対話には、
 納得があり、共感がある。
 慈悲があり、尊敬がある。
 誠実があり、忍耐があり、
 勇気がある。
 正義があり、哲学があり、
 信念がある。
 そして、
 共に幸福と勝利に
 向かっていこうとする
 希望があり、向上がある。
 まさに、皆さま方こそ、
 「対話の文明」を
 生き生きと創出されゆく、
 人類先駆の開拓者なのだ。
  
 「平和」といっても、
 遠くにあるのではない。
 どんなに地道に見えても、
 一人を大切に、
 一人を励まし、
 一人を強く
 賢くしていくことである。
 そこにのみ、
 平和の世界が
 確実につくられていく。
  
 平和の花を
 爛漫と咲かせる大地は、
 自分の足元にある。
 ゆえに日々の
 現実世界のなかから、
 「平和の文化」は芽生え、
 育まれていくものだ。
 その最も貴重な
 教育者こそ
 女性なのである。

 

第17回「大阪事件〈上〉」 “正しい仏法”が、必ず勝つ!

2022年05月26日 | 妙法

第17回「大阪事件〈上〉」 “正しい仏法”が、必ず勝つ!2022年5月26日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 【「若き日の日記」1957年(昭和32年)7月17日から】
 学会は強い。
 学会は正しい。
 学会こそ、美しき団体哉。

若師子よ立ち上がれ!――第3回関西青年部総会で「威風堂々の歌」の指揮を執る池田先生(1998年5月、関西戸田記念講堂で)。同総会で、池田先生は「大阪事件」について言及。「全創価学会の偉大なる友に、同志に、『偉大なる力』をあたえゆく大関西となっていただきたい」と万感の思いを寄せた
若師子よ立ち上がれ!――第3回関西青年部総会で「威風堂々の歌」の指揮を執る池田先生(1998年5月、関西戸田記念講堂で)。同総会で、池田先生は「大阪事件」について言及。「全創価学会の偉大なる友に、同志に、『偉大なる力』をあたえゆく大関西となっていただきたい」と万感の思いを寄せた
「大丈夫だよ」

 「忘れまじ 七月三日の この文字は 師弟不敗の 記なるかな」
 「七月の 十七日を 原点と 魂燃えなむ 君達いとしき」
 「7・3」「7・17」に寄せて、池田先生がかつて詠んだ和歌だ。本年は、不屈の「負けじ魂」が燃え上がった「大阪大会」から65年である。
 1957年(昭和32年)7月3日、北海道で夕張炭労事件による学会への弾圧を打ち破った先生は、千歳空港(当時)から羽田経由で大阪に入った。
 関西の同志は先生に懇願した。「府警なんかに、行かんといてください。行かはったら、帰れんようになるに決まってます」
 その不安とは対照的に、先生は毅然と語った。「大丈夫だよ。ぼくは、何も悪いことなんかしていないじゃないか。心配ないよ」
 4月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反を指示したという事実無根の容疑だった。背後には、民衆勢力として台頭する学会を陥れようとの権力の策謀があった。
 先生は、午後7時過ぎに逮捕された。12年前の7月3日、軍部政府の弾圧と戦い抜いた戸田先生が出獄したのと、奇しくも同じ日、同じ時間だった。
 6日、護送の車に乗る先生を見た友がいる。周囲から厳しい視線が注がれる中、先生はとっさに応じた。「明日、教学試験だね。しっかり頑張るように皆に伝えてください」
 翌7日は、全国で任用試験の開催が予定されており、同志たちは教学の研さんを重ねていた。困難な中でも、最前線の友のことが、先生の頭から離れることはなかった。
 旧関西本部には、戸田先生から頻繁に電話がかかってきた。10分おきに連絡が入ったこともあった。ある時、電話の応対をした壮年は、受話器を持ったまま、肩を震わせた。
 剛毅な戸田先生が涙声で、「代われるものなら、わしが代わってやりたい。あそこ(牢獄)は入った者でないと分からないんだ」と語ったからである。愛弟子を思う恩師の深き慈愛に、壮年は師弟の精神を心に刻んだ。

池田先生が大阪拘置所で拝した御書。獄中での「称呼番号」が記載されている
池田先生が大阪拘置所で拝した御書。獄中での「称呼番号」が記載されている
負けてたまるか

 逮捕されてから6日目の1957年(昭和32年)7月8日、先生は大阪拘置所に移監。検事は2人がかりで、夕食も取らせず、深夜まで取り調べを続けた。
 翌9日、先生は取り調べの途中、手錠をかけられたまま、大阪地検の本館と別館を往復させられた。
 手錠姿で屋外を連行される姿を見掛けた同志は、張り裂けんばかりの怒りをこらえるのに必死だった。
 先生が手錠をはめられたまま、衆目にさらされたという話はすぐに、戸田先生に伝わった。恩師は激怒した。
 「直ちに手錠を外させろ」
 「学会をつぶすことが狙いなら、この戸田を逮捕しろと、検事に伝えてくれ。かわいい弟子が捕まって、牢獄に入れられているのを、黙って見過ごすことなど、断じてできぬ。戸田は、逃げも隠れもせんぞ!」
 いかなる仕打ちにも決して動じない池田先生に、検事は業を煮やし、罪を認めなければ学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する、と恫喝した。10日、担当の弁護士は、恩師が逮捕されることを避けるため、検事の言う通りに供述するように告げた。
 この日、先生は眠れぬ夜を過ごした。獄中でただ一人、煩悶を続けた先生は、恩師の身を案じ、法廷で無実を証明することを決断した。
 翌11日、先生は容疑を全て認め、供述することを主任検事に伝えた。真実を偽らざるを得ない悲哀は、食欲を奪った。
 一方、旧関西本部では、取り調べを受けた関係者らが、でっち上げの調書に協力したこと、そのことが原因で池田先生が逮捕されてしまったことなどを、関西の幹部に伝えた。先生が学会を護るため、検察側の思惑通りの供述を始めた日に、検事たちの捏造の全貌が浮かび上がり始めたのである。

東京・蔵前の国技館で開催された「東京大会」(1957年7月12日)
東京・蔵前の国技館で開催された「東京大会」(1957年7月12日)

 12日、東京・蔵前の国技館で「東京大会」が開催された。戸田先生の一般講義が予定されていた日だったが、急きょ、「大阪事件」の抗議集会が行われた。
 雨の中、東京だけではなく、埼玉や神奈川、千葉からも友が集った。場内2万人、場外にも2万人、計4万人の共戦の同志が駆け付けた。
 席上、戸田先生は質問会を行った。今後の対策について尋ねる友に、恩師は烈々と語った。「今、既にいろいろな面から戦いを始めています。おめおめ負けてたまるものか!」
 「東京大会」の終了後、戸田先生は大阪へと出発した。そして、大阪地検に向かい、検事正に面会を求めた。
 地検の階段を上がる時には、同行の友が恩師の体を支えた。それほど、戸田先生の体は衰弱していた。にもかかわらず、恩師は検事正に会うや、「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか! 私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」と猛然と抗議したのである。
 師匠は弟子を守るために、自らの命を懸けた。弟子は師匠の身を案じ、自らの身命を賭して、獄中で戦い抜いた。
 池田先生が釈放される17日の早朝、東京から音楽隊のメンバーが夜行列車で駆け付けた。夏の太陽が照りつける中、彼らは大阪地検の近くで、怒りの演奏を開始した。すでに、地検の周辺には、先生の釈放を今か今かと待つ多くの同志が、集まっていた。

1957年7月17日、釈放された池田先生
1957年7月17日、釈放された池田先生
関西に轟く万歳

 7月17日正午過ぎ、大阪拘置所の鉄扉が開いた。開襟シャツ姿の池田先生は、意気軒高にあいさつした。
 「ありがとう。ご心配をおかけしました。私はこのように元気です!」
 出迎えの人垣に、「万歳!」の歓声が轟いた。
 釈放された後、池田先生は戸田先生を迎えるため、伊丹空港へと向かった。再会を果たすと、恩師は、裁判が勝負であり、裁判長が必ず分かってくれるとの確信を述べた。
 旧関西本部に到着し、戸田先生は弟子たちに、かき氷を振る舞った。池田先生は「体は芯まで疲れ果てていた。そんな私に、恩師・戸田城聖先生は、かき氷を振る舞ってくださったのである。涼味とともに、師の真心が生命に沁みわたった」と述懐している。
 午後6時、「大阪大会」が開会した。会場は、大阪地検のある建物と川を挟んで対岸に立つ、中之島の大阪市中央公会堂である。場内は義憤に燃えた同志で埋まり、場外にも1万数千人があふれた。
 開会後、激しい豪雨が地面を叩きつけた。稲妻が黒雲を引き裂き、大阪地検のある建物の方向に閃光が走った。場外のスピーカーから流れる声は、雨の音にかき消された。場外の同志はずぶ濡れになりながら、必死に耳を傾けた。
 池田先生が登壇すると、戸田先生はイスから立ち上がり、演壇のコップに水を注いだ。場内は大きな拍手に包まれた。

「大阪大会」で登壇し、大確信の師子吼を放つ池田先生(1957年7月17日、大阪市中央公会堂で)
「大阪大会」で登壇し、大確信の師子吼を放つ池田先生(1957年7月17日、大阪市中央公会堂で)

 池田先生は御書の「大悪おこれば大善きたる」(新2145・全1300)を拝し、“私もさらに、強盛な信心を奮い起こし、皆様と共に、広宣流布に邁進する決心であります”と師子吼。そして、烈々と呼び掛けた。
 “最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!”
 「大阪大会」の終了後、先生は公会堂の窓を開けた。場外の同志を励ますためである。先生は身を乗り出して、大きく手を振った。
 その後、音楽隊が会場前で学会歌の演奏を始めた。公会堂を出た先生は、扇子を手に何度も指揮を執った。さらに、同志の輪の中に入ると、「今度は勝とうな!」と繰り返した。
 池田先生と同志との、魂と魂の結合が輝いた「大阪大会」。
 場外で参加した女性は、“負けて泣くより、勝って泣こう”と決めた。兵庫から駆け付けた友は、隣にいた同志と手を取り合い、“絶対に頑張りましょう”と誓い合った。
 先生は万感の思いを述べている。
 「大阪大会には、全関西から、また首都圏から、大中部から、さらには中国、四国から、そして遠く九州からも、勇んで同志が駆けつけてくださった。私の胸から、その同志の熱意は、今もって、いな一生涯、消えることはない」
 「たとえ大阪に来られなくとも、全国津々浦々で、私の無事を祈り、堂々と正義を叫んで立ち上がってくださった同志たちよ! 私はその真心を、真剣な行動を、一生涯、忘れない」

1957年7月17日、不滅の「大阪大会」が行われた中之島の大阪市中央公会堂(2007年11月、池田先生撮影)
1957年7月17日、不滅の「大阪大会」が行われた中之島の大阪市中央公会堂(2007年11月、池田先生撮影)

随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 さあ広布へ 心新たに!

2022年05月24日 | 妙法

随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 さあ広布へ 心新たに!2022年5月24日

風薫る5月――。生き生きとした青葉、若葉の輝きは、生命の輝きそのもの。光きらめく一葉一葉は朗らかな語らいのよう(池田先生撮影、今月、都内で)
風薫る5月――。生き生きとした青葉、若葉の輝きは、生命の輝きそのもの。光きらめく一葉一葉は朗らかな語らいのよう(池田先生撮影、今月、都内で)

 「時」とは、宇宙の大生命が刻む、妙なるリズムそのものであろう。
 ゆえに、妙法を唱え弘めゆく人生は、「時」に適い、「時」を味方にして、必ずや幸福そして勝利の春夏秋冬を飾れるのだ。
 御本仏・日蓮大聖人は、決然と宣言された。
 「今、日蓮が時に感じて、この法門広宣流布するなり」(新1388・全1023)
 この師子吼に呼応して、戸田城聖先生の指揮のもと「今こそ大法弘通の時」と定め、大行進を開始したのは七十年前、まさしく立宗七百年にあたる一九五二年(昭和二十七年)であった。
 師恩に報いる誓願で、不二の弟子が「慈折広布」へ突破口を開いた東京・蒲田支部の「二月闘争」は、この年であり、わが関西もまた、時を同じくして出陣した。
 立宗の月・四月には、創価学会版の御書全集が発刊された。「御書根本」という永遠の軌道の確立である。

“大楠公”の誓い

 恩師の甚深のご配慮で、その翌五月の三日に、私と妻は簡素な結婚式を行い、出発をさせていただいた。
 先生は一言、「これからの長い人生を、広宣流布のために、二人で力を合わせて戦い切ってもらいたい」と語られ、祝宴の歌に“大楠公”を所望された。
 「青葉茂れる桜井の」と謳われた、父・楠木正成と子・正行の誓いの劇は、旧暦の五月のこととされる。
 「父は兵庫に赴かん」との覚悟の旅に、子は「御供仕えん」と訴えた。
 しかし厳父は“早く生い立て”“民守れ”と後事を託して、故郷の母のもとへ帰すのである。
 思えば、戸田先生ご自身が十九歳で牧口常三郎先生に師事して以来、この歌に脈打つ“正行の心”で仕え抜いてこられた。そして、法難の獄中に殉教された師父の仇を討つ正義と人道の巌窟王となり、戦後の荒野で、妙法流布の大願へ一人立たれたのだ。
 戸田先生の事業が最悪の苦境にあった折、先生は正成のごとく、私は正行のごとく、師子奮迅の力で一切を超克し、第二代会長就任の五月三日を飾った。
 その私の志を全て知悉された先生は、新たな門出に一年後の五月三日を選んでくださり、“大楠公”の合唱を求められたのである。
 尽きせぬ報恩感謝の一念で、広宣流布の大誓願へ「父子同道」の旅を貫き、同志を広げ、後継を育てて、七十星霜となる。

はるかな幾山河を乗り越え、どこまでも広宣流布の大願へ師弟の旅を共々に(2002年5月、東京・信濃町の旧・聖教新聞本社で)
はるかな幾山河を乗り越え、どこまでも広宣流布の大願へ師弟の旅を共々に(2002年5月、東京・信濃町の旧・聖教新聞本社で)
民衆第一に進め

 立宗七百年から十年後の一九六二年(昭和三十七年)を、わが学会は「勝利の年」と銘打った。
 この年の一月、私は事実無根の選挙違反容疑で逮捕された大阪事件の裁判で、無罪判決を勝ち取った。民衆勢力として台頭する学会を陥れんとする権力の謀略と戦い、公判八十四回に及ぶ法廷闘争を通し、正義を満天下に示したのである。
 迎えた五月三日、私は色紙に認めた。
 「大阪事件 初公判 昭和三十二年十月十八日なり
 最終陳述 昭和三十六年十二月十六日なり
 判決 無罪 昭和三十七年一月二十五日なり」
 そして、最後に記した。
 「多くの尊き友が尽力下されし真心に 心より感謝の意を表しつつ……その名、永久に忘れず」と。
 関西の母たちをはじめ、多くの同志が私の勝利を信じ、ひたぶるに題目を送り続けてくれた。同心の一人ひとりの姿が、私と妻の命から離れることはない。
 判決の前夜に兵庫・尼崎の天地で、青年と語った。
 ――牧口先生、戸田先生の遺志を継ぐ私には、自分の命を惜しむ心などない。
 不幸な人の味方となり、どこまでも民衆の幸福を第一に、さらに堂々と前進を開始しようではないか、と。
 以来、大関西をはじめ、各地の地涌の勇者が、まぎれもなく“正行の心”を受け継いで、師弟の共戦譜を勝ち綴ってくれていることが、何よりの誉れである。

断じて不戦を!

 一九六二年は、東西の分断が日に日に深まる時代であった。前年に「ベルリンの壁」が築かれ、十月には「キューバ危機」が起こっている。世界は核兵器の脅威に怯え、日本では、不安の中、核戦争、第三次世界大戦が起きるかどうかを予想・論評するマスコミも少なくなかった。
 しかし、そうした議論は、私が選ぶところではない。核兵器の本質を“絶対悪”と喝破された恩師のお心を継いだ弟子の決意は、微動だにしなかった。
 “第三次世界大戦は断じて起こさせない”――当時、我らはこの決心で強盛に祈り、世界平和の道を開こうと誓い合ったのである。

勝利へ東奔西走

 この年早々、私は厳寒の北海道へ向かった。中東を歴訪した後、日本列島を、中国、四国へ、さらに東北、関東、九州、東海道、中部、関西、信越、そして沖縄へと東奔西走した。訪問できなかった恩師の生誕の天地・北陸の宝友とも、常に連携を取り合っていた。同志の全世帯に一声ずつの題目でも送りたいと願い、日々、勇猛の唱題行を重ねながらの旅路である。
 私は声を限りに訴えた。
 東京では「広宣流布という大目的に立って、仏道修行に励んでいこう」。
 埼玉では「“広宣流布は絶対にできる”との大確信を持って前進を」。
 福岡では「強い団結で、世界中の人が“さすがだ”と驚く先駆の実証を」。
 神奈川では「私たちが“日本の柱”となって、本当に住みよい、幸せな国をつくろう」。
 愛知では「誰が何と言おうが絶対に勝ち抜いて、平和と安泰のために進もう」。
 兵庫や大阪の闘士が結集した関西での集いでは「皆が安心して暮らせる社会をつくるために戦おう」。
 また、この動きに合わせ、可能な限り、各地で御書講義を行い、質問会も設けて、求道の友と研鑽し合った。
 ある時は「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」(新1481・全1088)との御文を拝し、どこまでも「御本尊根本」「御書根本」に進もうと確認した。
 ある時は「かかるとうと(尊)き法華経と釈尊にておわせども、凡夫はし(知)ることなし」(新1723・全1446)を拝読し、いまだに偉大な仏法を知らずにいる多くの人びとに、他の誰でもない、この私たちこそが語り切るのだと自覚を深め合った。
 地区担当員(現・地区女性部長)の方から、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(新1097・全788)との一節を、生活に当てはめると、どう拝すればいいかと、真剣な質問を受けたこともある。
 私は申し上げた。
 “どんな悩みがあっても、「苦楽ともに思い合わせて」題目を唱えていけば、歓喜の生命が必ず涌現します。
 自分が歓喜して、その喜びに溢れた姿を見た人までが、同じ喜びに燃え立っていく。自分だけでなく、友をも同じ歓喜の境涯と生活にあらしめる。これこそ、「歓喜の中の大歓喜」ではないでしょうか”と。
 私と同じ心で、全国各地の友が、いずこでも生き生きと躍動し立ち上がってくれた。学会は、この年、恩師から遺言として託された「三百万世帯」という目標を達成し、新しき創価勝利の歴史を開いたのだ。

勢いあれば栄う

 それから、さらに十年。「地域の年」と掲げた一九七二年(昭和四十七年)の一月、私は愛する沖縄へ飛んだ。復帰の年に、真実の「幸福島」の建設へ、皆で決意を新たにしたのである。
 「依正不二」の原理の上から、「仏法を持った学会員が元気で勢いがあれば、必ず社会は栄え、絶対に平和になる」とも語り合った。
 この半世紀、尊貴なる宝友たちは「柔和忍辱の心」を体し、あらゆる試練を越え、「命をかけて ひと筋に」、仏法中道の智慧の光で広布の理想郷を開いてきた。
 「御志、大地よりもあつ(厚)く、虚空よりもひろ(広)し」(新1882・全1551)
 「日蓮が道をたす(助)けんと、上行菩薩、貴辺の御身に入りか(替)わらせ給えるか。また教主釈尊の御計らいか」(新1583・全1163)等の仰せは、そのまま、わが沖縄家族への御照覧・御賞讃なりと、私には拝されてならない。

「時」は今! 対話の旋風で 希望の大道を

 「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー(地球規模で考え、地域で行動する)」
 これは、著名な医学・細菌学者のルネ・デュボス博士が提唱した標語である。
 この精神が、今ほど求められている時はあるまい。
 たとえ、道がいかに遠く険しくとも、一人ひとりが今いる場所で信念の行動を起こすことが、地球全体を変えゆく希望となるのだ。
 デュボス博士は、トインビー博士にご紹介いただき、お会いした一人である。
 「世界に対話の旋風を! 永遠の平和の道をつくるために」とは、いうなれば、五月に対談を重ねたトインビー博士と私の“青葉の誓い”であった。
 一つ一つの縁を大切に、一人ひとりと信頼を育むことが、「時」を創ることだ。
 わが同志は今、不軽菩薩のごとく、あの地この地で、勇んで友のもとへ足を運び、友情を広げている。大誠実の対話で結ばれた絆こそ、新しい「変革」をもたらす力になると確信する。
 デュボス博士は、“危機”の意義をこう語られた。
 「危機こそ、ほとんど例外なしに豊かさへの源泉である。危機は新しい打開の道を追求させるからである」
 大変な時に勇敢に立ち上がるから、宿命転換できる。変毒為薬できる。
 これが、創価の師弟に漲る「師子王の心」である。
 御本仏の御聖誕満八百年。そして、立宗七百七十年の今この時、我らは胸を張り、「立正安国」という大いなる希望に向かって進もう! 威風堂々と対話の旋風を巻き起こし、民衆の幸と凱歌の旗を、未来へ、はためかせようではないか!
(随時、掲載いたします)    

 「青葉茂れる桜井の」(大楠公)の歌詞は落合直文作。デュボスの言葉は『人間への選択』長野敬・中村美子訳(紀伊國屋書店)。


トインビー対談開始50周年記念インタビュー〉㊦ 河合秀和学習院大学名誉教授

2022年05月23日 | 妙法

〈トインビー対談開始50周年記念インタビュー〉㊦ 河合秀和学習院大学名誉教授2022年5月23日

  • 人類の危機の克服に向け
  • 「自己超克」の宗教を探究

 本年は、池田先生とイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー博士との初めての対談が行われてから50年。その現代的意義について、21日付に続き、河合秀和学習院大学名誉教授へのインタビューを掲載する。(聞き手=志村清志、小野顕一)
   
   
 こちらから、インタビュー㊤をご覧いただけます。
  

理性と情念

 ――対談で池田先生は「人類が生き延びるためには、科学とともに、どうしても宗教が必要であることが明らかになってくる」と述べ、トインビー博士は「人類の生存に対する現代の脅威は、人間一人一人の心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができる」と応じました。人類が直面する危機の克服へ、対談では「宗教」について掘り下げられています。
  
 二人が共通して抱いていた問題意識は、“人間の理性は果たして万能なのか”という点です。19世紀以降、科学技術の発達によって人々の生活が向上すると、人間のつかさどる理性が、さも真実であるかのような理解が広がっていきました。その分、それまで人々の生活の根幹にあった宗教が、重要視されなくなっていったのです。
 18世紀の啓蒙思想の哲学者デイヴィッド・ヒュームは、理性や科学の“傲慢さ”に対して批判的な立場を取り、「理性は情念の奴隷である」と指摘しました。理性はある目的を達成するための手段を教えてくれますが、目的そのものは人間の好き嫌い、情念から生じます。ところが理性は、悪の奸計を立てるのにも役立ってしまいます。だからヒュームは、「理性は情念の奴隷でなければならない」と書き足すのです。こうして理性の働く範囲が限定されることによって、理性と宗教の両立が可能になります。
 核兵器を巡る議論は、“理性は万能なのか”という問いを人類に突き付けています。現在、地球上には、地球を何十回も破壊できるほどの核兵器が蓄えられています。そして、その破壊力をもって平和を維持するという「核抑止論」が、それなりの正当性を得ています。
 しかし、核兵器を何万発も保有することが、果たして合理的と言えるのでしょうか。ウクライナ危機により、核兵器使用の危険性が高まる今、改めて、「核兵器は狂気の兵器ではないか」という問い掛けが求められています。そこで、宗教は極めて大切な役割を担えるのではないでしょうか。国家の安全保障から個人の生命尊重に至るまで、真に「人間らしい」対策とは何かを見直す時が来ていると言えます。
  

池田先生に贈られたトインビー博士の自著『図説 歴史の研究』(写真上)。「私が心から大切にしているあなたとの友情、また同胞たる人類に対してあなたと共有する憂慮のささやかな証しとして」との献辞が(同下)
池田先生に贈られたトインビー博士の自著『図説 歴史の研究』(写真上)。「私が心から大切にしているあなたとの友情、また同胞たる人類に対してあなたと共有する憂慮のささやかな証しとして」との献辞が(同下)

 ――トインビー博士は、「自己超克」こそ宗教の真髄であり、人類の危機を克服する方途であると対談で語っています。池田先生は、自己超克を成し遂げる力は全ての人に潜在的にそなわっていると指摘し、その自己変革を可能とする実践が「人間革命」であると示しました。
  
 2度の世界大戦を経験したトインビー博士が、ありとあらゆる歴史を見つめてきた末に導き出した結論が「自己超克」であると思います。
 ただし、自己超克といっても、決して急進的なものではないはずです。一つの岩から彫刻作品を生み出すように、自分自身の「人間のまっとうさ」を求め、確認するような粘り強い一歩一歩が必要であると私は考えます。
 加えて対談では、「大我」(宇宙的・普遍的自我)と「小我」(個人的自我)の関係性について語り合われている箇所があります。ここでも、どちらか一方が重要ということではなく、その調和・融合が志向されているのは重要な点であると思います。小説『ドン・キホーテ』に描かれる、理想主義のドン・キホーテと現実主義の従者サンチョ・パンサのように、確かな理想を掲げつつも、常に自制心を持ち、現実的に行動を起こす。そうした絶妙なバランス感覚が不可欠でしょう。
  
  

女性への信頼

 ――対談集は12章で構成され、77もの多彩なテーマに及んでいます。特に印象に残っている箇所はありますか。
  
 対談の中で池田会長は、「いまの社会は、まだ女性がその潜在能力を男性と同じように発揮できる平等社会ではなく、男性と同じだけの仕事をしても平等の報酬を受けているとはいえません」と発言されています(「健康と福祉のために」の章、「母親業という職業」)。1970年代初頭の対談当時において、先進的な発言です。
 2010年代後半から、セクシュアルハラスメント被害を告発する「#MeToo」運動が急速に広がるなど、女性の権利に関する新たな展開が生まれましたが、現代社会から改めて対談内容を読み直してみると、その先見性に驚きます。
 女性の人権を巡る議論は、対談後の50年間で大きく発展しました。ジェンダーや性的マイノリティーなど、当時の社会では想定されていなかった課題も出てきています。その点は、次代を担う青年の皆さんが、対談の本質を読み解き、現代的な展開をしていってほしいと思います。
  

トインビー対談の外国語版。これまで31言語で出版されている
トインビー対談の外国語版。これまで31言語で出版されている

 対談では、生命の尊厳を守り、育み、大切にする女性の特質が、人類や人間社会にとって極めて普遍的な重要性を持つという共通認識から対話が展開されていきます。
 私は創価学会について、他の組織や団体と比べて女性がはるかに活躍されているという印象を受けてきました。学会の女性がいかんなく力を発揮できているのは、そうした池田会長の女性の力への信頼が根底にあることと無関係ではないでしょう。
 コロナ禍や紛争の影響で経済格差がより深刻になる中、社会の不平等を是正するための政策の要となるのは、女性と子どもへの視点です。
 この問題に一番取り組める力を持っているのが、公明党だと思っています。多くの女性議員が活躍し、一貫して福祉政策を推し進めてきたからです。国と地域の緊密な連携や、その実現力には、目を見張るものがあります。
  
  

二人の“予言者”

 ――池田・トインビー対談後の創価学会の50年の歩みを、どうご覧になりますか。
  
 オックスフォード大学で同僚だった宗教社会学者のブライアン・ウィルソン博士が来日し、池田会長と対談された後、意見交換したことがあります。
 ウィルソン博士から聞いた話によれば、池田会長は、聖職者を持たない俗人宗教や一般人の立場で教義を説く俗人説教者について、具体的な質問をされていたようです。
 創価学会は、僧侶や寺院ではなく、在家信徒によって運営する組織として発展を遂げてきました。これは日本の仏教史上、まれに見る転換であったと思います。
  

対談の合間に、トインビー博士の自宅近くにあるホーランド公園を散策(1972年5月)。対談初日、博士は池田先生に「長い間、この機会を待っていました。やりましょう! 21世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」と
対談の合間に、トインビー博士の自宅近くにあるホーランド公園を散策(1972年5月)。対談初日、博士は池田先生に「長い間、この機会を待っていました。やりましょう! 21世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」と

 私は、池田会長とトインビー博士の二人が、ある意味での「予言者」であったと考えています。
 ここで言う「予言」とは、単に「先見性がある」という意味ではありません。「歴史家は、後ろ向きの予言者」といわれるように、トインビー博士は過去の歴史を振り返りつつ、未来への警鐘を鳴らす人でありました。そのため、未来に対しては時に悲観的な立場をとります。
 一方、池田会長は、戦後社会の思想的空白の中で、創価学会の指導者として立ち上がります。そして、平和と福祉という目標を掲げ、その理想を実現しようと行動を起こしてきました。その印象を率直に言うなら、「腰の据わった予言者」とも感じます。
 対談においても、非常に大胆に、「この世界はきっと良くなっていく」「良くしていく」と楽観的に未来を捉え、遠大なスケールで対話の実践を広げてきました。
 かつて、来日したトインビー博士の質問に、私は「社会の恩恵を得ることのできない人々に希望と展望を与えているのが創価学会なのです」と答えました。その時に回答した通りの発展を、学会は続けてこられたと思います。
 トインビー博士と交わした「世界に対話の旋風を」との約束を、池田会長が現実の行動の中で果たされたように、危機を越える新しい希望と展望を対話の実践の中で広げてほしいと期待します。
  
  

プロフィル

 かわい・ひでかず 1933年、京都府生まれ。62~65年、73~75年、オックスフォード大学で研究活動を行う。専門は比較政治、イギリス政治。学習院大学教授、中部大学特任教授などを歴任。主な著書に、『ジョージ・オーウェル』(研究社出版)、『トックヴィルを読む』(岩波書店)、『クレメント・アトリー――チャーチルを破った男』(中央公論新社)など。池田・トインビー対談開始50年を記念して発刊された論集『文明・歴史・宗教』(東洋哲学研究所)に、寄稿が掲載されている。
  

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