特別インタビュー アウシュビッツを生き延びた心理学者 エディス・エヴァ・イーガー博士2021年8月25日
- どんな絶望にも、必ず希望はある
第2次世界大戦中、ヒトラー率いるナチス・ドイツによるユダヤ人を中心とした迫害(ホロコースト)の犠牲者は、600万人にのぼります。心理学者のエディス・エヴァ・イーガー博士は、死の収容所アウシュビッツから生還した数少ない一人です。93歳の現在も、臨床心理士として、人々の苦悩に寄り添いながら、米カリフォルニア大学サンディエゴ校で教員も務めています。博士の壮絶な実体験から導き出された人生の知恵と、希望を手放さない生き方を語ってもらいました。(取材=サダブラティまや、歌橋智也)
――イーガー博士が90歳で発刊した『THE CHOICE アウシュヴィッツを生きのびた「もう一人のアンネ・フランク」自伝』は、世界中で反響を呼んでいます。ナチスが祖国ハンガリーを侵略した当時、博士は16歳の少女でした。
私は、ハンガリーのコシツェという街(現在はスロバキア共和国)に、三姉妹の末っ子として生まれ育ちました。バレリーナとして、また、オリンピック代表候補に選ばれるほどの体操選手として、夢と希望にあふれた青春を送るはずでした。
しかし、1944年3月、ヨーロッパ全土に勢力を拡大したドイツが、ついにハンガリーを占領。兵士がある日突然、わが家に押し入り、父、母、長姉のマグダと私の4人を捕らえました。バイオリニストとして、首都ブダペストで学んでいた2番目の姉クララだけが、この状況を免れました。
私たち4人は、その後、何百人もの人であふれかえった家畜運搬用の貨車に詰め込まれました。恐怖と不安に押しつぶされそうな暗闇の中で、母が言い聞かせてくれた言葉は、今でも私を導いてくれます。「私たちは自分の行き先を知らない。これから何が起こるのか知らない。だけど、忘れないで。あなたの心の中にあるものを奪える者などいないことを」
――到着した先は、ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所でした。
入り口の門に掲げられた「働けば自由になれる」とのスローガンを見た父は、喜んで言いました。「恐ろしい場所のはずがない。戦争が終わるまで少し働くだけだ」
しかし私たちは、生きるか死ぬかの「選別」をされるために、すぐさま男女に分けられました。父の姿を見たのは、それが最後です。母と姉と私は女性と子どもの列に並ばされました。私たちの順番が来た時、姉と私は「右側」へ、母は「左側」へと引き離されました。これが母との別れでした。14歳以下と40歳以上の人たちはガス室に送られたのです。
この時、指を左右に動かし、人々の運命をもてあそんでいた男が、「死の天使」と呼ばれたナチスの医師であり、将校のヨーゼフ・メンゲレでした。
私と姉は他の女の子たちと共に、髪を刈られ、体に合わない囚人服を着せられ、寝床となる粗末なバラックに連れて行かれました。その日の夜のこと。見覚えのある軍服姿の男が、部下を引き連れてバラックに現れました。メンゲレです。
芸術愛好家だったこの殺人鬼は、夜になるとバラックを回り、自分を楽しませてくれる才能ある囚人を探していたのです。私は周りの人に押し出され、彼の前で踊らされることになりました。
「小さな踊り子さん、私のために踊っておくれ」。彼の機嫌を損ねたら殺される。この地獄の中で、私は目を閉じ、命懸けで踊りました。ブダペスト・オペラハウスの舞台を想像し、母の言葉を何度も心で繰り返しながら。
極限の恐怖の中で、私は生涯忘れることのない、ある一つの知恵を見いだしました。なぜそう思うに至ったのか、今振り返っても分かりません。
それは、メンゲレの方が私よりはるかに惨めであり、捕らわれの身であるということです。彼は自分がしたことをずっと背負って生きなければならない。一方、殴られようが、ガス室に送られようが、私の心は自由だ、と。
――博士は踊り切り、死を免れました。その後、アウシュビッツで半年間の飢えや寒さ、暴力に耐えた博士を待ち受けていたのは、「死の行進」でした。厳しい監視の下、何カ月も各地の収容所を転々とさせられます。
ある時は、イギリス軍の爆撃を避けるための「人間の囮」として、弾薬を積んだ列車の屋根に乗せられました。またある時は、男性だけの収容所であるオーストリアのマウトハウゼンに連れて行かれました。
ここは、花こう岩の採掘場で、極めて過酷な労働を強いられる所です。骸骨のように痩せこけた男性たちが、ヒトラーの夢見た新ベルリン建設に使う石材を担いでいました。186段の「死の階段」を昇り切れず、死体となった人々が至るところに山積みになっていました。最終的に到着したのは、同国のグンスキルヒェン収容所です。ようやく米軍が駆け付けた時、私は死体の山から瀕死の状態で救い出されました。
私が生きることを諦めずにいられたのは、一つは、姉マグダの存在でした。彼女が近くにいれば、ほかには何もいらなかった。私は姉のために生き、姉も私のために生きました。先にあるものが何であれ、共に進むことしか考えられませんでした。
さらには、私と同じ時にアウシュビッツに送られた恋人エリックの存在です。彼にもう一度会えるなら、どんな希望をかき集めてでも生き延びたかった。彼がアウシュビッツ解放の前日に亡くなったと知るのは、戦後すぐでした。
そしてもう一つ、私を支えたのは、尽きることのない好奇心です。「死ぬ以外に逃げ道はない」と、どれだけ周りがささやこうが、何が起きるかは最後の瞬間まで決まっていない。「今日を生き延びれば、明日、私は自由になる」。この言葉を頭の中で繰り返していました。
――解放後、博士はハンガリーに帰国。結婚後の49年、戦争の傷痕癒えぬヨーロッパを離れ、一家でアメリカに移住。しかし博士の苦悩は続きました。
移民として暮らし始めた50年代、私はなまりのない英語を話し、環境に溶け込みたい気持ちでいっぱいでした。アウシュビッツにいたことを知られて、同情などされたくありませんでした。沈黙を守り、過去と自分自身から目をそらすことで、心の痛みやトラウマを必死に隠そうとしていたのです。
しかしその陰では、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、バスに乗るだけでパニックを起こすこともありました。文字通りの収監が終わって、歳月が流れても、心は全く解放されていなかったのです。
――そんな中、ヴィクトール・フランクル氏の著書『夜と霧』に出あいます。精神科医であり、心理学者でもあった氏もまた、アウシュビッツを生き延びました。
何ページにもわたってメモを取りたくなる一冊に出あったことはありませんか。3人の子どもたちの子育てに余裕ができ、テキサス大学エルパソ校で学部生として学んでいた66年の秋です。ある学生からこの本を手渡されました。読み進めるにつれ、私がずっとひた隠しにしていた感情が見事に表現されていて、身動きできないほどの衝撃を受けました。
中でも、フランクル博士の次の言葉が、深く心を捉えました。“人間を強制収容所に入れて全てを奪うことはできるが、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えない”
それから2年後のある日。「ある生還者から別の生還者へ」との手紙が届きました。フランクル博士本人からでした。『夜と霧』を読んだ後、私は自分の過去を語る初めての試みとして、「ヴィクトール・フランクルと私」と題するエッセーを書きました。博士がそれを読んだのです。
そこから文通が始まり、長年続いた友情を通して、私たちは互いに抱いていた疑問に対する答えを見いだそうとしました。“なぜ生き残ったのか”“人生の目的は何なのか”“自分の苦しみからどんな意味を見いだせるのか”“自分自身と他者を救うにはどうすればいいのか”。博士との対話は、私に使命の種を植えてくれました。
――新たな人生の出発でした。
アウシュビッツで母と姉と共にメンゲレの前に立ったあの時、彼は母を指さして、「母親か、姉か」と私に尋ねました。その答えがもたらす結果を想像できず、私が「母です」と答えると、メンゲレは母を「左側へ」振り分けました。ガス室の方向でした。
私が長年、過去を封印してきた理由の一つは、自分を許すことができなかったからです。しかし、フランクル博士のおかげで、沈黙と否定だけが過去への対処法ではないこと、私らしい人生を選択していく責任も、その力も、私の中にあることに気付くことができたのです。
私にとって、自由をつかむとは、許すとは、失ったもの、かなわなかった過去、心の傷や失望を深く悲しみ、思う存分、吐き出すことです。また、怒りを伴わない自由もありません。過去も現在もあるがままに受け入れ、欠陥ある自分をも抱き締めてあげることです。心にある監獄の煉瓦を一つずつ壊す勇気を奮い起こし、傷を慈しんであげることです。
もちろん、憎しみを抱いて生きることもできるでしょう。でも私は、ヒトラーやメンゲレと見えない鎖でつながれて、これまで戦ってきた人生とこれからの人生を、めちゃくちゃにされたくはないのです。
今でもサイレンや大きな音を聞くと寒気がします。過去は消えてはいません。乗り越えてもいません。でも、もう過去には生きていません。私は苦しみましたが、被害者ではないのです。生還者であり、「前進する者」です。
――博士の言葉に希望と勇気をもらいます。
生きている限り、誰もが何らかの形で被害や迫害を受ける可能性があります。近所のいじめっ子、怒りっぽい上司、差別的な法律、不幸な事件……。しかし、人が本当に被害者になってしまうのは、その出来事を抱え込み、心の監獄に閉じこもることを自分で「選ぶ」ときではないでしょうか。
私自身の蘇生への長い道のりと、臨床心理士としての経験から実感するのは、世界中どこに行っても苦しみはあるということです。しかし、困難に直面したとき、どう対処し、心に何を描くのかを人は選ぶことができる。仮に全てを奪われても、“諦めるのか”“立ち向かうのか”を選ぶ自由は残されています。最悪の事態から、人間の最良の部分を引き出し、最高のチャンスに変えていくこともできるのです。
私の物語を聞いてくれた方々にお願いしたいのは、どうか、「彼女に比べれば、私の苦しみなんて大したものではない」と思わないで。苦しみに序列はありません。それよりも「彼女にできたのなら、私にもできる!」と思ってほしいのです。
どんな絶望にも、HOPE(希望)という美しい4文字は存在します。これを見つけ出すことが、人生で最も大切なことです。後に続く皆さんが、より良い世界に生きられるように、私はこれからも与えられた役目を力の限り果たします。でもその使命は皆さんにもあります。力を合わせれば、私たちはより強くなれるのです。
起きたことは変えられない。あなたがしたこと、あなたがされたことは変えられない。けれど、今、どう生きるかを選択することはできる。自由への鍵は、あなた自身の中にあるのです。
〈プロフィル〉エディス・エヴァ・イーガー 1927年ハンガリー生まれ。44年、16歳の時に両親と姉と共にアウシュビッツに送られる。戦後、夫と娘と共にヨーロッパを離れ、米国に移住。40代で心理学博士号を取得し、50代から臨床心理士としてのキャリアを開始。93歳の現在もカリフォルニア州ラ・ホーヤで、臨床心理士として多忙な日々を送り、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教員も務めている。90歳で初出版となった本書は、世界35万部を記録している。
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