毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

さあ大歓喜の交響曲を

2021年11月29日 | 妙法

VOD新番組に収録された池田先生の指針――さあ大歓喜の交響曲を!2021年11月29日

  • 真実の幸福は全てに勝つこと
  • 苦悩を突き抜けて偉大な境涯を開け

 池田先生のスピーチを収録した新番組「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」が、SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)に追加された。内容は、1990年11月に行われた、学会創立60周年の「11・18」を記念する本部幹部会でのスピーチである。明「青年・飛躍の年」へ、新たな出発を期す友への指針として、スピーチの要旨を掲載する。
 ※VOD番組の時間は約9分、番組コード=AB15。VODが利用できる会館等や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴可能。モバイルSTBで視聴する際は、インターネットを通してダウンロードが必要です。「SOKAnet」では、VODの同番組は視聴できません。

1990年11月に行われた本部幹部会でスピーチする池田先生(巣鴨の東京戸田記念講堂で)
1990年11月に行われた本部幹部会でスピーチする池田先生(巣鴨の東京戸田記念講堂で)

 ベートーベンがこの「よろこびの歌」で知られる「第九交響曲」を作曲したのは1824年。日本では江戸時代末期となるが、それは死の3年前、53歳の時である。完成した最後の交響曲となった。
 
 「第九」は「合唱付」として有名だが、当時、合唱付きの交響曲は他に例がなかった。
 
 いわばベートーベンの“新思考”によって、新しき挑戦によって、人類に贈られた作品である。

ルートウィヒ・バン・ベートーベン=共同
ルートウィヒ・バン・ベートーベン=共同

 合唱部分で歌われる「歓喜の歌」は、ベートーベンと同時代を生きたドイツの大詩人シラーの詩「歓喜に寄す」に曲をつけたものである。
 
 “人類愛”と“平和”と“喜び”にあふれる、この詩に曲をつけようと彼が決めたのは、22、23歳のころといわれる。
 
 彼は、この夢をいだき続け、育て続けた。そして、約30年後に実現させた。
 
 青春の決意を見事に結実させたのである。
 
 よく知られているように、そのころベートーベンの耳は、ほとんど聞こえなくなっていた。
 
 「第九」の初演の際、聴衆の万雷の拍手も彼の耳には届かず、教えられて、初めて人々の大歓声に気づき、お辞儀をした――という話も伝わっている。

創価大学の第9回「第九」演奏会で圧巻の演奏・合唱を披露した出演者に、大拍手を送る池田先生ご夫妻(1999年12月、創価大学の池田記念講堂で)
創価大学の第9回「第九」演奏会で圧巻の演奏・合唱を披露した出演者に、大拍手を送る池田先生ご夫妻(1999年12月、創価大学の池田記念講堂で)

 フランスの文豪ロマン・ロランは、「第九」を、嵐の生涯に打ち勝ったベートーベンの「精神(エスプリ)の凱歌」と位置づけている。
 
 「不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す――それを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す」(「ベートーヴェンの生涯」片山敏彦訳、『ロマンロラン全集』14所収、みすず書房)と。
 
 そして「悩みをつき抜けて歓喜にいたれ!」(同前)とのベートーベンの言葉に、彼の全生涯がこめられているとロランは結論している。

11月18日の第5回本部幹部会で上映された、世界の青年部の代表と音楽隊による「歓喜の歌」の演奏・合唱
11月18日の第5回本部幹部会で上映された、世界の青年部の代表と音楽隊による「歓喜の歌」の演奏・合唱

 耳も聞こえない。保守的な旧社会の人々からの圧迫もある。妬みもある。病気や経済的・家庭的悩みも尽きない――しかし彼は負けなかった。
 
 戦った。
 
 そして勝った。
 
 あらゆる苦悩の暗雲をつき抜けて、雲上の晴れわたる青空のごとき“歓喜の境涯”にまで自身を高めた。
 
 「第九」は、そうした人間ベートーベンの人生最終章の勝利の証しである。
 
 仏法もまた“勝負”である。勝負である以上、当然、敵もいる。
 
 困難につぐ困難もある。
 
 しかし、それら一切に勝ちきってこそ、真実にして永遠の幸福はある。
 
 広宣流布もある。
 
 ゆえに「断じて勝利を!」と、私は声を限りに訴えたい。

戸田先生“我らは最高に「富める者」”

 さて、昭和18年(1943年)、軍部の弾圧により、牧口先生と戸田先生が投獄された東京拘置所は、東京戸田記念講堂が建つここ巣鴨にあった。
 
 そして翌昭和19年11月18日、牧口先生が73歳で逝去されたのも、この地である。(=東京拘置所の病監)
 
 昭和19年8月、当時44歳の戸田先生が、巣鴨の獄中から夫人のお父さまにあてた手紙に次の一節がある。
 
 「どうか強く生きていて下さい。(中略)今どんなに苦しくても貧しくても、私の生きている限り、『富める者』との自信を失わずにいて下さい」
 
 国全体が混乱の渦中にあった時代である。激しさを増す空襲。ご子息も疎開。ましてご自分は獄中の身である。
 
 だが、先生のこのご確信はどうか。――“われ、永遠に富める者なり”“われに連なる者も皆、富める者なり”と。
 
 信仰こそ最高の「富」である。
 
 信仰者は、苦難があるほど、より力を出せる。周囲をも幸福にしていける。絶対に動ずることがない。
 
 皆さまもまた、仏勅をこうむった方々である。尊貴なる地涌の一門である。
 
 「自分がいる限り、何の心配もいらない」「自分こそ、最高に『富める者』である」との気概で、この人生を強く、また強く生きぬいていただきたい。

「女性部」の新出発を祝賀した第5回本部幹部会。席上、VOD新番組「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」が上映された(11月18日、東京戸田記念講堂で)
「女性部」の新出発を祝賀した第5回本部幹部会。席上、VOD新番組「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」が上映された(11月18日、東京戸田記念講堂で)

 私は毎日、大切な皆さま方のご健康、ご長寿、無事故を、そして幸福を、真剣にご祈念している。
 
 どうかこれからも、来る日も来る日も生命力を満々とたたえながら、朗らかに、どこまでも朗らかに進んでいただきたい。
 
 そして皆さま全員が堅実な信心の実践で大福運を積みつつ、壮大なる、また絢爛たる創立70周年(10年後)への歴史を飾っていかれんことを重ねてお願いしたい。
 
 本日は本当におめでとう。ご苦労さま!

 

魂の独立から30年

2021年11月28日 | 妙法

魂の独立から30年――「人間革命の宗教」の道を 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2021年11月28日

 【写真説明】赤、黄、青の鮮やかなバラに目を奪われる。2010年(平成22年)11月、創立記念日を寿ぐ「三色」の花々に、池田大作先生がレンズを向けた(都内で)。
 きょう11月28日で邪宗門と決別した「魂の独立」から30年。人間を隷属させる宗門の呪縛を断って、創価学会は世界宗教へ飛躍した。地涌のスクラムは192カ国・地域に広がり、あの国、この地域に三色旗が翻る。
 人間の可能性を開花させ、民衆を結び、地球文明の存続を可能にする新たな哲学を、世界は求めている。嫉妬や中傷など見下ろし、「世界広布」即「世界平和」の道を、威風も堂々と歩み抜こう。
 

池田先生の言葉

 一人の人間の
 蘇生と歓喜の人生こそ、
 宗教本来の目的であり、
 根本である。
 したがって、
 真に求められるのは、
 生命の尊厳を説き明かし、
 一人の人間を強く、
 賢くする宗教である。
 そこに、
 「宗教のための宗教」
 ではない、
 「人間のための宗教」の
 機軸がある。
  
 日蓮仏法は、徹頭徹尾、
 「人間のための宗教」だ。
 一番重視すべきは、
 どこまでも
 眼前の一人を救い、
 幸福にしていく実践だ。
 苦しみ、悩んでいる人を
 助けようとする、
 慈愛の奉仕に徹する
 「行動」にこそ、
 宗教の価値がある。
  
 悩みや苦しみを抱え、
 いつも「救われる側」にいた
 民衆が、
 いつしか人々を支え、
 「救う側」に回り、
 「柱」「眼目」「大船」と
 なっていく宗教である。
 世界中に、
 「民衆の柱」
 「幸福の眼目」
 「希望の大船」たる
 人材を生み出しているのが
 創価学会なのだ。
 ここに
 「人間革命の宗教」の
 一大実証がある。
  
 わが創価学会には――
 民衆の苦悩の暗闇を破り、
 勇気と希望を与えゆく
 慈悲の大光がある。
 敢然と邪悪を打倒し、
 正義を叫び抜く
 師子吼がある。
 宿命を転換し、
 自他共の幸福を築きゆく、
 信心の大確信がある。
  
 広宣流布という
 末法万年にわたる大願の
 戦いに終わりはない。
 それは、全人類を
 平和へと導いていく
 間断なき行動と対話の
 連続闘争であるからだ。
 この粘り強き勇猛精進に、
 私たち自身の
 人間革命があり、
 宿命転換がある。


“栄光の坂”を登り抜け!――池田先生が語る八王子ゆかりの画家の生涯 連載〈勇気の源泉――創立者が語った指針〉 2021年11月27日

2021年11月27日 | 妙法

“栄光の坂”を登り抜け!――池田先生が語る八王子ゆかりの画家の生涯 連載〈勇気の源泉――創立者が語った指針〉2021年11月27日

 創価教育の父・牧口常三郎先生の『創価教育学体系』発刊100周年となる2030年へ、全国・全世界の創価教育同窓生が今、使命の舞台で奮闘している。ここでは、苦難の時代にあって、忍耐強く挑戦の歩みを重ねる友への指針として、1997年11月の「創価教育同窓の集い」での創立者・池田先生のスピーチの抜粋を掲載する。

●1997年11月 創価教育同窓の集い

 〈創価大学池田記念講堂で開かれた同窓の集いで、池田先生はスピーチの前半、青春時代の原点を胸に「今いる場所」で戦い続ける中で、自分の歴史が築かれていくと強調。スピーチの後半では、創大のそばにある坂の名称の由来となった画家の生涯に触れ、“悩みがあるから成長できる”と語った〉
  
 大学のすぐそばに「善太郎坂」の愛称で親しまれている坂道がある。滝山城址の下から、創価大学の「栄光門」へ登っていく坂である。

坂の入り口に立つ「善太郎坂」の標識
坂の入り口に立つ「善太郎坂」の標識

 ところで、この坂が「善太郎坂」と名づけられるようになったのは、なぜか?
 調べてみると、かつて付近の丹木町に住んでおられた著名な洋画家・小島善太郎画伯(1892年―1984年)に由来するという。
 小島画伯は「独立美術協会」の創立会員として活躍され、「二科賞」など絵画界の権威ある賞も受賞された。日本洋画界の大功労者であられる。
  
 小島画伯が八王子に住んだのは、1932年(昭和7年)から71年(同46年)までの約40年間である。この時期、八王子の風景を描いた「滝山展望」や「加住村の春」、また「村の子ども」などの名画を数多く残しておられる。

小島善太郎「滝山展望(滝山城趾より多摩川を望む)」 1955年 65・2×100センチ キャンバスに油彩 八王子市夢美術館蔵
小島善太郎「滝山展望(滝山城趾より多摩川を望む)」 1955年 65・2×100センチ キャンバスに油彩 八王子市夢美術館蔵

 画伯の青春時代のエピソードがある。それは、絵画の研究所で学んでいた時のことである。
 好きな絵画の勉強を始めたものの、なかなか自分が思うような絵を描くことができない。自信をなくし、しだいに絵の道を諦めかけていったという。さらに、ご両親と妹さんが相次いで亡くなるという悲しみも重なった。ご自身も体調を崩し、急性虫垂炎で入院。退院しても、研究所には戻らず、八王子にいた伯母さんのもとで、静養することになった。
 ――法華経に「三界は安きこと無し 猶火宅の如し」(法華経191ページ)とある。
 この世は悩みの炎に包まれた家である。悩みなき人生はない。ゆえに幸福は、自分自身が悩みと戦いきって勝ちとる以外にないのである。
 静養していた八王子が、小島青年にとって、自分を見つめ直す、いわば“第二の故郷”となった。
 「雲は天才である」という石川啄木の言葉がある。
 美しい八王子の青空が、白雲が、緑の木々が、また真っ赤な夕焼けが、青年に、さまざまなことを語りかけていったにちがいない。八王子は童謡「夕焼け小焼け」でも有名な、夕焼けの里でもある。青年の行き詰まった心は、生き生きと蘇生していった。
  
 画伯は、決意する。「現実を回避してはならない」
 「労苦の蔭に真珠が蒔いてある(中略)画の修行もそれではあるまいか。好きなものだけに眼を向ける(中略)それだけでは画の修行も成りたたない」
 「研究所に通おう。そこで再び悩み抜こう! そここそ自分をつくってくれる道場でなくてはならない」(『若き日の自画像』雪華社)と。
 青年は、自分自身の戦いの場所に戻り、八王子から、心新たに挑戦を開始したのである。

“人生は、「勢いのある人」「粘りぬく人」「生命力強き人」が勝つ”――1997年11月に行われた「創価教育同窓の集い」でスピーチする池田先生
“人生は、「勢いのある人」「粘りぬく人」「生命力強き人」が勝つ”――1997年11月に行われた「創価教育同窓の集い」でスピーチする池田先生

 人生には、自分を鍛える「道場」が必要である。
 「道場」がなければ、師範にはなれない。一流にはなれない。名人にはなれない。
 日蓮仏法では、「道場」の意義について「此を去って彼に行くには非ざるなり」(御書781ページ)と説いている。
 今いるところを離れて、どこかほかに「道場」があるのではない。わが一念を固めた時に、職場も、地域も、すべてが最高に意義ある「道場」となる。勝ち戦のための「道場」となる。
 戸田先生は、よく語っておられた。
 「どんなに大きな会社や組織でも、また、どんなに小さな会社や組織でも、いやな人間や悪い人間は必ずいるものだ。何も問題がないなどというのはありえない。もし何も問題がなく、完成された所であるとすれば、成住壊空という原理から言って、あとは滅びていくだけである。要するに、問題があるから、力がつく。悪い人間がいるから、境涯が大きくなる。そう達観して、大きく強く生きぬいていくことだ」と。
 問題があり、悩みがあるからこそ、それと戦って成長できる。

本当の勝利者とは

 〈池田先生は結びに、社会で戦う同窓生らに、人生という坂を最後まで登り抜けとエールを送る〉
  
 小島画伯は、91歳まで生きぬかれた。そして、亡くなる寸前まで、毎日8時間の仕事を日課とし、間断なき創造の歩みを貫かれたという。皆さまもまた「健康」で、「長寿」で、「充実」の人生を生きぬいてもらいたい。これが私の強き強き念願である。
 90歳を前にして、小島画伯は、こう語っている。「絵は人間が出来なければダメです。絵を描く前に人間であること、それがわかるまでに長い時間がかかりました」(「毎日新聞」1982年10月25日付)と。
 文豪ゲーテの言葉にも、「ひとかどのものを作るためには、自分もひとかどのものになることが必要だ」(エッカーマン『ゲーテとの対話』中、山下肇訳、岩波文庫)とある。
 人間としての「修行の坂」を最後まで登りきらねばならない。
 戸田先生は、「最後に勝つ、その人が本当の勝利者である」と言われた。
 私も、25歳――皆さんと同じ年代の時に、日記にこう書いた。「何事モ、戦イ抜ク者ガ 最後ノ勝利者ナリ」(『池田大作全集』第36巻、「若き日の日記」)と。

創価大学に沿って延びる「善太郎坂」
創価大学に沿って延びる「善太郎坂」

 人生の「坂」は、登りきるか、それとも下るか、そのどちらかである。
 「善太郎坂」を登ると、そこは、わが母校・創価大学の「栄光門」である。
 どうか、一生という長い坂を、焦らずに、また忍耐強く、快活に、一歩また一歩と登っていただきたい。
 そして、わが創価同窓生が一人も残らず、私は戦いきった! 私は悔いがない! 私は勝った! と言い切れる人生最極の「栄光の門」に到達しゆくことを私は祈りたい。

  
  
 ※『池田大作全集』第142巻に収録されているスピーチから抜粋。一部表記を改めた。


地区講義〈上〉」 永遠に「御書根本」の大道を歩む

2021年11月26日 | 妙法

第11回「地区講義〈上〉」 永遠に「御書根本」の大道を歩む2021年11月26日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【「若き日の日記」1953年(昭和28年)3月9日から】
建設と、修行と、努力と、教学をば、
生涯失ってはならぬ。
若き日、地区講義に通った川越を池田先生が9年ぶりに訪問。御書を拝しながら激励を送った(1982年6月16日、川越文化会館〈当時〉で)
若き日、地区講義に通った川越を池田先生が9年ぶりに訪問。御書を拝しながら激励を送った(1982年6月16日、川越文化会館〈当時〉で)
人を育てるんだ

 「こんばんは!」
 埼玉・川越駅の近くにある志木支部川越地区の会場に、池田先生の元気な声が響いた。
 1951年(昭和26年)9月25日の夜、同地区で初めての「地区講義」が開かれた。23歳の若き先生が担当だった。
 参加者は、不思議そうな顔をした。先生があまりにも若かったため、担当の講師だとは思わなかったのである。しかし、題目三唱を行うと、先生の全身からほとばしる気迫に、皆、思わず居住まいを正した。
 この年の5月、戸田先生は第2代会長に就任。「講義部」の名称を9月1日から「教学部」に改め、教学の課程を一新した。
 初信者に対しては、毎週水曜日、戸田先生が自ら法華経講義を行った。支部長らによる講義や地区講義などが、この課程の中に組み込まれた。一部のリーダーだけに頼るのではなく、庶民自身の手による本格的な教学運動のスタートである。
 そこには、一人一人に広布の自覚を促そうとの、戸田先生の強い思いがあった。なにより“戦時中の弾圧で幹部が退転したのは、教学がなかったからだ”との反省があった。
 8月末、戸田先生は池田先生に語った。
 「御書を通して、深く信心を打ち込み、人を育てるんだ。組織を強化するには、人材の育成しかない。これは、地味だが、七十五万世帯達成のカギを握る大切な作業になる」
 恩師の言葉は、御書根本の人材育成が広布推進の不変の鉄則であることを示していよう。池田先生は、川越地区ならびに鶴見支部市場地区の講義担当として派遣された。
 “戸田先生の「名代」として講義に行くのだ”“この御書講義は、師の願業を実現するための、突破口を開く戦いの一つなのだ!”
 手探りの状況の中、戸田先生と池田先生の“師弟の実践”から形作られていった地区講義は、学会の教学運動の源流となった。
 現在、地区座談会などで御書講義を行う形式が定着しているが、まさにこの51年の下半期から、地区を舞台にした御書研さんの流れが始まったのである。

「魂の独立」を果たした後、初めて開催された本部幹部会に出席(1991年12月8日、埼玉文化会館で)。第3回「埼玉総会」の意義をとどめた同幹部会で、池田先生は、「わが『創価学会』こそ、日蓮大聖人直系の『広宣流布の大教団』」と宣言した
「魂の独立」を果たした後、初めて開催された本部幹部会に出席(1991年12月8日、埼玉文化会館で)。第3回「埼玉総会」の意義をとどめた同幹部会で、池田先生は、「わが『創価学会』こそ、日蓮大聖人直系の『広宣流布の大教団』」と宣言した
師と同じ呼吸で

 地区講義の担当が決まると、池田先生は仕事と学会活動の合間を縫って、講義を行う御書を何十回と拝読し、研さんを重ねた。
 徹底して御書に向かう姿勢は、恩師から直接教え込まれたものであった。戸田先生は折あるごとに愛弟子に御書を講義した。
 「『生死一大事血脈抄』の講義をして下さる。夜遅くまで、種々指導賜る」(『若き日の日記』、1950年12月10日)
 池田先生は、御書講義での恩師とのやり取りを「私に少しでも真剣さが欠けた時には、先生は言下に叱咤された」と振り返っている。御書に刻まれた日蓮大聖人の精神を真剣勝負で心肝に染めていく――その「剣豪の修行」こそが、戸田先生と池田先生の“師弟の教学”であった。
 池田先生は、「青春時代、師のもとで研鑽し抜いた『師弟の教学』が、すべての実践の根幹となっている」と述べている。
 地区講義を通じて池田先生が伝えようとしたのも、戸田先生から教わった“師弟の教学”であった。
 1951年(昭和26年)9月7日、池田先生は市場地区で講義を行った。
 25日には、川越での講義に臨み、「佐渡御書」「聖人御難事」「日厳尼御前御返事」「治病大小権実違目」の4編を研さんした。
 先生は「聖人御難事」の「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」(御書1190ページ)の一節を通してこう訴えた。
 「師子王の『師子』とは、師匠と弟子であり、師弟を意味しています。つまり、弟子が師匠と呼吸を合わせ、同じ決意に立ってこそ、何ものをも恐れぬ、勇敢な『師子王の心』を取り出していくことができるんです」
 師匠の「名代」の自覚をもって広布に進んでほしい――御書を通して、弟子の使命に奮い立つことを強く促した。
 先生の川越地区講義は、足かけ3年で10回にわたって続けられた。“師弟の教学”に励む中で、受講者たちの心には、広布に生きる喜びが漲っていった。

池田先生が研さんに使用した日蓮大聖人御書全集。御書の発刊(1952年4月)以前の講義では、「大白蓮華」が活用された
池田先生が研さんに使用した日蓮大聖人御書全集。御書の発刊(1952年4月)以前の講義では、「大白蓮華」が活用された
川越地区講義の修了証書。講師に「池田大作」と記されている
川越地区講義の修了証書。講師に「池田大作」と記されている
最高の哲学を学ぶ喜び

 子どもを背負って川越地区の講義に通ったある女性は、折伏に励むものの、塩をかけられたり、追い返されたりした。そんな時、先生の講義で「哲学」という言葉を初めて聞く。
 「生命の境涯から言うならば、皆さんは大学で学ぶよりも立派なんです。それくらいすごい最高の哲学を学んでいるんですよ」
 先生の言葉に、彼女の心は躍った。“最高の哲学”を実践する喜びを抑え切れず、帰り道、思わず学会歌を鼻歌で口ずさんだ。
 入会後初めて参加した会合が地区講義だった女性もいた。彼女は病を抱えていたが、先生の講義を聞くと、温かい気持ちに包まれ、“病を治せる”との確信が湧いた。
 その後、病は回復し、弘教に励めるように。夫も信心を始め、夫妻はそろって先生の講義を受けるまでになった。地区講義では、御書を学び終えるごとに「修了証書」が渡された。証書が大切な“家宝”となった。
 川越地区での最後の講義の日、先生は日記に認めた。「埼玉、川越地区に講義。――『佐渡御書』。受講者、約五十名。次第に、人材、人物が、輩出して来た様子」(同、53年2月10日)
 スタート時、10人に満たなかった受講者の数は約6倍に膨れ上がり、同地区は一変。弘教の力も増し、地区が大きく生まれ変わったのである。川越地区の躍動によって、志木支部も大支部に発展していくことになる。
 池田先生は、55年の「札幌・夏の陣」、56年の「大阪の戦い」「山口開拓指導」等でも、常に御書を根幹にした実践で勝利の金字塔を打ち立てた。“師弟の教学”とは“実践の教学”であり、師匠から教わった通りに、弟子が“勝利の証しを示す戦い”でもあった。
 今月18日、『日蓮大聖人御書全集 新版』が発刊された。コロナ禍で混迷する世界で、“太陽の仏法”が、いっそうの希望の輝きを放っていくに違いない。
 先生は、御書新版の序文に寄せた。
 「我ら創価学会は、永遠に『御書根本』の大道を歩む」
 「この一書とともに、『立正安国』『立正安世界』へ、『万年の外未来までも』、地涌の宝友が師弟誓願の不二の旅を歓喜踊躍して進みゆかれることを、私は心から願う」

2016年1月、池田先生ご夫妻が埼玉文化会館を訪問。創価の三色旗がはためく同会館を撮影した
2016年1月、池田先生ご夫妻が埼玉文化会館を訪問。創価の三色旗がはためく同会館を撮影した

「魂の独立」㊦

2021年11月25日 | 妙法

希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉 「魂の独立」㊦2021年11月25日

  • 皆が「仏」! 皆が勝利者

 連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を紹介します。今回は、11・28「魂の独立」30周年を記念して、小説『人間革命』『新・人間革命』から世界宗教の要諦について学びます。

画・内田健一郎
画・内田健一郎
【死身弘法の誉れ】 軍部政府の弾圧に屈せず正義貫く

 〈1957年(昭和32年)6月初旬のある夜、山本伸一は、学会員への不当な圧迫を開始した北海道の夕張炭労への対策の指示を仰ぐために、恩師・戸田城聖の自宅を訪れる。戸田は広宣流布は権力との闘争であることを述べ、戦時中、軍部政府の弾圧に屈した宗門の歴史について語った〉
 
 一九四三年(昭和十八年)六月、天照大神の神札を祭るように、軍部政府から強要された総本山が、牧口常三郎をはじめ、学会幹部に登山を命じたことに話が及ぶと、戸田の声は震えた。
 
 「あの日、牧口先生と共に、私たちは、急いで総本山に向かった。先生は、来るべき時が来たことを感じておられた。列車の中で、じっと目を閉じ、やがて、目を開けると、意を決したように私に言われた。
 
 『戸田君、起たねばならぬ時が来たぞ。日本の国が犯した謗法の、いかに大なるかを諫める好機の到来ではないか。日本を、みすみす滅ぼすわけにはいかぬ!』
 
 『先生、戦いましょう。不肖、この戸田も、先生の弟子として、命を賭す覚悟はできております』
 
 先生は、大きく頷かれ、口もとに笑みを浮かべられた。
 
 私は、謗法厳誡の御精神のうえから、総本山を挙げて、神札を固く拒否されるものと思っていた。しかし……」
 
 ここまで話すと、戸田は、声を詰まらせたが、ややあって、彼方を仰ぎ見るように顔を上げると、言葉をついだ。
 
 「日恭猊下、日亨御隠尊猊下の前で、宗門の庶務部長から、こう言い渡されたのだ。
 
 『学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか』
 
 私は、一瞬、わが耳を疑った。先生は、深く頭を垂れて聞いておられた。そして、最後に威儀を正して、決然と、こう言われた。
 
 『承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません』
 
 その言葉は、今も私の耳朶に焼き付いている。この一言が、学会の命運を分け、殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ」
 
 (中略)戸田の語気は鋭く、声には重厚な響きがあった。彼は、伸一の眼を見すえながら、一気に話し続けた。
 
 「ほどなく、牧口先生も、私も、特高警察に逮捕され、宗門からは、学会は登山を禁じられた。日蓮大聖人の御遺命を守り、神札を受けなかったがためにだ。権力の威嚇が、どれほどの恐怖となるか、このことからもわかるだろう。しかし、先生は、その権力に敢然と立ち向かわれ、獄死された。
 
 先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。これは、どうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体であるゆえんもここにある」
 
 (『人間革命』第11巻「大阪」の章、228~230ページ)

【日蓮仏法の根幹】 万人の平等を説く仏法の人間主義

 〈宗門は1990年(平成2年)12月中旬、山本伸一のスピーチについて「お尋ね」なる文書で、「大聖人の御聖意に反する」などと難詰してきた。学会は対話を求める一方、「お尋ね」の引用箇所に重要な誤りがあることを指摘。すると宗門は12月末、宗規の改正を理由に伸一の法華講総講頭などの資格喪失を一方的に通知してきた〉
 
 彼らは、学会への理不尽な措置を改めず、僧俗の関係についても、「本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの」とまで言っているのだ。もはや看過しておくわけにはいかなかった。日蓮仏法の根幹を歪め、世界広布を根本から阻む元凶になりかねないからだ。(中略)
 
 宗門は、学会の再三にわたる話し合いの要請を、ことごとく拒否してきたが、大聖人は「立正安国論」で「屢談話を致さん」(御書17ページ)と仰せのように、対話主義を貫かれている。すべての人と語り合い、道理をもって、理解と共感と賛同を獲得していくことを教えられている。武力や権威、権力など、外圧によって人を屈服させることとは対極にある。
 
 対話は、仏法の人間主義を象徴するものであり、それを拒否することは、大聖人の御精神を否定することだ。(中略)
 
 対話主義の根底には、万人尊重の哲学と人間への信頼がある。そして、それは、すべての人が等しく「仏」の生命を具え、崇高なる使命をもっているという、万人の平等を説く仏法の法理に裏打ちされている。
 
 しかし、日顕ら宗門は、その法理に反して、日本の檀家制度以来の、僧が「上」、信徒は「下」という考えを踏襲し、それを学会に押しつけ、隷属させようとしたのだ。
 
 日蓮大聖人が根本とされた法華経は、「二乗作仏」や「女人成仏」が示すように、身分など、あらゆる差別と戦い、超克してきた平等の哲理である。それゆえに、世界の識者たちも、生命の尊厳を説き、人間共和と人類の平和を開く法理として、仏法を高く評価しているのである。
 
 大聖人は、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(同1448ページ)と、僧俗も、性差も超えた、人間の平等を明確に宣言されている。(中略)もしも、宗門によってその根幹が歪められることを放置すれば、横暴な宗門僧らの時代錯誤の権威主義がまかり通り、不当な差別を助長させ、混乱と不幸をもたらしてしまうことになる。
 
 (『新・人間革命』第30巻〈下〉「誓願」の章、300~302ページ)

海外のメンバーを激励する池田先生(2002年9月、東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)。広布破壊の大罪を犯した宗門からの「魂の独立」を果たし、学会は「世界宗教」への歩みを本格的にスタートした。今や妙法を持つ世界各地の同志の唱題の声は、24時間365日、途切れることなく地球上に響き渡っている
海外のメンバーを激励する池田先生(2002年9月、東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)。広布破壊の大罪を犯した宗門からの「魂の独立」を果たし、学会は「世界宗教」への歩みを本格的にスタートした。今や妙法を持つ世界各地の同志の唱題の声は、24時間365日、途切れることなく地球上に響き渡っている
【世界宗教の要諦】 「人間」が幸福になるための「宗教」

 〈“衣の権威”で信徒を隷属させようと躍起になってきた宗門は、1991年(平成3年)11月末、正法正義を貫く学会に「破門通告書」を送付。学会は30日、全国各地で「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」を開催する。山本伸一は創価国際友好会館での集いに参加し、スピーチした〉
 
 「本日は、緊急に“祝賀の集い”があるというので、私も出席させていただいた」とユーモアを込めて切り出すと、爆笑が広がり、拍手が起こった。明るく、伸びやかな、喜びと決意がみなぎる集いであった。
 
 伸一は、宗門が十一月二十八日付で学会に破門通告書を送ってきたことから、こう述べていった。
 
 「十一月二十八日は、歴史の日となった。『十一月』は学会創立の月であり、『二十八日』は、ご承知の通り、法華経二十八品の『二十八』に通じる。期せずして、魂の“独立記念日”にふさわしい日付になったといえようか」(中略)
 
 魂の“独立記念日”――その言葉に、誰もが無限の未来と無限の希望を感じた。
 
 伸一は、日蓮大聖人の仰せ通りに、学会が不惜身命の精神で妙法広宣流布を実現してきたことを再確認し、力を込めた。
 
 「これ以上、折伏・弘教し、これ以上、世界に正法を宣揚してきた団体はありません。また、いよいよ、これからが本舞台です。戸田先生も言われていたが、未来の経典に『創価学会仏』の名が厳然と記し残されることは間違いないと確信するものであります」
 
 まさしく、仏意仏勅の創価学会であり、広宣流布のために懸命に汗を流す、学会員一人ひとりが仏なのである。
 
 「宗教」があって「人間」があるのではない。「人間」があって「宗教」があるのである。「人間」が幸福になるための「宗教」である。この道理をあべこべにとらえ、錯覚してしまうならば、すべてが狂っていく――伸一は、ここに宗門の根本的な誤りがあったことを指摘し、未来を展望しつつ語った。
 
 「日蓮大聖人の仏法は『太陽の仏法』であり、全人類を照らす世界宗教です。その大仏法を奉ずる私どもの前進も、あらゆる観点から見て、“世界的”“普遍的”であるべきです。決して、小さな閉鎖的・封建的な枠に閉じ込めるようなことがあってはならない」(中略)
 
 そして彼は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書1618ページ)との「日興遺誡置文」を拝した。時の法主であるといっても、仏法に相違して自分勝手な教義を唱えれば、これを用いてはならないとの厳誡である。
 
 伸一は、どこまでも、この遺誡のままに大聖人に直結し、勇躍、世界広布へ進んでいきたいと訴え、結びに、こう呼びかけた。
 
 「どうか、皆様は、『世界一の朗らかさ』と『世界一の勇気』をもって、『世界一の創価学会』の建設へ邁進していただきたい。そして、大勝利の学会創立七十周年の西暦二〇〇〇年を迎えましょう!」
 
 (『新・人間革命』第30巻〈下〉「誓願」の章、330~333ページ)