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第5回「大阪の戦い〈上〉

2021年05月28日 | 妙法

第5回「大阪の戦い〈上〉」 厚い壁を「信心の利剣」で破れ2021年5月28日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【先生が実践した「広布の方程式」】
一、強盛な祈り
一、御書根本
一、一対一の対話
1960年5月3日、関西総支部は18支部の陣容に発展。同月8日、第3代会長に就任したばかりの池田大作先生が支部旗を授与した(関西総支部幹部会で)
1960年5月3日、関西総支部は18支部の陣容に発展。同月8日、第3代会長に就任したばかりの池田大作先生が支部旗を授与した(関西総支部幹部会で)
今度の戦いは勝った!

 1956年(昭和31年)5月、大阪支部は1カ月で1万1111世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てた。「一が五つ重なっているから、いつでも一番や」――意気軒高な大阪の同志はそう語り合った。
 その2カ月後、今度は大阪地方区の参院選で、「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた勝利を飾る。池田大作先生が指揮を執ったこの「大阪の戦い」には、幾つもの「広布の方程式」が刻まれている。
 55年(同30年)10月、戸田城聖先生は、池田先生に大阪派遣を命じた。恩師の生涯の願業である75万世帯の達成には、関西に広布の一大拠点を建設することが急務だった。
 池田先生は「勝ち戦にせねばならぬ、運命の一戦」(『若き日の日記』、1955年10月14日)と記した。「大阪の戦い」は、広布の命運を決する一戦だった。
 戦いはまず、「深い祈り」から始まった。この時、池田先生は青年部の室長であり、学会の渉外部長であり、文京支部の支部長代理でもあった。仕事では営業部長を務めていた。一瞬の油断もできない緊張が続く。
 ある日、戸田先生は池田先生に語った。
 「人生は悩まねばならぬ。悩んで初めて信心もわかるんだよ。それで偉大な人になるんだ」。弟子の苦悩を師は知り抜いていた。
 御義口伝に「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書790ページ)とある。悩みに悩んでこそ、仏の生命(無作の三身)を奮い起こすことができる。池田先生は、“運命の一戦”の勝利のため祈り抜いた。その年の大みそかから翌56年の元日にかけて、吐き気にも襲われている。御書を“身で読む”毎日だった。
 年が明けた1月2日、祈りを重ねる中、脳裏に「法華経とは将軍学なり」と浮かんだ。「勝利の鉄則」を見いだした瞬間だった。
 4日の夕刻、旧関西本部を訪れた先生は、館内を一巡。その後、仏間へ向かい、幹部と共に勤行し、烈々と宣言した。
 「今度の関西の戦いは勝った!」
 「大阪の戦い」の本格的な出発は、先生の「勝利宣言」から始まった。そして翌5日の地区部長会では、こう訴えた。「全員の祈りがそろって、御本尊に向かった時、不可能を可能にする道が、豁然と開けるのは当然です

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)10月31日から】
美名にかくれた言語でなく、
全魂を傾け、全霊を尽くして、
初めて、
仏天の加護を願うことだ。
旧関西本部の建物。池田先生は、ここを拠点に「大阪の戦い」の指揮を執った
旧関西本部の建物。池田先生は、ここを拠点に「大阪の戦い」の指揮を執った
御書を拝する境涯

 二点目は「御書根本」である。
 池田先生は「大阪の戦い」で、朝の勤行を終えると、東京からの派遣幹部や関西のリーダーに御書講義を行った。
 「その朝、その朝、その原動力ともいうべき、時々刻々の焦点を、御書を通して明確にしたのである」
 この早朝の御書講義で、幾度となく拝した御文が「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192ページ)の一節である。短期決戦で勝利を収める「最高の団結」「最高の勇気」は、浅薄な知恵を働かせた策や方法ではなく、どこまでも信心から生まれることを訴えた。
 また、リーダーたちの一念がぶれている時には、「軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり」(同1219ページ)を通して奮起を促した。
 関西の同志が今も深く心に刻んでいる御聖訓が、「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(同1132ページ)である。
 先生は、「不可能を可能にする」との確信、一念こそが仏法者の姿勢であることを強調した。御書根本の励ましは、関西の一人一人の心に勇気の炎となって、燎原の火のごとく広がった。先生は述べている。
 「同じ御文であっても、拝する境涯や一念の作用によって深さが変わる。御書根本に戦おう! そう決めて、学び抜く人には、無限の力が涌現するのだ」
 三点目は、「一対一の対話」である。
 「手っ取り早い近道などありえない。遠回りに見えようが、地道な一対一の『対話』しかない。一回一回に魂を注いだ『個人指導』しかなかった」
 半年間の「大阪の戦い」で、先生の訪問・激励は8000人に及んだ。毎日、40人以上に励ましを送ったことになる。しかも、先生は毎日、大阪にいたわけではない。どう動くのか。一人に会い、一人を励ますために智慧を尽くした。

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)11月11日から】
未完成の自分を、
自分らしく、
真面目に反省し、猛省して、
生涯生きたいと思う。
“常勝太鼓”を打つ池田先生(2000年12月、関西文化会館で)。同月の関西代表幹部会・女性総会の席上、常勝関西への万感の思いを和歌に託している――「大関西 断固と築けり 常勝の 大城 輝き 三世に不滅と」
“常勝太鼓”を打つ池田先生(2000年12月、関西文化会館で)。同月の関西代表幹部会・女性総会の席上、常勝関西への万感の思いを和歌に託している――「大関西 断固と築けり 常勝の 大城 輝き 三世に不滅と」
「まだ、時間がある」

 時に数分しか滞在できない場所もあった。しかし、わずかの時間でも、池田先生は目の前の「一人」に対し、真剣勝負で臨んだ。
 「行く先々で『まだ、時間がある』『まだ、励ませる』と動くうち、日に二十五、六会場を回ったこともある。全身に汗は流れ、声は嗄れ、足は棒のようになった」
 座談会場にも次々と足を運んだ。「こんばんは! お元気でっか」と、ユーモアたっぷりに、関西弁で会場に入ることも。その場で、20人前後の友人が入会を決めた座談会もあった。先生の姿を通して、関西の友は「リーダー率先」から広布の勢いが生まれることを学んだ。
 先生は「一対一の励まし」において、「聞く」ことの大切さを語っている。「よく話を聞いてあげ、今の悩み深い境涯から、信心によって必ず脱出できることを、真心込めて懇切に話してあげてください」。「大阪の戦い」とは、一面から言えば、同志の苦悩に徹底して寄り添う戦いでもあったのである。
 経済的な苦境に立たされ、涙ながらに悩みを語る婦人の話を、先生はじっと聞き、包み込むように言葉を掛けた。「一緒に祈りましょう。勇気を出して信行学の仏道修行をやりきるのです」
 試練に直面する同志、なかなか広布の陣列に加われない友――先生は、一人として置き去りにせず、励ましを送り続けた。
 その激闘は、時に池田先生の体をさいなみ、発熱することがあった。関西の友が、“お体が壊れてしまうのではないか”と心配するほどだった。
 しかし、先生は同志の前に立つと、何事もなかったかのように、再び全精魂を注いで、激励に次ぐ激励を重ねた。ある時、関西の婦人が、“池田先生の力は、どこから湧いてくるのでしょうか”と質問した。
 先生は答えた。“私はみんなと同じだよ。同じ御本尊を拝んでいるんだから”。そして、こう続けた。
 “もし、違うところがあるとすれば、それは責任感と使命感だよ”

六段円塔が完成する瞬間、金波銀波のスタンドに真っ赤な「関西魂」の人文字が(池田先生撮影。1982年3月、第1回「関西青年平和文化祭」で)
六段円塔が完成する瞬間、金波銀波のスタンドに真っ赤な「関西魂」の人文字が(池田先生撮影。1982年3月、第1回「関西青年平和文化祭」で

どんな時も師匠を心のど真ん中に2

2021年05月27日 | 妙法

〈信仰体験〉 どんな時も師匠を心のど真ん中に2021年5月27日

  • 制御盤設計会社の代表取締役
  • 念願の自社工場を建設 個人会館も
機械の用途や目的に応じて緻密に設計される制御盤は、一つ一つがオーダーメード。「目立たない存在だけど、機械を動かす司令塔である制御盤づくりに愛着が湧きます」と仲程さんは語る
機械の用途や目的に応じて緻密に設計される制御盤は、一つ一つがオーダーメード。「目立たない存在だけど、機械を動かす司令塔である制御盤づくりに愛着が湧きます」と仲程さんは語る

 【大阪府八尾市】「“自分の時間はなんぼでも広布のために”という心意気で、一分一秒も無駄にしないと日々祈っています」。そう語る仲程長英さん(51)=地区部長=は、「㈲楓電機」の代表取締役を務める。工場の生産ラインを動かす「頭脳」の役割を担う「制御盤」を設計・製造する。仕事が多忙で学会活動から離れたこともあったが、今こうして信心根本に祈れるようになったのは、自身の過去の失敗と、支えてくれた同志の存在があったからだ。

 <夫が広布のために時間を使えるように>。妻・勝子さん(53)=支部女性部長=は、ご祈念項目の最初に一番の願いを掲げた。妻の強盛な祈りと競うかのように、仲程さんの仕事は多忙を極めていた。
 
 仲程さんの信条は“仕事は断らない”。高校卒業後から働いてきた前職の電気設備製造会社で、その精神をたたき込まれた。29歳で「楓電機」として独立してからも大切にしている。
 
 独立後すぐに、大きな仕事が舞い込んだ。大手製薬工場のメインラインを動かす制御盤の設計を担当することに。この案件だけでも大変だったが、仲程さんは来るもの拒まず。並行して他社からの仕事も引き受けた。「まだ若かったし、何とかなると思ってたんでしょうね」
 
 午前8時から午後7時まで徳島の製薬工場で作業し、車を走らせて大阪に戻る。そして深夜に別の仕事。翌朝にはまた徳島へ。フラフラになりながら働き続け、御本尊の前に座る余裕すらなかった。
 
 ある時、疲弊しきった仲程さんを見て大阪の顧客が言った。「もうあんた無理やろ。別のとこにお願いするわ」
 
 自分の力量の無さを痛感した。最後までやりきれなかったことが申し訳なくて仕方なかった。
 
 “このままじゃ、あかん”。仕事の姿勢を見直した。信条は貫きながらも、綿密にスケジュールを管理。納期面で難しい案件であれば、同業他社を探して依頼するなど、顧客のために最善を尽くした。また、前職の社長が協力会社を紹介してくれ、マンパワーも充実した。

 何より変えるべきは、「信心の姿勢」だと頭では分かっていた。でも、その後も仕事に振り回され続け、なかなか変えられない。そんな時、得意先から1000万円を超える不渡り手形をつかまされるところを、不思議にも回避できたことがあった。“守られた”と安堵する一方で、信心をおろそかにしていたことを改めて猛省した。
 
 “一体、何のための仕事なのか。何のための人生なのか”――24歳で創価学会に入会し、参加した大阪城ホールでの「関西栄光大文化祭」(1994年)がよみがえる。この時も仕事が忙しかった。それでも、必死に組み体操の練習に駆け付け、また職場に戻るような日々を送っていた。文化祭当日、池田先生と初めての出会いを刻んだ。フィナーレでは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら「常勝の空」を大合唱した。
 
 あの日の誓いを思い起こし、仲程さんは決心する。“仏法と師匠への求道の心を燃やすんだ。師を心のど真ん中に置いて、信心根本に挑戦しよう”
 
 支えてくれた妻の存在も大きい。前職で出会い、信心を教えてくれた。帰宅が遅くなっても、妻が祈っている姿を何度も見てきた。時には、妻に引っ張られて対話に歩いたことも。
 
 多くの同志にも励ましてもらった。仕事と活動の両立について教えてくれた自営業の壮年部員。宿命転換を懸けて折伏に挑戦することを応援してくれた婦人部(当時)や男子部の先輩。恩返しの思いで祈り、活動にしがみついていった。
 
 これまで長期の海外出張もあったが、断るようにした。家計を直撃することになるが、妻も背中を押してくれた。その分、時間と心にゆとりが生まれ、思う存分、学会活動に打ち込めるように。同僚への弘教も実った。
 
 その後、仕事にも変化が起きた。大阪中心だった事業が全国に拡大。取引する営業所が増え、売り上げも順調に増えていった。「信心で立ち上がれば、必ず道は開けることを実感しました」
 
 そんな中の2012年(平成24年)、今度は仲程さんを病魔が襲った。突然、激しい腹痛に見舞われ病院へ運ばれると、「急性膵炎」との診断。40度以上の高熱に意識障害を起こすなど重症化した。
 
 「命に関わるかもしれません」。重い宣告にも勝子さんは毅然としていた。「“絶対に夫を死なせてなるものか”と祈り抜きました。地区の皆さんも祈ってくれて」。仲程さんの病状は快方に向かい、1カ月後には職場復帰を果たす。

従業員と打ち合わせをする仲程さん(左端)。隣が長女の楓さん
従業員と打ち合わせをする仲程さん(左端)。隣が長女の楓さん

 今年で創業22年。6年前には、自社工場を建設することができ、仕事の幅はさらに広がった。社名の由来である長女・楓さん=華陽リーダー=も共に働く。頼もしい存在だ。
 
 また、“自宅を広布の会場に”との長年の夢をかなえ、個人会館を建築。昨年、「仲程栄光会館」がオープンした。「早く多くの人たちを呼べるようになって、にぎやかな集いを開催したい」と夫妻は目を細める。
 
 今でも仲程さんは年中、仕事漬けの毎日。悩みは尽きないが、悩みがあるから題目が唱えられる。題目を唱えるから生命力が湧く。
 
 「使命の自覚とは、自分で“断じてこうするのだ”と決めていくことです。あとは、強い生命力をみなぎらせ、現実に押しつぶされることなく、人生を楽しみながら、伸び伸びと仕事をしていくんです」との池田先生の指針を胸に刻む。
 
 「妻への感謝は尽きません」と何度も語る仲程さん。昨年、結婚25周年を迎えた。妻にサプライズでプレゼントと、これまでの夫婦の歩みを書いた手紙を思いを込めて贈った。
 
 たくさん心配を掛けたこと、けんかしたこと、家族で行った楽しい旅行、感謝の思い……。そして、仲程さんは最後につづった。<この25年間、本当にありがとう。これから先もずっと、同じ時を過ごしていきましょう>

仲程さんが“題目の人”とたたえる妻・勝子さん㊧。「妻の祈りに支えられて、今の私がいます」(自宅の個人会場で)
仲程さんが“題目の人”とたたえる妻・勝子さん㊧。「妻の祈りに支えられて、今の私がいます」(自宅の個人会場で)
 
 
 
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〈座談会〉 「敢闘精神」燃やし関東の底力を 異体同心で師弟共戦!2021年5月27日

〈出席者〉原田会長、永石女性部長、中井関東長、大高関東女性部長、野中関東男子部長、齋藤関東女子部長

 永石 本年は、2001年6月6日の関東婦人部の大会で、牧口先生の生誕の日でもあるこの日を「関東婦人部の日」と決めていただいてから、20年の節目ですね。
  
 大高 はい。関東女性部は報恩の心で一致団結し、記念月間(6月1日~7月3日)を全力で走り抜きます。埼玉女性部は、池田先生の「川越地区講義」開始から70周年の本年を勝ち飾ろうと、月間の先駆を切って対話を広げています。
  
 中井 壮年部も意気軒高です。6月は、壮年部の愛唱歌「滝の詩」として歌われる詩を先生が詠まれてから50周年の佳節を迎えます。この月、千葉と栃木では支部単位の壮年大会を開催します。
  
 原田 関東の使命は、いよいよ大きい。池田先生は随筆で、関東そして東京、東海道が一体となった地域を「異体同心の大首都圏」とつづられ、特に関東については「完勝の電源地」と呼び掛けられたことがあります。今こそ関東の底力を示し、広布の波動を起こしていっていただきたい。

埼玉の東松山文化会館で行われた地区座談会(今年5月)
埼玉の東松山文化会館で行われた地区座談会(今年5月)

 永石 栃木は今日27日が「師弟共戦の日」です。感染対策を徹底しながら、できる限り玄関先等で「直接会う」ことを推進していますね。新入会者や三十数年ぶりに学会活動に参加したメンバーなど、新たな人材が陸続と立ち上がっていると伺いました。
  
 大高 6月10日に「県の日」を迎える群馬でも、励ましの声掛けを続け、地域に友情を広げています。また、2人一組のペアで訪問・激励に取り組むなど、模範の拡大を進めています。
  
 永石 関東では、小説『新・人間革命』の研さんも活発ですね。千葉の「旭日大学校」をはじめ、6月17日が「県の日」の茨城女性部も、副役職のメンバーや地区女性部長を対象とした大学校を行うなど、各地で工夫しながら師弟の心を深めて前進しています。
  
 齋藤 女子部も、女性部の先輩方と一緒に支部や本部で『新・人間革命』を学んでいます。新たな活動者が続々と誕生する中、埼玉の女子学生部員が今月に友人へ弘教を実らせるなど、拡大の歓喜のエピソードが数多く生まれています。
  
 野中 男子部は10万の対話を目指して拡大に挑戦しています。東京・大田区で飲食店を営む千葉のリーダーは、これまで100人を超える友人に対話。コロナ禍で厳しい経営を立て直そうと懸命に知恵を光らせながら、信心根本に奮闘しています。

勇んで厳しい所へ

 大高 関東5県には、それぞれに師弟共戦の歴史と誇りがあります。

 野中 かつて先生は、関東の青年リーダーらに語られました。「『もう、これくらいで』といった安易さや、『もう大丈夫だ』との油断は大敵です。互いに励まし合いながら、共に最後の最後まで持てる力を最大限に出し切っていく。これが『異体同心の団結』です」と。

 齋藤 さらに、「異体同心」の「心」とは、「広宣流布を願う心」「同志を尊敬する心」「師子王の心」。その究極は「師弟不二の心」であるとも教えてくださいました。

 中井 厳しい所に、一番苦闘している同志に、勇んで励ましを送る。これが関東の魂であり、伝統です。関東は総立ちとなって、立正安国の対話に挑戦し抜いていきます。

 原田 日蓮大聖人は関東の弟子に、「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書970ページ)と仰せになられました。創立100周年へ、一人一人が不屈の「敢闘精神」を燃やして悔いなく戦い抜き、断じて勝利しましょう。

公明が命を守る水害対策に尽力

 野中 2019年の台風19号の際には、関東地方などで記録的な大雨となり、甚大な被害がありました。

 中井 埼玉と東京を流れる荒川はこの時、荒川第一調節池(埼玉県)が3500万立方メートル分の水をため、下流の氾濫を防ぐことができました。しかし、いつ堤防が決壊してもおかしくないほどの危機でした。

 大高 これを受け、即座に動いたのが公明党です。現地を視察した国会議員が、荒川第一調節池内の貯水池の水を事前放流し、治水の容量を増やすように国会で強く訴えました。

 中井 そして今年2月、国土交通省は、この貯水池から、新たに最大259万立方メートル分の水を事前放流することを決定しました。

 原田 今月24日にも、国土交通大臣が公明党の都議らと荒川、隅田川の治水対策の現状確認のため視察しています。公明党は国と地方のネットワーク力を生かして、引き続き全力で取り組んでもらいたい。

「現場主義」を貫く

 永石 台風19号では、多摩川流域の調布、狛江、大田などでも水害がありました。この時も公明都議らが迅速に対応。水位を下げる川底の掘削、堤防最上部の整備事業などの治水対策について、市長らと国土交通大臣に緊急要望を提出し、対策が進められています。

 原田 各所の水門に水位計と監視カメラを取り付け、遠隔で河川の監視ができるようになったのも、公明議員が何度も要望したことによるものです。

 齋藤 この多摩川も今年2月、国土交通大臣が公明都議らと流域を視察し、状況を確認しています。命を守る防災対策が力強く進んでいますね。

 原田 都議会公明党はこれまでも、河川の氾濫を防ぐため、「神田川・環状七号線地下調節池」の設置等を強力に進めてきました。今回の政策目標「チャレンジ8」でも、同調節池を25年度までに広域化させることを含む計10カ所の調節池の新設を掲げています。

 永石 特に中野区の公明都議は、集中豪雨対策で群を抜いています。区内を流れる妙正寺川・神田川の護岸整備や区内への調節池の整備を推進したことで区民生活が守られています。

 原田 公明党は一貫して「防災・減災を政治、社会の主流に」と訴え、数多くの対策を実現してきました。これからも現場第一主義を貫き、国と地方の議員が密に連携を取りながら、災害に強い国づくりに力を尽くしてもらいたい。


説「新・人間革命」に学ぶ 第29巻 解説編 

2021年05月26日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第29巻 解説編 池田主任副会長の紙上講座2021年5月26日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第29巻の「解説編」。池田博正主任副会長の紙上講座とともに、同巻につづられた珠玉の名言を紹介する。

紙上講座 池田主任副会長
5:03
ポイント
①常楽我浄と死身弘法
②誓いと行動の継承
③「対話の橋」を架ける

 第29巻の舞台は、宗門の僧が学会批判を繰り返していた、1978年(昭和53年)10月から翌年2月までです。
  
 「常楽」の章には、山本伸一が、熱原の法難に思索を巡らせる場面が描かれています。
  
 この法難は、弘安2年(1279年)を頂点に、熱原郷(現在の静岡県富士市の一部)で起こった日蓮門下への弾圧事件です。当時、熱原郷では弘教の波が広がり、恐れを抱いた、地域の天台宗寺院の院主代・行智による迫害が起こります。
  
 その魔の手は、熱原の農民信徒にも及び、中心的存在であった神四郎、弥五郎、弥六郎が殉教。それでも、農民信徒たちは、信仰を捨てようとしませんでした。
  
 熱原の法難の歴史を振り返りつつ、伸一は「断じて殉教者を出すような状況をつくってはならない。もしも殉難を余儀なくされるなら、私が一身に受けよう!」(35ページ)と覚悟します。最愛の同志を守るため、いかなる攻撃に遭ったとしても、矢面に立って耐え忍ぶ決心だったのです。
  
 戦後の広布の大伸展は、「軍部政府の弾圧と戦って獄死した初代会長・牧口先生の死身弘法の精神を、戸田先生が、そして、同志が受け継いできたから」(37ページ)でした。
  
 現在の世界広布の時代が開かれたのも、「大阪事件」「宗門事件」等々、池田先生が先師・恩師の精神を継承し、死身弘法の覚悟で一人一人の励ましに徹してきたからです。
  
 同章に、「『常楽我浄』の境涯の確立があってこそ、真の『衆生所遊楽』があり、それは、死身弘法の決意と実践から生まれる」(同)とあります。
  
 この「死身弘法の決意と実践」とは、「“人生の根本目的は広布にあり”と決めること」(35ページ)であり、「人びとに仏法を教えるために、自らの生活、生き方をもって、御本尊の功力、仏法の真実を証明していく」(同)ことです。

「使命に生きる人の心には、常に晴れやかな虹がある」――インドを訪問した池田先生は、ニューデリーの大空に懸かる二つの虹を撮影した(1997年10月)
「使命に生きる人の心には、常に晴れやかな虹がある」――インドを訪問した池田先生は、ニューデリーの大空に懸かる二つの虹を撮影した(1997年10月)
偉大なる起点

 1978年(昭和53年)の1年間で、伸一は北海道から九州まで10方面を訪問し、30曲ほどの学会歌を作成しました。第1次宗門事件の渦中にあった「嵐吹き荒れる激動の一年」(233ページ)は、「創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年」(同)であり、「新しき歴史を築いた建設の一年」(同)でもあったのです。
  
 全国を力走する中で、伸一が訴えたのは、「信心の基本」に立ち返るということでした。それは、「究極的には“御本尊根本”ということ」(102ページ)であり、「何があっても御本尊に向かい、題目を唱え抜いていくこと」(同)でした。
  
 また、リーダーの姿勢について、「皆に信心の養分を送り続けていく存在であり、そのためには、自らが信心強盛な先輩を求めて切磋琢磨し、常に成長し続けていくことが大事です」(168ページ)と述べます。
  
 どれだけ同志を立ち上がらせ、共に広布のために汗を流すことができたか――この一点に、リーダーの使命があることを、伸一は各地で訴え、責任と自覚を促していったのです。
  
 「清新」の章は、79年(同54年)の新年から始まります。力走した78年から清新な決意で、伸一は79年を迎え、再び力走を開始します。
  
 「七つの鐘」の終了を迎える同年は、“総仕上げ”の年であると同時に、「偉大なる起点」(236ページ)でもありました。会長就任から20年目を迎え、日本国内の広布の基盤は盤石なものになりつつありました。伸一は「今後、自分が最も力を注ぐべきは世界広布」(326ページ)と考えます。
  
 2月、彼は香港・インドを訪問し、世界広布への新たな行動を開始します。戸田先生の誕生日である11日、伸一はインド・ガンジス川のほとりに立ち、恩師に誓います。
  
 「先生! 伸一は征きます。先生がおっしゃった、わが舞台である世界の広宣流布の大道を開き続けてまいります! 弟子の敢闘をご覧ください」(433ページ)
  
 宿舎に戻った後も、彼は恩師の遺影に向かい、広布の大闘争を誓います。広布の「偉大なる起点」は、弟子が師匠に誓いを立てることから始まります。「世界広布は、その誓いと行動の継承があってこそ可能となる」(371ページ)のです。

不確実性と確実性

 第29巻では、“世界の知性”との対話の模様がつづられています。
  
 米ハーバード大学名誉教授で、世界的な経済学者であるガルブレイス博士との対談では、「不確実性」と「確実性」が話題に上ります(78年10月)。
  
 伸一は、不確実性の時代の中で、必要な指導理念について問います。博士は、人間の行う努力は常に修正されていくべきであり、その考え方を受け入れること自体が、一つの指導理念になると述べます。
  
 これに対して伸一は、「人間を高め、成長を図っていくことが、常に的確な判断をしていくうえで、極めて大事」(19ページ)であり、「仏法を基調にした精神変革、人間革命の運動こそ、二十一世紀を開く大河となる」(20ページ)と訴えます。
  
 英オックスフォード大学のウィルソン社会学教授とは、今後、宗教が担うべき使命について意見が交わされました(79年1月)。
  
 「清新」の章では、この対談の内容に触れながら、「宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和のためにこそある」(310ページ)と記されています。
  
 さらに、宗教の比較・検証のために、「『人間を強くするのか、弱くするのか』『善くするのか、悪くするのか』『賢くするのか、愚かにするのか』」(321ページ)という尺度が求められることに言及しています。ウィルソン教授とは宗教の在り方を巡って、対談が重ねられました。
  
 伸一は「一民間人」として、また人間主義の「仏法者」として、宗教や思想の違いを超えて、「対話の橋」(316ページ)を架けてきました。この対話の道を真っすぐに進むことこそ、仏法者の使命です。
  
 同章に、「対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける」(315ページ)とあります。
  
 社会はコロナ禍という“不確実性”の中で、未来を見通すことができず、揺れ動いています。苦悩する友の心に寄り添い、語り合いながら、人間蘇生の光を放つ――この「創価の底力」を、今こそ発揮していきましょう。

高知・南国文化会館で、“未来の宝”たちを激励する池田先生(1990年11月)。第29巻では、1978年12月の高知訪問の足跡がつづられている
高知・南国文化会館で、“未来の宝”たちを激励する池田先生(1990年11月)。第29巻では、1978年12月の高知訪問の足跡がつづられている
名言集
●女性の眼

 生活者の視点に立つ女性の眼は、最も的確に、その社会の実像をとらえる。(「常楽」の章、14ページ)

●晩年の実証

 晩年における最高最大の信心の実証とは何か――財力や地位、名誉等ではない。ありのままの人間としての人格の輝きにある。(「常楽」の章、86ページ)

●永遠の栄え

 いかなる団体であれ、“基本”と“精神”の継承は、永続と発展の生命線である。そのうえに、時代に即応した知恵が発揮され続けていってこそ、永遠の栄えがある。(「力走」の章、176ページ)

●心の魔

 いかに困難であるかということばかりに目がゆき、現状に甘んじて良しとしてしまう。それは、戦わずして心の魔に敗れてしまっていることになる。(「清新」の章、241ページ)

●決めて、祈って、動く

 心を定め、祈って、動く――それを粘り強く、歓喜をもって実践する。単純なことのようだが、これが、活動にあっても、人生にあっても、勝利への不変の方程式なんです。(「清新」の章、242ページ)

●大人の責任

 物心両面にわたって、子どもを守り育てていくことは、大人の責任であり、義務である。(「源流」の章、407ページ)


小説「新・人間革命」学習のために 「大阪の戦い」

2021年05月22日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 「大阪の戦い」編2021年5月22日

  • 新しき“常勝”の歴史が今始まる!

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は「大阪の戦い」から65周年を記念して、特別編を掲載する。次回の「東京凱歌」編(上)は6月12日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

“広布の主役”との一念が壁破る

 関西は、かつては、東京と比べ、会員の世帯もいたって少なく、組織も弱かった。
 
 広宣流布の未来構想のうえから、関西の重要性を痛感した戸田城聖は、一九五六年(昭和三十一年)の一月、伸一を関西に派遣したのだ。
 
 当初、関西の同志の誰もが、何をやっても東京には敵わないという思いをいだいていた。伸一は、何よりも、一人ひとりの、その一念を転換することに全精魂を注いだ。
 
 「関西に創価の不滅の錦州城を築こう!」
 
 「日本一の、模範の大法戦を展開しよう!」
 
 伸一という若き闘将の魂に触れ、関西の同志は心を一変させた。
 
 “自分たちこそ、広布の主役なのだ”“関西こそ、広布の主戦場なのだ”
 
 (中略)この年の五月には、大阪支部は一万一千百十一世帯という未聞の弘教を成し遂げ、広布史上に不滅の金字塔を打ち立てたのである。さらに、七月には、学会として初めて候補者を推薦した参議院議員選挙で、(中略)大阪地方区は、伸一の指揮のもと、当選は不可能だとする大方の予想を覆し、見事に勝利したのである。
 
 以来、メンバーは、この関西こそが、広布の模範の「常勝の都」であるとの、強い誇りをもつようになった。また、自分たちこそが広宣流布の中核であり、創価学会の代表であるとの、不動の自覚をもつようになったのである。
 
 (第13巻「北斗」の章、151~152ページ)

“戦いは絶対に勝たなあかん!”
第17巻「民衆城」の章より
第17巻「民衆城」の章より

 <1957年(昭和32年)7月3日、山本伸一は選挙違反という無実の罪で逮捕された>
 
 山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、一九五七年(昭和三十二年)の七月十七日であった。若師子は、民衆の大地に、再び放たれたのだ。
 
 この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。大阪をはじめ、各地から駆けつけた同志で、場内はもとより、場外も、人、人、人であふれた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。
 
 (中略)瞬く間に激しい豪雨となり、横なぐりの風が吹き荒れた。稲妻が黒雲を引き裂き、雷鳴が轟いた。多くの同志が、今日まで獄舎に囚われていた伸一の姿を思い、“学会への非道な仕打ちに、諸天も激怒しているのだ”と感じた。
 
 場外で(中略)雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる、登壇者の声を聴き取ろうと、皆、必死に耳を澄ましていた。
 
 (中略)山本伸一の登壇である。師子吼が轟いた。
 
 「最後は、信心しきった者が、(中略)また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
 
 その叫びが、皆の心に突き刺さった。場外の人びとは、どの顔も、雨と涙でぐしゃぐしゃであった。
 
 “この山本室長が、無実の罪で牢屋につながれ、手錠をかけられ、辛い、惨めな目にあわされてきたんや。権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん! 戦いは、絶対に勝たなあかん!”
 
 伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った、この日が、「常勝関西」の“不敗の原点”となったのである。
 
 (第23巻「勇気」の章、250~252ページ)

永遠に崩れぬ創価の「錦州城」を

 <78年(同53年)7月、伸一は関西総合長の十和田光一に、できたばかりの「関西の歌」の歌詞を電話で伝えた。関西の同志が心から納得する歌にしようと、直してほしい箇所はないか尋ねた>
 
 「二番の一行目に『我等の誇り 金の城』とございますが、この『金の城』を、『錦州城』にしていただけないでしょうか」
 
 伸一が「金の城」としたのは、皆の目に鮮やかな色彩が浮かぶような歌にしたかったからだ。だが、関西の同志にとって、「錦州城」という言葉には、格別な思いが詰まっていた。
 
 一九五六年(昭和三十一年)二月、大阪の戦いの指揮を執っていた伸一は、大勝利への決意を託した歌を詠んだ。そして、戸田城聖の誕生日である十一日に、その歌を贈った。
 
 「関西に 今築きゆく 錦州城 永遠に崩れぬ 魔軍抑えて」
 
 そこには、大阪城の別名の「錦城」と、中国遼寧省の難攻不落の都城「錦州城」を掛け、関西に金城鉄壁の民衆城を築き上げようとの誓いが込められていた。戸田は、即座に返歌を認めてくれた。
 
 「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」
 
 伸一は、この歌を心に刻み、関西の同志と共に戦い、大勝利した。したがって、彼らには、“関西は創価の師弟が築き上げた広布の錦州城だ!”との強い共戦の誇りがあった。
 
 だから、十和田は、「錦州城」という言葉を入れてほしいと、要請したのである。
 
 伸一は言った。
 
 「『金の城』の方が、斬新的だと思うんだが、『錦州城』とすることで、関西の皆さんが喜んでくださるなら、検討します。
 
 私は、関西の同志が永遠に歌い継いでいける、最高の歌を贈りたいんです」
 
 (第28巻「広宣譜」の章、56~57ページ)

真剣勝負に歓喜と功徳と確信が

 <78年(同53年)11月、伸一は大阪へ向かった>
 
 関西の同志と共に、弘教の金字塔を打ち立てた、あの五六年(同三十一年)の大阪の戦いから、既に二十二年がたつ。伸一は、関西が永遠に「常勝」の大城であり続けるために、今再び新しき前進のための布石をしておきたかったのである。
 
 大阪到着後、直ちに彼は、豊中市の関西牧口記念館へ向かい、関西最高会議に出席した。中心となる幹部への指導から、彼の戦いは始まった。(中略)
 
 「信心の世界にあっては、一つ一つの課題に対して、常に真剣に取り組んでいかなくてはならないということです。
 
 学会活動は、現代における最高の仏道修行です。仏道修行というのは、己との対決であり、自分の限界を打ち破って、心を強く、大きくし、境涯を開いていくためのものです。したがって、人の目を意識し、格好だけ取り繕っても、根底にいい加減さがあれば、人間革命はできません。しかし、真剣であり、一途な人、誠実な人は、必ず、大きく成長していきます。
 
 信心が惰性化していくと、この根底の真剣さが萎えてしまい、一生懸命やっているように見せかけて終わってしまう。そうなれば、どんな幹部であろうと、信心の歓喜はなくなり、人を触発することもできません。
 
 二十二年前の、あの“大阪の戦い”で大勝利を収めることができたのは、皆が真剣であったからです。だから歓喜があり、功徳があり、確信が湧き、感動のなかに凱歌を響かせることができた。新しい『常勝関西』の建設のために、中心となる幹部の皆さん方は、このことを忘れないでいただきたい」
 
 こう語る彼の口調には、関西の大飛躍を願う、強い思いがあふれていた。
 
 (第29巻「常楽」の章、91~93ページ)

夕映えの中に威風堂々とそびえる大阪城(池田先生撮影。2007年11月)
夕映えの中に威風堂々とそびえる大阪城(池田先生撮影。2007年11月)
随筆「我らの勝利の大道」より

 「強盛な祈り」
 「最高の作戦」
 「最高の行動」こそ、
 絶対勝利の要諦である。

関西吹奏楽団・関西男声合唱団による「常勝の空」の動画はこちら


〈誓いをつなぐ〉 大阪・常勝大阪総県2021年5月21日

2021年05月21日 | 妙法

〈誓いをつなぐ〉 大阪・常勝大阪総県2021年5月21日

  • 「今」を勝て 師弟の旗を掲げて
1981年3月17日、鶴見区を訪問した池田先生が、同区内の板原会館に駆け付けた。女子部の代表が来訪に感謝し、花束を手渡す
1981年3月17日、鶴見区を訪問した池田先生が、同区内の板原会館に駆け付けた。女子部の代表が来訪に感謝し、花束を手渡す

 大関西が誉れとする「常勝」の名を冠した総県――それが常勝大阪総県(笹森総県長、浅井女性部長)だ。広布の舞台は、大阪市北東部の2区と隣接する2市。常勝守口県、門真王者県、旭総区、鶴見総区から成る。
 
 同総県の友が心に刻むのは1979年(昭和54年)4月24日。池田先生が第3代会長を辞任した日である。第1次宗門事件の嵐がすさび、師弟を離間させようとする悪侶や反逆者らの謀略が渦巻いていた。
 
 この夜、急きょ、大阪本部長会が守口門真文化会館(現・守口文化会館)で開かれた。“なんで、先生が辞めんとあかんのや!”――悔しさと苦しさの中で、関西の同志は誓った。
 
 “たとえ会長を辞められようと、関西の私たちにとって、師匠は永遠に池田先生だ!”
 
 会長辞任のその日に、どこよりも先生と苦楽を共にしてきた関西は、巌窟王のごとく、反転攻勢の闘争を開始した。「4・24」は今、「常勝大阪・師弟誓願の日」として刻まれている。

師匠を求めて
岡林幹男さん
岡林幹男さん

 「あの4月24日のことは忘れられません。ただただ、池田先生に付いていくぞという思いだけでした」
 
 そう語る岡林幹男さん(総県副総合長)は当時、門真で男子部の本部長。紛動された退転者も出る中、同志と励まし合い、必死に広布を前に進めた。
 
 3カ月後の同年7月、守口と一緒だった組織が「門真圏」として出発。12月に圏の総会が決定する。
 
 しかし、池田先生は大勢が集まる会合で指導することを制限され、聖教新聞にも、指導や動向がほとんど報じられない。
 
 岡林さんらは必死に祈る中、“自分たちから先生にぶつかるしかない”と思い至る。同志の決意を記したアルバムを学会本部に届けることに決めた。地域の農家にお願いし、男子部の有志で門真名産のレンコンを収穫。12月、アルバムとともに携え、男子部の代表7人で東京へ向かった。
 
 学会本部に集うと、先生から思わぬ伝言が届いた。
 
「聖教本社で会おう」
 
 先生は聖教新聞本社(当時)で、「よく来たね!」と、一人一人、力強い握手を交わしたのである。
 
 この出来事は門真全体に喜びの波動となり、「先生と共に!」の関西魂を点火した。直後に関西戸田記念講堂で開かれた圏総会は、3200人の友が集まる、驚くほどの盛会となった。
 
 池田先生の励ましは、これだけで終わらなかった。
 
 翌80年(同55年)3月9日、門真の同志600人余が学会本部に集った。全員が折伏を完遂していた。
 
 勤行会の途中、先生が会場に現れた。「門真の皆さんがいらっしゃると聞いたので」。ピアノで3曲を演奏。全員で万歳を叫んだ。この日が永遠に輝く「門真の日」となった。
 
 岡林さんらが、あのレンコンを収穫した畑の上には今、門真文化会館が立つ。
 
 岡林さんは言う。
 
 「師匠を求める心と行動があれば、どんな困難も打ち破っていけます。これからも生涯、師弟共戦で進みます!」

学会の強さを知る
安蔵香菜さん
安蔵香菜さん

 「守口の日」の淵源は、81年(同56年)9月20日に行われた守口圏の家族祭。この日、池田先生は「守口の尊くして、大切な方々が、ついに自分は、勝てりという凱歌の人生を飾ることを請い希って、御祝いの言葉とさせて頂きます」と万感のメッセージを贈った。
 
 限りない師の励ましを胸に、広布と人生の坂を越えてきた守口の同志。田坪己代子さん(守口本陣圏副女性部長)もその一人だ。
 
 61年(同36年)11月に母と入会。地道に歩み続けてきた広布の道に、子や孫たちも続いていることが何よりの喜びだ。
 
 孫の安蔵香菜さんは今、圏女子部長を務めている。
 
 19歳で白蓮グループに。悩みに親身に耳を傾けてくれる先輩に囲まれ、陰の会員奉仕に徹する任務の中で、学会の強さは先生と同志の絆にあることを学んだ。祖父母や両親が信心に励む理由の一端を知ることができた。以来、仏法対話にも率先。入会を決意する友人も現れてきた。
 
 大学を卒業後、念願だったアパレル関係の会社に就職。多忙を極め、思うように学会活動ができないことに悩んだが、女子部の先輩と共に“活動ができる部署に”と祈りを合わせる中、希望した部署への異動を勝ち取る。社のSDGsを推進する業務も兼任し、職場で信頼を集める。
 
 「祈った通りの結果に、信心の確信を深めることができました」
 
 何があっても題目根本に、今度は自分が人を励ます存在にと、報恩感謝の思いで激励に奔走している。

あの地この地に
鶴見区の花博記念公園鶴見緑地を季節ごとに花が彩る
鶴見区の花博記念公園鶴見緑地を季節ごとに花が彩る

 大阪には、どこを訪ねても池田先生との歴史があり、ドラマがある。
 
 56年(同31年)の“大阪の戦い”で先生が訪問した家は、8000軒といわれる。友の励みになるならと書をしたため、寸暇を割いてハガキにペンを走らせた。祈って動いて書いて話して、友の心に勇気の炎を燃やし、広布の錦州城の礎を築いていった。
 
 先生は当時、旭総区の友にも、「大勝」「勇戦」と揮毫して贈った。
 
 83年(同58年)3月、それを関西の宝として大切に保管していた友が、“池田先生のもとにお返ししたい”と、来阪中の先生に届けた。先生は再び筆を執り、新たに「大勝」「勇戦」と大書し贈呈。「勇戦」が記された同18日は「旭総区の日」である。
 
 「勇戦」ありてこそ「大勝」あり――これが、総区全体の合言葉となった。
 
 81年(同56年)3月17日に先生は、鶴見区を訪問。喫茶店で友と懇談した後、近くの「板原会館」で行われていた鶴見本部女子部の勤行会に足を運んだ。
 
 「今、皆さんが一番願っていることを祈りましょう」と呼び掛け、居合わせた友と勤行。この日が後に「鶴見総区の日」となった。

青年部のリーダーが常勝の誇りを胸に(旭区の城北公園で)
青年部のリーダーが常勝の誇りを胸に(旭区の城北公園で)

 ――門真にも守口にも旭にも鶴見にも、あの地この地に、語り尽くせぬ先生との原点が輝く。師弟の祈りと行動に徹した時、どんな困難も勝ち越える無限の力が湧き上がる。それを、常勝大阪の同志は命に刻んでいる。
 
 常勝とは何か――。かつて先生は関西の友に呼び掛けた。それは「断固として『今を勝つ』ことだ。『今日を勝つ』ことだ」と。
 
 「常勝」の名に懸けて、いかなる逆風にも、師弟の旗を掲げ、完勝の突破口を切り開く! 常勝大阪の揺るがぬ決意である。